ただそれだけで |
永(ひさし)は他人からいつもよく誉め言葉を貰う。 家でも学校でも、父親の会社が主催するパーティの席へも何処へ行っても。 「永さんは本当によくお出来になる」 「お父様もさぞご自慢でしょう」 「観音寺グループの将来も安泰だ」 毎日毎日、同じような賛辞が永の元へ舞い込んだ。 どんなに心地良い名曲でも1日に何十回と聴かされればさすがに「もういいよ」となるものを、私欲に満ち満ちた性質の悪い雑音を耳に入れられるのだから、聞かされる方は堪ったものではない。けれどウンザリする当人の意思に反して、下は永と同年代の10代後半から上は棺桶に片足が突っ込んでいる老人まで、何処へ行っても何をしていても、永はありとあらゆる人間からありとあらゆる誉め言葉を投げ掛けられた。 いつもいつも。いつもいつもいつも。 慣れから生じた無感動はいつしか嫌悪に変わっていった。そうして麻痺した耳は、いつしかその「音」を3つに大別して無機的に処理するまでになっていた。 そう、3つ。永を誉める内容はいつだって大体同じだったから。 「永さん、この会場にいるどんな人よりもハンサムで素敵!」 「永さん、学校でもいつも当然のように1番なんですよね!」 「永さん、先日の親交試合観ました。あの華麗なプレイ…あんなの誰にも真似できません!」 3つの内容。それは即ち「顔・頭脳・スポーツ」の3種類である。 永に何不自由ない暮らしを提供している両親は、それこそ永が物心つく前から「投資以上の成果をあげろ」と息子や息子に教育を施す人間たちに煩く喚き立ててきた。勉強もスポーツも人並以上の資金をつぎこみ、人並以上の良い環境を与えてやる。その代わり、それに見合った結果を出せ。それが永に課せられた使命であり、義務だった。だから永は勉強もスポーツも自分より金を掛けていない人間に負けるわけにはいかなかったし、実際誰にも負けなかった。周囲の重圧に耐えうる精神的なタフさや器用さも永は兼ね備えていた。 また、サラブレッドのように大切に育て上げ磨き上げられてきた永は外見もそれに見合ったものを有していた。年齢以上に高い背丈に均整の取れた身体。日本人らしい艶やかな黒髪に、同じく鋭くも美しい瞳。そんな永が1人颯爽と立っていると、誰もが振り返りため息をついた。 永は何でも持っていた。永自身、そんな自分に何の不満もなかった。 反面、何も持ち得ない両親を含めた周囲の人間たちの事は鬱陶しくて仕方なかった。 「お前、やさしい奴じゃん」 そんな時だった。永に3つのグループ以外の誉め言葉をくれた人間が現れたのだ。 「……お前、誰だ」 その日、永は珍しく自由だった。学校もテスト期間中で早く終わったし、親の会社関係での付き合いに出る用事もなかった。家庭教師もテニスの個人指導も入っていなかった。本当に珍しく暇だった。 だからただぶらぶらと歩いて、近くの公園に立ち寄ったのだ。ただの気紛れで。 「誰って。お前こそ誰」 ぶっきらぼうな永に突然現れた少年はそう言った後、にっと口の端をあげてみせた。人懐こい笑みが印象的だった。あからさまに敵意をむき出しにしている永に対し、少年はまるで動じる風もなく、永が座っていたベンチを指差しながら悪びれずに言った。 「そこ、この時間はいつも俺の指定席なんだ。昼過ぎるとリーマンとかOLのお姉さんもメシ終わっていなくなるじゃん。俺はそこを見計らって此処に来るの。…こいつらに会いに」 「………」 少年がそう言ってベンチの次に指差したのは、永の目の前で物欲しそうにウロウロしているハトの群れだった。ぶくぶくとよく太ったのもいれば、気が弱くてエサを拾えないのだろうか、やたらとガリガリのやつもいた。 「俺、いっつもここでこいつらにパンくずやるの。ホントはやったら怒られるんだけど」 「何で」 「ここの公園管理してる人が駄目って」 「だから何でだよ」 「知らない。エサやっちゃいけないって」 それでも少年はそう言いながら、紙袋から取り出した食パンの耳を小さくちぎるとぽいぽい永の足元にそれを投げ始めた。途端、羽をばたつかせたハトたちが「待ってました」とばかりに一斉にそれに群がった。永がそれに驚いて多少身体を引くと、少年は楽しそうに笑いながらさっと紙袋を差し出して言った。 「お前もやる? ほら、やるよ」 少年は袋から真ん中がくり貫かれた食パンの耳を永に渡した。そうして殆ど反射的にそれを受け取ってしまった永に「そこ、座っていい?」と訊くと、永が答える前に隣の席にすとんと腰を下ろしてきた。 「………」 永はそんな少年を黙って見つめた。 野球帽のツバを後ろに被っているその横顔はひどく幼く見えた。帽子からはみ出た焦げ茶色の髪の毛は前髪だけが少し長い。薄汚れたTシャツに、穴の開いたジーンズ。ボロボロのスニーカー。何処のクソガキだろうと思っていたら「17才」だと言うから驚いた。永と同じ年だった。 「見ない顔だよな」 永が思っていた事を少年が言った。 「俺、この近くにあるレストランでバイトしてるんだ。休憩時間に貰ったこのパン持ってここ来る。昼飯も兼ねて」 「昼飯?」 「うん」 「どこに?」 「それ」 少年は目でちらと永が持っている食パンを見てから小さく笑った。途端、永はむっとした。冗談だろうと思ったし、何となくバカにされたような気がしたから。 それでもその時すぐにそこを立ち去らなかった理由が何なのか、永には分からなかった。 「……お前のメシ、俺に渡すなよ。俺は腹なんか減ってないし」 「でもエサやるの楽しいし。知り合った記念に奢ってやるよ」 「奢りだ?」 永に何かをくれる人間たちはいつだって永に「見合う」ものをくれる。 高級な腕時計だったり万年筆だったり、豪華な食事だったり。 それが何だ? パンの耳? 奢り? 「お前。俺はな…」 「お前、じゃないよ。俺、ルイって言うんだ。種類の類。面白い名前だろ」 「……お前の名前なんか訊いてない」 「じゃ、俺もお前の名前なんか訊かない」 「………」 こっちだって名乗りたくなんかないと言おうとしたけれど、何となくそれが悔しくて永は黙りこんだ。こんな如何にも貧乏そうな痩せっぽちの奴が偉そうに物を奢ると言う。しかし自分は日本を代表する貿易会社観音寺グループの1人息子で観音寺永だ。お前なんかとは住む世界も違うし、大体お前に興味を持たれないようなくだらない人間なんかでもない。 俺の名前を訊かないだって? 生意気な。 「俺は――」 しかし反論しようとする永に類はまるで構わず声を出した。 「なあ。それ早く放ってやれよ。俺のなくなっちゃった」 「………」 「早く。ぽっぽさんたちも腹減ったってさ」 「……何がぽっぽさんだ」 恥ずかしい奴と思いながら、けれどすっかり毒気を抜かれてしまった永は仕方なく投げ遣りながら受け取った食パンをぶちぶちとちぎった。そうしてふと目に入った、自分たちからはやや離れた位置にいる痩せたハト目掛けてそのくずを投げた。すぐに素早い奴が取っていってしまうせいで、その狙ったやつにはなかなかあげる事ができなかったのだけれど。 「ちっ…。お前じゃない」 「何であっちに投げたの?」 すると類が不思議そうな顔で訊いてきた。永はぞんざいに答えた。 「この周りにいるやつらはさっきから十分食ってただろ。物欲しそうな輩は嫌いなんだ」 「ふうん…」 「何だよ…。別にあそこにいたのが気に入ったわけでもない。うざいから遠くにやりたかっただけだ」 けれどその時だった。少年が永にそう言ったのは。 「お前、やさしい奴じゃん」 「………」 「何かさ、ぶっすーとした奴が俺のいつもの席いるからどうしようって思ったけど。いきなり態度めちゃくちゃ悪いし。けどさ、ハト寄ってたから。そんな悪い奴でもないかなって」 「………」 「やっぱいい奴だった」 「別に、俺は」 「うん?」 「……ごちゃごちゃうるさい事言う人間より、鳥でも眺めてた方がマシだったからいただけだ」 「え?」 「ここに来た理由だ」 自分は一体何を喋っているのだろう。 そう思ったけれど、何となく止まらなくて永はぺらぺらと口を動かしていた。こんな初めて出会った見も知らぬ…向こうは「類」と名乗っていたけれど、それでも赤の他人には違いない。そんな相手に気を許したようにこんな事を話すなどどうかしている。 永は心の中で動転した。 「今日だけは時間が空いていて…」 「ああ、分かる分かる」 すると類が言い訳じみたような永の声を掻き消すと深く同意したように頷いた。驚く永に真っ直ぐな視線を向け、どこか優しげな瞳を燻らせて類は笑っていた。 「ホント、分かるよ。1人になりたい時ってあるよな」 「………」 「でもさ、こうやって人じゃない違う何かにはすがっちゃうの。変だよな」 「何を、俺は…」 言いかける永の横で、しかしさっと立ち上がった類はもうそんな相手の方を見ていなかった。口元には相変わらず笑みが浮かんでいたが、それもひどく申し訳なさそうな表情に見えて、永は思わず口を閉じた。 すると類が言った。 「俺もそうなんだよ。だからここ来てたんだ。なのに、何か馴れ馴れしく話しちゃったな。お前の時間邪魔しちゃった。ゴメン」 「は…?」 「今度は時間ずらすように来るからな」 「な……」 「それじゃ。楽しかったよ」 「おい…っ」 1人でさっさと完結し、1人でさっさとそう言って立ち去ろうとする類を永は慌てて引き止めようとした。しかし類はもうそんな永の方はちらとも振り返る事なく、それこそあっという間に駆け出してその場からいなくなってしまった。 「………」 永はぽかんとしたままその後ろ姿を黙って追う事しかできなかった。 「何…なんだ……」 すっかり類の姿が消えてなくなった後、永はそれだけ呟いた。何だかぐらぐらと腹立たしいような、もどかしいような、言いようのない感情が腹の底で煮え立った。 どうしたのだろう。こんな気持ちは初めてだった。 半時も一緒にいなかった人間の事がこんなに気になるなど有り得ない。どんなに長い付き合いの学友や、はては両親、屋敷の使用人たちに至るまで、自分にこんな感覚を植えつけた人間はいないと思う。恐らくは類が自分の処理できない誉め言葉を使用したせいもあるのだろうが、それにしても。 永は自らの感情をざわつかせた何かを、あの類から感じ取っていた。 永は優しくなどない。彼の性格ははっきり言って捻くれていた。 「永様。どちらへ?」 その日も永が黙って靴を履き外へ出て行こうとするところへ、屋敷の執事が慌てたように駆け寄ってきた。 永は振り返りもせず素っ気無く答えた。 「俺が何処へ行こうが勝手だろ」 「そうは参りませんっ」 ぐっと意を決したように白髪の執事は自分に背を向けている主の子息を見やった。今日は夜に主人の大事な客を大勢招いてのパーティがある。そこに主自慢の息子がいなくては、始まる前からその宴の失敗は決まったようなものだ。 「今日はどちらへも外出される事がないようにと、旦那様からもよく仰せつかっております」 「それはお前の都合だ。俺には関係ない」 「永様、最近よくお出掛けになられるようですが、一体どちらへ?」 「だから、何処へ行こうがお前の知った事か。護衛に尾行させるのもやめろ。撒くのがウザイ」 「永様…」 「泣き落としは俺以外の奴にしろよ」 いつでも永の父親第一優先、しみったれた声を出してはこちらに懇願の目を向ける老執事の事が永は嫌いだった。たとえ自分のことを幼い頃から見守り、仕事と道楽ばかりで子どもを顧みない親の代わりをしてくれた人物とて、永にとっては何という事もない相手だった。傍から見たら薄情に見えるだろうそんな自分の性格も、そうなった原因が少なからずこの男や周囲の人間たちにあるだろう事を思えば、あまり自責の念も湧いてこない。 永は基本的に自分以外の他人というものに興味がなかった。共にいて会話をしたとしても疲れるだけだ。誰も彼も永にとっては同じだった。誰も彼も観音寺永という人間とまともに面と向かって接しようとしているとは感じられない。 「どんな奴でも関係ない。そいつに金と権力さえあれば人はついてくる」 それが永の持論だった。勿論、金や権力を維持する為にはそれなりの能力も求められるのだろうが、永は自分がそういったものを既に身に着けている事を知っていた。周りの人間たちもあの3つの言葉を使って永にそれがあると謳い続けた。 「何もかもがくだらない」 高校3年にして人としての表情を失ってしまった永は、何にも執着していない代わりに何にも熱くなれなくなっていた。鋭い眼はますます鋭くなっていっそ荒んでいたし、それが魅力的だと言い寄る男女は後を絶たなかったが、永にとってそれは迷惑以外の何ものでもなかった。何も分かっていないと思った。 「…とにかく。俺は行くぞ」 「永様っ」 「尾けてきたら、そいつら全員クビだ」 けれど。 執事に背中を向けながら永は「最近何処へ行っているのか」と問い質した執事の言葉を頭の中で反芻していた。勿論今日も「そこ」へ行くつもりなのだけれど、確かに最近の自分は今までの冷めきっていたあの頃と少し違うかもしれないと思った。 「永様、せめて何時に帰られるのかだけでも…」 「親父によろしくな」 ショックで今にも倒れそうな執事を置き去りに、永は自らの考えを掻き消すとそのままさっさと屋敷を飛び出した。自分はいつだって親の望むように親の期待に答えてやってきたじゃないか。たまの自由くらい好きにさせろと、永は心の中だけでそう吐き捨てた。 永が老執事を困らせる謎の外出をするようになって、既に一月が経っていた。 「永!」 「ああ」 永がわざとゆっくりとした歩調で公園に入ると、反して既にそこにいた類の方は真っ先に声を上げぶんぶんと手を振った。それでも表情を崩さない永に満面の笑みも向ける。 この寒い冬空の下、類はやはり出会った時と同じ貧相な格好をしていた。薄っぺらいジャンバーに、中は薄手のシャツ。ジーパンは以前会った時と同じもので、擦り切れも酷くなっていた。これまたずっと被っていて汚くなった野球帽も埃塗れだ。 けれど類はそれら全てをぴかぴかに見せてしまえる極上の笑みを持っていた。 少なくとも、永はそう思っていた。 「待ったよ永」 その類は持っていた袋をガサガサ振りながら軽快な口調で言った。 「今日、ちょっと遅かったじゃん? 俺、もう少しで帰るところだった」 「少し足止め食らったんだ」 「何? 親から遊んでばっかいないで勉強しろ、とか?」 「……まあ、そんなようなもん」 ベンチに腰を下ろしながら永が曖昧にそう答えると、類は「ふうん」と少しだけ探るような目を向けつつも、すぐにいつもの笑みに戻った。 ここではお互いの事は何も話さない。 別にそれが決まった事ではなかったけれど、2人はこうして毎日同じ時間で顔突合せている割に、互いの家の事を深く訊ねあったりした事が1度もなかった。 「受験生はそれはそれで大変なんだな」 そんな永に類は思いやるような口調で言いつつ、「もうすぐ卒業なんだもんな?」と言った。類は学校へは行っていないらしかったが、年は永と同じだ。その割に類は何だかやっぱり小さいし、子どもみたいに無邪気なところがあると永は思う。 「ま、そんな事はいいや。ほい、今日のやつ」 「……何か少ない」 そんな類に付き合って楽しんでいる永も永なのだが、そのことは自分ではあまり自覚していない。類が差し出してくれたハトのエサーいつもの食パンの入った袋を覗き込みながら永は不平を漏らした。 「む、文句言うなよ。お前が来るの遅いからじゃん。暇だったからいっぱいやっちゃった」 「類……もう帰るのか?」 永の顔がさっと曇ると、類は困ったようになってちょっとだけ笑った。 「うー…うん。まあ、あとちょっとはいる」 「………」 「何だよー。もっと嬉しそうな顔しろよー。お前、いっつも怒ってる顔してんだもん」 「怒ってる?」 「うん。そーゆーの怖いからやめた方がいいぜっ」 「………」 怖いなどと言われた事は一度としてない。自分ではたぶん面白くもない顔をしているのだろうと思う時でも、周りはいつでも自分の容姿を誉めてくれた。ハンサムで素敵、モデルみたい。いつも似たような誉め言葉。 けれど類は違う。 「類は俺が怖いのか」 永としては「普通」に訊ねたつもりなのだが、やはり顔は憮然として見えたようだ。類は永の声色だけですっかり驚いたようになって慌てて首を左右に振った。 「も、もう違うよっ。怖い奴とこんな毎日会わないって。ただ疲れた顔してるなって思っただけ。何だよむかついた? それならごめん」 「………」 「何?」 「いや…。俺も悪い」 「え? はは、もう、永ってホント面白いよな!」 「………」 類、と心の中だけで呟いて、永は横に座る友人の横顔をじっと見つめた。 2人が出会ったのはこの公園で、この公園以外で会った事はない。 けれど2人は間違いなく友達だった。永にとっては初めての。 互いの苗字は知らない。いつも名前で呼び合っていたし、永も類が訊かないから言わなかった。観音寺という珍しい苗字は永の父親が経営する貿易会社と共に世界的にも有名で、恐らくは類でも知っているだろうと思った。 だから言いたくなかった。 自分の家の事を知って類が変わってしまうかもしれない事が嫌だった。いつでも媚びて、いやらしい笑みを向けて近づく同級生のようになって欲しくなかった。初めて会った時はどことなく人をバカにしたような態度に見えた類に、自分の家の事を言って驚かせてやりたいなどと思っていたのに。 今は言いたくない。 「永」 類が永を呼んだ。類のきらきらとした黒目が永は好きだった。同じ年の割に小さな身体や小ぶりの唇も素直に可愛いと思っていた。いつも汚らしい格好をしているのが気にはなったが、類は男なのだから仕方がないと思うところもあった。 「あのな、永。実は今日、お前にプレゼントがあるんだ」 その類が今日は突然そんな事を言い出した。永は驚いて目を丸くした。 「プレゼント?」 「うん。まあ…俺、金ないし。大したもんじゃないんだけど」 「………」 そう言って類がジャンパーのポケットから出したのは、小さな正方形の包みだった。一瞬婚約リングかとバカな事を考えた永だったが、ちょこんと手に乗ったその重さに違和感を感じておやと思った。 「早く開けてよ」 「ああ…」 急かされて乱暴に包みをびりびりと破く。プレゼントなどいつでも貰っているのに、何故だか胸がどきどきした。 「ん…」 中から出て来たのは木枠の小さな正方形の箱だった。馬や鳥、それに様々な花が咲き乱れたレリーフは何だか荒削りで大した事はないと思ったけれど、やはり胸の鼓動は早いままだった。 そんな自分を誤魔化すように、永はその小箱の横についていたネジを何度か巻いた後、カタリと蓋を開いた。 「………音が」 「綺麗だろ?」 類が嬉しそうに永の顔を覗きこむ。永はそんな類の興奮したような顔にこそ見惚れたのだが、類はそんな永の様子には気づいた風もなく言った。 「ワルツって言うんだって」 「ブラームスか」 「え、何それ? とにかくさ、俺凄く好きなんだ、この曲。あのさ、俺の母さんはピアノがすげえうまいんだ。小さい女の子とかにも教えてる。そんで、一人の時はよく綺麗なでっかい白い家でこの曲を弾いてるんだ。俺、すげえ好きなの。この曲」 「……お前んちって、白くてでかい家なのか」 類が自分の家の事を話すのは初めてだ。驚きの気持ちを胸に抱えながら永が類を見ると、相手は困ったようになってかぶりを振った。 「あ、ううん違う違う。母さんの家。俺の母さん、もう違う家の人だから」 「………」 「ばーか、しんみりするなって。もう十年も前の話だし」 「別にしんみりなんかしてない」 「うっ…。それはそれでむかつくが…」 類は苦笑した後、「永ってホント仏頂面だよなあ」と、また永の顔を貶した。 「そんでさ、それ! 家にあったの、直したんだ。包装紙は店の先輩が余ったのくれたからそれで包んで。って、お前、びりびりにしやがったな!」 「お前が早く開けろというから」 「まあいいや。そんで、それ、壊れてたの直したからお前にやるよ。それ、いいだろ? 結構お洒落だろ? お前、割とお洒落だからそういうの好きそう」 「……」 俺のことを3つの誉め言葉で初めて誉めたなと思いながら永が黙っていると、類は尚も笑みを湛えたまま突然言った。 本当に突然に。 「あのさ、もうお別れなんだ」 永が答える前に早口で類は続けた。 「あのな。俺、レストランのバイトと引越し屋のバイトで金貯めて絶対高校入り直すって思ってたけど…あ、夜間のな。でももう無理になっちゃったんだ、それ。父ちゃん、また酒飲んでぶっ倒れちゃって、すっげ田舎の病院に入る事になったから。父ちゃん一人じゃ心配だし、俺もついてけって叔母さんが言うから」 「何を言ってるんだ?」 類の言葉というよりも、そんな事を言われて淡々とした口調で返す自分自身が信じられないと永は思った。 けれど、どうしてかそれしか言えなかった。 「だからさ、この町ともお別れなんだ」 ただそんな永同様、類もあっさりとしていた。別段大した事を言っているわけではない、という顔。何をも読み取れない顔だった。 「俺、この町好きだ。ちょっと埃臭いけど、こういう公園に来る人結構まだまだいてほのぼのするじゃん。すげえ和んだ。それにこのワルツ弾く母ちゃんも時々見ようと思えば見られたし。けどさ、もう駄目なんだ。いくら働いても金たまんないし」 「類」 「永と会えて面白かったよ。俺学校行ってないから、タメの友達全然いなかったし。息抜きの度にハトしか話し相手がいないの…ははっ。それを永が遊んでくれたしさ。お前、いっつも俺のパンくず当てにして自分では何も持ってこなかったけど。また今度会った時はお前が何か奢れよな」 「類、何処に…」 「だから。すごい田舎」 ぱんぱんと膝にかかったパンくずを掃い、類はただ笑っていた。その間も単調な、それでいて美しいメロディを奏でるオルゴールが2人の間で鳴り響いている。 暫くの間、2人の間にはその音楽しか流れていなかった。風の音も鳥のさえずりも何もかも、2人の間からは消えていた。 ただ、やがて永は気がついた。オルゴールの奏でる音に耳を傾けながら薄く微笑しているような類が、実は自分の方をまるで見ていないという事に。避けるように視線を落とし、絶対に顔を上げようとしない。頑なに足元を見つめているだけの、類の横顔。 「………」 ああ何だ、そうだったのだ。 そんな類の様子にまたいつの間にか魅入っていた永は、その時になってようやく「分かった」と思った。 「永」 しかしその時、類が呼んだ。 「……?」 それで永がはっとして顔を上げると、類はいつの間にか立ち上がっていた。自分を呼んだその消え入りそうな声に、永は突然現実に引き戻されたような気分になった。 「ごめん…。泣いちゃいそうだから、マジ帰るな。今までさんきゅ」 「は…?」 だからだろう、間の抜けた声で返してしまった。 それでも類は永を怒る事も視線をやる事もなかった。類は類で、今の自分の感情に必死という風だった。 「俺…最後にお前に何かやりたくて、さ。そんな食パンじゃなくて。だから…それも直したんだ。本当はあのまま捨てたっていいって何回も思ってたのに」 「……好きな」 「ん…」 「好きな曲じゃなかったのかよ」 「ああ…うん」 どう答えて良いか分からないという顔を類はしていた。それも永が座っている場所からは少ししか見えなかったのだが、その寂しげな声だけで十分だった。永の中で、あの類と初めて出会った時に感じた「ぐらぐらとしたもの」が再び煮立って喉元にまで駆け上った。 「類、お前――」 「……じゃ、な。永」 けれど類は何事か言い掛けている永には構わず、完全に背を向けてしまうとまた言った。未だ周辺をうろついているハトを避けながら一歩を踏み出す。 永はあからさまに眉を顰めた。 「ちょっと待て」 コイツは一体何を言っているのだ。言いようのない怒りが全身を満たした。 こんなもので俺と別れる気か? 永遠に? 俺こそ……。 「俺こそ、お前なしでどうやってこれから生きて…」 「え?」 永が思わず口の端に乗せた言葉に、類が驚いて振り返った。その目はじんわりと潤んでいた。泣きそうなのはこっちの方だと思いながらも、永はその瞳に吸い寄せられるようになって自分も立ち上がった。 「類、類。お前の親父のことなんか俺が知るか。お前がいないと俺は生きていけない。こんな思い出の曲しか残さないお前の母親も間抜けだ。こんな曲にしがみついているお前もバカだ。ああ…いや、しがみついてなんかいなかった。そうだろ? だってお前はこれをずっと壊れたまま放っておいたじゃないか」 「それは…」 「それは、今のお前には俺がいたからだ。そうだろ?」 「な、何だそれ…。すごい、自惚れ…」 「類」 からかおうとして無理に笑おうとした類に構わず、永は強い口調で相手の名前を呼んだ。こんな風に毎日会っていたのはどうしてだ? 会えていたのはどうして。 それはきっと互いが互いに同じものを感じて惹かれていたからではないのか。 「俺もバカだ…。今までその事を考えもしなかった」 「え…?」 1人呟く永に類が怪訝な表情を向けた。永は黙ってただ首を横に振った。 初めて会った時は自分とはまるで違う世界の人間だと思っていた。物珍しさからくる意地の悪い感情だってあったかもしれない。確かに類は永とはまるで違う環境で違う生活を送っていて、そして当たり前だけれど性格だってまるで違う。いつも仏頂面の永とは違い、きっと気を遣って生きてきたのだ、いつだって人好きのする気持ちの良い笑みを向けていた。永とは何もかもが違っていた。 けれど、ひとつだけ同じだったのだ。 きっとお互い寂しかった。 だから、「今度からは時間ずらして来る」と言った類とまた会いたくて、バカみたいにずっと公園のこのベンチで類を待った。類もそんな永に声を掛けてくれた。 寂しかったから。 「お前…。お前だって嫌だろう。俺から離れて…一体何処へ行くって?」 「永、何言ってんだよ…」 困惑しきった声と顔が永の目の前にあった。ぎゅっと両方の手を握りしめ、肩をいからせて俯いている類はやっぱり未だ泣き出しそうだった。それでも永はそんな類にどんどんと身体の冷たくなる自分を感じ、急激な焦燥感に包まれた。 だから気づいた時にはもう手を出していた。 「類。友達じゃない」 「え…?」 弾かれたように顔を上げた類を無理に引き寄せ、強く手首を掴むと永はもう一度言った。 「友達じゃない」 「ひさ…っ」 ああ、どうして早くこうしなかったのだろう。 「んっ…」 永は類の驚き見開いた目に挑むような光で返しながら、強引に塞いだ唇の感触をしっかり味わった。そう、早くこうしてキスしてやれば良かった。他愛のない話や類の笑顔を眺めているだけでも十分楽しかったし幸せだったけれど、こんな些細な時間はいつか終わりが来てしまう。 その時。 リン、と。 ベンチの隅に開きっ放しにして置いていたオルゴールのワルツが鳴り止んだ。それで永は一瞬気を緩め、類を掴んでいた手の力を緩めた。 しかし瞬間、物凄く強い平手打ちがびゅんと左頬に飛んできた。 「つ…ッ…」 「な…な…!」 「いってぇ…」 ゼエゼエと肩で荒く息を継ぐ類を睨みつけながら、永は突然された暴挙に軽く舌打ちした。油断していたとはいえ、こんなにまともに食らう気はなかったから。 「な、な、何すんだよ…っ」 けれど類の方もそれどころではない。突然された事に顔を真っ赤にして、先刻まで今にも零れ落ちそうだった涙をも引っ込めて、類は唇に手を当てながらただわなわなと震えていた。 「俺を殴れるなんてお前だけだ」 それに反して永はどんどん冷静になっていた。 「結構力あるじゃないか。いつもロクなもん食ってないくせに」 「うるさいっ」 「煩い? お前にそんな風に怒る権利あるのか。この俺をこんなに――」 「煩いっ。煩い煩いっ! 永が何だって言うんだよ…っ」 「類…?」 吐き捨てるように地面に向かって叫ぶ類に圧倒され、永は思わず口を噤んだ。無理やりキスをされた事にパニックになっているというのもあるだろうが、それ以外の何かが類を居た堪れなくさせているように見えた。 「偉そうにするな…っ」 類は尚も言った。ぎゅうぎゅうと握り締めている両の拳が痛々しかった。 「突然勝手な真似して…こんな…。永はいつだってそうだよ、自分のペースで…自分本位で…っ。これだから、金持ちはっ」 「何だって…?」 「あっ…」 思わず発せられたその言葉に永が反射的に言い咎めると、類ははっとなって押し黙った。 「類、お前…」 「………」 「おい…」 「観音寺グループの…一人息子だろ…」 深く嘆息した後、類は言った。ちらと見上げたその目からもう怒りは消えていた。 「知ってるよ…。知ってたから…だから、もう離れたかったのに…」 「……どうして」 何とか返した永の言葉は、しかし逆に意気消沈していた類を勢いづかせる事になった。類はきっとなって永を見据えると、責めるように声を荒げた。 「どうしてじゃねえよっ。自分が…自分が、惨めになるからだよ!」 「………」 「世の中不公平だから! だから、むかつくんだよ…! お前みたいに何でも持ってる奴と、俺みたいに何もない奴…っ」 「………」 「何で…それなのに何でお前…俺と一緒になって…こんな所に来てたんだ」 「………」 「俺はそれがすごい…嬉しくて…」 「………」 「金持ちにパンくず奢って、いい気になってたんだ…。ただ、ただそれだけで…」 「……それだけ?」 やっと永が声を出すと類はびくりと肩を震わせ黙りこくった。 気まずい空気が流れて永はちらと視線を外し、ベンチに置き去りのオルゴールに目をやった。ネジを巻けばそれはまた美しい曲を奏で出すのだろう。けれど今はしんとして、その箱はただの箱としてそこに在るだけだった。永はその箱を見下ろしながら、類が「でかい白い家」の塀の外から、自分を捨てた母親を覗いている場面を思い浮かべた。 「類。お前が好きなんだ、俺は」 そしてその直後にはもうそう言っていた。 「好きだ」 俯いたまま微動だにしない類の手を再度ぎゅっと掴み、永は言い聞かせるようにもう一度言った。びくりとして顔を上げる類を真っ直ぐ見詰め、今度は相手の意思を確かめるようなゆっくりとした動作で唇を近づけた。 類は逆らわなかった。だからそのまま、静かな確かめるようなキスをした。 それは触れるだけの、子どもがじゃれあう程度のキスだったのだけれど。 「……どう、して」 するとその口付けの後、自分の手を握って放さない永から依然視線を逸らしたままの類がぽつりと言った。 「永…こんなやさしいキスができるんだ…」 「やさしい? 知るかよ」 「そうなんだよ…」 「………おい。何で泣くんだよ」 先刻から覚悟はしていたけれど、ついに落ちてしまった。そう思って顔をしかめる永には構わず、一旦許してもう歯止めが利かなくなってしまった類は、後はもうただぽろぽろと涙を落とし続けると、声を出さず静かに泣き始めた。 「おい類…」 「俺…お前に何か…やりたくて…」 「……何言ってるんだ」 いつもたくさん貰っていたのは自分の方だというのに。そして今もまた、お別れだからと類は思い出の曲が入ったオルゴールを永にくれると言う。ハトのエサもそのオルゴールも、そして類の思い出も。類は何でも永にくれた。 「類、お前は分かってない…」 けれど永はこの時ようやく理解した。類自身でさえ分かっていない類の本音と、それから。 永自身の本音。 自分たちが本当に欲しかったものは物や思い出なんかじゃない。 「類…」 けれど永はその想いを敢えて口にはしなかった。今はそれよりも言わなくてはならない事があったし、言って通じないのならばこの手を放してはいけないと、ただそれだけを永は考えていた。 「類。俺といろ。行くな」 「………」 「行くな」 2回繰り返したけれど類は答えなかった。ただ、背中に回された永の両腕から逃れる事はしなかった。類は大人しくされるがまま、永に身体を預けていた。 「行くな」 だから永はただその言葉を繰り返した。何の拍子か、その時背後のベンチに置かれていたオルゴールがリリンと小さく音を零した。永はそれを何処か遠くのもののように感じながら、ただ類を抱きしめ、そして「好きだ」と言い続けた。類が「分かった」と言うまで何回でも言おうと思った。 何回でも自分から「お前が好きだ」と言いたかった。 |
しかしこの後、類はお父さんと街を出てしまって消息不明に。
けど何年か後に社長になった永が類を探し当てて結婚(笑)。
そんなベタなハッピー話もいつか書いてみたいものです。