生まれた日は違うけれど



  彼女は母親が「買い物に行く」と言って家を出た数分後にやって来た。
「港さん、いらっしゃいますか」
「まだ帰ってきてません…」
  思わずくぐもった声を出してしまい、雄途はそんな自分を瞬時嫌悪した。
  玄関先に立った彼女は長い髪を綺麗に流し、縁のない眼鏡を掛けた上品な物腰の女性だった。ロングスカートに薄ピンクのダウンジャケット、手にはブランド物のバッグを携えている。如何にも女子大生といった風だが、その彼女は応対に出た雄途に控え目な笑みを向けると首をかしげた。
「もしかして港君の弟さんですか」
「……そうですけど」
「やっぱり! 目のあたりとか凄く似てますもんね。でも、弟さんがいるなんて知りませんでした。港君、お家の事とかあまり教えてくれないし」
「兄は留守です」
「あ、はい、そうですよね。分かってます。実は留守なの知っててお伺いしたんです。あの、これ、港さんに渡して下さい」
  不機嫌な様子の雄途に長話が出来ない事を素早く感じ取ったようだ。彼女は手にしていたバッグの中から小さな包みを取り出すとさっと雄途に差し出した。
「………」
  目の前に掲げられたその四角い箱は、彼女のように上品な飾り付けがされていた。
「今日、誕生日だって聞いたので」
  じっと黙りこくっている雄途に彼女はそう言って小さく笑った。
「港君、凄くモテるから。大学では皆の目もあるし」
「本人に直接渡した方がいいんじゃ…」
「いいんです。とにかく宜しくお願いします」
  雄途が何とも答えないうちに、彼女はそれだけ言うと去って行った。
  手の中には置き去りにされた四角い箱だけが残された。
「何で俺が……」
  思わず毒づいたものの、こういった事は決して初めてではないので特別憂鬱になる事もない。どうしようもなく腹が立つのだけは止められないけれど、もっとずっと小さな子どもの頃は、女の子に人気の港が許せなくて悲しくて、散々駄々をこねて泣き喚いていたりもした。それに比べれば今は数段マシな状態だ。
「バカだ……」
  ふとその時代の自分を思い出し、雄途はそれを掻き消すようにわざと声を出した。思い出したくもない、恥ずかしい過去。港が全てで港が大好きだという事は勿論今も変わりはないけれど、それでもあの頃は「普通に」港が好きだった分、その好意の表し方が今よりどうにも照れくさいと感じる。
  抱いて欲しいとあからさまに強請る今とて十二分に恥ずかしいし、情けないのだけれど。
「……誕生日」
  彼女の可愛らしいピンクの口紅を思い出しながら雄途はぽつりと呟いた。
  自分とて港の誕生日くらいちゃんと覚えている。
  けれど「直接渡すと嫌がられる」のはこちらも同じ事だ…否、もっと酷いかもしれない。
  むしろ彼女は女性だったり他人な分、港も多少なり容赦はしてくれる。

  《雄途君から何か貰うなんて嫌だよ。お義母さんからまた嫉妬の眼差し向けられちゃうしね。》

「嫌いなくせに気にするんだからな…」
  この家族から誰より離れたいと思っているのは長兄の海よりも港の方が強いはずだった。それなのに彼は誰よりもこの見せ掛けの家族が壊れる事を恐れているようにも見える。
  それがたとえ自分の為だったとしても、雄途はそんな港の事が恨めしかった。
「………」
  手の中の四角い箱がずっしりと重くなった気がした。その感覚が雄途には堪らなく辛い事のように思えた。





  港が帰宅してきたのはそれからずっと遅く、雄途が母親と二人きりの憂鬱な夕食を終え、風呂にも入って後は寝るだけとなってからだった。
  雄途は港の階段を上ってくる足音だけで彼の機嫌の大抵を推し量る事が出来る。トントンと割に早い速度で上ってくるのは「雄途にはなるべく話しかけてもらいたくない、部屋でやりたい事がある」時。雄途が殆ど聞こえないくらいの忍び足でゆっくり上ってくる時は「雄途の相手をしたくない程イラついている」時。
  ……実際足音は殆どこの2種類に限られていて、そうなるとどちらに転んでも雄途とは話したくないという事になるのだが、どうせなら前者の方がマシだし、場合によっては親切にもしてもらえるので、雄途は玄関先から港がこちらへ上ってくるのを耳を済ませて今か今かと待ちわびた。
  ……足音は殆ど聞こえてこなかった。
「………機嫌悪そう」
  誕生日なのにと思いながら、それでも雄途は横になり掛けていたベッドからゆっくりと下り立ち、ドア越し、正面にある港の部屋の様子を伺った。
  パタンと扉が閉まってから暫くした後、室内からはいつもの音楽が緩やかに流れ始めた。
  港は殆ど洋楽しか聴かないが、それは雄途でも耳にした事があるようなヒット曲や名曲が多かった。だからかもしれないが、それら馴染みのある曲を聴ける事が雄途は嬉しかったし、いつもやかましい母親の金切り声ばかり聞いている身としては、それは酷く落ち着ける瞬間だった。
  港自身がそれを意図してやってくれているとは思わなかったが、それでも雄途にはありがたかった。雄途はともかく港のする事なす事全てが好きだったのだ。
「港…」
  コンコンと遠慮がちにノックしたが、返事は聞こえてこなかった。
「……港」
  もう一度、今度は母親が起きてしまわないかびくびくしながら強めに扉を叩く。
「開けて」
  鍵が掛かっているのは分かっていたからドアノブも回さずそう言った。いつものように下手に無理矢理こじ開けて港の機嫌を更に悪くするような事は避けたい。
「……今日はやめとけ」
  すると部屋の向こうから酷く低い声が返ってきた。やっぱり不機嫌だ、そう思ったけれど声が聞けた事は嬉しかったので逸る気持ちを抑えつつ雄途は続けた。
「ちょっとだけ…。ほんのちょっとだけでいいから」
「………」
  返事はない。
  もっともこんな事は慣れっこだ。雄途は負けじと続けた。
「本当にちょっとだけだよ。港、今日誕生日だろ、だから――」
「――……」
  言いかけたその時、音もせずドアが開いて突如視界に港の喉元が映った。
「……もう過ぎたよ」
  そして港はドアを少しだけ開き、背後の壁掛け時計を示唆しながら呟いた。
  時刻は丁度0時を過ぎたところだった。





「女の人から預かってた」
  雄途は一旦自室へ戻ってから、昼間大学の友人らしい女性が持ってきた四角い箱を港に渡した。そういえば名前を訊くのを忘れたと思ったが、港も特に誰からとは訊かなかったのでまあいいかなと思った。
「そこ置いておいて」
  港はベッドに腰掛けたままどこか気だるそうに両膝に肘を置き、項垂れていた。微かにアルコールの匂いを感じる。誰かと飲んできたのだろうか、ふっと思いながら雄途はそれは問い質さず、黙って暫くは部屋の中央に立ち尽くし、今は見下ろす形となっている港の姿を見つめやった。
  優しいゆったりとした音楽が部屋の中を満たしている。
  隣に座りたいと思ったけれど、「ウザイ」と言われて押し退けられたら嫌だったから我慢して立っていた。
「何」
  港が言った。
「用、何?」
「……機嫌悪い?」
「悪くないよ。悪かったらお前をここへは入れない」
  俯いたまま港はそう答え、それからぐしゃりと自らの黒髪の毛をまさぐった。最近まではどちらかというと短めでさっぱりとしていた前髪も、今はその憂鬱そうな表情が隠れるくらい伸びてしまっている。港の眼は綺麗なのに勿体無い、切ってあげたいなとぼんやりと思ったが、勿論それは口にしなかった。
「何でそんなに嫌うの」
  代わりに口をついて出た台詞は、「もっと言わない方が良いだろう」というようなものだった。
  言うつもりはなかったのに。
「……何」
  案の定港は怒ったようにそう答え、顔を上げてきた。虚ろな眼光の中にもそこには意思の強さがみなぎっていて、やはりそれを直視するとドキリとしてしまう。
  雄途は心内でその動揺を必死に抑えながら、表情は至って無機質のまま続けた。もう後には引けないと思ったから。
「別に悪い事してないだろ…。港の邪魔にもならないようにしてる。なのに、何でそんな風に避けるの」
「避けてないよ」
「避けてる。今だって本当は部屋に入れたくなかったくせに」
「分かってるなら入るなよ、バカ」
  港は口角を皮肉気に上げた後、ハッと嘲笑うかのようになって身体を逸らせた。そのままベッド脇の壁に背中を預け、厭世的な瞳のまま雄途を見つめる。
「雄途君の事は嫌いじゃない、好きだよ。何回も言わせないで。でも、面倒臭いって思っちゃうのもね、本当の俺の気持ちなんだよ。お前と関わってると、お前を想ってると……俺はどうしようもなくなる。だからあまり関わり合いになりたくないの。分かれよ」
「……そんなの分かるわけない」
「………」
「それくれた人、彼女?」
「お前以外に好きな奴なんかいない」
  港は珍しくもそうきっぱりと言い捨て、それから即そう言い切った自分に後悔したようになって顔を逸らせた。
  雄途は微かに眉をひそめてそんな港を見つめた。
  港だけが大切で、港の後ばかりついて回っていた雄途を、港はある日突然「お前、いい加減面倒臭い」と切り捨てて距離を置き始めた。
  それでも雄途が本当にどうしようもなくなった時は「雄途君」と呼んで笑い掛け、一晩中でも寝ないで傍にいてくれた。仕方がないなと困ったようになりながらも頭を撫でてくれた。
  好きだとも言ってくれた。今のように。
  それなのに、どうして港は……否、自分もただその気持ちのままに素直に寄り添う事が出来ないのだろうと思う。
  血の繋がりとか男同士とか、たったそれっぽっちの事だけでこんなにも一歩を踏み出す事に躊躇いを持つものだろうか?……違う。
  きっと互いが歩み寄れない理由は、そんな事ではなくて――。
「……俺も、港以外に好きな人なんかいない」
  港からは「すぐに泣く腐った目」とバカにされる事がある。それでもその目をじっと凝らして、雄途は港を見つめ続けた。
「誕生日にちゃんとおめでとうって言いたかった」
「……どうでもいいよ、生まれた日の事なんか」
「どうでもよくないよ」
  普段は自棄になる港に話しかけるのはもっと勇気が要るのだけれど、「好き」という気持ちを言ってもらえた今は少しだけ力が沸いていた。
  雄途はもう一歩港に近づくと、そろりと片手を差し出して続けた。
「港がいなかったら、俺、終わってた」
「………」
「港がこの家にいてくれなかったら……絶対、終わってた」
「……そんなこと言わないの」
  いつもの赤ちゃんに接するような言い含めるような口調。
  港のそれを聞いて雄途は途端ほっとし、更にせがむように差し出した片手をぶんと振った。
「………」
  するとようやっと港もその手の指先をぎゅっと掴み、それから捕まえるその手を手首へと移行させて雄途の身体を引き寄せた。
  雄途も素直にそんな港の身体にしなだれ掛かった。
  二人分の重みでベッドがギシリと音を立てた……が、絶えず流れ続ける音楽のお陰か、顔を寄せ合った二人の吐息があまりに大きく聞こえたせいか……雄途は階下を気にする事なく港を見つめ、唇を寄せた。
「港がいなくなったら俺も消える」
「何それ、脅迫?」
「違う。告ってる」
  雄途が口を尖らせそう答えると、港は既に重なり合いそうな互いの唇を自分からそっとくっつけ、すぐに離した。キスか何かも分からないような、それは本当に一瞬の所作だった。
「はは……」
  そうして港はやっぱり疲れたように小さく笑った。
「そうやって日々俺を追い詰める雄途君は、やっぱ悪魔だな」
「人間だよ」
「違う。俺にとって、お前は悪魔だ」

  お前にどんどん溺れてる俺に、酒なんて何の意味もないな。

「……港、本気だよ?」
  雄途は港の呟きを無視して再度真摯にそう言った。自分からキスをするのは照れくさくて、代わりに港の胸に頭を押し付けながら頑なに繰り返した。
「俺、港じゃないと駄目…。ずっと一緒にいるから…。俺、いるから」
「………」
  港は何も答えなかった。
  ただ帰宅してきた時の不機嫌な色はなりを潜め、雄途の背中に回した手には心なしか力が込められていた。
  無駄に余計な事ばかり考えてしまうのは自分たち兄弟の最大の欠点だ。
  それでも、それを乗り越えた後にほんの僅か訪れるこんな一瞬が雄途は好きだと想った。
  雄途は港の胸に抱かれたままじっと目を瞑った。
  港の為に買った新しいスケッチブックは明日渡そうと思いながら。