想い纏わす



  この人が憎くて堪らない。
  過去を思えば、楽しいことばかりだ。だからかもしれない、余計に今のこの人が嫌だ。あの頃は予告なくアパートを訪れる俺に、「いきなり来るのはやめろ」と迷惑そうにしつつも、結局は笑って受け入れてくれた。あの柔らかさが好ましくて、狭い部屋が、でも居心地良くて。気づけば週末はしょっちゅう、それこそ仲間と飲んで遊んだ後も、終わりはこの人の家へ向かうのが当たり前になっていた。
  わざと酔っぱらったフリをして水が欲しいと言えば、すぐにそうしてくれた。「俺はこれから寝るところだったんだ」と不平を零しても、結局は一緒に飲んでくれた。
  あの人の優しい声が好きだった。兄貴がいたらこんな感じだろうか? きっとそうだ、俺は生まれながらに勝手な人間だから、長男気質のこの人に甘えて我がまま放題しただろう。両親はそれに良い顔をせず、今と同様、俺のことは見放し気味。でも、面倒見の良いこの「兄貴」だけは決して俺を見捨てない。だから偶に鬱陶しい説教があっても、むしろそれが聞きたくて、自立後もこんな風に夜中のアパートへ押しかけて―…。



「お前さ…。終電逃す度に俺の所へ来るの、やめろよ。しかも予告なく突然。普通にあり得ないだろ? しかも仕事相手の人間のところに…」
「いいじゃないですか、どうせ園田さん、今は彼女もいないんでしょ?」
「それとこれとは関係ないだろ!」
  眞人がむっとした顔を見せているのに、明幸はそれも嬉しくてつい笑ってしまった。いつも強引に上がりこんだ直後は確かに酔っていて「水、水」と図々しく催促、玄関先で倒れ込むことすらあるのに、こうして会話を重ねていくといつの間にか冴えてきて「もっと飲みたい、この人と一緒に」となっている。だから明幸は眞人に出してもらった水の入った透明のグラスを少し残念そうに見つめた。これがミネラルウォーターではなく、冷や酒だったら良いのに、言ってみようかと思いつつも、さすがにまずいかと自重する。
  明幸がこうして週末の夜頻繁に、それこそ自宅のようなノリで訪れる部屋の主は園田眞人と言い、明幸よりも年上の「先輩」だ。しかし勤め先は違う。元々知り合った契機は、眞人が所属する大手石油会社の環境事業部が企画するプロジェクトに、明幸の会社が協働事業社として名乗りを上げ、一緒に仕事したのが始まりだった。従って明幸は年齢だけでなく、立ち位置的にも眞人に馴れ馴れしくできるような立場ではなかったのだが、眞人がその部署に配属されたばかりの新人で、大手企業の人間の割には腰が低くとっつきやすかったこと、明幸自身も気安い性格だったことから自然と息が合い、仕事後もちょくちょく飲みに誘ったりしていくうちに親しくなった。それは仕事上の先輩、仲間というよりは、友人としての感覚の方が近かったし、敬語こそぎりぎり守ってはいたが、明幸としては眞人を、何でも話せる「自分と通じ合える相手」として慕っていた。眞人の方は「今後も仕事の付き合いがあった時に、あまり近しいと要らぬ誤解を招くから」と距離を取りたがっていたが、それもはじめのうちだけで最後は明幸の粘り勝ち、今ではこうして夜中に押し掛けても心底から嫌がるということはない。
  少なくとも、明幸はそう感じていた。
「俺、もう寝るけど。風呂使うなら勝手に使えよ」
  眠たげな様子でベッドへ行こうとする眞人を、明幸は慌てて止めた。
「えぇ、本気で寝る気ですか!? 飲みましょうって、飲み直したい気分なんですよ」
「酒なんかない」
「大丈夫、買ってきました。あれ、どこへやったんだろう、玄関に放置したままかな?  …あー、もの考えると頭痛い…」
「だからお前はもう飲まない方がいいって。何処でどれだけ飲んできたのか知らないけど、いつも悪乗りし過ぎなんだよ。酒は隠した。明日返してやる」
「えー、何ですか、それ。人のものを勝手に…」
「人んちに勝手にあがりこんでいつも好き放題するお前に言われたくない」
  もう本当に寝るからな!と眞人は言って、壁際のベッドへのそりと上がる。明幸が座しているすぐ背後がベッドだから、振り返るだけで間近に話せる距離だ。眞人の1DKのアパートは基本的に狭い。独り暮らしの独身男性の部屋だ、一部屋あれば十分なのかもしれないが、一流企業に勤めている人間としては、いやに質素で地味な暮らしだと明幸はいつも呆れてしまう。
「園田さん、引っ越しとかする気ないんですか。この部屋狭いでしょ?」
「でかいお前が来なければ普通に快適だよ」
「またまたそんな嫌味を。園田さんって友達あまりいないっぽいし、本当は俺がこうやって来るの嬉しいでしょ? 正直に言っていいんですよ?」
「お前本当に帰るか? 歩いて?」
「いや、嘘! すみません、嘘です!」
  布団に潜り込んで壁側へ背を向けてしまった眞人に、明幸は大げさなそぶりで手を合わせて見せた。勿論、眞人はそんな明幸を振り返りもしない。改めて布団を被り直す所作を取ると、「風呂使ったらガス消せよ」と事務的なことだけ告げる。
  明幸はそんな眞人の後ろ姿をすぐ傍で見やりながら、テーブル上のグラスを握り直した。
「部屋の話、冗談じゃなく、ちょっとでもその気なら良いとこ紹介しますよ。俺の親父が不動産関係に伝手、結構あるんで」
「いいって」
「でも彼女呼ぶのに、こんなみすぼらしいアパートじゃねえ」
「大きなお世話だよ、彼女いないの知っているだろう、お前もさっき言っていたくせに!」
「ホント、何で園田さんみたいな人に彼女の1人もできないんですかね? 結構イイ男だと思うんだけどなぁ、いやこれはお世辞じゃなく、ホントに! 優しいし、掃除もほら、こんなにマメだし。ちょっと性格が暗いのが玉に瑕ってだけで」
「悪かったな根暗で…」
  もうお前も寝ろよ…と眞人は情けない声を出したが、対して明幸の方は眠るなどとんでもない、「もっとこの人と話していたい」という気持ちがさらに膨れ上がっていった。
「良かったら紹介しますよ、女の子。どんなのが好みですか?」
「…お前って、知り合いにそういうことするタイプなのか?」
「いや全然。普段はそんな面倒な真似しませんよ、園田さんだからしたいって思うんです。それで彼女できたら一緒にダブルデートとかしましょうよ。キャンプでバーベキューとか! 良くないですか!?」
「え……お前、今、彼女いたっけ。ついこの前まではいないって……」
「あー、ないです、いないです。前のとスゴイ拗れた別れ方してから、何かどうでも良くなっちゃって。けど、園田さんが彼女作るなら俺も作りますよ」
「何だよそれ。大体、その前の彼女とのことだって、どうせお前が悪いんだろ」
「あー、ひでー、その言い方―! ああ、昔の古傷が痛んだ〜。やっぱ飲もう、飲みますよ!? いいでしょ!? 園田さんの分も持ってきますから!」
  明幸はわざと怒ったふりをして立ち上がると、今やすっかり冷めた足取りで数歩先の台所にある冷蔵庫から自分が買ってきていたビールや日本酒を取り出した。隠しているだ何だと、結局はここにしまわれているだろうことは予想がついていた。
  レンジの上に無造作に置かれていたつまみも運び、再びベッド脇の指定席に座る。観念したのか、それで眞人もむくりと起き上がり、依然ベッド上ではあるが、壁に寄り掛かって明幸の方を向いた。眠そうな顔。それでも話をしてくれる気にはなったらしい。
  眞人がいいと断るビール缶を無理に押し付けてから、明幸は自らも一口煽った後、言った。
「俺、昔からやたらとモテるんで、女の子に困ったことはないんですけど、付き合っても何でか長続きしないんですよね」
「その自慢話、前にも聞いた」
  プルトップに指をかけつつ返す眞人に対し、明幸はテーブル上のつまみに手を伸ばしながら肩を揺らした。
「嫌だなぁ、冷たいリアクションしないで下さいよ。それにこれは自慢話じゃなくて嘆き節。可哀想な男の愚痴ですよ」
「ふーん」
  眞人が少しだけ皮肉気に口角を上げた。明幸はそれを振り返りざまちらりと見てから、自分も嘲るように「ははっ」と笑った。
「向こうから近づいてくるくせに、離れるのも相手からって感じなんですよね、いつも。俺、これまでの二十そこそこの人生の中で、実質何回フラれたか分かったもんじゃないですもん。フェードアウトとかされるのも普通ですし」
「そういう時って追いかけないのか」
「そりゃそうでしょ? 去る者追わずですよ。まぁ俺も、去られたら去られたで、すぐ別にいいかなってなっちゃうんで。いつまでグダグダしていても面倒ですしね。相手が俺のこと嫌いになったみたいなのに、いちいち尋ねに行くのもカッコ悪いでしょ?」
「そうか…」
  眞人の返しに明幸は意外なものを感じてキョトンとした。てっきり、「そんないい加減な」とか、「冷たい」とか、とにかく悪い感想を言われると思ったから。実際、この手の話を友人にすると、いつもそういったネガティブな反応しか返ってこない。結局いつも相手に対して真剣じゃないし適当なんだ、だからフラれるんだ、当然だ、とか。お前は根っからのクズなんだよとまで言われたこともある。明幸としては、「そんなクズと付き合っているお前らは何なんだ」といつも思うわけだが、要はこいつらも、そういう軽いノリの付き合いが気楽なのだ、それに俺と一緒にいれば「おこぼれ」を貰える可能性も高いからいるのだろうという結論に至る。
  誰も信じてなどいない。
「でも俺、できれば結婚は早くしたいんですよね」
  新たなビール缶を開けながら明幸は言った。いつもは「適当な自分」をアピールしたらそれで会話内容は変えるのに、今夜はもっと話していたい気分だった。相手が後ろにいて顔が見えないというのと、その聞き手が眞人だからかもしれない。
「俺、こう見えて多分、安定っていうやつに結構な憧れがあるんですよ。世間一般の人が誰でも持っている幸せってやつ? そこそこ収入のある仕事持っていてキャリア積んで、それなりの地位にまで昇りつめて。プライベートでも、少なくとも三十までには結婚して、子ども2人くらいつくって。ちょっと高めの家、ローン組んででも買って、週末には家族でキャンプにバーベキュー」
「キャンプにバーベキュー好きだな」
  眞人が楽しそうにツッコミを入れた。それが明幸には嬉しくて、もっとどんどん話したくなった。
「賑やかなのが好きなんですよ。大勢で何かやるのが好きなんです。それに、そういうのを家族や親戚一同でやるっていうのに憧れがあるかなぁ、うちの身内、みんな仲悪いんで。園田さんの所は? ご両親とは仲いい方ですか? 園田さんは親孝行とかめちゃくちゃしてそう」
「いや……うちも仲は良くないよ。今はどこも皆そんな感じなんじゃないか」
「えぇ、意外! うーん、そんなもんですかねぇ? 俺は自分ちが特殊なのかと思っていましたけど。でも園田さんも俺と同じなら尚のこと、一緒に彼女作って一緒にデートして、そんで一緒に結婚しましょうよ!」
「は? はは…何言ってんだ、酔っぱらっているだろ、やっぱり」
  さすがにこれには引き気味に返されたが、明幸は全く動じなかった。
「いや大真面目です。そういうのにも憧れているんです、気の合う仲間が近所に住んでいて、お互いの家族同士で週末はキャンプにバーベキュー! どちらかの家が仕事で帰り遅かったら、そっちの子ども預かったりね。そういうのも普通にやれる間柄みたいな」
「……いいな、そういうの」
「でしょ!? じゃあそういうことで」
「何がそういうことなんだよ。でもあれだな、俺、お前のこと、ちょっと誤解していたかもしれない」
  苦笑しながら眞人がぽつりと言うのを、明幸は「ん?」と首をかしげた。
  眞人はビールを少し口につけた後、続ける。
「憧れるも何も、富良野は小さい頃からそういう生活をしているんだとばかり思っていたから。だって社会人になってからだって、馬鹿やって騒ぐ仲間がたくさんいて、今もちゃんと繋がっているじゃないか。家族仲が悪いっていうのは初めて聞いたけど、少なくとも彼女連れて友達同士でキャンプにバーベキューなんて、俺なんか誘わなくてもいつでもできるだろう?」
「いや、やってないですよ。やったことないです。確かに飲み仲間とか遊び仲間はいますけど…あいつらは、そういうことしたいって思う奴らじゃないんで」
「その区別は謎だなぁ」
「全然、フツーですよ、そんなの。俺、今の仕事は好きだから割と真面目にやっていますけど、基本、適当だし面倒くさがりなんで、人間関係もぺらっぺらなんです、自分で言うのも何ですけど。だから女も長続きしないし、親友って呼べる相手も多分いない。けどまぁ、俺の人生なんてこんなもんかなって。別にそれでもいいかなって思っていて、ただ時々、園田さんみたいな人と話していると、密かに持っちゃってるこういう理想をね。つい語りたくなっちゃうんです。どこか根っこの方では、実はそういうの欲しいな、なんて思うから」
  さすがに喋りすぎたか。そうは思ったものの、明幸の舌は驚くほどスムーズに回った。しかも一気に吐き出したら妙に胸の奥までスカッとした。あぁ、そうか。俺って、そういう奴だったのかと、自分自身の「気づき」が得られたような気すらした。
  アルコールが入っているはずなのに、こんなにも清々しい。
「……大丈夫だよ。富良野なら簡単に手に入れられるよ、そういうの」
  眞人の穏やかな口調に明幸はハッとして瞬いた。慌てていつもの余裕ぶった態度に戻し、「えー、そうですかねぇ?」などと茶化してみせる。
「でも、園田さんにそう言ってもらえると嬉しいです」
  ただ、それは付け加えた。この人に見栄を張っても仕方がないんじゃないか、そう思えたから。
「今、本当に好きな子いないのか? 会社とかに」
「え? まぁ……ちょっと気になっている子はいますけどね」
「今度は適当じゃなくて、ちゃんと真面目に接しろよ。そうすればいけるよ」
「あ……はい」
  眞人の真摯な顔に明幸は少しだけ退いて、思わず殊勝に頷いた。何故か勢いで始まった適当な話、適当に思い浮かんだ理想絵図を語っただけなのに、いつの間にか真剣に聞いて、そして真剣な答えをくれる。やっぱりこの人は真面目だなと思っていると、眞人が何を思ったのか急にビールを一気に煽り、ついぞ見たことのない据わった眼でいきなり睨み据えてきたからぎょっとした。
  そして眞人はそんな明幸には構わず、いやに迫力のある声で言ったのだ。
「あとな……さっきみたいな言い方はもうするなよ。二度とそんな風に思うな」
「え? ああいう……って?」
  何か失言しただろうかと考えようとしたところ、眞人はびしりと明幸の鼻先を指しながら、普段は決して見せない荒々しい態度で言い放った。どうやらあっという間に酔ってしまったらしい。
「言っただろう、『俺の人生なんてこんなもん』って。さっき言った。いかにも軽くさ…。そんな風に、勝手に自分の人生に線引きするな」
「えーと、園田さん?」
「お前はちゃんとやれるよ…。そういう、恵まれた素地を持っているんだから…そういう風に生んで、育ててもらえたんだから…。だから、そんな勿体ない人生の使い方を、するんじゃない!」
「………」
「ちゃんと生きろ」
  空になったビール缶を渡してくるので明幸がそれを何となく両手で受け止めると、眞人はそのままこてんと横になって、いよいよ本当に寝てしまった。眠かったのは本当なのだろう、今日は残業もしていたとぼやいていたから、疲れていたのかもしれない。それを無理にここまで付き合わせてしまった。悪かったかなと思ったが、掛け布団を引っ張り出し、改めてその表向きは仕事先の先輩にそっとかけ直してやると、明幸は何故だか笑みがわいてきて、急激に心が温かくなるのも感じた。
  この人、本当にイイ人なんだよなと。そう思えた。
「あーあ……ホント、園っ…眞人さんが俺の親友でさ、将来は隣の家に住んでくれたらいいのにね。こりゃ本気で、この人の彼女も見つけてあげなくちゃかな」
  誰かが明幸のこの独り言を聞いていたら、その願望に少し首をかしげたかもしれないし、疑問を感じたかもしれない。
  けれどこの場にその呟きを聞いた者はいなかった。眠りに陥っている眞人も勿論、知る由もない。そこには明幸だけがいて、明幸だけが妙に幸せな気持ちで眞人の寝顔を見つめている。そしてそっとその髪にも触れて、あぁ身体が熱い、いよいよ酔いが回ってきたかなと思うばかりだった。



  この人が憎くて堪らない。
  明幸は隣で眠る眞人の寝顔を眺めながらそう独り言ちた。ただそこに音はなかった、唇が微かに動いた程度だったから。不穏な言葉でこの人を起こし、また怯えさせては可哀想だとぎりぎり遠慮したのかもしれない。憎くて堪らないくせに、優しく愛したい、そういう気持ちも明幸にはある。間違いなくある。
「泣いてる…可哀想に」
  今度はぽつりと小声でそう言い、明幸はいつかしたように眞人の髪に触れ、それからその手を頬へ移し、ゆっくりと撫でた。眞人はそこに涙の跡を残しながらも深い眠りに落ちているのか、死んだように微動だにしない。先刻までまた無理をさせたからかなと、すでに赤い鬱血が幾つも浮かび上がっている眞人の首筋や胸元を、明幸はベッドに腰かけた格好でじっと見つめた。
  眞人は心底辛そうだけれど、この赤レンガの家で週末だけこうして2人過ごす生活には大分慣れてくれたようだ。明幸が望めば眞人は従順に身体を開くし、明幸の下で喘いでくれる。キスを求めても拒まない。この唇はもう自分の為だけに開き、息をするのだ。頬に触れていた指先をその場所へと辿り、摘まむように弄ると、眞人の瞼がぴくりと震えた。そんな仕草にすら肌が粟立ち、興奮する。眞人の全てが魅力的だ。明幸は眞人にどんどんと溺れていく。もう眞人以外を見ることはできない。
「親友にはなれなかったけど……まぁ、いいかな」
  それでもこの人が憎いけれど。
  明幸はふっと酷薄な笑みを浮かべながらもう一度眞人の頬を撫でた。そして身体を屈めてキスをする。眞人は目覚めない。明幸はその姿を凝視しながら、昔見た夢物語よりも、こちらの方が自分の性には合っていると小さく笑った。