乾いた絵の具



  ここ数日の間、ツキトは自身を襲う倦怠感と頭痛に昼夜を問わず悩まされていた。
「もう…何なんだよ」
  誰にでもない誰かに毒づきながら、ツキトは志井の家がある住宅地から徒歩で数十分程離れた繁華街をのろのろとした足どりで歩いていた。いつもなら自転車で来る所だったが、その唯一の交通手段は具合の悪いこんな日に限って庭の隅に放置されたまま埃を被っていた。釘を踏んでパンクさせてしまったのをそのままにして、その後すっかり忘れていたのだ。こんな事ならその日のうちにすぐ修理しに行けば良かったと今更にその時の自分を恨めしく思う。
「え〜何それ、本当?」
「本当だって!」
  下校途中の女子高生が何やら随分と楽しそうな顔で会話しているのが目に入った。同時に夕刻が近いせいか、買い物を急ぐ主婦、バタバタと集団で駆けながら学習塾へ急ぐ小学生の姿などもちらほらと見る事ができる。
「はぁ…」
  そんな光景を横目で眺めながら、ツキトは無意識のうちにため息をついた。ここ数日ずっと家に閉じこもっていたせいか、外の空気を新鮮と感じる以上に、この喧騒とした人ごみに辟易している。
  以前のツキトならそんな情景を慈しみこそすれ、こんな風に疲れたりはしないはずだった。雑踏の中で半ばわくわくとした気持ちでスケッチブックを開き、何枚か気に入った画を描いては、通りを行く人々の日常に楽しく思いを馳せたりしていたに違いないのだ。
  しかし、今ではちっともそんな気持ちは湧いてこない。気持ちが奮わない。
「あ…安い」
  それでもツキトは既に馴染みきったその商店街で、いつもより格安の魚や野菜を見つけてはいちいち足を止めて感嘆の声をもらした。志井と暮らすようになってから別段得意でもない料理をこなすようになり、何曜日のどの店なら卵が安いとか、何時のいつなら安売りが開始されるなどといった事にはやたらと詳しくなっていた。
  だから今日もその習性で衝動的に家を出たわけであるが。
「……いいや」
  ツキトは短くそうつぶやくと、結局何も買わずに賑やかな町並みをUターンしてしまった。
  どうせ今日、志井は帰らないから。



  全身を苛む倦怠感の原因は分かっている。
  ここ連日、志井に無理な抱かれ方をしたからだ。



「おい。相手しろよ」
  時間は決まって1時を過ぎた後で、そう言う志井は大抵ひどく酔っ払っていた。
  ツキトは帰りの遅い志井が夕食を摂った後に片づけをしているので、それを終えて風呂を使い、自分の寝室に入るのが大体0時。志井はツキトが部屋に入ってしまってから暫くした後、当然のようにやってきて、有無を言わせず覆いかぶさってきた。うとうととしかけたところに強引にのしかかられて、驚き逆らうときつく唇を吸われて言葉を奪われた。
  挿入もいつも乱暴で容赦なかった。
「志井さ、痛、あ、あぁ…っ」
  ベッドというより天地が揺れているのではないかという錯覚にすら囚われて。
「あぁ、あっ、や…っ」
「嘘つけよ、淫乱」
「……っ」
「気持ち良いんだろう? 悦すぎて泣いてんだろう?」
「う、ぅ……んぅ…ッ」
「チッ…」
  不覚にも泣き出してしまうと、その行為は戒めのように更に激しくキツイものになった。また、そんな時志井が見せる不快な顔や時折する舌打ちはいつでもツキトを深く傷つけ堪らない気持ちにさせた。
  だからセックスの時、ツキトは大抵視界を遮断し、シーツの端をぎゅっと掴んでその時が過ぎるのをじっと待った。
「嬉しいか、ツキト」
  それでも志井はそうする事をそのまま許してはくれない。暫くすると必ずそう訊いてきて、半ば脅すように舐るような口付けをしつこく繰り返してきた。
「おい。まだ寝るのは早いだろ」
  そして。
「あ…」
「こっち見ろ。どうなんだ、ツキト?」
  すぐに応えないと再度厳しい詰問がぴしゃりと飛んできた。
「う…嬉し…」
  うっすらと開いた視界にこちらをじっと見据える志井の顔が飛び込んできて、ツキトは喘ぎながら口をぱくぱくと動かした。声にならない声で「嬉しい」と再度訴えたが、相手には伝わらなかったのか、奥へと突いてくる志井の腰の動きは更により一層速くなっていった。
「ぅあッ…あ、あぁっ、ああぁーッ!」
「嬉しいんだろ? 何だよ、その顔は…っ」
  何かがパリンと割れるような奇妙な音と、絶えず上下に揺さぶられ続ける感覚に頭がおかしくなりそうになる。
「あっあっ…。しぃ…さっ…」
  懇願するように名前を呼んで、それでもツキトは怖くて再び固く瞳を閉じた。
  真っ暗な視界の中で志井の雄をより直に感じた。
  攻められている、責められている。そう考えるとたまらなく辛くて、止め処なく涙がこぼれた。

  どうしてこんなに憎まれてしまったのだろうと思った。


×××


  家に戻って少し休めば多少は良くなるかと思われた頭痛は、それどころかどんどんひどくなっていくようだった。
「痛……」
  こめかみを抑えながら独りごちたツキトは一旦ソファに落ち着いたものの、薬があったはずだとすぐにフラリと立ち上がった。
「つ…」
  途端、ズキンとした激しい痛みに襲われる。自然と眉間に皺が寄った。
  鈍いだけの痛みが激痛に変わろうとしている。それが何だか悪い事の前触れのようでひどく怖かった。
「薬飲んで寝れば治るよな…」
  サイドボードの引き出しを漁ってやっと見慣れた頭痛薬を見つけほっとする。水を汲もうとキッチンへ向かう途中でまた痛みに襲われ、ツキトはヤケになったようにその薬を水なしで口に放り込むとそのままごくりと飲み込んだ。大きめのカプセルが細い食道をぶつかりながら通過していくような感覚に苛まれ、けほりと1回咳き込んだ。

  ああ、どうして最近の志井は自分をあんなに抱いているのだろう。

  突然関係のないそんな想いが頭を占め、ツキトは嫌な気持ちになって目をつむった。今の今まで頭が痛い、その為に薬を飲もうと考えていたはずなのに、不意に志井の行動に想いを馳せてしまう自分がいる。志井のことばかりだと思う。志井は自分を抱いては今日のようにまた暫く家を空けると宣言し、突き放してはまた思い出したように抱いてくる。
  耐えられない。
  そう思いながら、それでもまだ自分はこの家に、志井に縋っているのだ。
「寝よ…」
  立ち上がって、けれどツキトは2階に行こうとしたのにも関わらず、そのまま傍のソファに突っ伏した。だらりと両肩から力を抜き、はあと息を吐く。悪寒などはないから熱はないだろう。勝手にそう判断し、今日はこのままここで眠ってもいい、ああけれどリビングの電気は消したいな、真っ暗の方が眠れるから、などとつらつらと思う。
  いつしか意識は消えてなくなっていたのだけれど。


  本当は眠るのは嫌いだった。都合の良い夢ばかり見るから。
  起きた時には大体もうその内容を忘れているのだけれど、覚えているものの中では、大抵志井は会社の後輩という女性とは別れていて、ツキトの所に戻ってきてくれていた。志井は何度もツキトに「愛してる」と言ってくれるし、ツキト自身も何度も言っていた。
  関係がこうなってしまう前は、照れくさくてちっとも言えなかった。片手で数えられるくらいの回数「好き」と言うのがやっとだった。そのことを今物凄く後悔していた。
  もう何もかもが遅いけれど。





「……ト。ツキト。おい起きろ!」
「はっ!」
  半ば怒鳴るような声にはっとして飛び起きると、そこは煌々と明りのついたリビングで、ソファの上だった。
「あ……」
「寝ぼけているのか? こんな所でぐうぐう寝るな」
「志井さん…?」
  ぽけっとした目を向けると、帰宅したばかりなのだろうか、背広姿の志井は相変わらず夢の中とは違ってむすっとしていて、ソファで転寝をしていたツキトのだらしなさを嫌悪しているようだった。
「あっ…」
  慌てて壁に掛かった時計に目をやると、0時。随分眠ったのだなと思った後、ツキトはようやく驚いたようになって声を出した。
「志井さん、今日…?」
「気が変わった」
「………」
  志井が予定を変えて帰宅してきたのは今日で4度目だった。今月に入ってから4度目。
「……お、お帰りなさい」
「ああ」
  ツキトの遅過ぎる出迎えの言葉に志井は無感動に相槌を打ちながら気だるそうにネクタイに手を掛けスーツを脱ぎ捨てた。
  そんな志井の姿を未だはっきりとしない眼で見つめながら、ツキトはこんな事なら夕飯の支度をしておけば良かったと思った。予定を変えて帰ってきた日の志井が夕飯をせがんだ事は一度もなかったが、それでも何かあれば喜んだだろうかと考える。
  もっとも、今夜は買い物をしていないからロクな物がないのだが。
「なあ」
  ところがその時の志井はそんなツキトの考えを読み取ったかのように言ってきた。
「メシ、あるか」
「えっ」
  ツキトは悪い事をして叱られた子供のようにびくんとし、それから急いでキッチンへと向かった。冷蔵庫を開けるがやはり何もない。オロオロしていると、その背中に志井の冷たい声が追い討ちのように刺さってきた。
「別に手の込んだもんなんかいい。お前が食べたやつで残ってるもん、ないのか?」
「あ、あの…」
  夕飯を摂っていないから残っているものなどない。
  ツキトは志井が帰らないと言った日は殆どと言ってよいほど食事をしなかった。元々料理がそれほど好きでもない事に加え、自分1人だけの食事を作るのが億劫なことと、何より食欲がわかなかったから。
「何もないのか? お前何食ったんだ?」
  志井の怪訝な声にツキトは声を詰まらせる。
「え、と…」
「俺がいない日は外で食ってんのか?」
「あ! そ、そう! そうなんだっ」
  探るような目を向けられてツキトは硬直した。アルバイトもしていない身の上で外食も何もあったものではないだろう。冷たい汗が流れた。
  志井は月々決まった額の金をくれるし、気紛れなのかそれ以外でも不意にテーブルの上に札を置いて行く事がままある。画材を買いたい身の上としてはそれはとてもありがたい事だったが、それでもツキトは必要以上の、つまりは今の生活で必要なもの以上の金を使う気にはなれなかった。
  最近、絵を描く時も絵の具を使う気になれないのはそんな事も関係しているのかもしれない。
  そんな自分が「外食」とは我ながら悪い冗談だと、ツキトは自分自身を心の中で嘲った。
「ツキト」
  それでも。
「お前、食べてないのか?」
  そう思われるよりはマシだと思ったから、ツキトは頑なに首を振った。
「違うよ。食べてるよ」
「……そうは見えない」
「食べてるよ」
「……これでか?」
「あっ!」
  向かってきた志井に見惚れている間にツキトは自らの腰を抱かれ引き寄せられた。
「志井さ…!?」
  驚きで声を上げじたばたともがくと、志井は却ってそれに煽られたようになって抱き寄せたツキトの身体の線を確かめるように引き寄せていない方の手でさらりとその腰を撫でた。
「女みたいだな。本当…呆れる」
「し、志井さん、離してくれよっ」
「………」
「俺が痩せてるのは前からだよっ」
  必死に言い張ると、志井はますます目を細めてそんなツキトを見つめ、それからぱっと手を放すとリビングに戻って行った。
  しかしほっとしてハアと息をつくツキトに、スーツのかけてある所にまで行った志井はそこから財布を取り出すと「幾ら足りないんだ」と冷たい口調を発した。
「え…?」
  ツキトが眉をひそめると志井の方はますます不機嫌になって言った。
「金だよ。近所でお前を飢えさせていると思われたくない。幾らあれば足りるんだ」
「い、いらないよ、お金なんか…」
  消え入るようにやっとの思いでそう答えると志井はやや視線を逸らしてぽつりと言った。それこそ何かを抑えるような、それは低く淀んだ声だった。
「最近絵の具も…筆の1本すら買っていないだろ。何やってんだ?」
「あ……」
  ズキンと胸を痛めて絶句すると、志井は口元を歪め自嘲するようにツキトに追い討ちを掛けた。
「それとも密かに金貯めてんのか」
「え…?」
  何を訊かれているのか分からず、ツキトは微かに唇を動かした。
  志井は言った。
「ここを出て行く為の資金作りでもしてんのかと言ってるんだよ。ある日突然出てってやろうとか思ってんのか?」
「志井さん…」
  どくどくと早まる心臓の鼓動をどうする事もできず、ツキトはただその場に硬直して冷たい目をちらつかせている志井を見つめる事しかできなかった。また泣き出しそうになっている事は自分自身でも分かっていたが、それを抑える事はできそうもなかった。
  こんなに素直に接しても、近づこうとしても相手には何も見えていない。
「まあ……どうでもいいけどな」
  そして志井はくるりと背中を向けるとそう言った。
「いいの?」
  思わず呼び止め、ツキトはそれでも必死にそう言った。志井の足は止まった。
「志井さん、俺が出てってもいいの? もう…」
  いらないのか、と言いそうになり、そのあまりの情けなさにさすがに制止がかかった。
  それでも、ここに置いてやると言ったのは志井の方だったのに。
「志井さん…」
「……お前、出て行きたいんだろ」
  志井は背中を向けたままだった。そして静かにそう言った。
「お、俺は…」
「……けどな、行く時はちゃんと言えよ。勝手に消えたら……」
「志井さ…」
「まったく……むかむかする……」
「……っ」

  ああ、また。

  ズキズキとする頭の痛みにツキトはぐっと唇を噛んだ。
  痛い、痛い。
  その思いだけが全身を占め、その今のこの時だけは心の悲しみよりも身体的な痛みの方が優先されていくのが分かった。それはまだ救われている事なのだろうかと思いながら、その痛みにツキトはだくだくと翻弄された。
「ツキト」
  すると再び志井がそんなツキトを現実の空間に呼び起こしてきた。顔を上げると、こんなつまらない会話はやめようとばかりに、志井は顔だけをこちらに向け、やや皮肉な笑みを浮かべて言った。
「まぁいいさ…行くぞ。今日は俺の部屋で抱いてやる」
「あ……」
  そして志井のその言葉にツキトは思わず声を飲んだ。志井はツキトを先導するように、ツキトがついて来る事などまるで疑っていないというような仕草で、リビングを出てすぐの階段を上って行った。
「………」
  ツキトはその志井の足音を聞きながら、ああ今日もまたこの人の腕の中で眠る事ができるのだと、途端に安堵した気持ちになる自分を意識した。
  ただ同時に。
「ツキト」
  再び志井が呼んだ。
「ツキト、何してる」
「あ、行く…っ」
  志井の声に、ツキトは胸に抱いていた想いをさっと封印し、慌てて返事をした。
「行くよ…っ」
  今は、志井が呼んでくれているのだ。
  未だズキリとする頭を無理に振り、ツキトは先刻まで鉛のように重かったはずの足を動かし、必死になって志井の後を追った。あの大きな掌が、身体が、もうすぐ自分を愛撫し抱いてくれるのだから、今はそれだけを喜ぼうと思った。
  余計な考えなど捨ててしまえばいい。


  愛しているとか好きだとか、そんな照れくさい言葉をただ恋しいと思う自分など、今の志井には意味のないものなのだから。