―2―



  一度始めると明幸はなかなか眞人を離さない。
  思えば明幸が朝から車を出してひとり遠くの大型量販店へ出かけたのも、この時間をまとめて確保する為だったのかもしれない。
「眞人さん…っ…」
「……っ…」
  背後から名前を呼ばれても眞人には応える気力がもうない。何せ帰ってきた明幸に寝室へ連れ込まて以降は、昼食の時間が過ぎようがどうしようが、お構いなしで抱かれ続けたのだ。
「んっ…んぅ…」
  そもそも昨晩から、眞人は明幸に攻められっぱなしでクタクタだった。性行為において明幸は化け物だ。一向に枯れる気配なく、眞人を好きに転がしては、前から後ろから何度でも好きに犯してくるから堪らない。
「ふ……あッ…!」
「眞人さ…ッ…気持ち、いい…?」
「あッ、明……ッ…も、もぉ…あぁッ…」
「もうちょっと、待って…。一緒に、いこ…ッ?」
「いッ…、んぅっ、あッ、あーッ!」
  弱音を吐いても許してはもらえない。明幸は激しく腰を動かし、四つん這いになる眞人を後ろからガンガン攻め立てる。いつ果てるのか、そう思うのに、明幸は眞人の中で雄を主張するばかりでなかなか達しない。一緒にいこうと言われても、眞人の方はもうすっかり萎えている。痛みが先行して訳が分からない。なのに、付き合わねばならない。
「明幸っ」
  だからこんな時、眞人は姑息にも、普段は決して呼ばない下の名を呼び、懇願する。そうすればこの男が少し優しくなって放出を早めてくれるのを知っているから。
「んぁッ、あンッ、あッ…」
  突かれる度に声が出てしまうのも堪らなく嫌だ、悔しい。けれど以前、枕に顔を押し当てて声を殺したら機嫌を損ねられて余計に長引いたから、無理に堪えても意味がないことはもう知っている。
  だからただ心の中で願うだけ。頼むから早く終わってくれ、と。
「眞人さ…ッ……ふ――…!」
「ひ―…ッ」
  何度されても慣れない。けれど遂に明幸が達した。熱い迸りが全身を駆け巡り、直後、じんとした痺れが主に下半身へ集まる。明幸に中で射精される屈辱。それに塗れながらも、しかし眞人はハアァッと大きく息を吐いて身体を前傾させ、ベッドに肘をついた。痺れはまだ続いている。それでも「ようやく終わった」と安堵した。
「眞人さん…最高でした…」
  後ろから覆いかぶさってきた明幸がハアと感嘆の息を漏らしながら背中にキスしてきた。
  眞人はそれにぶるりと直接的な反応を返した後、「もう…」と掠れ声を出した。
「いいだろ……今日は……もう、疲れた…」
「……そうですね。さすがにやり過ぎました」
  明幸が背後で苦笑するのが分かった。けれど眞人の尻から自らのモノを抜いた後も、明幸は再度強く背中から抱きついて身体を密着させてきた。
「暑い」
  眞人が努めて控えめな文句を言うと、明幸はクスリと笑った後、「だってまだ離れたくないんです」と駄々をこねた。それから眞人の胸へと指先を移し、右側の乳首だけを捏ね繰り回して遊び始める。眞人は無言でそれをやめさせようとしたが、明幸は笑いながら今度は足も絡めてきた。駄目だ、抵抗すると逆効果だ…それを感じた眞人が諦め、肩の力を抜くと、後ろから勝ち誇ったような小さな笑みが零れるのが分かった。それでも眞人は我慢して胸を弄られ続けていたが、明幸がそれに乗じて「やっぱりまだしたいな」などと言い始めたので、これには思い切り顔を歪めてしまった。
「冗談だろ、何回やる気…」
「可能な限り」
「俺はもう限かぃ…っ…」
  けれどその抗議もあっさりと封じられる。振り返った先ですかさず口を吸われた。
「ふっ…!」
  くちゅりと中に舌が入り込んできて、眞人は思わずといった体で明幸の肩に手をかけた……が、それも簡単に払われる。仰向けにされ、覆いかぶさってきた明幸からさらに押し付けるような口づけが成された。足の間に明幸の身体が割り込み、その下半身が再び熱を帯び出しているのを認めて、眞人はぎくりとした。この男の体力は一体どうなっているのか、恐ろしくて仕方がない。
「ふ…んぅっ…」
  それでも度重なる口づけには応じるよりない。少しでも嫌がる素振りを見せたら、明幸が気分を害してまた無理に事に及んでくるかもしれない。それこそが眞人にとって一番回避したい事態だ。
  だからしつこく差し込まれてくる相手の熱い舌を、眞人は甘んじて受けとめた。己の舌と絡め合わせることを許し、明幸の唾液を飲む。ゾッとする。けれど、悟られてはならない。
  眞人は明幸の頬を撫で、酷く長いそのキスが終わるのをひたすらに待った。
「眞人さん…」
  お陰で明幸は満足したようだった。眞人の濡れた唇を指の腹で拭いながら、明幸はうっとりとした眼差しを落として言った。
「好きです。いや……やっぱり愛してる、かな。そっちの方がしっくりくる」
「愛……」
  なんて軽い言葉。眞人はもうそんなものを信じられない。一、二度ならず、三度目までも。この人こそはと思って自らの心を開いても、待っていたのはいつだって相手からの残酷な支配慾と暴力だけだった。そんな相手から愛を囁かれても、今さらどう反応しろと言うのか。自覚がないのだろうか、この男はと。どうしてこんな顔をして、そんな酷いことが言えるのだろう、と。
「眞人さんから欲しいとは思っていませんよ」
「…え」
  意図せぬうちに沈黙が流れていた。それを破るように言葉を出した明幸に、眞人ははっとして瞬いた。
  すると相変わらずすぐ目前にいる男は、優しい目をして穏やかに返した。
「いいんです、言葉は。嘘の言葉は要らない。眞人さんが今、こうして俺に抱かれてくれている。それだけでいいです」
「富良野」
「あ、でも決めたルールは守って下さいね。2人きりの時は『明幸』でしょう? さっきだってそう呼んでくれていたのに」
「…明幸」
  言い直してから眞人は自分に覆いかぶさる明幸になるべく静かな口調で言った。
「でも今日はもう、滝田さん達が来るんだし…、いろいろ準備もあるだろ…シャワーも浴びなきゃ…」
「まだ大丈夫ですよ」
  背後の壁掛け時計を示唆して明幸は笑った。確かに彼らが来る夕刻まではまだ数時間ある。
  それでも眞人は懸命に説得した。
「でも俺たち、そもそも昼食もとってないじゃないか」
「お腹すきました?」
「そりゃそうだよ。大体お前、俺を太らせるんじゃなかったのか」
  本当は空腹などではなかったが、そう言えば離れてくれるかもしれないと思い、ここは多少強めに言ってみた。とにかく離れたい。今はそれだけ。
「眞人さん」
  しかし明幸はそんな思惑などとうに承知しているようで、眞人の前髪を弄りながら酷薄に笑い、とんでもないことを言い出した。
「まぁそうなんですけどね、それも凄く大切ですけど。でもちょっと思ったというか…いっそのこと、このままでいるっていうのはどうです?」
「は…?」
「2人が来た時に俺たちがここでこうして抱き合っているんです。鍵は開いているんで、チャイム鳴らしても俺たちが出てこなかったら、勝手に入ってくると思うんですよね、あの2人なら。その時に、まさに俺たちが愛し合っている最中で…っていうシチュエーションだったら、あの2人、どんな顔すると思います?」
「何…バカなこと…」
  忽ち戦慄してベッドから離れようとすると、明幸は余裕の体でそんな眞人をさっと抑え込み、さらに強引に片足を大きく割り開いてきた。
「なっ…」
「割と本気ですよ、俺。体位はやっぱりこっちがいいですよね、眞人さんもそこのドアから入ってきた彼らのこと真正面で見られるし。眞人さんがこうして足広げて俺をこの中に入れて…」
「ちょっ…富良野…!」
「明幸です。いい加減、慣れてくれないと怒りますよ」
「明幸お願いだ! もう――」
「貴方のお願いなら大抵のことは聴いてあげたいですけどね」
  でも考えて見て下さい、と。明幸は言いながらも再度高ぶりを見せ始めた己の性器を、無理に開かせた眞人の奥に挿し入れた。
「―…ッ!」
  眞人は明幸からの急な挿入に成す術もなく身体を跳ねさせ、思わず声をあげた。
「うあぁッ…」
「ふ…、うん…っ…眞人さんの、中…きつくて、最高に気持ちイイ…ッ…」
「明っ…んんっ…アァ―ッ!」
  まさかまた始まるとは思わず、眞人はされるがまま一気に身体を貫かれた。途端、性急に繋がった下肢からダイレクトな痛みが走る。しかも明幸はすぐに激しいピストンを開始し、眞人の尻は大きく揺さぶられた。これまでで一番激しい。それに翻弄され、眞人はみっともない嬌声をあげながら、プライドをかなぐり捨ててやめて欲しいと訴えた。
「明ゆッ…おねがっ、ぁんっ、あッ、あ、あぁッ」
  それでも明之の動きはまるで緩むことがない。
「想像、して…? 眞人さん…ッ」
「はッ…あんッ、あ、あッ…」
「おれ…ッ」
  眞人の中をめちゃくちゃにかき乱しながら明幸は言葉の上でも責め立てた。
「本当の友情って…、やっぱ、隠し事を、しちゃ、いけないと、思うんです」
「んぅっ…やめ…、ぁんっ、あぁッ…」
「ふっ…可愛…眞人さ…っ。ねぇ…っ? あの人たちが…一ノ瀬、さんが、こんな風に乱れる貴方を見たら…どう思う、かな…?」
「……ッ」
「俺に、こんな風に…突っ込まれて…ッ、あんあん喘ぐ、貴方を、見てさッ…!」
「やッ…やだ、やッ…あンッ…明ッ…!」
  明幸の口から一ノ瀬の名を出されたことで眞人は半パニック状態になった。そんなおぞましい想像。この部屋に、あの2人が? こんな風に明幸に喘がされ、涎をたらし乱されている全裸の自分を見られたら? 考えるだけで心臓が凍りつく。恐怖が加速する。一ノ瀬は以前、男同士の恋愛は理解ができないという風に嫌悪の表情を見せたことがあった。否、嫌悪とは言い過ぎかもしれない、彼はそこまで残酷な人間ではない。けれど明らか受け入れ難いという顔は見せていて、その時に眞人は改めて思ったのだ、自分のこの「秘密」は絶対に彼に、彼らに知られてはならないと。
  そうでなければ、この土地での平穏な生活は全てがなくなってしまう。また捨てなければならない。
  だからこの男にも従っているのに。
  それなのに。
「大丈夫ですよ…あの2人なら、きっとわかってくれます…。こんな風に男を咥えて離さない眞人さんでも…引いたりしないよ…?」
  それなのに明幸はそんなことを言って、眞人の掲げた足を撫で、キスをした。ぞわりと総毛立ち、いよいよ眞人は耐えられなくなった。悔し涙が零れたが、それにも構わず眞人は必死に明幸を見上げた。
「約束が違う…!」
「約束?」
  ぴたりと動きを止められたので眞人はきっと涙混じりの瞳で明幸を睨みつけた。
「言わないって…。このことは……俺たちのことは…一ノ瀬には…ひぁっ!」
  しかし言いかけたところでまた腰を進められ、眞人は悲鳴をあげた。しかもそこからまた連続した追い上げが始まる。まるで容赦がない。そうなるともう眞人には揺さぶられる他なかった。奥を突かれる度に声を上げ、涙を零す。そして明幸が中へ射精してくるのを待つ。幸い、その時は思うよりも早くに訪れてくれたが、身体のダメージだけでなく精神的なショックが大きくて、眞人はいよいよ気が遠のきかけた。このまま意識を失ってしまおうか。その方が楽な気がした。
「眞人さん…そんなにしたら唇が切れるから」
  けれど明幸の宥めるような声でそれは遮られた。痛みなどなかったが、どうやら知らず唇を強く噛み締めていたらしい。眞人がうっすらと目を開くと明幸が嫌そうな顔をしていて、それには少し溜飲が下がった。自分の身体が傷つくことでこの男が嫌な思いをするのなら、それはせめてもの救いだと思ったのだ。
「言わな…言わないでくれ…」
  だから明幸に付け込むなら今だと、眞人はかすれ切った声でそう懇願した。それに対し、明幸の眼はすうと窄められた。瀕死の獲物を前に何かを見定めるような、それは怜悧な光だった。
  ただ、発せられた声は意外にも思っていた以上に優しいものだった。
「言いませんよ。貴方とのこの関係は、誰にも。約束です」
「………」
「貴方は俺だけのものですから。こういう貴方を見るのは俺だけでいい」
  さらりと優しく撫でられて眞人は目を瞑った。ほっとすると同時に怒りも沸いて思わず眉間が寄ってしまったが、それは隠せなかった。
  しかもそんな時に、「それ」は突然訪れた。
  ピンポン、と。
  突如として耳に入り込んできたその音に、眞人はたちまち全身が覚醒した。心臓が飛び上がり、急激に血流が騒がしく蠢めく。ぶるりと震え目を見開くと、明幸がすっと背を伸ばして、眞人同様、その音のする方へ耳をそばだてているのが見えた。
  ピンポン。
  然してその音はまた無遠慮に、来訪者を告げる2回目を2人に知らせた。幻聴ではない、確かに玄関のチャイムが鳴ったのだ。眞人はどうすることもできずただ固まったが、ふと身体を覆っていた重みが取れ、明幸が立ち上がって裸のままリビングへ出ていく後ろ姿が見えた。
  眞人はその背をただ愕然として見送った。
「はい?」
  明幸の応答に、とびきり明るい調子で返してきたのは、聞き覚えのある女性の声。滝田だ。夕食の支度を自分も手伝おうと思い、早くに来たが迷惑だったかと、彼女は弾むような口調で訊いていた。
  悪夢だ。
  眞人はようやく首を動かし、それから慌てて上体を起こした。腰には酷い痛みと怠さがあったが、そんなことは言っていられない。ベッド下に投げ捨てられているはずの服を探す。部屋が薄暗いせいで視界が定まらない。いやこれは焦りからか。現に眞人はみっともなくも態勢を崩してベッドから転がり落ちてしまい、それでもそこから這うようにして、手探りで衣服を探し求めた。けれど見つからない。どうしよう、その単語しか頭に浮かばない。それにこんな状態では、仮にうまく着替えたとして、彼女と普通に接することなどできない。何とか明幸が滝田を一度帰してはくれないか、それしかないのでは等と埒もなく思う。
「眞人さん、滝田さんが来ちゃったから」
  すると腰にバスタオルを巻いた格好で戻ってきた明幸が手早く言い、ベッドの下でうずくまっている眞人の頭をさらりと撫でた。特に慌てた風はない。それで眞人も少しだけ落ち着いて、「滝田さんには一度帰ってもらって」と言いかけたのだが、それは明幸の片手で封じられた。
「眞人さん、その姿じゃあの人の前に出られないでしょ。とりあえずここにいて下さい、ここへは入らせないから」
「何っ…ちょっと待って…じゃあ服を…」
「後で持ってきますから、とりあえず静かにしていてください」
「明幸っ…!?」
  しかし明幸は戸惑う眞人には構わず、再びさっと立ち上がると寝室のドアを閉め、玄関の方へと向かって行った。眞人の心臓は早鐘を打ちっぱなしだ。それでもタオル一枚の格好でいきなり扉を開いた明幸に滝田の素っ頓狂な悲鳴ならぬ歓声は耳に入った。直後、そんな彼女におどけたような照れくさそうな明幸の声。こんなに早く来ると思わなかったから、ちょうどシャワーを浴びようと思っていたなどという嘘を平然とついている。しかも、それなら出直すかという滝田に、明幸はあっけらかんと、それじゃあ二度手間で悪いから、リビングで待っていてくれと彼女を中へ入れてしまった。
  眞人は生きた心地がしなかった。
  パタパタとスリッパで歩く軽い足音、未だ裸の明幸に照れたような滝田の困り切った、それでいてやはりどこか嬉しそうな笑い声。しかも彼女は、一ノ瀬など本当は誘いたくなかった、明幸と眞人と3人での食事会で良かったのになどと冗談めかして喋っている。明幸はそれに柔らかい口調で、大勢の方が楽しいでしょと笑っている。見えなくともどんな顔をしているかが分かる、これはいつもの明幸の「表の顔」だ。

  そしてそのまま食事会は始まり――。

  その晩さんの間、服を後で持ってくると言った明幸が眞人の元へやってくることはなかった。悠々とシャワーを済ませた明幸は、その後、滝田と2人で食事会の準備を済ませ、やがて遅れてやってきた一ノ瀬と3人での宴会を始めたのだ。
  どうやら眞人には急用が入ったらしいという、またしても軽い嘘をついて。
  薄い壁ではない、けれど容易に3人の談笑が聴こえる薄暗い寝室で、眞人はまんじりともしない時間をたった独り、しかも裸で聞き続ける羽目になった。一度酔っぱらったらしい一ノ瀬が家の中をもっと見せろと寝室を開けそうになった時は肝を冷やし、思わずベッド下へもぐりこんで隠れたが、これは明幸や「図々しい」という滝田の制止により、実行には移されなかった。
  それでもベッドの下へ身を潜めた眞人は惨めだった。
  その後も3人はまるで以前からの親友のように楽しいひと時を過ごし続けた。会話の内容はとりとめのないものだったが、穏やかで、温かくて、それは眞人が欲しいと思っていた人間関係そのものだ。その話の中では眞人のことも一度だけ出たが、一ノ瀬が「あいつも来られたら良かったのに」と言っただけで、滝田や明幸が率先して眞人の名を出すことはなかった。それどころか、一ノ瀬が茶化すように「お前らそういう関係なのか」と冗談めかした時には、滝田は勿論、明幸まで満更でもないような態度を示し、2人の間に良いムードが流れていることは、隣室にいる眞人にも容易に感じ取れた。

  吐き気がした。
  そんな眞人の元へ明幸が着替えを持って戻ってきたのは、もう0時に近い頃で。

  ほろ酔い加減の一ノ瀬と滝田の2人が礼を言いつつ出て行き、恐らくは下戸の滝田が一ノ瀬の軽トラを動かしているのだろう、その音が遠ざかってからようやく、だ。
  その時、眞人はベッドの中で布団を被ってうつ伏せ寝の状態でいたが、明幸が傍に来るのが分かるとすぐに起き上がり、先刻まで身体を包んでいた布団をベッド下へ落とした。裸を見られることには今さら何の感情もなかった。
「すみません、眞人さん。あの人たち、なかなか帰ってくれなくて」
「………」
  眞人は黙ったまま明幸が持ってきた着替えを奪い取り、黙々と、そして早急に衣服を纏った。身体が怠い、そして痛い。全身から発熱しているような感覚もある。
  けれど、今あるこの胸の痛みを思えばどうということもない。
「眞人さん、お腹すいたでしょう。今すぐ用意しますね」
「……いや」
  かろうじて返事をしたが、眞人はもう明幸を見なかった。見ることができなかった。
  すると上からあからさまなため息が落ちてきて、「あぁ」と唸る声も。それは明幸の深い嘆息だった。
「やっぱり怒ってる。そりゃそうですよね、でもまさか眞人さんがここにいるって言うわけにもいかなかったでしょう? 一応、隙を見てとは思っていたんですよ? でも滝田さんがずっと俺から目を離さないんですもん、俺だって窮屈な想いしながら必死に接待していたんですから、許して下さいよ。何せあの人たちは眞人さんの大事な人たちなわけでしょ、無碍にするわけにもいかないじゃないですか」
「そんなことどうでもいいい…とにかく俺は帰る…」
「今から? 今夜は泊まって下さい、明日の朝早く戻ればいいでしょ? 出勤には間に合うように送りますから」
「離せっ!」
  さり気ない所作で腕に触れられそうになって、眞人はほぼ反射的にそれを振り払った。全身を襲う嫌悪感。眞人はその感覚に後押しされるような形で明幸の横を通り過ぎ、半ば逃げ出す勢いで外へ飛び出した。明幸の呼び止める声が聞こえたが、振り返るわけがなかった。
  暗闇の中を眞人は無我夢中で走った。否、せいぜいが早歩きか。何故なら見慣れた、歩き慣れたそれとは言っても、田舎道は電灯もほとんどなく、足元がおぼつかない。都会の喧騒とは真逆の静寂はこんな時、不気味ですらある。第一、今の眞人は満身創痍だ。
「ハアッ、ハア、ハアッ…!」
  それでも眞人は必死に進み続けた。気づけば靴を履いていない、靴下すらない、素足だ。けれど構ってはいられない。別にアパートに帰りつけなくても良い、どこを目指しているわけでもない、ただもう逃げ出したかった。
  あの家から、明幸から少しでも離れたかった。
「眞人さーん」
「……っ」
  ドクンと胸が鳴って思わず振り返った…と、ちらちらと懐中電灯の光が揺れているのが見えた。
  そしてその明かりを持つ男の、実に能天気に呼ぶ声が突き刺さって。
「眞人さーん。そういうの無意味だからぁー。帰りましょー?」
  明幸の余裕たっぷりの呼びかけに眞人は心底戦慄した。ただもう「嫌だ」という気持ちしかなかった。
「ハアハア…ッ、あぐっ…!?」
  それでも、焦りと恐怖が余計に逃げ足を鈍らせた。眞人は闇雲に逃げまどう暗闇の中、遂に足をもつれさせてその場にもんどりうって倒れた。直後、微かな笑声と、それに反比例するかのような速足とが絡み合い、それは眞人のすぐ傍にまでやって来た。
「………」
  そうなるともう動けない。眞人はその場にうつ伏せた状態のまま、背後にきて自分を照らす微かな灯りと、呆れ切ったような、それでいて憐みの含んだ声が落とされるのを聞いた。
「ちょっと走って、気持ちも少しは落ち着きました?」
「……っ」
「どうあがいても無駄ですって。自分で、もう分かっているでしょ?」
「分からない…っ」
  地面に叩きつけるように言葉を落とすと、明幸が「えぇ?」と聞き返してきた。眞人は依然としてその場にくずおれたまま、ぎりと硬い土に爪を喰い込ませた。
「もう、嫌だ…!」
  そして言った。
「嫌なんだ…ッ!」
「何が」
「お前が…っ。お前といるのが、俺は…!」
「………」
「耐えられない…っ…」
  明幸を怒らせてはいけない。
  そう何度も頭の中で反芻していたが、何故か今はもうその考えが及ばずに眞人は正直な気持ちを出し切った。
  それでも明幸には響かないようだったが。
「何故です。俺は約束を守りましたよ。貴方との関係をあの2人には話していない」
「………」
  明幸の平坦な返しに眞人は返答できなかった。確かにそうだ、明幸は3人の会話の中で一度たりとも眞人との関係は勿論、それを匂わせることとてしなかった。そもそも、いっそ不自然なほど、明幸は眞人の話を2人には振らなかった。しかしそれはむしろ眞人の望むところだったはずだ。
  何も言えない眞人に明幸は尚も続けた。
「俺は貴方が望む、理想的な後輩の役を演じました。貴方が恥じる必要のない、こんな後輩がいて羨ましい、そう思わせるようなことしかしていない」
  そう、その通りだ。明幸は何も約束を違えていない。
「本当なら、あの寝室のドアを開けても良かったんですよ。バラしたっていいんだ、俺は。別に。むしろ俺の留守中、あの2人が貴方に無駄に近づかないようにする為には、言った方が楽ですからね。俺と貴方はできているって。恋人同士だって。俺はそうしたいんです、最初から」
「……っ」
「あんな女に気があるフリして、あんたからあれを遠ざける。そんな面倒なことしなくても済むし」
「…!」
  ざっと砂利を蹴る音が聞こえて、瞬間、明幸が眞人の傍に屈んできた。そして驚愕する眞人の髪の毛を激しくまさぐる。懐中電灯を掲げ、無理に眞人の顔を照らす。眩しくて目が開けられない、けれど明幸は問答無用で眞人の顎先をつまみ、上を向かせて、尚、電気を当てた。
「独りぼっちにされていじける気持ちは分かりますけど、今夜のことはわざとじゃないですよ、念のために言うと」
「………」
「確かに、一ノ瀬さんと貴方を無駄に会わせたくはないから? ああなって良かったと思う気持ちもあったことは否定しませんけどね」
「……俺はお前が怖い」
  やっとのことで眞人がそれだけ言うと、明幸はじっと黙ったまま、暫くは反応しなかった。
  だから眞人も次の言葉を出しやすくなった。
「怖い…。お前が怖いんだよ、俺は。全部、とられる…。俺の大事なものをお前は……全部とっていく」
「一ノ瀬さんのことを言っているの。それとも滝田さん?」
「2人のことも、この町も、俺の居場所を、お前が…!」
  ぐっと胸倉を掴むと、逆にその手首の一つを明幸に掴まれた。ただ、その弾みで明幸が手にしていた懐中電灯は地面にごとりと落ちた。2人の足元だけに光が当たった。
  それでも眞人には目前の明幸の顔がはっきりと見えた。見えてしまった。
「当たり前でしょう、そんなこと」
  その明幸から眞人はすぐさま唇を奪われた。嫌だと思って逆らおうと身体を動かしたが、全部抑え込まれて、眞人は乱暴な口づけを強要され続けた。
「んっ…ん…!」
  いやだ、したくない。全身でそれを訴えるのに、明幸は眞人の唇を噛みちぎらんほどの勢いで奪ってきた。痛い。心が痛い。眞人の目からまた涙が滲んだ。
「眞人さん」
  薄闇の中で明幸が眞人を呼んだ。珍しく余裕のない、感情を押し殺したような低い声。眞人がそれにブルと背中を震わせると、明幸はさらに接近して互いの額を押し付け合い、眞人の髪の毛を乱暴に掴んだ。
「貴方だけのものなんて作らせない。それは俺だけでいい」
「……何を」
「いい加減にして欲しい。分かってよ、これだけ尽くしているのに、あんた、まだそんなことを言うのか。どれだけ贅沢なの?」
「分からないっ…。お前の言うことは、俺にはっ!」
「俺から離れられる方法、教えてあげようか?」
  明幸が凄みを帯びた声で言った。眞人がそれにびくんと肩を揺らすと、明幸は途端に嗤い、しかしすぐさま心底腹立たしいという風に息を吐くと、おもむろに立ち上がった。
  そして言った。
「簡単ですよ。俺が貴方を嫌いになるよう仕向ければいい。むしろこっちが頼みたい、嫌いにさせてよ? 俺だってさすがに疲れることもあるんですからね、こんなにも嫌われて。こんなにも憎まれて」
  眞人の気持ちなどどうでもいいと言っていたのに、明幸はそう吐き捨ててから自らの髪をぐしゃりとかき混ぜ、もう一度大きく息を吐き出した。
  それから何もない、空さえ薄曇りで星ひとつ見えない墨色を見上げて、自嘲するように口の端を上げる。
「俺が今度の週末帰れないって言った時、眞人さん、凄く喜んだでしょう。傷ついたな…だってあまりに予想通りなんだもん」
  隠そうとしてもバレバレでしたよと。明幸は苦く笑ってからかぶりを振った。
「でも、そんな風に露骨に俺を嫌っても、それじゃ駄目だ、俺にフラれることはできないですよ。あんな態度じゃ全然駄目。ついでに、偶に2週間の自由くらいあげてもいいかと思っていたけど、あれによって意地でもやっぱ帰ってこようって気になったからね」
「……明幸」
「ねぇ、知りたい? 俺に嫌われる方法」
「………」
「知りたいんでしょ? ねぇ――眞人さん」
「……あぁ。知りたい」
  間を置いて、それでも眞人が正直に頷くと、明幸は途端真顔になった。美しい顔から表情が失われるとこんなにも怖い。それを眞人は全身で感じ取った。
「簡単ですよ」
  その恐ろしい男が至極真面目な顔で答えた。
「簡単です。――俺を好きになればいい。心から。貴方が心から俺を愛してくれたら、俺のこの熱もきっと冷めます。逃げられるから追いたくなるし、憎まれるから愛したくなる。分かります? 貴方の行動全部が、俺をこういう風にするんです」
「……好きに」
「この異常な世界から俺を救ってよ、眞人さん」
「………」
  無理だ。
  それじゃ絶対に無理じゃないか。眞人は絶望した。何故って、明幸を好きになることなんて絶対にない。できない。この先、この男を、こんな身勝手な恐ろしい男を、どうやって愛せというのか。
「眞人さん」
  眞人がボー然として黙りこくっていると、全て推しはかったかのような顔をした明幸が再び屈みこんできて、さらりと頭を撫でて来た。それに誘われるように顔を上げると、そんな眞人に明幸は慈愛に満ちた微笑みを向けた。氷のような美しい微笑。そうして彼はもう一度眞人の頭を撫でる。眞人の傷みきった両方の素足も。
「可哀想に。帰ったら洗って手当てしてあげます。痛かったでしょ、こんな所を裸足でなんて走るから」
  眞人が何も言えずにいると明幸はまた笑った。笑って、そして眞人の唇へ、もう何度目かも分からない、噛みつくようなキスをした。










これ、秋幸視点の話も書いてみたいかもです。
狂ったドクズ攻めに需要はあるのか。