手紙
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「何それ! ラブレター!?」 ひょいと人懐こい顔を寄せてすかさず訊ねてきたのは、従兄弟の凌空(りく)だった。 さり気なく出てきたつもりだったのに、目敏い。靴箱から見つけたばかりの手紙を手にしたまま、咲夜(さくや)は自分を追いかける為に走ってきたのだろう凌空を見つめた。どうやら、先に帰ろうとしたことを責める気配はない。ただ、形の良い唇には、からかいを含んだ笑みがあった。ラブレターを貰ったらしい咲夜を、冷やかしたくて堪らないといった風だ。 「ねえ、ラブレターでしょ、それ!」 「知らない。今見つけたところだし」 「ひゅー、全く動じてない! さっすが、モテる男は違うねぇ。で、誰から?」 「……名前、書いてない」 四角い封筒をぴらりと裏返して、咲夜は淡々と事実を告げた。表には「久下(くげ)咲夜くんへ」と書いてあるから、自分に宛てた手紙なのは間違いない。 けれど肝心の差出人は分からない。 「でもそれ、ラブレターだよ。だってハートのシールついてるし」 一緒に封筒を見るように顔を近づけていた凌空は、ちょこんと、その青色のハートマークを指先で突ついた。 それから姿勢を戻し、楽しそうに笑う。 「おれ、そういうの初めて見た。ホントに下駄箱に手紙なんて入れるんだね」 直接渡せばいいのにね?と、涼しげな目元を細めながら、凌空は軽口を叩いた。 確かに普段の凌空からすれば、「下駄箱にラブレター」など、回りくどい手法だろう。昔から好きなら好き、嫌いなら嫌いと、はっきり物を言うタイプだ。育ちのせいか、見た目は如何にも落ち着いた物腰の、「良い所の坊ちゃん」なのだが、これで案外毒舌家だ。根が明るくて見た目が良いから、いつでもクラスの中心人物ではあるが、凌空自身が心から認めて、自分の傍にいることを許した人間は少ない。 「名前は中に書いてあるのかな」 靴に履き替え、カバンを掛け直した凌空は、それに続いた咲夜に興味津々の弾んだ声で訊いてきた。咲夜はそんな凌空には目をやらず、さっと手紙をカバンにしまうと「知らない」とだけ応えた。何を書かれていようが、家に帰ってから読めばいいだろうと思ったのだ。 けれど凌空はそれに納得しなかった。 「え、何でしまっちゃうの。今見ようよ」 「…やだ」 野次馬のように縋りつく凌空を無碍に振り払って、咲夜は歩き出した。 勿論、凌空は諦めようとしなかったが。 「何で、見ようよ! サクは何て書いてあるか、気にならないの?」 「別に」 「えー! あ、そうか。いつもモテ期なサクくんは、ラブレターなんて貰い慣れているから、まともに読む気ないんだ? ひっど!」 「凌空ほどじゃないから」 「何が?」 「いつでもモテ期ってやつ。ラブレターも、凌空の方がよく貰うでしょ」 咲夜の言い分に、凌空は軽く肩を竦めた。 「そんな貰わないよ。時々直で告られるくらい。おれの見立てでは、絶対サクくんの方がモテてる。ねえ、実際ラブレターって普段どれくらい貰ってる?」 「いつも一緒にいるんだから分かるでしょ。そんな貰ってないよ」 「でも0通じゃないんだ? これまでにも貰ったことあるんだ? ふーん」 凌空が躾のなっていない犬のように見えることが、咲夜にはある。 普通に歩けばいいのに、何かと言うと咲夜の右腕を引っ張ったり、やたらと顔を近づけてこちらと視線を合わせたがったり。しかも咲夜がそれを嫌がると、今度は左側に回ってそちらの腕にしがみつく。まさに「じゃれてくる」という言葉がふさわしいスキンシップを取ってくるのだが、これが慣れたと言えばそうだけれど、鬱陶しいと思うことも少なくない。 “咲夜はしっかりしているから。凌空の面倒を見てやってね。” “咲夜が支えてくれるなら、凌空も安心だな。” “お父さんの遺志を継いで、来宮(きのみや)を頼むよ?” それこそ物心ついた頃から、だ。 咲夜は凌空の両親から、同じことばかり言われて育ってきた。言葉は悪いが、それはいっそ「洗脳」に近い。凌空の曽祖父は、外国の高官相手に手広く商売をしてきた所謂貿易商の重鎮で、凌空の祖父、父も当然のように、その仕事を継いできた。だから凌空が同じようにその後釜として期待されるのも必然であり、従兄弟の咲夜に至っては、そんな凌空の「お守役」というのが、生まれた時から決められていた。今どき同じ親戚筋で、分家だの本家だのという上下関係が存在することを一部の人々は驚くのかもしれないが、早くに両親を亡くし、ずっと面倒を見てきてくれたその「上位」本家の凌空の両親に、咲夜自身、逆らおうとも思わない。 幸い、凌空は嫌なやつではなかった。身内贔屓か、むしろイイやつの部類に入るとすら思っていて、それは咲夜にとって本当に救いだった。口は悪いし、多少我がままなところもあるけれど、咲夜のことを軽く見るでもなし、同じ年のせいか、時に応じて「兄」にも「弟」にもなってくれる。まさに本物の兄弟のように過ごしてこられた。それに凌空は、時に咲夜に対し、心ない言葉を浴びせてくる親戚からも、いつも毅然と守ってくれた。 だから咲夜も、凌空にはそれ相応に恩を返そうと思っている。凌空の両親が言うように、将来は本家・来宮家の仕事を継ぐ凌空を助ける。いろいろと煩わしいこともあるだろうが、たぶん、やることはこれまでと変わらない。大したことではない。 「サク、お腹空いた」 せっつくのに飽きたのだろうか、不意に凌空が駅前のコンビニを指さして悪戯っぽく笑った。それで咲夜もそちらを一瞬は見たものの、すかさず駅の方を向いてぴしゃりと言った。 「駄目」 一介の高校生が下校時にコンビニで買い食いなど普通のことだ、本来は。 けれど咲夜は、凌空を普通の高校生とは思っていない。そういう風に扱ってはいけないと心得ている。本当なら電車通学とて駄目なのだ。凌空には家に彼専用の運転手がいるし、凌空の両親も、本音ではその車で登下校して欲しいと言っている。凌空には本家跡取りとしての用事やたくさんの習い事があるから、学校が終われば速やかに下校し、それらを片さねばならない責務がある。 ところが、凌空はそんな窮屈な生活にウンザリしているのか、放っておくと、そこかしこへ独りで勝手に出掛けて行って、下手をすると2〜3日帰ってこない。特に高校へ上がった昨今では、その「家出」の頻度は大幅に増し、その度、咲夜は「お守失格」としてこっぴどく叱られた。……もっとも、「お守」の言い分としては、凌空は咲夜の「主人」だから、とことんまで凌空を縛ることなどできない。 そんなわけで、咲夜は勝手に線引きしている。自分が目を離している時に凌空が何かすることには看過しないけれど、こうして一緒にいる時は、彼の両親が望む役割を演じようと。 だからこの時の咲夜は両親寄りの発言をした。 「制服で買い食いは駄目。それに、今日は17時からハリー先生が来る日でしょ」 「あのおっさんの話、くどいんだよなー」 「とにかく寄り道は駄目だよ。おやつなら家にもあるし」 「だって家のは美味しくないよ」 子どもみたいな駄々をこねたが、凌空は凌空で、咲夜に言われると一応はやめようと思えるらしい。案外あっさりと引き下がり、凌空は再び咲夜の傍へ寄ってきて「それなら」と挑むような目で笑った。 「交換条件」 「なに」 「さっきのラブレター、一緒に見よ」 「……今?」 「いまいま!」 言いながら足早に改札を抜け、凌空はホームへ上るエスカレーターの所でさっと自分が先頭に立つと、一段上の位置から咲夜を見下ろしてキラキラとした瞳を向けた。 「ほら、早く出して早く! ホントはサクだって気になってるんでしょ」 「別に…」 「またまたぁ! とにかく、いいから早く」 咲夜は呆れたように軽くため息をついた後、のろのろとした動作で先刻カバンへ滑りこませた手紙を再び表へ取り出した。薄い青葉色をしたその四角い封筒の裏には、先ほど凌空が指摘したように、ハートのシールが貼ってある。改めて見ると、本当にベタだ。…そんな風に思っていると、すかさずそれを目に止めた凌空が感心したように口角を上げた。 「如何にもなラブレターだよね、これ。でも、ハートっていいよね、サクくん」 「そうだね」 「相手、誰だと思う? 手紙見る前に当ててみない?」 咲夜がその発言に顔を上げると、凌空は相変わらず楽しそうな様子で咲夜を見つめ返した。 「サクの予想は? おれは神崎とか、あとは、しおりちゃんあたりがアヤシイと思うよ」 「何で」 ホームに上がると、まだ西日が強くて、咲夜は薄っすらと目を細めた。先を行っていた凌空は後ろ向きのままエスカレーターを降りたから、その光も背に当てるだけだったが、爛々としたその眼は陽の光のように輝いて見えた。 その凌空はホームで再び咲夜に顔を近づけると、窺い見るようにして続けた。 「だって神崎は何かというとサクにばっかり話しかけるし。しおりちゃんは授業中もサクのこと見る頻度が半端ない。まぁサクはモテるから、憧れの目線を向ける女子は他にもいるけど。最有力はこの2人かなって」 「そうなの」 「サクが満更でもないって思っているのも、この2人かなぁって」 「………」 へえ、凌空にはそういう風に見えるのか、と。 咲夜は少しだけ意表をつかれた想いがして、ここで初めてまじまじと凌空の顔を見返した。相変わらず凌空は凌空で、淀みのない真っ直ぐな瞳を咲夜に向けている。それは咲夜が何を考えているのか、一つも見逃すまいとする色だ。自分とて勝手の外出で遊んでいるだろう普段の女関係のことなど話さないのに、こちらのことは詮索するのか―…咲夜はちらりとそんなことを考えた。 「……おれは、どちらかと言うと庄司さんみたいな子が好み」 だから一拍置いてそう答えた。凌空の表情がみるみる変わっていくのを見るのは咲夜も楽しかった。 「美術部の。凌空、知ってる?」 「それはもちろん…あまり話したことないけど、去年同じクラスだったんだし。でもそれ、本当?」 「うん。うるさくないし」 咲夜が素直にそう返すと、凌空は暫し考え込んだ風に俯いた。 「……そっか。まぁそうだよね。サクは大人しい子が好きだもんね」 顎先に指を押し当てて、凌空は本当に何かを思案するように呟いた。咲夜の言い分に至極納得したように頷いているけれど、一方でとても意外なことを言われて戸惑っている、という風にも見えた。 咲夜はそんな凌空をじっと見やった後、ようやく手にした封筒の端をびりりと破いた。 それとほぼ同時、咲夜たちが乗る電車がホームに入ってきた。 「どきどきする?」 比較的空いている車内のドア付近に寄りかかった咲夜に凌空が訊いた。自分はそのすぐ横のつり革に掴まり、覆いかぶさるようにその手紙を覗きこむ。その凌空の表情に、今さっきまでの思案した様子はなかった。ただ自分がその手紙を貰った者かのように僅かに頬を上気させ、咲夜と手紙とを交互に見やっている。 咲夜はそんな凌空をちらりと見てから手紙を開き、すぐに「あれ?」と思った。便箋は一枚だけだったし、開く前から然程文字数を感じなかったけれど、実際その中味も本当に僅か数行だったから。 もっとたくさん書いてあるかと思ったのに。 それこそ、ぱっと見ただけでもその主旨は丸分かりだ。 「何だって?」 「見ればわかるでしょ」 「読んでよ」 先刻まで手紙を覗きこむように前傾姿勢を取っていたのに、凌空はとぼけた調子でそう言うと、今はもうしゃんとした姿勢に戻って一番高いつり革を握り直していた。咲夜はそんな凌空にわざと見えるよう手紙を寄せたのだが、凌空はそれすら「嫌だ」と言わんばかりにそっぽを向く。 それに「何だよ」と思いながら、しかし咲夜は仕方なく手紙の内容を凌空に教えた。 「おれのこと好きだって」 それを聞くと、凌空はふっと鼻で笑った。困ったような、照れたような。咲夜は「それだけ?」と思ったけれど、手にした封書を元通りに折りたたむと、後はまたカバンに戻して、車窓の景色へと視線を移した。 学校から家のある最寄り駅までは、僅か十数分。けれどその間の流れゆく風景を眺めるのが、咲夜は結構好きだった。長く細い多摩川がずっと遠くまで見渡せるし、今の時期だと、一斉に視界に飛び込んでくる緑の木々が直観的に心地良いと感じる。盛夏の到来に、何故か胸がざわつく。咲夜は夏が好きなのだ。 「あのさぁ」 その時、不意に凌空が声を出した。窓の外を見ていた咲夜がそれで車内に目を戻すと、いつからそういう顔をしていたのか、凌空はどこか怒ったような、いやに真面目な様子で咲夜のことを見つめていた。 「サクさ。11月の研修旅行先、京都を希望したでしょ」 「うん」 「なんで」 「好きだから、京都」 咲夜たちの高校は少し変わっていて、研修旅行という名の修学旅行先は、学校が指定した幾つかの候補地をから本人が選ぶ形式を取っている。そうしてその土地それぞれの文化や歴史―…テーマは何でも良いのだが、何がしかの研究レポートを作成して提出する。実質的には他の学校の修学旅行と趣旨は同じなので、レポートなどは体裁が整っていれば良いのだが……如何せん、クラス単位で動く旅行ではなく、「好きな者同士」で行き先を選べる行事だから、生徒たちは気の合った者同士、行きたい場所を相談し合って、この時期は大変盛り上がる。候補地が国内だけでなく、フランスやイタリア、オーストラリア等の海外にもあることが、その大騒ぎにまた拍車を掛けていた。 咲夜自身は、同級生たちのそんな喧噪に参加することはないのだけれど。 「一緒にヨーロッパにしようって言ったじゃん。なんで勝手に京都にしちゃったの」 「凌空の取り巻きと一緒に行動するの、面倒」 「はーあ? ……まぁ知っていたけど、サクってそういうとこあるよね」 「そういうとこって」 「人づきあいが悪いというか、人が嫌いというか…。一匹オオカミってやつ?」 「そんなこともないけど」 「庄司さんも京都なの?」 「……知らないよ」 突然またその話に戻るのかと咲夜は内心で驚いたけれど、顔は至ってポーカーフェイスで凌空の顔を見返した。凌空はやはり少し怒っているようだった。今日だけではなく、最近は少し苛立っているのかなとは感じていた。 それが自分のせいかもしれないとは、咲夜も薄々分かっていたけれど。 「ねえ。まさか、お金を気にしたとかないよね」 「ないよ」 即答したせいで余計疑いが濃くなったのか、凌空はむっと眉をひそめた。 「京都が一番安いでしょ、研修費。お母さん達に遠慮したのかなって、おれの立場から見れば、普通にそう思うよね」 「普通に思わなくていいよ、そんなこと」 「何度も言うようだけど、サクはおれの家族だから。来宮の人間だから」 「おれもそう思っているから、大丈夫」 「本当に?」 全く信用していない風に凌空は胡散臭そうな目を向けた。けれども追求しても無駄とも思ったのか、小さく嘆息した後は、もうそれについて何か言うことはなかった。 再び2人の中に沈黙が生まれ、咲夜はそこから逃げるように暫し窓の外を見つめ、やがてまた、おもむろに自分の横に立つ凌空の方を見上げてみた。 凌空はやっぱり、そんな咲夜のことを見ていた。 「なに」 目が合った瞬間、凌空がすかさず訊いてきた。しかも咲夜が「何って」と返すと、今度は子どものように唇を尖らした。 「何で見てんの」 「凌空だって見てたでしょ。そもそも、見ちゃ悪いの?」 「別に悪くないよ。けど、何かおれに言いたいことがあるのかなって」 「ないよ。凌空はないの、言いたいこと」 「はっ……おれじゃないでしょ。おれがあるわけないでしょ、サクこそが何か言うべき」 「何を?」 「あー、もういいよ!」 ああ、何て不毛な会話。 そう思って仕方なく口を継ごうとしたが、幸いなことに電車が目的の駅へ滑りこんだ。咲夜は開きかけた口を閉じてカバンを抱え直すと、何人かの乗客と一緒にホームへ下りた。凌空も黙ってそれにつき、その後も改札を出るまでは何も言わなかった。 駅からは数十メートルほどの坂を上って、高台に集う住宅地へと向かう。そのうちの一つに咲夜たちの家はあった。どちらかというと「屋敷」と呼ぶにふさわしい巨大なその邸宅には、広い庭によく手入れされた植木、大きな鯉がたくさん泳ぐ池もある。3階から上は屋上で、そこからは咲夜たちが歩く駅までのルートも一望できる。早く帰宅して、そこに干していた洗濯物を取り込みたい。庭の花に水もやりたい。――そんな些末事に想いを馳せながら、咲夜は前を行く凌空の背を見ながら、傾斜のきつい坂を歩いた。 「ねえ」 すると珍しくずっと黙していた凌空が前を見ながら言った。 「ラブレターさあ。どう思った?」 「どうっ…て?」 「嬉しかった?」 「……まあ、本気なら嬉しいんじゃない」 「なにそれ。本気じゃない場合なんてある?」 あくまでも冷静に言い放つ咲夜の言い様が面白かったのか、或いは呆れたのか。凌空はハッと息を吐いた後、ちらとだけ振り返って、いつもの笑みを含んだ瞳を向けた。やや、怒りが収まっている。黙っていた分クールダウンできたのかもしれないと思いながら、咲夜は凌空にゆるりと返した。 「好きって言われても、名乗る気ないんじゃ、どうしようもできないでしょ」 「……は? 何?」 「名前、書いてないから。どういう風に扱っていいか分からないって話」 「……嘘」 ぴたりと足を止めて、凌空が驚いたように身体ごと振り返った。それで咲夜もそんな凌空に気圧されて立ち止まったが、凌空が何をそんなに狼狽しているのかは今イチ分からなかった。 しかし謎はすぐに解けた。凌空はオーバーに両手を広げながら言った。 「名前、書いてなかった!? 嘘でしょ!?」 「嘘じゃないよ。――ほら」 咲夜はもう一度カバンからラブレターを出すと、丁寧な所作でその封筒から手紙を取り出し、改めてそれを凌空に突き出して見せた。凌空はつかつかと歩み寄ると、奪い取るようにしてそれを受け取り、食い入るように手紙を見つめて、「本当だ…」と呟いた。 「名前……書いてないね」 「うん。わざとかと思ったよ」 「え、何で。何がわざとなの」 「名前書くの恥ずかしいとか、ちょっと悪戯してみようとか。そういう目的なのかなと」 「そんなわけないじゃん! こんなちゃんと『好きです』って書いているのに、悪戯のわけがないでしょ。そうでなくても、この文面を見れば分かるでしょ?」 「……まあね」 ふと気づくと、辺りではジワジワと蝉の鳴き声が聞こえていた。どうりで暑いわけだ、本当に夏なんだと頭の片隅でぼんやりと思いながら、咲夜は一方で、目の前でじりじりした様子の凌空をじっと見つめやった。 そう言えば去年の今頃、凌空と喧嘩したかもしれない。 夏休みにどこか旅行しようと言われて、どこでもいいと言ったら怒られた。いつも自己主張しないで何なの、行きたい所を言いなさいと命令されて、それなら京都と答えたら、どうして暑い時にそんな暑い所へ行きたがるのかとまた怒られた。 それで結局、夏休みはほぼ全部、凌空の希望先であるスイスへ連れて行かれて、そこで過ごした。いつも学校ではクラスの女子や遊び仲間の男子と一緒にいて、凌空は咲夜とはあまりいない。思えば凌空は、学校では咲夜ととても節度を保った付き合い方をしてくれている。帰りこそいつもこうやってついてくることが多いけれど、凌空は咲夜が基本「しつこい奴は嫌い」ということを知っている。去年のクラスメイト・庄司さんのように、控え目でおとなしい、自己主張しないタイプが「タイプ」だと分かっている。 けれど去年の夏休みはずっと一緒だった。思えば冬休みも、つい一か月前の春休みも。凌空は咲夜と一緒にいたがり、長い休みの時間を共に過ごした。 だからこそ、咲夜は研修旅行くらい、別でもいいかなと思ったのだが。凌空の今後を考えたら、他の人間との付き合いも大事にして欲しいと当然のように考えたから。 「サク。何考えてんの」 「あ、ごめん」 「謝るくらいなら黙らない! サクってホント、大事なところで急にどっか行っちゃうからね」 「実際に失踪する数が多いのは凌空の方だと思うけど」 「おれのは失踪じゃないよ! ただの逃亡!」 「逃亡?」 目をぱちくりさせてその台詞を反芻すると、凌空はそんな咲夜をギッと睨みつけ、「そうだよ」と手の中でぎゅうと握りしめていた手紙をバサバサと振りながら言った。 「もしかしてと思ったけど、本当に分かっていなかったんだね。手を出せない相手とずっとひとつ屋根の下とか、本当に大変なんだよ? だから時々逃亡しないと、おれだってやっていられないわけ」 「……へえ」 「なにその反応!? まだ分かんないの!?」 「分かってるよ」 言いながら咲夜は、凌空がぐしゃぐしゃにした手紙をさっと取り返した。 そうして今日で2回目、再度丁寧に折りたたんで封筒にしまうと、それをカバンに放り込む。 折角の手紙。これは自分の宝物だ。 それをカバン越し、そっと触れながら、咲夜は「凌空」と名前を呼んだ。 「なに」 「長い間、凌空の宿題やらされてきたからさ。凌空のノートが自分のものみたいに思うこともあるくらいだし。だから、分かるよ」 「な、何が…。ていうか、そんなに宿題やらせてないでしょ」 決まり悪そうにもごもご返す凌空に、咲夜は初めて声を立てて笑った。 そしてその笑顔のまま、するりと答えた。 「宛名を見た段階で分かってたよ。もともと凌空の字って癖が強いしね」 凌空の身体がびくりと震えた。直後、ばっちり目が合う。 先に口を開いたのは凌空だった。 「………つまり?」 「つまり、ラブレター、ありがと。凌空からラブレターを貰えるなんて、レアだね」 「だから、つまり?」 「え? 他に何かある?」 きょとんとして訊き返す咲夜に、凌空は目を見開いて声を荒げた。 「あるでしょ!? 返事は!?」 「返事?」 「そうだよ、返事だよ、返事! OKなの、どうなの!?」 ぐいぐいと身体を寄せて凌空は迫った。咲夜は仰け反るようにしてそれをかわしながら、「え、でも」とあくまでも冷静に対処した。 「別に好きとしか書いてないし。何をOKすればいいの」 「おい! それってわざと言ってる!? だからつまりは、おれたち、ちゃんと付き合おうって話でしょ。恋人同士になろうって話!」 「恋人?」 「そうだよ? でも本当はさ、おれも高校のうちに告白する気はなかったの。家じゃ親が煩いし、大学入って2人で暮らせるくらいになったら言おうかなって。前はおれにも、そのくらいの余裕はあった。でも、サクもおれを1番好きなくせに、『そういう風』にはあんまりおれのこと意識してなさ過ぎだし。その証拠に、研修旅行も別のところ選んじゃうし、他の女子と仲良くするし。仲良くしてなくても凄くモテるし。これはもう、やばいかなって。だから告白することにしたわけ」 「フツーに言えば良かったのに。どうして手紙?」 「………こういうのの方が、サクは嬉しいかと思って。だっておれ、煩いでしょ」 「え?」 目をぱちぱちさせて聞き返すと、凌空は首を振りな嘆息した。 「サクは大人しい子が好みだからさ。いっつもがちゃがちゃうるさい俺がこうやってがちゃがちゃ言って迫るより、シンプルに手紙の方が響くかなって」 「…………」 その言い分に咲夜は呆気にとられて暫く言葉がなかったが、凌空の方は実に居心地悪そうに、仄かに赤面して横を向いていた。結局がちゃがちゃ言ってしまっているし、折角のラブレターも名前を書きそびれて台無しだし。何もかも失敗だと思ってぶすくれているのかもしれない。 それでもその場を去ろうとはせず、ともかくも告白の返事を待っているような凌空に、咲夜は思わず頬が緩んで、ついクスリと笑ってしまった。 当然、凌空はそれにふくれっ面だったが。 「何それ。何で笑うの」 「ごめん」 「謝らなくていいから、返事」 「ごめんなさい」 「いや、だから返事」 「え? だから今したじゃない。『ごめんなさい』」 「嘘ぉ!?」 悲鳴のように凌空は叫び、それからぐっと咲夜の手を握った。 「なんで!? おれじゃ駄目!?」 「うん。世間も叔父さん達も許さないと思うから」 「なにそれ!? 親は関係ないじゃん!」 「凌空はそうかもしれないけど、おれには凄く関係あるよ、そういうの。凌空には分からないと思うけどね」 「………そういう言い方やめろ」 より一層強く咲夜の手を握りしめて、凌空はくぐもった声で言った。 咲夜はそれに苦笑するしかなかったが、空いている手で、そんな凌空の手にとんと触れた。遠慮がちに、本当に一瞬だけ。 「凌空の告白、嬉しかったよ。うん、本当―…思った以上に嬉しかった。嘘じゃないよ」 「……じゃあ付き合お」 「別に恋人じゃなくても、これからも一緒にいるし」 「………」 「……凌空?」 「あー、バカ! サクはバカ! 知ってたけど、大バカ!」 ある意味その答えも最初から知ってたけど、バカバカ! 凌空はそう言って地団太を踏むと、バッと咲夜から距離を取り、ずいと片手を出して「ん!」と強く睨みつけた。そしてそれに訳が分からないと瞬きする咲夜に、さらに「ん!」と言って手を振った。 「ラブレター返して!」 「えっ……やだ」 「何がやだ、だよ! 駄目! おれ、もう一回ちゃんとしたやつ書くから! 今度は名前もちゃんと書く! それで、それに感動したら、サクはおれと付き合う! いいね!?」 「それって命令?」 「…っ、違うよ、サクに命令なんかしない! ただっ…、おれはサクに、いろいろ伝えたいだけ。それだけ」 凌空はそう言うと、あくまでも無表情の咲夜に心底参ったように相貌を崩した。 それから一瞬迷ったように視線をあちこちやった後、不意に近づいて身体を屈め――咲夜の唇に、ちゅっと音の出るキスをした。それは肩に手を添えられ、「何だろう」と咲夜が思った瞬間に起きたことで、全く避ける隙がなかった。 ただ、凌空とは初めてキスしたはずなのに、まるで初めてという感じがしない。 「……凌空?」 だから目だけでそれを告げると、長年一緒にいただけにその意は容易に伝わったのか、 凌空はまるで悪びれもせず、笑って言った。 「キスなんて前から何回もしているよ。サクが寝ている時にこっそりと、だけど。悪かった?」 「…そりゃ、無許可にやっていたら悪いんじゃない」 「そっか。まぁいいじゃない」 とにかくこれは、返してもらうね、と。 キスしながらカバンに手を突っ込んだとでも言うのだろうか。凌空はいつの間にか取り上げた封書をひらひらと見せつけると、それに手を伸ばしかけた咲夜にふふんと得意気な顔を見せて、すぐさまそれを隠してしまった。 そうして先に踵を返すと、凌空は、今の会話は何だったのかというほどの切り替えで、「早く帰っておやつにしよう!」と明るく言った。 ラブレターもキスもちっとも非日常じゃない。当たり前のことのように。 「折角…」 先を歩くそんな凌空の背を見ながら、咲夜は小さな声で呟いた。 折角あのラブレター、家宝にしようと思ったのに。 「……惜しいことしたな」 「なに? 咲夜?」 「何でもないよ」 くるりと振り返ってきた凌空に、咲夜は苦く笑ってごまかした。 すると凌空は、暫し真顔で黙っていたものの、やがてニッと白い歯を見せて、「大丈夫」と極上の笑みを向けた。 「すぐに新しいのをあげるから。待っててね」 「………」 咲夜は、凌空のことなら筆跡だろうが何だろうが、何でも分かると思っていた。 けれどそれは凌空の方も同じなのかもしれない――そんなことを考えながら、咲夜は凌空の優しい微笑みに、ここで自分もようやく安心したように小さく笑えた。 |
了 |