卒業まであと少し |
夏樹の友人・篠崎は、卒業生代表として答辞を読むことになっている。 その為、学年末テストも終わって、ほとんどの生徒が試験休みを謳歌する中、彼だけはその日も図書室で原稿の下書きをしていた。 だから、夏樹がそんな篠崎にやたらと話しかける行為は、「迷惑」以外の何物でもないわけで。 「煩いんだけど」 ――そう冷たく返されてしまうのも致し方ない……が、この時の夏樹は、いつもの素直さで「ごめん」とも「もう邪魔しない」とも言うことが出来なかった。 それどころか不満気に唇を尖らせ、両腕を机上にだらんと伸ばした格好で不平さえ述べた。 「だって誠一郎が悪いんだ。黙って外部受験してさ…違う学校へ行くなんて」 「自分だって黙って内部受験に切り替えただろ」 「そうだけど、でも!」 「それに、俺が受けた所はどうせ夏樹じゃ受からないよ」 「うっ…」 元々びしばしきついことを言う友人だが、その発せられた内容自体、いずれも事実なのでぐうの音も出ない。 篠崎が自分の受験のことを話さなかったのと同様、夏樹も直前に進路変更したことを篠崎に告げなかった。また、篠崎が受験した全国屈指のエリート校・修學館が夏樹の学力では逆立ちしても受かりっこない所だとは――悲しいかな、紛れもない事実、これも篠崎の言う通りだ。 だから2人が同じ高校へ行くことはどのみち無理だった。しかし、夏樹はそのことを重々承知の上で、こういう経緯になったことが寂しいし、だからこそ篠崎にまとわりついてしまう。 「何か…最近、みんなよそよそしい。裕也も亮太も、受験終わったはずなのに全然遊んでくれないし」 「亮太は家の仕事の手伝いがあるんだから仕方ないだろ」 「じゃあ裕也は?」 「高校の先輩と新しいバンド組むらしいよ。練習とかライブとか、まぁ色々あるんじゃないの」 「ふうん…。俺には、そういう話すらしてくれないよ」 何か嫌われてんのかな…と、呟いて突っ伏す夏樹に、篠崎は一瞬冷ややかな目を向けたものの、やがて小さなため息をついた。 「みんなそれぞれの生活があるってことだろ。夏樹だってそうじゃない」 「俺? 俺、暇だよ。試験も終わったし、卒業まで何もすることない」 「春野先輩に遊んでもらえば?」 「な……はぁ!? なん、で、そこで慶ちゃっ…や、春野先輩なんだよ…!」 夏樹のあたふたとした返しに、しかし篠崎はしれっとしている。 「そんな、俺の前でまで他人行儀な呼び方しなくていいよ。年が離れているって言っても仲の良い従兄なんでしょ」 「別に…普通だよ…」 ぼそぼそと答える夏樹だったが、しかしその顔は明らかに赤かった。 夏樹は友人らと慶介の話をするのが苦手だ。というよりも、したくない。だからこそ、内部受験に切り替えたこともぎりぎりまで友人たちに言えなかった。その話題を持ち出すと、どうしてもそのきっかけを作った張本人・慶介のことを言わないわけにはいかないから。 従兄の兄さんに言われたから外部受験を取りやめた……などと、年ごろの中学生にしてみればあまりにも格好悪い理由。 しかも夏樹にはそれだけではない、最近はとみに慶介に対しいろいろと思うところが多かったから。 「夏樹がどう思っているかは知らないけど」 そんな風に悶々と考え始めた夏樹に、篠崎が間髪入れず言ってきた。 「春野先輩にしてみたら、夏樹は目に入れても痛くない可愛い従弟なわけだろ。だから、夏樹が暇だぁ、遊んで〜なんて言ったら。そりゃあ喜んで相手してくれると思うよ」 「な…何言ってんだよ! 何だよ、それ!」 篠崎のどことなくからかいを含んだ言い方に夏樹はムキになって声を上げた。 しかし篠崎の方は素っ気ない。「しっ」と指先を口に当てた後は、もう原稿にのみ視線を注いで、きっぱりと切り捨てた。 「何だよも何も。そういうことだよ。夏樹には春野先輩がいる、だから俺たちがいなくても大丈夫。とにかく邪魔。もう向こう行け」 「何だよ、もうすぐ別々の学校で、めったに会えなくなると思うのに! ホンット、協調性がないって言うか、冷たいって言うか…!」 ぶつくさと文句を言いながら学校を出た夏樹は、苛立ちを抱えたまま、自宅へ向かう帰路をツカツカと歩き続けた。 確かに、親しい友人であるはずの篠崎たちに進路変更の話をしなかったのは悪かったと思う。それに試験が終わる最近までは、ほぼ毎日慶介に勉強を見てもらっていたから、夏樹自身、友人付き合いは二の次だった。だから篠崎たちを責める資格は、夏樹にはない。 けれど、それでも。自分の身勝手さを理解した上で、夏樹は寂しい気持ちになってしまう。 「あーあ…」 中学3年間、特に仲良くしていた友人らが、ことごとく自分を置き去りに、それぞれの道を歩もうとしている。夏樹と違って篠崎らには好きなことや目指しているものがきちんとある。だからこそ友人として尊敬していたところもあるが、あまりに「差」をつけられると、それはそれで悲しい。夏樹には彼らのような趣味や夢が何もない。ただ慶介に言われるがまま、エスカレーターで高校進学を決め、試験休みになって学校がなくなると、たちまち暇になり、どうして良いか分からない。 「俺って…凄くつまんない人間かも…」 思わず自虐的な言葉が飛び出て、夏樹は怒りから一転、ひどく落ち込んだ気持ちになった。その為、家へ向かう足取りも自然「とぼとぼ」としたものに変化する。 春野先輩なら相手してくれるよ。 その時ふと篠崎の言葉が脳内を掠めて、夏樹はカッと頬に熱を走らせた。 あの敏い友人が何を思ってああいう言い方をしたのかはあまり考えたくない。そもそも夏樹の現在の心境として、慶介のことを考えるのは「危険」だ。何故って、慶介はこのテスト期間中、それは丁寧に分かりやすく学習指導してくれて、それは本当にありがたかったのだけれど、2人だけのその時間は決して「それだけ」では終わらなかったから。 2人だけになると、慶介は決まって夏樹に触れてきた。 そして何度もキスをした。 ただの仲良し従兄弟であったなら、あんなことはしないと思う。 自分たちの関係はどう考えても変だ。 (でも…嫌じゃなかったから…俺、慶ちゃんに逆らえなかった…) 頭のてっぺんまで熱くなってきたように感じて、夏樹は思わず首を振った。そして、ダッと駆け出した。慶介のことを考えてはいけない。慶介のことばかりになるのは駄目だ。試験は終わったから、もう慶介と勉強することはないが、食事の時には対面する。こんな状態で会いたくない。会いたいけれど怖い。そう、深く考えたくなかったからこそ、夏樹は友人たちと遊びたかった。……そんな理由で彼らとつるみたいなどと、考えたら失礼な話だけれど。 夏樹は篠崎のどこか冷たい態度に今さら穴があったら入りたい気持ちになって、さらに走るスピードを速めた。 『ああ、なっちゃん? ごめんね、今日はそっち行けないから』 しかしその夕刻、慶介は電話でいきなりそう言って夏樹に謝った。 『ちょっと昔の友だちに会っちゃってね。ご飯食べようって話になったから、ごめんね? 大丈夫? 今夜の夕飯は自分で作れる?』 「つ…! 作れるよ! 別に慶ちゃんいなくてもっ!」 『まぁお料理はねえ、大分うまくなったと思うけど。でも寂しくない?』 「寂しくないよ!」 馬鹿にされたように感じたので、夏樹もカチンときた。今日はただでさえ友人にフラれ、しかも慶介のことを考えて悶々としていた矢先だ。 別に毎日来る必要はないのだからと乱暴に言い捨てて、夏樹は半ば息を切らせながら電話を切った。 「何なんだ、いっつも子ども扱いして…!」 別に寂しくなどない。父が蒸発して以降、これからはなるべく独りで何でもやろうと決意した。叔父から経済的援助を請うことも、慶介に後見人のような真似をされてやたらと世話を焼かれることも、ある程度はその好意に甘えねばやっていけない、それは分かっている。 それでも、精神的な部分では努めて自立しようと力んできた。 たった一晩、慶介が来ないことが何だというのか。 「こんなの普通だ。いつも慶ちゃんが来ていたのがおかしいんだ…」 しかし自分の呟きが狭い部屋にぽっと響くと、夏樹は不意にずきんと胸が痛くなるのを感じた。 寂しくない。寂しいわけがない。頭の中で必死に繰り返す。 ……けれど、このところの夏樹は、慶介のお陰で「独り」になるということが極端に少なかった。慶介には自宅があるからそちらへ帰ることもあるにはあったが、最近はほとんど一緒に暮らしているようなものだったし。 昔の友だちって誰だろう。 「慶ちゃんに友だちなんているんだ…」 およそ失礼なことを呟いてから、夏樹はぽすんと傍にあったクッションの上に寝転んだ。 高等部で見かける慶介はいつも誰かに囲まれていたが、イメージとしては副会長の工藤という人を除けば、彼の傍にいるのはほとんどが「お付きの人」、「子分」、「親衛隊」という感じの面子ばかりだった。そして慶介はそういう人々より、いつも夏樹の方を優先してくれていた。それは夏樹にも分かり過ぎるほどに分かっていた。 だから自分との食事の時間を反故にしてまで会おうとしている「昔の友だち」のことが――やはり気になった。 もっとも、その謎もすぐに解けた。 これは慶介が夏樹のいる中等部でも女子生徒らに圧倒的人気を誇る有名人であったが故だ。彼女らのネットワークは本当に侮れない。手持無沙汰になって何となく眺めていたLINEから、夏樹はクラスメイトの女子らが半ば興奮したように次々流してくるメッセージに目を奪われた。――そこには、慶介が女子大生風の美人とデートをしているという目撃情報が溢れんばかりに連なっていた。 軽く肩を揺すぶられて夏樹が目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。 「…あれ」 「夏樹。寝るならきちんと布団を敷いて寝なさい」 「……お父さん?」 囁くように言われたその台詞に反応して、夏樹は寝ぼけた声で訊いた。父親が傍にいると意識して発した問いでもない、ただ本当に反射的にその言葉が出ただけだ。 「残念。お父さんじゃないよ」 「あ…っ!」 しかしその現実と夢の狭間で紡いだ言葉を鼻で笑われたことで、夏樹はあっという間に覚醒して飛び起きた。まだ目が慣れない。しかも静かだ。それでも傍にいるその人物のことははっきりと分かって、夏樹は途端素っ頓狂な声をあげた。 「慶ちゃん!?」 「うん。ねえ、もしかして帰ってから今まで寝ていたの? ご飯食べてないの?」 「……分かんない」 咄嗟に「怒られる」と思い、夏樹は言い訳にもならないことを呟いて俯いた。 しかし実際のところ未だ記憶はぼんやりしている。帰宅してからほとんど不貞寝の体で横になったのは確かだ。着替えるのも面倒くさかったからそのまま。やることがなくて、慶介も来ないというから、何となくスマホをいじっていて、それでクラスメイトらの噂話のようなものを見て――。 「あ…」 「やっぱり。綺麗過ぎる。ご飯食べてないでしょ」 いつの間にか台所へ移動していた慶介が責めるような台詞を吐いた。冷蔵庫まで開けて、昨日の状態から変わりのないその中身に、いよいよけしからんという風にため息までついている。 「俺がいなくても平気って言ってなかった?」 夜中近くだからか、慶介の声音は小さい。けれどそれでより一層「叱られている」感が強くなって、夏樹は萎縮した。慶介はいつでも基本夏樹には「ベタ甘」だが、生活上のこういうことをきちんとしない時は容赦なくお説教をしてくる。先ほどは不本意ながらも父と間違えてしまったが、事実として慶介が夏樹の保護者のように振る舞うことは往々にしてあることなのだ。 「分からないって何なの。どうしてご飯食べなかったの」 再び傍に戻ってきた慶介は、立ったままの格好で俯く夏樹を詰問した。 「だって…寝ちゃったから…」 「……はあ。早寝早起きはいいことだけどね。着替えもしないでごろ寝って、いくら春先だからって風邪引くよ。やっぱり様子見に来て良かった」 「平気って言ったじゃん…」 「実際平気じゃなかったでしょ」 ぽんぽんとあやすように頭を叩かれて、夏樹は次第にむっとしてきた。どうやらこれ以上きつく叱られることはないと分かったせいもあるが、また子ども扱いされたことが単純に嫌だった。 乱暴に慶介の手を振り払い、夏樹はふいとそっぽを向いた。 「平気だよ。そうやってガキ扱いすんの、やめて欲しい」 「だってガキでしょ」 「ガキじゃない!」 そのまま返されていよいよ夏樹はムキになり、ここでようやく顔を上げた。 段々と慣れてきた夜目の中、自分を見下ろす慶介はおよそ高校生には見えない、大人びた顔をしている。実際、彼も夏樹と同じく今月中には学校を卒業するから、次は大学生だ。だからこんな風に自分と違う風に見えるのだろうかと思いながら、夏樹はそれでも意地になって慶介をぎんと睨みつけた。 「もう俺、中学だって卒業だし。慶ちゃんに面倒見てもらわなくてもいい」 「…ふうん?」 「だから…こういう風に、急に来るのもやめてよ。俺にだって、プ、プライバシーってもんがあるんだから!」 「プライバシー?」 ふっと嘲笑の息を漏らす慶介に、夏樹はますますカッとした。また馬鹿にした。どうして慶介はこうなのだろう、と。じわじわ湧きあがる怒りに体温が上がった。そう、確かに慶介はいつでも夏樹に優しいが、反面、いつでも夏樹を小馬鹿にするような態度を取る。……ただ、これは別段夏樹にだけ向けているものではなく、単純に慶介という人間の「良くない癖」とも言えるのだが……当面重要なのは、今の夏樹が慶介のそういう態度に、「慶ちゃんはいつも俺を馬鹿にする!」と感じることだった。 「今何時だよ? もう日付変わるじゃん、そんな時間にいきなり勝手に入ってくるとかありえないよ! ここは慶ちゃんの家じゃないんだから!」 「まぁそうだけど。近所迷惑になるから、声はもう少し抑えなさい」 「なっ…。またそうやって保護者ぶる!」 「違うよ、俺は一般常識を言っただけ」 そうして、もう一度「しっ」と宥めるような仕草を取ると、慶介はその場に屈んで「何なの?」と困ったように苦笑した。 「な、何が…?」 慶介と至近距離になったことで夏樹は慌てた。暗闇の中とは言え、ここまで近くになると慶介の顔はよく見えるし、それは慶介とて同じことだろう。今、こんな風に対面していたくない。慶介に近寄られると夏樹の心臓はバクバクしてしまうし、頬にも痛いくらい熱が集まる。それが何なのか考えるのは怖いから自分でも深くは追求しないが、ともかく顔が赤くなってしまうのはよく分かるので、夏樹は慶介に顔を見られるのが嫌だった。 しかしそんな夏樹の想いを知ってか知らずか、慶介は夏樹の手首を取ると逃げられないように捕まえてから、さらに顔を近づけてきた。 「なっちゃん。何か怒ってるの?」 「えっ…」 「起き抜け機嫌が悪いとしても…何か俺のことで腹を立ててるんでしょ?」 「べ、別に!」 「嘘だよ」 なっちゃんは嘘つけないからなあ、と。慶介は口元で小さく呟いてから、空いている手で夏樹の頭を撫でた。もう片方はしっかり夏樹を捕まえている。夏樹はそれでどうにも出来ず、撫でられるままに慶介の手の温もりを感じた。 慶介に頭を撫でてもらうのは嫌いじゃない。 そんな想いは口が裂けても言えないが。 「一緒にご飯食べられなかったから怒ってる?」 「そんなわけないっ」 「でも、俺がいないからご飯食べなかったでしょ。これは問題だなぁ、今度からいつも一緒にご飯食べないと、なっちゃんはその度に一食抜いちゃうんだ?」 「だから、違うって言ってるだろ! たまたま! たまたま、今日は、寝ちゃったから…!」 「ふうん…」 納得したような様子ではなかったが、これ以上追及しても無駄だと思ったのだろう、ふと黙りこんだ慶介は、やがておもむろに夏樹の前髪をかきあげながら、いつものキスをしようと唇を寄せてきた。 「やっ…」 けれど夏樹はそれを嫌がり、咄嗟に勢いよく顔を背けた。いつもだったら、こんな挨拶のようなキスには慣れっこだし、そのまま受け入れていたかもしれない。夏樹は慶介に頭を撫でられることもキスされることも嫌ではない。むしろ最近ではそれを心待ちにしているところもあった。 でも今日は嫌だとはっきり思った。 何故って慶介には他に――。 「彼女がいるくせに、俺にこういうことする慶ちゃんはおかしい!」 彼女なんていないと思っていた。 これまでそうした存在がいるかを訊いたことはなかったから、いたとしても別に不思議ではないし、それを責められないし、そもそもそんな権利は自分にはないと夏樹は思う。 けれどこのところの慶介は毎日のように夏樹に触れ、キスし、それこそ夏樹が自分の恋人であるかのような言動をちらつかせていた。 それなのに、今夜は「昔の友人」と称して、美人の女子大生とデートしていた。 そんな人がいると分かっていて、これ以上こういう真似が出来るわけがない。 こんな風に胸が痛いのに、知らないフリで慶介と一緒にいられない。 「……えーと。俺に、彼女なんていないけど」 しかし必死の夏樹に対し、慶介は暫し沈黙した後きょとんとしてそう答えた。 「え…何…」 「だから、彼女なんていないよ? なっちゃん、何言ってんの」 「な…何、言ってんのは、そっちだろ!? どうしてそんな嘘つくの!?」 「嘘なんてついてないよ。そっちこそ何なの」 慶介はいよいよ戸惑ったように引きつった笑いを浮かべて、それから「あ!」と閃いたように夏樹の両頬を自らの両手で挟んだ。 「むぐっ!?」 「なーに。今日のこと、誤解していたの? ああ、それで怒っていたの? 昔の友だちって言ったでしょ。俺が彼女と会っていると勘違いしていたの?」 「か、彼女だろ! だって、凄く綺麗な女子大生とデートしてるって、その現場見たって、クラスの子が言ってた!」 夏樹がまくしたててそう言うと、慶介はいよいよもって事態を把握したとばかりに余裕の笑みを浮かべた。 「ええー…。女の人と一緒に歩いていたくらいで彼女とか言われてもなぁ…。なっちゃんだってクラスで特に仲良しの女の子と遊ぶことくらいあるでしょ? でもそれを彼女って言う? 言わないよねえ?」 「い、言わないけど、でも!」 「昔の友だちは昔の友だちだよ。大体、俺はなっちゃんと恋人同士になりたいのに、 何で他の人とデートしなくちゃならないの?」 「…………え!?」 さらりと告白されたせいで夏樹は一時思考停止状態に陥り、10秒くらい経過した後でやっと声をあげた。 「こ、こ、こ……」 「恋人」 「無理!」 反射的にそう答えたが、慶介の顔を直視は出来なかった。慶介の反応が怖い。「分かったよ」とあっさり引き下がるかもしれないし、「冗談だよ」と一笑に付されるかもしれない。 どちらも嫌だ。 かと言って、「本気なんだけど」と詰め寄られても、どうしていいか分からない。 「無理……ああ、そう。無理なの?」 果たして慶介の回答は、夏樹が想像していた1番目の仮説に最も近いものだった。 「でも、どうしてもなっちゃんがいいんだけどなぁ」 しかし次の瞬間、3番目の仮説に近い反応もやってきた。 「何で…」 だから何とかそれだけ訊けたのだが、慶介はそうやってかろうじての声を発した夏樹に愛しげな眼差しを向けつつ答えた。 「何でって。こんなに好きって思った人は他にいないからだよ」 だから、ダメかなあ?と。 いかにも軽い調子で慶介は再度夏樹に問いかけてきたのだが、夏樹には軽い重いも関係なく、ただ慶介に「好き」と言われたことで頭がいっぱいになり、何も考えることが出来なくなってしまった。 だから確かめるようにゆっくり近づいてきた慶介の唇にも、今度は逆らうことが出来なかった。ただもう自然にそれを受け入れてしまった。しかも一度許してしまうと二度、三度と繰り返されることは分かっていたのに、むしろそれを待ち焦がれるかのような態度で、夏樹は慶介からの口づけを受けとめた。 「ねえ、なっちゃん」 キスの後、名前を呼ばれた。目を開けてと促すようなそれがなければ、夏樹はまだずっと視界を閉じていたかった。慶介と面と向うのは怖い。その気持ちに変わりはない。 でも呼ばれてしまったら見つめ返すしかない。 「もう子どもじゃないんでしょ?」 「……うん」 暗い部屋の中でも慶介の顔はよく見えた。口元には笑みがあるけれど、それはいつものふざけたようなものではない。本気の慶介だと感じた。 「だったら、俺と付き合わない? 俺じゃダメ?」 言われながら鼻先にキスされる。夏樹はいよいよ眩暈がする想いだった。分からない、慶介は何を言っているのか。否、言っていることは分かるけれど、でもどうして急に。 ぐるぐると考えを巡らせてフラフラしていると、いつの間にか慶介から背中を支えられるように抱きすくめられていた。だから夏樹は何となく、そんな慶介の胸にそっと片手を当てた。慶介の心音は落ち着いているのに、夏樹の心臓の鼓動は未だ速いままだ。 「つ、付き合うとかそういうの…分かんないよっ…」 それで何とかそれだけ言った。 しかし慶介は待ってくれない。すぐに言葉が返される。 「簡単なことだよ。お互いが1番大切な存在になるってこと。勿論、今までも俺はそうだったけど、なっちゃんにもそうあって欲しい。俺のことを1番大切に思って欲しい」 「そ、そんなの…」 もうとっくに思っていることだ…とは、夏樹にはとても言えなかった。むしろ慶介のように何でも衒いなく好意の言葉が出る方が不思議で、だからこそどこか軽く感じてしまうところもあった。やっぱりこんなのは冗談なんじゃないか、心の片隅でそういう風に思ってしまうところもあるのだ。 何にしろ、慶介は本当に掴みどころのない人だから。 「なっちゃん」 どう応えていいか分からず黙りこんでしまうと、再び慶介からのキスが落ちてきた。唇を掠め取られることが恥ずかしくて夏樹はもう一度きゅっと瞼を閉じた。目を瞑っていると楽だ。慶介に何でも任せてしまうのはこんなにも心地よい。 「ふっ……ん……」 やがて唇を開かされ慶介の舌が夏樹の中を犯してきた。それでもまだ心地良いと感じた。途惑いよりも喜びが先に立って、夏樹は未だ目を閉じたままそれを従順に受け入れた。いつもするキスで舌を入れられることはめったになかったが、本当はこれも好きなのだ。恥ずかしさを隠すために怒鳴ったり拒否することもあったが、本心から拒絶したことは一度としてない。 (だって…全然、嫌じゃない…) 薄っすら目を開けると、丁度唇を離した慶介とばっちり目があった。それは嬉しかったけれど、キスが終わったことは惜しいと夏樹は思った。慶介にキスされると身体の全部が熱くなる。心の半分はそれを怖がっているけれど、もう一方はそれをとても心待ちにしている。慶介にもっとキスして欲しい、そして身体にも触って欲しい。夏樹は確かにそう思った。 「慶ちゃん…」 でもそれを告げる勇気が夏樹にはなかった。 「こうされるの、嫌?」 慶介が訊いた。慶介なら言わずとも分かりそうなものだ、それを恨めしく思ったが、何も言わないで全てを貰うのは卑怯だとは、夏樹自身分かっていた。 だから一言、付き合ってもいい、と。 そう言えば良いのだが……やっぱり言えない。 「うぅ……」 好きと言うのも照れくさい。言った瞬間、慶介に笑われるかもしれないという悪いイメージもあった。 「うぅ〜!」 それで心底困ってしまい、夏樹はそんな気持ちをごまかすように、ドンと慶介の胸に飛びついた。それはほとんど反射的に動いたと言って良い。夏樹自身でさえ予測しない突発的行動だ。その為、さすがの慶介も意表をつかれたようで、小さいながらも「わ」と驚いた声を発した。 ただその声を聞けたお陰で、夏樹はちょっとだけほっとした。 「慶ちゃん…」 だからとりあえず、ただ呼んだ。 「ん?」 「慶ちゃんっ」 「何? どうした?」 苦笑が漏れる。夏樹はさらにぎゅうっとそんな慶介に抱き着きながら、ヤケのように頭をぐりぐりと擦りつけた。こんなことをしていたら「やっぱり子どもじゃない」と言われるのは目に見えていたが、今はこうしてもがくことしか出来なかった。 そして「こう」答えるので精いっぱいだった。 「ちょっと…ちょっと待って…。ちゃんと言うから」 「うん?」 慶介が笑みを含んだ声で訊き返してきた。訊ねているくせに、どことなく夏樹の答えを知っていたかのような、それは余裕に満ちた声で。 もっとも、だからこそ夏樹も勢いこんで続けられたのだけれど。 「慶ちゃんが急に言うのが悪い!」 「びっくりしちゃった?」 「そうだよ! だからちょっと…ちょっと待ってて!」 「ええ〜…ちょっとって、いつまで?」 ふざけたように不貞腐れる慶介の声。夏樹はそれでびくりと身体を揺らしたが、すぐさま強く抱きしめ返されたので力が抜けた。良かった、怒られるのかと思った、と。夏樹は心の中だけで慶介に呟いた。 「分かったよ」 するとそれら全てを了解しているかのように、慶介は応えた。 「分かった」 しかも2回もそう言ってから、慶介は夏樹の耳に口をつけ、「なっちゃんが自分の気持ち、ちゃんと言ってくれるの楽しみに待ってる」と最大の助け舟を出してきた。 「うん…」 だから夏樹も素直になれた。 「うん。ちゃんと…言うから」 「卒業までには言えそう?」 「……うん」 「答え」自体はもう出ているのだから、後はきちんと言う練習をすれば良いのだ。 ……改まってしまえば余計に言いづらくなっていくだろうに、夏樹は自分で自分のハードルを上げてしまったことには気づかずに、慶介の打診に大きく大きく頷いた。 とりあえず今は何も言わずして「大好き」な従兄に縋り着くことを許されている。そのことがとても安心で安全だった。 夏樹はほっと息を吐き出して、もう一度、慶介の胸に自身の頭を擦りつけた。 |
了
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戻
この連作もいよいよ終わりに近づいてきましたね。
……「次」が何年後に出るかは謎ですが(ヲイ)。