わがまま


  年の暮れ、世相を象徴する「今年の一皿」にサバが選ばれた。不況の折、安価なサバやサンマ、イワシはいつだって庶民の味方であったが、中でも「サバ缶」が注目されたのは、今年全国各地で続いた災害において、保存の効く「缶詰」の良さが改めて注目されたからだ。無論、サンマやイワシの缶詰も人気だったが、サバは必須脂肪酸を多く含み、健康効果も期待できるという触れ込みで最も売り上げが良かった。カンナの近所のスーパーでもサバ缶が人気で、仕事が終わった夜遅くに行くとすでに陳列棚は空っぽ、手に入らないことなどザラだった。カンナが勤める缶詰工場でも受注が増え、この冬は社員全員にボーナスが支給されたほどだ。それは給料ひと月分もない些少の額ではあったが、カンナにとっては嬉しく、誇らしいことだった。自分の仕事が世間に認められ、必要とされていると感じられて。

(クリスマスプレゼント、何買ってやろうかなぁ…)

  師走の喧騒だけでなく、12月はもう一つの祝祭行事もあってとても賑やかだ。最近は残業続きでまともな買い物もできないし、プレゼントを選ぶ余裕はなかったのだけれど、昨日の夜、静司から「24日は部活が終わったらカンナの家に行くから、クリスマスは一日ずっと一緒に過ごそう」と言われていた。クリスマスは平日だから仕事があるし、ずっと一緒は無理だと返すと、「それでもカンナが帰ってくるまで俺は待っているから、夜は一緒に過ごそう」と返され、カンナはそれに押されるような形で「分かった」と応えた。
  内心では、静司からのその提案が嬉しくてならなかった。クリスマスなんて大嫌いだ。昔からクリスマスも正月も好きになんてなれるわけがなかった。家族のいないカンナにとってそれはとても残酷な行事だったし、ついでに言えば母の日も父の日も、子どもの日でさえ。そんなものは消えてしまえばいいのにといつも思っていた。無論、顔には出さなかった。施設の職員は皆概ね良い人たちであり、カンナ達を想って何かしらのことをしてくれたし、その誠意に砂をかけるような真似をするのは「悪いこと」だと分かっていたから。でも、嫌なものは嫌なのだ。…大人になったら幸せな家庭を築きたい、子どもの頃できなかったことを、自分の子どもには全部してあげたいなどと夢も見ていたけれど。
  今は「子ども」は無理としても、「恋人」にしてあげられることができたから、それを誠心誠意やりたいとカンナは心密かに思っている。

(でもあいつの欲しい物って何だろ…。バスケット関連? ボールなんて要らないだろうし、シューズも好みとかあるだろうし、そもそも高そうだし…。タオルとかTシャツじゃいつもとあんまり変わらないしなぁ。あいつ、基本的に俺がやるものだったら何でも喜ぶし、何が好きかとか、よく考えたら全然知らないや)

  それでも、そんなことを考えること自体楽しい。カンナは少し浮かれていた。クリスマスがこんなに待ち遠しいものだったなんて。
「ん…?」
  だからその非通知からの電話を取り、その掛けてきた相手と話してカンナは――少しだけ落胆した。こんなことには慣れっこだと思ってはみても、やっぱり期待していたことがなくなると、どうしたって気持ちは落ちて行ってしまう。
  それを静司に悟られてはいけないけれど。

「カンナッ! 一体どういうこと!!」

  深夜2時。
  ドンドンとボロアパートのドアをノックする音にたたき起こされて、カンナは眠い目を擦りながら電気をつけ、扉を開いた。そこには息をゼエゼエと切らせ、汗をだらだらと流しながらも蒼白になっている恋人の姿があった。
「カンナ、一体―…ぃてッ!」
  背の高い静司は、中へと入る時、いつも少しだけ身体を屈めないと扉の上方に頭をぶつけてしまう。普段は気をつけているのに、今はそのことを失念していたのか思い切り追突したものだから、静司は両手で額を押さえて苦悶した。
「何やってんだよ…」
「カンナッ」
  しかしカンナのだるそうな声を耳に入れた瞬間、静司は再びがばりと顔を上げると泣きそうな、しかし怒りも含んだ声を上げた。
「一体どういうつもりだよッ! 何で勝手に約束なかったことにしたんだ!?」
「近所迷惑…っ」
  今度はカンナが焦る番だ。慌てて外へ顔を出してきょろきょろと辺りを見回した後、カンナは急いで静司を部屋の中へ押し込むと、ドアを閉めて息を吐いた。
  それからようやっとギッとした目で睨みつける。
「今何時だと思ってんだよ? 何考えてんだ?」
「何考えてんだはカンナの方だろ!? 俺の知らない間に妹と勝手に話すなんて!」
  静司の言い様にカンナはムッとして眉を吊り上げた。
「は? お前の妹が勝手に俺のところへ電話かけてきてちょっと喋ったことが、俺が勝手にやったってことになるのかよ?」
「そうだけどっ! だから妹のことも叱っておいたけど!」
「まぁ兄貴の携帯勝手に見るのはどうかと思うな、確かに。あ、そういうこともあるんだから、お前メールに変なこと書くなよな。幸い、妹は俺らのこと、ただのダチと思っていたみたいだけど」
「……別に俺は言ったっていいんだけど! カンナは俺の恋人だって!」
  再び怒りの色を滲ませて声を荒げた静司に、カンナは不意にどきっとして言葉を出すのが遅れた。
  そうこうしている間に静司はさらにまくしたてる。
「俺は、カンナとクリスマス過ごしたくて、夜の予定を空けたんだ。また先輩たちの嫌がらせで体育館の掃除だの飲み会の買い出しだの無理やり時間潰されそうになるのを、必死に事前奉仕して、ここだけはってお願いしてさ。それでやっと空けた時間なのに。なのに、カンナはそんなこと全然構わないんだ? 俺の妹から、クリスマスは家に帰してくれって頼まれたら、はいそうですかってすぐに了承しちゃうんだ?」
「だって、そりゃそうだろ。遠くに住む足の悪いおじいと、身体の弱いおばあが、わざわざ可愛い孫の顔見るためにやってきて、その日は家族皆でクリスマス祝おうって計画しているって聞かされて、たかだかダチの俺との約束優先させろって言えるか?」
「だから、カンナは俺のダチじゃないだろ! 俺の恋人なんじゃないの!?」
「声! ホントお前、俺キレるぞ? 近所迷惑ってクレーム入ってこのアパート追い出されたらどうしてくれる」
「一緒に住めばいい」
「は? …何言ってんだよ、寮暮らしの奴が―」
「寮なんて出ればいい。監督から許可取る。俺、部屋探す。カンナの職場の近くでいいから何処か部屋探して一緒に住もう」
  カンナが黙り込むのを良いことに、静司はどんどん話を進める。
「家族にもカンナのこと話す、俺。元々、早く話さなきゃって思っていたんだ。特に妹は、昔から甘えたがりで、小さい頃から何かと言うと俺に頼るところがあったから、兄離れさせなきゃって思っていたんだ。あいつも馬鹿じゃないし、俺に特別な人がいるって分かったら、さすがにちょっとは遠慮するようになると思う」
「……そうなのかな?」
「え?」
  カンナのぼそりと呟いた言葉に、静司は怪訝な顔をした。
  そんな相手の顔を見ずに、カンナは下を向いたまま少し笑った。
「まぁそうなのかもしれないけど。いい子だなって、さすがお前の妹だなって、俺だって話してすぐ分かったよ。けどさ、お前ら家族だろ? 何だかんだ他の理由くっつけてたけど、妹は、自分がお前とクリスマスを過ごしたいんだよ。凄く。だって普段から寮暮らしで、お前、最近は俺のとこばっか来るし、全然実家帰ってないだろ? それで、年末年始くらいは戻って来るかと思ったら、そこも部活あるって聞かされて、だからせめてクリスマスはって、そう思うことくらい普通じゃないの? なのに、そこまで遠慮させちゃうの、可哀想なんじゃないのか。少なくとも俺は可哀想だと思ったけど」
  なるべく冷静に、そして早い口調で言った。別に嘘などついていない、カンナの本心だ。けれども、油断すると「別の本心」も首をもたげそうで、カンナは慎重に言葉を出さなければならなかった。
  静司の妹を名乗る子から突然電話が来た時、何の心の準備もなかったからというのもあるが、話している最中、ずっと心臓の音が鳴りっぱなしだった。次いで襲ったのは猛烈な罪悪感だ。静司の妹は確かまだ小学生だったと思うが、とても丁寧で如何にもお嬢様然としたような、綺麗で品のある声をしていた。いつだったか静司から写真も見せてもらったが、その時の「お人形さんみたいだ」と思った時に抱いた声のイメージともぴたりと重なった。こんな可愛い妹がいていいな、羨ましいなと。素直にそう思ったものだ。静司は興味がなさそうだったけれど、話の節々から、妹が優秀な兄を慕っているというのも容易に想像がついた。
  だからその妹が、わざわざ大学まで行って兄のバスケットボール部の見学に赴き、その隙を伺って携帯の電話を盗み見たという話を聞いた時はさすがに驚いた。そこで初めて「キラキラしたお姫様」のようなイメージは霧散したのだが、「お兄ちゃん大好きな妹」というイメージは強化された。その子が、見知らぬ男に電話を掛けて来て、年に何回もない、家族みんなが揃う機会だから、「兄が、クリスマスはカンナさんと約束があるって言っていたのですが、他の日にしてもらうことはできますか?」と頼んできたら、それはカンナとしても「はい、どうぞ」以外に答えようがない。
  それの一体何が悪いというのか。
  何故、静司に怒られなくてはならないのか。
「……カンナ。じゃあ訊くけど、そうしたら、カンナはどうなる」
  ややあってから静司の低く、押し殺したような声が落ちてきた。カンナがびくっとして顔を上げると、そこにはやはりむっとした、そして真面目な顔の静司のアップがあった。
「俺?」
  何とか笑って見せたが、静司はぴくりとも表情筋を緩めない。息が詰まりそうになり、カンナはさっと視線を逸らした。まったく、何て日だ。ただでさえ落ちこんで眠れなくて、さっきようやくウトウトしかけてこれだものな。明日も早いのに。
「俺は、お前と約束なかったら職場の人と飲み会行く予定だったから、そっちへ行くよ」
  そんな予定はなかった。いや、あるはあった。直近の上司が、彼女がいない奴はイブに少し早い忘年会をやるぞと声をかけまくっていて、何人かの同僚はそれに手を挙げていた。土村はと言われて、自分はいいですと返したら、彼女ができたのかとからかわれた。曖昧に濁したけれど顔がにやけていたのか、すっかり彼女持ち扱いで、最近では何かと言うとそのネタを持ち出される。
  だからこそと言うか、そんな飲み会に顔を出したら、今度はフラれたのかどうしたのかとしつこく追及されるだろう。そんな飲み会に行くわけがない。
「主任、自分がフラれたばっかだからって、彼女いない連中集めて自分ちで夜通しの忘年会やるって前から言っていてさ。俺も声かけられていたから。仕事関係っても、いい人たちばっかだから泊まりの飲み会も楽しいだろうし。だから俺のことは気にするなよ」
  静司は気づくだろうか。内心でドキドキしながらも、カンナは表面では笑顔を絶やさずにサラサラとその嘘を並べた。独りで過ごすなどと言ったら絶対に納得しないだろう、かといって、昔の仲間と飲むのも、今では静司はあまりいい顔をしない。何となく、カンナ自身も昔の友人たちとは話題などが合わなくなっていた。皆、話すことと言ったら職場の愚痴とか女、遊び、カネの話ばかり。しかもそれが聞いていて大抵気持ちの良い話にならない。だから何となく、カンナは彼らから距離を置くようになった。向こうからもあまり連絡が来なくなった。同じようなことを彼らも感じ取ったのかもしれない。
  別にそれでも良かった。静司がいるのなら。
「俺たち、いつまで立ってんだ。座ろうぜ? お前のせいで目が覚めちゃったよ」
「……いや、朝までに帰らないと、イブどころじゃなくなる」
  小さな声で静司が答えた。カンナはあぁそうかと頷き、「でも茶くらい飲んでから帰れば」と勧めた。
「いや」
  それでも静司はそれにも首を振り、しかも立ったままでカンナをじっと見据え続けた。
「…何?」
  それでカンナも、自分だけが座るのは気が引けて、結局立ったままとなる。勿論、玄関へ出る時に電気はつけたけれど、真夜中なせいか部屋の中は全体的に薄暗い。その中で2人、何とも言わずに向かい合って立ち続けるというのは如何にもしんどい。いつものカンナなら早々に静司を怒鳴り飛ばしているかもしれない。何だよ、何か言いたいことがあるならはっきり言えと。でも、イブの件はもう終わりで、俺は折れるつもりはないからな、と。
  そんな心の声が聞こえたのだろうか。
  どれくらいの時が経ってからか、静司が不意に口を開いた。
「カンナは、家族を大事にしない俺は嫌いか」
「えっ…。………」
  不意に訊かれて驚いたけれど、静司の質問の意図はカンナにもすぐに分かった。しかも、理解した後にもじわじわとその声が脳内へ浸透していき、より重く響き渡る。
  カンナは自然と息をのんだ。
  けれどしっかりと静司を見据えて答えた。
「当たり前だろ。お前がどうとかじゃなくて、そういう奴は基本的に嫌い」
「知っている」
「そ…そう、だろ。だから、俺の言いたいことはもう分かっているだろ?」
「分かる」
「……なら良かった。それにさ、別にクリスマスにこだわらなくてもいいだろ? 元から俺はそういうの、全然気にしないし、むしろ気恥ずかしいよ。付き合い始めたばっかで、静司はそういうの大事にしたかったのかもしれないけど。世間一般もそういう空気じゃん? 恋人同士はクリスマス一緒にいる、みたいな。けど、考えてもみろよ、お互いクリスチャンでも何でもないし」
「……そうかもしれない」
「そう、だよ。そりゃさ、お前の気持ちは嬉しいよ? 現に俺、嬉しかったからさ、お前に何プレゼントしようかなって考えたりしてたし。まだ決まってないけど、でも何かはやるから。クリスマスに会えないのにクリスマスプレゼントっていうのも変か? あ、じゃあ、どっか今度会う日を俺たちのクリスマスってことにしねぇ? あ、自分で言ってみて、それっていいかも! な!?」
  我ながらそれはとてもいいアイディアに思えた。カンナは自分自身でもそれで気持ちが明るく上昇するのを感じた。素敵だ。別に24、25日にこだわる必要などどこにもない。2人で別の日を「今日がクリスマス」ということにしてしまえばいいじゃないか。特別感があって、それはそれでとても楽しい気がしてきた。
「俺、本当にそれがいい気がしてきた。お前はクリスマスに親孝行、ジジババ孝行、妹孝行できるし、別の日にもう一回クリスマスできるし。な? それで解決! 俺的には解決! これマジで言ってるからな、いいだろ、静司?」
「…………」
「……いいだろ? お前、いい加減にしろよその仏頂面。何とか言――」
「分かった」
  カンナが怒りそうになって遂に観念したのか、それとも静司自身もそれで本当に納得したか。
  静司は言いかけたカンナの言葉を上から被せるようにそう返すと、おもむろに近づき、両腕を使ってきつく抱きしめてきた。
「ぐっ…静―…」
  いつものことながら怪力である。もともと体格が違うのだから仕方がないが、抱きしめられると静司の身体の中にすっぽりと包み込まれてしまって、カンナはそれがちょっと悔しい。それに苦しい。
  けれど嬉しくもある。静司の抱擁はいつも温かく情熱的なのだ。
「………」
  だから暫くの間、抱きしめられるままに大人しくしていると、静司はやがてそっと身体を離し、カンナの額にキスをした。少し残念に思った。本当は口づけがしたかったとカンナは思い、咄嗟にそんなことを考えた自分に忽ち赤面した。
  静司はそれに気づいておらず、恐らくは急にキスしたことでカンナが照れたのだと解釈したようで、「いきなりごめん」と律儀に謝った。それから何度かカンナの頭を撫でて、「予定すぐに組み直す」とそっと言った。
「25日に休みをもらった分、次の日からずっと練習入っているし、年末の大掃除もいろいろなところ、俺ばっかりに押し付けられているし、次いつ会えるか、調整しないと返事できない」
「ああ…、いいよいいよ。時間できたら連絡してくれれば」
  カンナは笑って応えた。それから静司の腹にゲンコツで殴る真似をしながら、「もう怒ったり落ち込むのなしな?」と言った。静司はそれに「うん」と返し、ここでようやっと笑った。
  静司が笑ってくれると心底ほっとする。だからカンナも笑った。
  それからカンナが「茶を飲んで行け」というのも断って、静司は「すぐ戻らないとバレるから」と靴を履いた。仕方なく、カンナは冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターを渡して気をつけてなと玄関先まで見送った。静司は「明日も仕事があるのにごめん」とまた丁寧に謝った後、もう一度「ごめん」と言った。どうせなら、気遣いありがとうとかにすればいいのにとカンナはちらと思ったが、もうこれ以上この件に触れるのも嫌だったので「妹、可愛がってやれよ」といい奴っぽいことを言ってみた。
  頭の片隅で、こんなのは偽善だと思いながら。
「はーあ……」
  静司を見送った後、ドアを閉めて再び独りきりになると、部屋の中がとても寒く感じた。冬だから当たり前だけれど、きっとそういうことではないのだということは分かっている。布団に戻ってストンとそこに座り、酷く薄くて冷たいそれにため息をついた。静司はもっと寒いこの夜空の下、また長時間走って寮まで帰るのだろう。大丈夫だろうか、風邪などひかなければいいが。
「はあ…」
  そんなことを考えながら、またため息が出た。辛い。何がって、本当は静司を帰したくなかった。一緒に住もうと言ってもらえて嬉しかった。それができたらどんなにか良いだろう。きっと毎日楽しいに違いない。あの底抜けに明るくて優しい静司と毎日会える。静司と一緒にいるとカンナの心は確実に温まる。好きなのだ。いつからこんなにも気持ちが高ぶったのかはもう分からないが、今はとても好きだ。惚れている。静司は自分の方がもっとなどと言うかもしれないが、とんでもない、絶対に俺の方がお前を好きだとカンナは心の中で叫んでいる。
  だからこそ、やっぱり一緒に過ごしたかった。クリスマスがどうとかじゃない、最初に約束したのは自分なのだから、家族のことなど放っておいて、一緒に過ごしてもらいたかった。
「違う、あいつが悪いわけじゃない」
  そうだ、静司はカンナを優先すると言ってくれた。それを駄目だ、家族を大切にしろなどともっともなことを言ってたしなめたのはカンナである。だから静司は悪くない。
  それでも。
  独りきりの寒々とした部屋の中にいると、静司を責めたくなってくる。そんな弱い自分は嫌なのに、静司に当たりたい。俺が何と言おうが、問答無用でクリスマスは一緒に過ごそうと言わない静司は駄目だ、何なのだと殴りたくなっている。
  そんな風に思うのは理不尽極まりないと分かっている。分かっているのに。
「静司…」
  思わずその名を呼ぶと、途端、涙が出そうになった。慌ててカンナは首を振り、布団を被ろうと掛け布団をめくった。
「なに」
「!!!」
  しかしそれはできなかった。心臓が飛び出るかと思った、突然声をかけられて。
「な…静―…」
  そこには静司が立っていた。いつの間にかドアを開いて、玄関に立っている。一瞬夢か幻でも見ているのかとも思ったが、先ほどの格好と同じ静司だし、幻にしてはリアル過ぎる。声だってはっきり聞こえた。本物だ、間違いない。
「鍵、かけないなんて不用心だよ。俺が出て行ったらすぐにかけなきゃ」
「何してんだよ…帰ったんじゃなかったのか…?」
  未だ心臓をドキドキとさせながらも何とか声を出すと、静司はそんなカンナにじっとした視線を向けてきた。何も言わない…が、やがて靴を脱いでだっと駆け寄ると、静司はすぐさま屈みこんで、カンナの身体を抱きしめた。
「ちょっ…」
  カンナが驚いて声を上げようとするのを、静司はさらにぐっと抱きしめる腕に力をこめて暗に喋るなと示してきた。それでカンナがくっと唾を飲み込むと、静司はくぐもった声ながらも言った。
「帰ろうと思ったけど、無理だった。カンナを置いて帰れるわけない」
「………何言って」
「クリスマスはカンナと一緒に過ごす。家族には他の日に埋め合わせする。カンナが心配しないように」
「なん…だから、それは、駄目だろ…?」
「駄目じゃない」
「…駄目だ」
「駄目じゃない」
  さらに抱擁が強まり、カンナには静司の表情を見ることができない。つまりそれは、幸い今の自分の顔も見られなくて済むということだけれど。
  恐る恐るながら、カンナは自らもそっと静司の背中を抱き返した。それからぎゅっと目を瞑り、泣きそうになるのを必死に堪えながら「静司」と呼んだ。
「うん」
  返事はすぐにきた。途端に身体中が温かくなる。途端、これまではあまりに無縁な、「安心」と言う感情がカンナの全身を巡り巡った。それから、静司のことをたまらなく愛しいと思った。
「静司。好きだ」
  だから真っ直ぐにそう告げると、静司は「俺もカンナのことが好き」と応えた。ふっと頬が緩んで、折角耐えていたのに少しだけ涙が滲んでしまった。静司には見られたくない。だから今度は必死に自分から縋りついて、ぎゅっと強く抱きしめて、もう一度、二度と、「静司、静司」と繰り返した。
「うん。うん」
  静司はそれに全部返事をして、今カンナが顔を見られるのを厭っているのも察しているようで、抱きしめたままの格好でカンナの髪の毛をまさぐり、優しく撫でつけた。それを暫くの間、静司はずっと続けた。まるで小さな子どもをあやすように。カンナはそれが少し恥ずかしかったが、それよりも静司の温もりを感じることの方が大切だったので黙っていた。黙って撫でられて、自分は静司の胸に顔を擦りつけたまま目を瞑り続けた。
  だからもう、静司のこの気持ちだけで。こうしてこの夜を一緒に過ごしてもらえただけで、カンナはもう満足だったのだけれど―…、それでも、自分から再度「イブは家族と過ごせよ」とは言えなかった。言いたくなかった。
  だから翌朝もカンナは静司に自分からのキスをして、「24日は一緒にケーキ食べような」と言った。