―2―



  2度呼んだのは、応えがなかったからじゃない。
  誰よりも自分が確かめたかったからだ――この男が己の目の前に在るということを。





  眞人が移り住んだ土地では、大方の生産物はその収穫を終えていたが、未だ新種のりんごはこれからが甘さを深める時期で、木村夫妻はじめ地元の人々は忙しない日々を送っていたし、その隙を縫うようにして、一部有志の者たちで遊休地の手入れをしようという声かけがなされてもいたから、いわゆる「休日らしい休日」が訪れることはほとんどなかった。
「眞人。そろそろ休めや、一服しようぜ」
「…ああ、もうこんな時間か」
  それでも眞人にとってはその方がありがたかった。満足に日の照らない陰気なアパートで日曜を過ごすより、大して役には立たずとも、こうして畑に出て雑草を刈り取ったり、土を盛り返したりしている方がよほど気も紛れる。ちょうど暑さも引き、心地よい時節だ。だから眞人は一之瀬に誘われるまま、その日も空いた土地の手入れを手伝っていた。
  そして声をかけられるまで、眞人はほとんど休まず働いていたことに気づけなかった。
「お前ってあれだろ。何だっけ、働き過ぎのサラリーマン? ワーカ何とか」
「ワーカホリック?」
「ああ、そうそう。知らねえけど、何かそんな感じ。この間、テレビでやってた」
  ペットボトルに入ったお茶を眞人に投げて寄越しながら、一之瀬はぞんざいに頷き、自分はポケットから取り出したキャンディを口に咥えた。畑の数十メートル先では、木村夫妻ら農協の人々が少し早い「宴会」を始めていて、これみよがしに一升瓶を掲げて「こっちへ来い」と誘う姿も見て取れる。……が、一之瀬はそれに軽く中指を立てながらふいとそっぽを向いた。
「お前も行っちゃ駄目だかんな。お前は俺の仲間」
「大丈夫、付き合うよ」
  最近になって禁酒まで始めた友人にふふと小さく笑ってから、眞人は受け取ったお茶を一口煽った。
  更地になるにはまだ先の長い畑だが、深い碧の山々に囲まれたこの土地はやはり美しい。少し視線を逸らすと、収穫の済んでいない蕎麦畑も目にできる。
  眞人は心底からこの土地を好きだと思った。
「ダチのよしみで譲ってやったにしちゃあー…なーんか、変なんだよな」
  その時、一之瀬が不意にそんなことを言い出した。地べたにそのまま腰をおろした眞人の右斜め、自分は突き出た大石に座っていた一之瀬は、普段には見せない、どこか生真面目な眼をしていた。
  それで眞人の表情からも自然、笑みが消えた。
「あいつ、向こうでお前の世話になった後輩っつってたけど。実際、そうなん?」
「……まあ」
  どれだけ「話したくない」というオーラを見せたところで、遅かれ早かれ、一之瀬がこの話題を持ち出すことは必然だった。何故って一之瀬は眞人を自分の友人だと思っているし、眞人とてそう思っている。それ故、都会の「大失恋」についてこそ深くは尋ねてこなかったその友人も、今回のことはさすがに訊かずにおれなかったらしい。ここひと月の「闖入者」の存在感を思えば、それももっともなことである。
  やや観念しながら、眞人は地面を見つめたまま口を開いた。
「滝田さんから、この間は3人で飲んだって聞いたけど」
「ああ、“サキ”でな。飲むっつっても、ここらじゃ他にそんな行く所もねえし。かすみは妙に張り切って、うちで飲もうとか言い出しやがったけど、それはやめさせたわ。あいつ最近、要らんくらいむかつかねえ? 女は等しくイケメンに弱いっつーのは理解しているつもりだけどよ。あいつの場合は露骨過ぎて目も当てらんねーわ」
「大丈夫だよ、滝田さんはそんな人じゃない…。ちゃんと一之瀬の方が好きだから」
「……あん!? いやいやお前……お前、それはかすみが、さすがにね?」
「え?」
  怪訝な顔をする眞人に、一之瀬は「俺こそお前が分からん」とでも言いたげな様子で眉をひそめ、口にしていた棒つきキャンディを取り出した。
「そうじゃなくてだなぁ……むかつく奴だが、ここは腐れ縁として言っておいてやらないとな?」
「何を?」
「だからだよ…。ああ、あんま言うとあいつが怒るんだけど…。あのバカが、最近明幸と一緒にいたがるのは、つまりあれよ。お前のことが知りたいからだべ?」
「俺の?」
  よく分からず眞人が問い返すと、一之瀬はどこか焦った風に身体を揺らした。
「つまりはあれよ、お前って、謎なキャラクターだべ。俺はそんな深く突っ込む気はねえのよ? 喋りたくなったら喋ればええと思っているかんな。けど、いきなしあんな芸能人みてえな色男がフラッと現れてだ。ずうっと知りてえと思っていたお前の過去を知っているなんて来ちゃった日にゃあ……そりゃあ、女としては、そいつと仲良くなりたいってなるわけだな」
  これ、別にかすみを庇っているわけじゃねえからな!と。
  一之瀬はやたらと早口で言った後、再びがふんとキャンディを口に放り込んだ。
「……あいつ…富良野…一之瀬たちに、何か、言ったの?」
  それでも眞人は友人や気のいい同僚の「本心」とやらに気を配る余裕がなかった。ただただ心配なのは富良野の言動だ。

  あれから。

  そう、あの「偶然」という再会から、富良野は頻繁に眞人が住むこの町へやって来るようになった。それこそ、週末の休日を利用して毎週、だ。はじめは、眞人が借りることを辞退したあの家を本格的に買い取る為の手続きやら何やらだと、それ相応の理由があった。…それもあって、やはり手放しであの家を譲ったのは失敗だったかと悔やまないこともなかったのだが…。それでも、「結局は同じことだったかもしれない」と思うのは、それら事務処理が済んだ後も、富良野は「本当にここが気に入った」と頻繁に町を訪れ、いつの間にやら、眞人が親しくしている役場の佐々木や滝田、それにこの一之瀬にまで近づいて、すっかり「気の知れた」仲になってしまった。元々人の輪に入るのは天才的に上手い男である。そこに眞人がおらずとも、富良野は一之瀬や滝田らと交流を深め、また、1番やめて欲しいと思っていた木村夫妻にまで近づいて、今では時々りんごの手入れを手伝うまでになっていた。
  眞人が半年かけて築いたここでの穏やかな人間関係を、富良野は僅かひと月余りで全て手にしてしまったのだ。
  そして、「俺もここに住みたくなってきました」などと周囲に嘯いて。
(別に関係ない…。富良野も、普通にしているんだから…)
  何度もそう言い聞かせ、眞人はこの事態を平常心で受けとめようと日々努力した。眞人はこの土地から出て行きたくない。そして富良野はそんな眞人に謝罪し、「貴方の生活の邪魔はしない」と約束した。だから何ということもないはずだ。
  けれど、じわじわと。
  自身の安穏とした生活圏へ富良野が入り込んでくるのを感じる度に、眞人は言いようのない圧迫感を抱いた。富良野はあの家主には眞人を知らないという態度でいたが、一之瀬らには「昔世話になった後輩」と説明していた。無論、それだけだ、それ以上のことを話している節はないし、特別眞人に何をしてくることもない。やって来る度、毎度食事には誘ってくるが、それも眞人が2人きりを嫌がっていると感じると、滝田や一之瀬を交えて声をかけてくる。
  だから眞人も、極力「普通」でいなければと、その誘いも2回に一度くらいは受けるようにしている。
  それでも。
  富良野といるだけで、眞人は心が乱される。もうはっきりと分かっていた。富良野とあのことが起きる前の、良好な先輩後輩関係に戻ることは出来ないのだと。
  眞人は富良野が怖い。そう思ってしまっている。
「お前、人に訊いておいて、ちゃんと聞いてる?」
「えっ…」
  はたと顔を上げると、一之瀬の呆れたような表情が目に入った。いつの間にかぼうとしてしまったようだ。慌てて「ごめん」と謝ると、一之瀬は「別にいいけどー」とふざけたような間延びした言い方をしてから、すっと空を見上げた。
  そうして、実に何気なく言う。
「俺もそうそう鋭い男じゃねえけど、こんだけ見てりゃ分かるわな。明幸はお前のこと慕ってっけど、お前はあいつのこと、好きじゃねーんだろ」
「……そういうわけじゃ」
  ない、とは言い切れない。眞人は項垂れた。
  確かに以前は抱いていた「好き」という気持ちが、今は驚くほどに薄らいでいる。眞人は「あの夜のこと」がただただ悲しかったし、恐ろしかった。好意を抱き、信頼を寄せた相手が、ああまで豹変し、こちらの尊厳も何もかもを奪い、蹂躙してきたこと。
「あいつだけが悪いわけじゃない…」
  恐怖の助長は、3度目だったからというのもあるかもしれない。こうも続いてしまっては、眞人は最早自分を信じられない。富良野は眞人に許して欲しいと言ったけれど、眞人の中で富良野の存在は許すとか許さないとかいう問題ではなく、疑心暗鬼な己を保つ為にどうしても距離を取らねばならない相手だった。
  以前の、富良野を「可愛い後輩」と思っていた時期に戻れるものなら、戻りたい。
  けれどそれはもう、無理なのだ。
「明幸が言うには」
  一之瀬が口を開いた。ぎくりとして顔を上げる眞人に、一之瀬は苦笑した。
「安心しろ。あいつ、お前が言ってないみたいなのに、自分が言うのは良くないだろうからって大した話はしてねえよ。ただ、お前が大失恋してこっちに来たんだろうっていう俺らの予想に関しちゃ、お前が東京出てきたのは、全部自分が悪かったんだと」
「え……」
「そう言ってた」
  一之瀬は一つ一つ区切るようにそう話してから、指先でつまんでいたキャンディの棒を指揮者のように軽く掲げた。
「まぁ、あれだ。そこから察するに、俺らの意見は一致したね。あの色男っぷりだもんな。かすみの奴も一瞬はメロメロんなってたし、つまりは、あれだろ? 面倒見てやってた可愛い後輩だったのに、あいつがお前の彼女を寝盗ったとか何とか……そういう粘っこい、三角関係的なアレだろ?」
「…………」
「え、外したか?」
  一之瀬はとぼけたような、しかし内心では慌てふためいているような、そんな態度を見せたが、ちらちらと眞人を見やるその姿は、「やはり出しゃばり過ぎたか」という後悔がありありと見てとれた。
「……うん、まあ。そんなとこ」
  だから眞人は少しだけ笑って見せてから、再び地面を見つめてそれを肯定した。富良野がどう思ってそういう発言を一之瀬らにしたかは分からない。けれど真実を「言わないでいてくれた」ことには改めて安堵した。そう、富良野は約束してくれたのだ、眞人の生活を脅かしはしないと。今はそれを信じるしかない。
「お、やっぱ来た」
  けれど一之瀬のその声に、眞人は露骨に肩を震わせてしまった。
  一体どういうタイミングなのか、否、元々来る予感はしていた。何故って今日は休日だし、ずっと気を遣ってこの話題を避けていたような一之瀬が、狙ったように富良野の話を持ち出すし。
「どういう嗅覚してんだろうなぁ、あいつ。犬みてえ」
  ただ、その一之瀬が、以前に眞人が思ったのと全く同じ感想を漏らしたものだから、眞人は「え」と口元で呟いて顔を上げた。
「一之瀬が呼んだんじゃないの」
「は? 俺が呼ぶかよ」
  すると一之瀬は唇を尖らせて嫌そうな顔をした。それから、宴会中の年寄り連中へ気さくな挨拶をかわす富良野をちら見しつつ、すでにすっかり小さくなっているキャンディを向けながらぶすくれて見せた。
「かすみはお前らを仲直りさせたいだ何だ言ってっけどな。お前がこうまで苦手そうにしている奴を、俺がわざわざ呼ぶわけねえべ。けど、俺らが呼ぼうが呼ぶまいが、あいつ来るじゃねえか。もう家も持っているわけだしな。それを邪険にはできねえし、そもそも俺にとっては今んとこ、あいつもそう悪い奴じゃねえし」
「……うん」
  眞人が素直に頷くと、一之瀬はここでまた眉をひそめた。
「けど、何かあんなら俺に言えや。とりあえず、本気で嫌なら、サシで話さず済むくれえにはしてやるから」
「ありがとう…」
「眞人さーん!」
  直後、眞人の一之瀬への礼を掻き消す勢いで、富良野の声が辺りいっぱい響き渡った。
  清々しい、という表現に似つかわしい、透き通った良い声。そして、爽やかな笑顔。まさに一之瀬が言う通り、「飼い主を慕う犬」のように、富良野はにこにこしながら眞人たちがいる所へ駆けてきた。
「ちょっと探しちゃいました。眞人さん、休みの日はいっつもいろんな畑へ行くんですもん」
「お前も入り浸ってんじゃねえか。都会ですることないのか」
「東京なんて遊ぶとこないですよ。今の俺のブームはここです」
  一之瀬の厭味に動じることなく、笑顔の富良野は手元の紙袋を掲げて見せた。
「今、あちらにもお裾分けしてきましたけど、眞人さんが喜びそうなお土産買ってきたんです、うちで一杯やりませんか? つまみも良いの、用意してきたんで」
「俺のは」
「一之瀬さんは禁酒中でしょ。さっき向こうで窺いましたよ、自治会の総会で酔っぱらって、帰り道に素っ裸で捕まりかけたとか?」
「煩ェよ! それ完全にジジイどもが脚色してっから!」
  大袈裟にずっこける真似をしながら怒鳴りつける一之瀬に、富良野は「あははは」と軽く笑い飛ばして首を振った。
「まぁ何にせよ、俺の大事な先輩を穢さないで下さいね。眞人さんは、そういう破廉恥な男は嫌いなんですから。ね、眞人さん?」
「……っ」
  眞人はどきんとして思わず言葉を失した。
  段々と。
  本当に少しずつではあるけれど、富良野の発言には眞人が肝を冷やす類のものが増えてきた…と、感じるようになっていた。これまでは何となく冗談として処理されてきたが、今のは大丈夫だったろうか? 
  眞人は咄嗟に、一之瀬の方を窺い見るように凝視してしまった。
「お前のそれって、何かギリギリじゃねえ?」
  すると一之瀬は苦虫を噛み潰した顔でそう返した。
  ただ富良野は、依然として涼しい顔だ。
「何がギリギリなんですか? 俺、眞人さんには本当にお世話になったんで。本当に尊敬しているんですよ。そういう先輩を、一之瀬さんみたいな良くない大人から守ろうと思うのは当然でしょ?」
「良くない大人で悪かったな! てゆーか煩ェよ! そうじゃなくてだなぁ、お前のその発言って、何かソッチの奴みてーじゃねえ?」
「何ですかそっちってぇ」
  眞人は耐えられなくて思わず立ち上がった。しかし一之瀬はそれを特に何とも捉えていなかったのか、富良野の方だけを見てキャンディと共に指さしながらきっぱりと言った。
「ソッチはソッチだ。俺はそーゆーギャグは好かん。気色悪ぃ」
  ほとんど反射の体で、眞人は身体をびくつかせてしまった。
  落ちつけ、こんなの大したことじゃない――平静に。頭の中で必死に唱えた。それでも顔面から血の気が引くのが分かった。すると一之瀬も眞人のただならぬ気配に「ん?」と気づき見やってきたが、眞人の方はもうそんな一之瀬の顔を見られなかった。
  ただ2人の間が微妙な空気になる前に富良野が言った。
「それって差別ですよ、一之瀬さん」
「あん? 差別ぅ?」
  一之瀬が再び富良野を見た。富良野は至極真面目な顔で頷いた。
「そうですよ。世の中にはいわゆるソッチの人って結構いるんですから。別にいいんじゃないですか? 男が男を、女が女を好きになるって世界があっても。それはその人の勝手なわけだし」
「そりゃそうだが…。ていうか、うお、もしかして!? お前がそっ、そうなのか!?」
  反射的に仰け反った一之瀬に、富良野は嘲たような顔で首を振った。
「俺は違いますよ。女性に関しては、多分一之瀬さんよりも場数踏んでいるし?」
「こっ…くあぁ、むかつく! 最悪な、お前!」
  単純に悔しがって見せる一之瀬を前にして、富良野はまたけらけらと軽い笑声を立てた。
  ……眞人はその場に身を置いているのが辛くてたまらなかった。富良野も、そして一之瀬も見てはいられない。
  とにかく人のいる方へ行こうと、気づいた時には歩き出していた。
「おい、眞人?」
  不審そうな一之瀬の声が背中にかかるも、眞人は立ち止まれなかった。何とか「ごめん、帰る」とだけ言い置いて歩を進めたが、それを富良野が見過ごすわけもない。
「眞人さん」
  いつの間にかさっと横について一緒に歩き出していた富良野は、それにぎょっとする眞人に構わず話しかけてきた。
「すみません、何か変な方向へ話がいっちゃって。気に触りました?」
「………っ」
  黙って首を振ったが、「気は障った」に決まっていた。
  すると富良野は忽ちしゅんとした顔を見せ、申し訳なさそうな萎れた風を見せた。
「ごめんなさい、眞人さん。でも一之瀬さんの言い様には、つい言わずにおれなくて。だって前の俺みたいなこと言うから」
「もう…いいから」
「眞人さんが今狙っているのって、一之瀬さんなんですか?」
「はっ…?」
  思わず驚いて歩を止めると、富良野は少し困ったような笑みを浮かべながら肩を竦めた。
「もしそうなら、あの人はやめた方がいいです。今、分かったでしょ? あの人、完全にノーマルだし。また眞人さんが傷つくことになりますよ」
「何…何、言ってるんだ。そもそも…一之瀬は、そんなんじゃない…」
「本当に?」
「おーい、お前ら、どこ行くつもりなんだー?」
  一之瀬が遅れて後を追ってきた。眞人はさっと口を噤み、富良野はごまかし笑いを浮かべながら、「眞人さん、帰るみたいなんで、送っていきます」と答えた。
「眞人帰んなら、俺が送る。俺らこれから用があんだよ、な?」
  一之瀬は何か言いたげな顔で眞人にそう言った。事情が分からないながらも、一之瀬が眞人と富良野を「なるべく2人きりにしない」よう取り計らってくれようとしているのは明らかだった。
「あれ? でも一之瀬さん、木村さんたちに呼ばれていましたよ。ほら」
  しかし富良野は先ほど挨拶していた木村夫婦や農協の人々の群れを指さして微笑んだ。
  確かに、何やら畑のど真ん中で立ち尽くす若者3人を見ながら、「アキラ!」と地元の人々が手招きして呼んでいる。
「るっせえなあ! 何だよ!」
  それでも一之瀬はその場を動こうとはせずに馴染みの人々をいなそうとしたが、眞人がそれを「一之瀬」と言って止めた。
「俺は先に帰るから」
「えっ…けどお前――」
「いいよ、ありがとう。…じゃあ」
  一之瀬の気遣いをありがたく思いながら、しかし眞人はどうしても拭えぬ胸の靄を秘めたまま、やはり足早にその場を離れた。一之瀬は悪くない。「あんな会話」の流れなら、ああ答えるのは当たり前のことだ。……そう思うのに、「気色悪い」と発した一之瀬の唇の動きを思い出すだけで、眞人は胸が痛くなった。
 その間にも、富良野は「眞人さん」とついてきて眞人に声を掛けてきていた。
  眞人はそれをなるべく見ないようにして歩き続けた。
「眞人さん」
  それでも富良野がそれに納得するはずもない。
  農道を出て、完全に2人きりになってから、富良野はいよいよ追いすがって眞人の肩先を掴んだ。それは強引ではないものの確かに力のこもったもので、眞人は自然身体を強張らせた。
  それが分かったのか、富良野はすぐにその手を離したのだが。
「送っていきます。車、そこなんで」
「いや…近いし」
「じゃあ、別のこと言います。これからうちに来ませんか」
  眞人が黙って振り向くと、富良野はここでようやく先ほどと同じ笑みを浮かべた。
「さっきも言ったでしょ。美味い酒、買ってあるんです。食事も俺が作ります。どうですか」
「富良野」
「眞人さんが気に入っていたあの家です。いいでしょう?」
  咄嗟に首を振りかけて、けれど眞人は警戒するように富良野を見やった。露骨な拒絶を見せては富良野が「また」豹変するのではないか……過度にも思えるその警戒感が、眞人の動作を緩めさせた。
  けれどその緊張自体が富良野には容易に伝わるのだろう。あの時見せた寂しそうな顔になって、富良野はやや俯いて自嘲した。
「やっぱり、今さらあの時に戻るというのは都合が良過ぎますか」
  眞人が何も言えないのを察しているかのように富良野は続けた。
「俺が眞人さんの秘密を聞く前の関係です。理想の先輩後輩って言うか。あの頃の、何も考えずに気楽に付き合えていた関係です。駄目ですか」
「……富良野」
「俺のことをすぐには信じられないっていう気持ちは分かります。けど俺本当に、あの時はどうかしていたんです。眞人さんのこと、先輩として尊敬していたし、話しやすくて一緒にいると楽だったから、眞人さんから秘密を打ち明けられて混乱して…だからあんなこと…。でも、眞人さんがいなくなって目が覚めました。だから、最初からやり直したいんです」
  きっぱりと言う富良野に眞人は顔を上げてみたが、やはりその表情から真偽を判断することは難しかった。
「駄目ですか。もう俺をあの頃の気の合う後輩っていう風には見られない? 信じられないですか」
「ごめん…信用していないとかそういうことじゃなくて…」
  ただ、辛い。富良野を見ているととても辛い。それが眞人の本音だった。
  富良野が心底からあの時のことを悔い、あの頃の眞人が願っていたような「友人関係」を築きたいと言ってくれているのなら、本来これは喜ぶべきことなのかもしれない。あの会社を追われることになったきっかけを作ったのはこの富良野だ。だからそれを許せないと思ったことがないわけでもない…が、今はこの町に来られて、良い人たちに囲まれて、あれはあれで良かったのだと思えている。やっと、そう思うことができてきた。
  けれどだからこそ、もうこれ以上自分の気持ちを掻き回さないで欲しい。
  眞人の想いはそれだけだった。
「俺の問題なんだ…」
  だから恐る恐るという風に、眞人は半ば観念して言った。
「俺は…あの時、いきなり人が変わったようになったお前が怖かった。今も怖い。けどそれはお前のせいじゃない。多分…それは、俺のせいだから」
「どういう意味ですか」
  砂利を擦る音と共に富良野がさらに近づいてきた。眞人はそれに情けなくも思い切りびびりながら必死に続けた。
「お前が初めてじゃないから…。ああなったのは…お前が、初めてじゃない。以前にもあった…俺が自分のことを話した途端に変わって…ひどく、なって」
「ひどく?」
  富良野の声は平坦だった。それは冷たくも聞こえたが、一方で何も感じていないような無機質なものにも感じられた。
  ただこの時の眞人は富良野に気を回す余裕がなかった。
「でも2人とも…俺が離れたら、普通に戻ったんだ。前と同じような普通に。だからお前も、もう俺とは関わり合いにならない方がいい。俺もそうしたいんだ。もう、忘れたいんだ」
「俺のことを? そもそも、普通って何ですか?」
「お前が以前に言っていたことだよ、お前の物差しで考える普通だよ。俺みたいな奴はありえないって思っていた頃のお前…。普通に女の子と恋愛して、普通に結婚して子どもが欲しいって言っていた、そういう――」
「なるほど」
  眞人が逸るように紡ぐ言葉を、しかし富良野は片手を差し出して制した。この時の富良野は眞人を見ていなかったが、口元に浮かぶ笑みに何故かゾッとして、眞人は即座に後ずさった。
「眞人さん」
  けれど富良野の動きはそれより速かった。すかさず眞人の手を掴み、富良野はぐいと顔を寄せたのだ。長身の富良野に迫られて顔に陰がかかり、眞人は心底慄いた。
「なっ…」
「まぁ立ち話も何ですし、とりあえず移動しません? このままここにいても邪魔が入ると思うし」
「離…っ」
「あぁ大丈夫ですって、嫌なことはしません。眞人さんが嫌がることは何も。反省したって言ったでしょう?」
  眞人の手首を掴む力は痛いほどのものなのに、依然として富良野の表情は涼やかだった。
  そうして不敵な笑みを浮かべたまま、富良野は物でも扱うような気楽さで半ば引っ抱えるようにして眞人を引きずり、路肩に停めていた車の助手席にそのまま強引に押し込んだ。
「おい…!」
  すぐさま体勢を起こし外へ出ようとした眞人だが、逆にシートベルトまで締められて 、バタンとドアを閉じられた。
「富良野!」
  悲鳴のように怒鳴る眞人にも知らぬフリだ。富良野は素早く運転席に乗り込むと、そのまま無言で車を走らせ始めた。そうしてすぐさま加速すると、手をもつれさせながらも必死にシートベルトを外そうとする眞人に言った。
「眞人さんのせいって、確かにそうだと思いますよ」
「え」
  目を見開く眞人に、富良野は前方を見据えながら静かに続けた。
「だって眞人さん見ていると、ついね。苛めたくなりますもん。その前の奴らっていうのもそうだったんじゃないかな。そもそも、世間の差別を憎んでいるくせに、自分はゲイだってことを1番蔑んでいるのは眞人さん自身でしょ? しかも、散々人から愛されたいってオーラ出して勝手に期待しておいて、いざこっちが、じゃあそれに応えてやるかってなったらびびりまくって逃げ出すし。まぁノーマル相手の恋愛で、後からフラれることも考えて腰が引けるのは分かるけど、いったん狂わされたこっちはたまったもんじゃないですよ。いきなりあんな消えられ方されて、こっちだってそれ相応に傷つくわけですから」
  眞人は声が出なかった。
  富良野は静かだ。あの時のような狂気の色も特にない。ただ淡々と、思ったことを発している、それだけだ。
「でもね、俺は俺で、本当に反省はしているんですよ? はは…これもう、何回も言っているね? でも、うん。一応、こうなったこと今は理解しているし。周りからもボロクソ言われたしね」
「……周り?」
「ええ。俺、貴方に逃げられてから暫く荒れちゃって、何も手につかなくて。ホント最悪だったんですけど、見かねた友人連中がどうしたって訊くから、眞人さんのこと話したんです。そしたら連中、皆が皆、こぞって俺のこと最低とか言うんです。そりゃ相手が逃げるのも当たり前だ、お前怖すぎ、引くわーとか。笑うほどメタクソ。は? 悪いの俺なのかよって、最初はちょっと意味が分からなかったですけど。だって元々は、俺こそが被害者でしょ? けどそれでも俺は、眞人さんの気持ち受け入れて、本気で一緒になろうって思ったんですよ? 誰からも愛されずに、こそこそ生きている眞人さんのこと、俺だけはたくさん愛してあげようって、そう思ったのに。だからいつも傍にいられるようにって、俺の所にも誘ったのに。実際問題、眞人さんがいたあのクソ会社なんて、いる価値なかったじゃないですか。違います?」
  話しているうちに熱が入ってきたのか、富良野の目元は赤かった。眞人は何も応えられなかったが。
「全部、眞人さんの為にやったことだったのに、眞人さんには嫌われるし、周りからは人格否定されるし。本当、散々ですよ」
  口元を歪ませて富良野は笑った。
「けどまぁ…何を置いても1番最悪だったのは、あの新幹線で逃げられた時で、それがピークだったから? 今はもう、どうでもいいんですけどね」
「今は……」
「今?」
  眞人の掠れ声に素早く反応した富良野がそれを反芻した。怒っているようなそれに眞人が再び口を噤むと、それに併せて富良野も押し黙った。
  車はやがて、あの赤レンガの家の前で停まった。眞人が一時でもここに住んで、この土地にいたいと願った無花果の木がある大きな家。
「眞人さん」
  エンジンを止めた富良野は眞人を見ず、前方を向いたままの姿勢で訊いた。
「俺が怖い?」
  答えられずにいる眞人に、富良野はついと首を動かして見つめてきた。
「このひと月の間、俺は俺なりに、眞人さんが望む普通の俺?ってやつでいたと思います。これからも貴方がそれを望むならそうしますよ。時々これでいいのかって分からなくなることはありますけどね、でもやれると思います。だってそれが出来れば、眞人さんはまた俺を傍に置いてくれるでしょ?」
「……傍って」
「前に言った通りです。眞人さん。好きです。俺の恋人になって下さい」
  一語一語を確かめるように富良野は言った。身体を寄せて、ただでさえベルトをして動けない眞人の身体に覆いかぶさる。
  眞人はその身体を石のように重く感じながら、それでも唇を戦慄かせて抵抗した。
「お前……俺のことは、もう諦めたって」
「言いましたよ。それが?」
「俺の生活の邪魔は……しないって」
「ええ。だから、そうしてあげているじゃないですか。このひと月の俺の涙ぐましい努力、見てなかったんですか? 貴方が望むように振る舞って、笑って、ぼちぼち周りの人間にも信頼されるようになってきました。眞人さん、心配なんでしょ? 俺が前のような愛し方をすると怖くなっちゃうんだよね? 元々ノーマルな俺が、眞人さんばっかり見ているような感じだと不安になるわけだ。それってどうかと思うけど、まぁ仕方ないね、それが眞人さんだから」
「何を…何……」
「だからこれからも、表向きは変わらず良い後輩でいてあげます。何なら結婚とかしてもいいですよ。例えば、あの滝田さん? あの人、眞人さんのこと好きみたいだけど、俺の方に寝返らせましょうか。だってどうせ眞人さん、女の人は無理でしょ。無駄に迫られても困るだろうから、俺が引き受けますよ。それならカムフラージュにもなって一層安心でしょ、眞人さんも」
  ざわと悪寒が走って眞人は富良野を凝視した。やはり富良野に変化はない。けれどその静けさこそ、異常だった。富良野の静かな狂気が見えた。
「俺は、俺がしたいようにすることは諦めました」
  富良野が言った。
「だからね…もう安心していいんだよ、眞人さん。俺が貴方の理想の男になってあげます。貴方だけを愛しているけど、世間から見たら至ってまっとうな、普通の男です。もう不毛な恋愛する必要はないですよ」
「富良野…離れてくれ」
  眞人は胸を押して富良野の身体を遠ざけようとしたが、富良野はびくともしなかった。
「本当はこの話もするつもりありませんでしたよ。また眞人さんがびびっちゃうのは目に見えてたし。それでまた逃亡されても洒落にならないし。追いかける方だって大変なんですから。探すの大変なんですよ? ……けど、貴方がいけないんです。一之瀬さんとあんな風に見つめ合うから」
「一之瀬…?」
「何ですか? あの人に俺たちのこと何か言ったんですか? そんなわけないと思うけど。けど、あんな風に見つめ合って俺から遠ざけようとして…はは…本当、参るよな」
「富良野……」
「ねえ? 眞人さん」
「……ッ!」
  不意に近づいてきた富良野に口づけされて眞人は虚をつかれ目を見開いた。すぐさま逆らい、手首を掴もうとしたものの、逆に顎先を上向かされてさらに激しく唇を重ねられてしまう。
「んっ…ふ! 富良…っ」
「……大丈夫」
  そっと唇を離した富良野は、至近距離のまま眞人を見つめて微笑んだ。それがぞっとするほど美しく怜悧で、眞人は頬を撫でられながら恐怖で気を失うかと思った。
  一体何が大丈夫なのだろう。やはり逃げだすべきだったのだ。
「眞人さん」
  けれどそんな眞人の想いも全て掬うように、富良野は眞人の頬を唇でなぞるようにして辿ってから耳元で言った。
「我がままな眞人さんには俺が全部あげます。それが出来るのは俺だけです。だから、眞人さんも俺に下さい。今回だけは許すけど…もう逃げないで。俺を怒らせない方がいいって言ったの覚えてます? 念のため言いますけど、もしもまた逃げたら、俺、貴方だけでなく、腹いせにこの町の人たちにも嫌なことします。それは眞人さんのせいだから」
「富良…」
  眞人の唇を塞いで紡ぎかけの言葉を封じてから、富良野は自分が発した。
「誤解しないで欲しいんですけど、こんなことを言うのも、結局は眞人さんの為ですよ? 眞人さんがここに居やすいように言ってあげているんです。眞人さんは理由がないと、人に愛されることが出来ない人でしょ」
  富良野は何度も眞人の唇にキスをしてそう言った。眞人は何も返せなかった。訳の分からない、富良野の毒に神経をやられているような、そんな気分で、ただ何も返せない。
  ただ目の前の常軌を逸した男の顔を見つめやった。
「今はまだ素直になれないと思うけど」
  富良野が言った。
「俺も妥協するんです。だから眞人さんも諦めて下さい。多少のことは」
  一体何を言っているのだろう。眞人は見知らぬ誰かと対峙しているような心持ちでただボー然とした。この男は、口では眞人が望む理想の後輩でいると言っているのに、一方で眞人を激しく求めている。そしてそれは眞人自身が望んでいることだと言う。投げかけてくる言葉が不可解過ぎて頭の整理が追いつかない。
「ふ…っ…ん…!」
  次第に激しくなる口づけに翻弄されながら、眞人は身体だけでなく己の全てが呑み込まれる感覚に襲われて気が遠くなった。富良野はそれを良いことに、眞人の唇を好きに犯し、眞人の身体に触れた。あの夜のことが瞬間的に蘇った。怖かった。けれどもう、何も考えられない。
  眞人は富良野の腕を強く掴んでいた手をするりと解いた。それから、固く閉じていた瞼をゆるりと開いた。すると、無抵抗の口を何度も吸っていた富良野も眞人のその視線に気づき、にこっと微笑んだ。
  そうしてとても幸せそうに、眞人の指先にキスをして――。

「家に入りましょうか、眞人さん。俺たちの家です。たくさん、愛し合いましょうね。半年間もお預けだったんですから、今度は俺が好きにする番ですよ」