零れ落ちた感情



「何やってる」
  縁側に通じる窓を開け広げそう言ってきた志井は暑苦しそうにネクタイを緩めながらどことなく不機嫌な顔をしていた。最近は日の落ちが早くなってきたとはいえ、まだ夕刻前だ。現在取り組んでいる仕事にトラブルが発生したと言ってこの休日の最中急いで出て行った割には、随分早い帰りだなとツキトは思った。
「草むしりしてたんだ。ちょっと気になり始めてきたから」
「………」
  黙ったまま眉をよせ、どことなく怖い顔になった志井に対し、ツキトは「最近サボっちゃってたし」と誤魔化すように付け足した。
  この頃の志井はますます自分に対して嫌悪の表情を見せるようになった。
  そしてその事を痛いほどに感じているのに、それをどうする事もできずにただ腑抜けた笑いを見せる自分がツキトは嫌だった。
「そんなものはいいから、今日は出ててくれないか」
  その時、俯いているツキトに志井が素っ気なく言った。解いたネクタイをだらりと首に下げたままの格好で、志井は汗ばんだ前髪を軽くかきあげながら背後を気にするような仕草を見せた。
「もうすぐ会社の後輩が来るから。お前いると気まずいだろ」
「あ…この間話していた佐藤さん…?」
「そう」
  面倒くさそうに志井は頷き、それから未だ軍手に鎌を持ったままぼうと突っ立っているツキトにいよいよ苛立たしげな目を向けた。
「 お前もこの間からやってた作品は昨日で上がってるんだろ? 外でうまいもんでも食ってくれば」
「……うん」
「カネ、いる?」
「い、いいよっ」
  慌ててかぶりと振ると、志井ははっと嘲笑するような笑みをもらすとさっと踵を返し、「ならさっさと行けよ」と言って部屋の奥へと消えてしまった。
  ツキトは未だところどころ雑草が伸びている庭先に立ち尽くしたまま、しばしそんな志井―元恋人―の背中をじっと見やった。





  最初に付き合おうと言ったのは志井の方だった。
  仕事も違う、年も違う。その頃、ツキトは東京でイラストの勉強をする為に上京してきたばかりで、ボロアパートとバイト先を行き来するだけの毎日だった。一方の志井も殆どオフィスにこもりがちのプログラマーだったから、2人が出会ったのは本当に単なる偶然だった。今となってはどうやって告白されて一緒に住むようになったのか、どうして志井が自分を好きだと言ったのか、そんな事すら曖昧になってしまっていた。
  そして共に暮らし始めて半年も経たないうちにその関係は破綻した。
  ツキトが年上で頼りがいのある志井をを好きで好きで堪らなくなってしまった頃、逆に志井の気持ちはそれと相反するように冷えていった。
「どこ行こう…」
  都心に建つ志井の邸宅は数年前に他界した両親の遺産で建てたものらしかった。その豪華な住処に殆ど強引に連れて来られた時、ツキトはただでさえ慣れていない東京の暮らしと相俟って大層なカルチャーショックを受けたものだ。そうして志井が与えてくれる贅沢な暮らしに、暫くはただ困惑するのみだった。
  だから急に何処かへ行っていろと言われても困ってしまう。
  志井ならば気の利いたレストランやバーの1つや2つ、この辺りの何処にあるかよく知っているのだろうが、普段から家にこもって絵を描いているツキトにとっては、一歩あの家を出てしまえばもう行き先など何処にもなかった。志井が食わせてくれると言った頃からアルバイトも辞めてしまい、自由にできる金もそんなにはなかったし。

『カネ、いる?』

「そんなにほいほい貰えるわけないじゃないか…」
  今や関係の冷えきってしまった相手に対し、そうそう金の無心などできるわけもない。ツキトはすっかり惨めな気持ちになり、恥ずかしさで紅潮してしまった自分を振り払う為に小さな声で毒づいた。
  志井は今頃、会社の後輩…いや、新しい恋人とあの家でたっぷり愛し合っているのだろう。
  胸が痛んだ。

『ツキト。お前以外に好きな奴ができた』

  志井はある日突然そう言った。
  ある時から急に帰りが遅くなり、ツキトを抱く回数も減り。
  口数もどんどん減っていたからそうではないかとはツキトも予想はしていた。していたけれど、そうはっきり言われた時はさすがにショックだった。

『どんな人なの…?』

  泣いてしまわないようにしなければと言い聞かせながら、割と冷静に訊けたつもりだった。すると志井は普段より鋭い眼光をより一層きつくしてツキトを睨み、ひどく冷たい声で言ったのだ。

『お前と正反対の奴だよ』

  そうしていよいよ志井が自宅に帰らなくなる日が増えると、ツキトはこの家を出て行くと申し出た。その時は別れるなら早めにはっきりとし、志井の荷物にならないようにしなければとただ必死だった。ツキトは志井が好きで、志井の時折しか見られない笑顔が好きだった。だからそれが自分といることですっかり消えてしまい、それどころか日々苛々を募らせているような姿を見てしまうと、もうどうしようもなく苦しくて辛くて居た堪れなかった。
  けれど新しい住処を決めるまでカプセルホテルに泊まると荷物をまとめたツキトに対し、志井は怒ったように言ったのだ。

『気分悪い奴だな。いいからいろよ。家政婦代わりに雇ってやるから』

  普通の神経ではないと思った。志井はツキトを「嫌いではないが、もう好きではない」と言い、そうして新たに好きな人間を作った。それなのに出て行こうとするツキトを怒り、強引な事を言って引き止めた。経済力のない自分を突然放り出すのは良心が痛むのだろうかとツキトは皮肉な事を思ったが、それでもまともに口もきかない志井とおとなしく一緒に暮らし続ける道を選んだのは、やはりツキト自身が未だ志井を好きだからに違いなかった。
  それ以降、ツキトはこれまで以上に志井の為に家の掃除をし、洗濯をし、そして食事を作りして従順に彼の帰りを待った。それらの事が志井に喜ばれなくとも、それがここにいられる唯一の条件だからとひたすらに一生懸命働いた。
  それをする毎に志井はますますツキトから離れていったのだが。


  そういえば口をきいたのは本当に久しぶりだった。


×××


「大丈夫かな…」
  深夜も大分遅い時間。
  ツキトは散々逡巡した挙句、志井の家の重い門扉をそろりと引いて中に入った。
  結局完全に暗くなるまでは近場の公園で読書をし、その後は24時間営業のファミレスで別段飲みたくもないブラックコーヒーをつなぎにしつつ散々粘った。何時頃戻ればいいのだろうと真剣に悩み始めたのは0時を回った頃で、それでも帰ってくるなとは言われなかったのだから、戻ってもいいはずだよななどとぐるぐると考えこんだ。
  これまでも何度か志井はツキトに外に出ていろという事があったが、帰ってくるなと言われた事はなかった。それがツキトの救いでもあった。
  ただ今日に限っては帰宅時間を言われなかったので、ツキトもすっかり迷ってしまった。元々が優柔不断な性質なのだ。
「電気消えてる…」
  玄関先の明かりはもう消えていた。
  志井は眠ってしまったか、新しい恋人と何処かへ行ったか。いずれにしろ足音を立てないように中へ入ってしまえば良い。ツキトはズボンのポケットから合鍵を出し、極力音を立てないようにしながらドアノブにそれを差し込んだ。
「あ…!」
「………」
  しかし中に入った瞬間、目の前に志井はいた。
「びっ…くり、した」
「遅かったじゃないか?」
  手にワイングラスを持っていた志井は、どうやら自室にそれを運ぼうとしているところだったらしい。こそこそと中に入ってきたツキトに嫌味な目を向け、しかし志井はその後は黙って階段を上がって行ってしまった。
「………」
  恋人はもう帰ったのだろうか。
  今日の事を聞きたかったけれど、その暇すら与えてくれない。勿論、そんな事を訊くく権利は自分にはないけれど。
  どっと疲れを感じ、ツキトはそのままリビングへ入り込むとそのままバタリと傍のソファに倒れこんだ。重くなった瞼を慰めるようにゆっくりと目を閉じる。志井はここで恋人とどんな時間を過ごしたのだろう。いや、ここで時を過ごしたとは限らない。自分が大好きな志井のあの落ち着いた寝室で、2人は激しく愛し合ったりしたのかもしれない。
  考えれば考えるほど胸が痛くなり泣きたくなった。
「やめよう!」
  哀しい想像に意識を支配されそうになり、ツキトはそれをかき消すように慌てて上体を起こした。熱いお湯を浴びて眠ってしまおう。志井の事は考えずに目を閉じよう。ツキトはそれだけを決めると急いで浴室へ直行した。

  そんなツキトが自身の気持ちを何とか整え自室に入ったのは、帰宅してから1時間を祐に越えた後だった。

「え…?」
  ドアを開けて部屋に一歩を踏み入れた瞬間、ツキトは後ろからいきなり拘束された。
「なっ…!」
「何してたんだ? いやに長い風呂だったな」
  志井だった。
「し…ッ! ん、んぐ!?」
  志井は強い力でツキトの腕を後ろへ捻り、もう片方の空いた手でツキトの口を強引に塞いだ。そうしていきなりの事で驚きもがくツキトには構わず、そのまま傍のベッドへ突き飛ばすようにして押し倒した。
「志井さ…っ」
  一瞬の開放から慌てて向きを変え相手を呼ぶと、珍しく楽しそうな顔を閃かせている志井が見えた。酔っているのか、一瞬そんな風にも思ったけれど、すかさず抑え付けられ迫られた事でツキトのその考えはあっという間に消え去った。
「や…何で…ッ」
「気分かな」
  他人事のように志井は応えた。
  抗うツキトを無機的な目で見つめたまま、志井はまるで1人で事を済ませるような淡白さで身体をすっと寄せてきた。そうしてツキトの首筋に吸い付くようなキスをし、寝巻きの中に大きな手のひらを差し入れた。
「やだ、志井さ…!」
「たまにはいいだろう」
「何で、恋人…!」
「ん…」
  身体をいじられながらツキトはズキズキと痛み始めた胸の痛みを再度感じながら必死に声を出した。目をつむっているからか、部屋が暗いからか、近くにいるはずの志井の表情はまるで伺えなかった。
  それでも声は出した。
「恋人いる、のに…!」
「まだ付き合ってない」
「でも…もう……」
「好きじゃなくてもセックスくらいできる」
  志井はそう言って面倒そうにしつつ自らも衣服を脱いだ。ベッドの下にそれがバサリと落ちる音をツキトは聞いた。それだけでツキトは自身の身体が震え、熱を帯び始めてしまうのを感じた。
「あ…っ」
  素肌に寄せられた舌先に敏感に反応し、ツキトはびくんと背中を逸らした。しかし同時にひどく苦しくてひくひくと貧弱な呼吸を漏らすと、すかさず志井からそれを諌めるような口付けがおりてきた。逆らおうとして手首を捕まれ、爪が食い込むのではないかというほどの力がそこに加えられた。
  途端に涙がこぼれた。
「ん…っ」
  それでも、こちらが志井をはっきりと認められていないように、きっと志井にも自分の今の顔は見えていないだろう。ツキトはぼうとする意識の中でそんな事を思った。否、たとえ見えていたとしても、今の志井にはどうという事もないだろう。今の志井の行為こそが明らかにそれの証明であろうから。そう思った。
  ツキトが泣いて嫌がるのをむしろ楽しむかのように、馬鹿にするように、志井は散々ツキトの胸の飾りを弄び、そしてその後は当然のようにまだ触れていない、しかしもう当に興奮している下半身へと触手を伸ばしていった。
「はぅっ…」
  ズボンを下げられ、剥きだしになったそれを志井の口に食まれ、ツキトは堪らず声をあげた。触れられている、その想いだけでツキトにはもう身動きが取れなかった。ぴちゃぴちゃとわざといやらしい音を立て、ツキトの性器をいやに丁寧に舐めてくる志井。彼に全てをおかしくされる。とめどなく涙がこぼれて、嫌だという言葉も当に消え去ってしまっていた。
「志井さん…っ」
  代わりに名前を呼ぶと、相手の動きはぴたりと止まった。こちらを伺うような視線を一瞬感じた。それでもその後はまた。
「やぅ…ッ」
  再開される所作にただ溺れ、ツキトはされるがままに志井から与えられる快楽に身を捩った。
「や…あっ…志井さ…駄…駄目駄目…ッ」
「何が」
「だっ、あ、ああぁぁ―――ッ!!」
  抑止の声すら喘ぎに変わり、ツキトは止まらないままに志井の前で精を放出した。
「はぁ…は、ぅ……」
「早いな。もう少し粘れよ」
  志井の意地の悪い声もよく聞こえず、ツキトの頭の中はただもう真っ白だった。ぜえぜえと息を吐き出し、またどうしようもなく辛くなって嗚咽が漏れた。
「ツキト…」
  その時、低く囁くような声が聞こえた。それは冷たくも優しくも感じる、静かな抑揚のある声だった。こんな志井の声を聞くのは何だか久しぶりだと、ツキトは遠くの方で茫然と考えた。誘われるように薄っすらと目を開くと、すぐ傍にその顔はあり、ツキトは思わずその相手をじっと見つめた。この整った顔が間近にくると、自分はいつも照れくさくて視線を逸らしてしまっていた。でも今は関係ないと思う。今はきっと、こうやって見ていても許されるはずだと何故か強くそう思った。
  だから。
「ツキト」
  志井がもう一度呼んできた。嬉しくて唇を戦慄かせながらも何とか言葉を紡ごうとしたが、また再度降りてきた志井自身の唇に邪魔されてしまった。
「んん…ふ、んぅ…ッ…」
  舌を差し込まれ、それを必死に吸っているうちに苦い味と共に志井の唾液もが絡んできて、ツキトはまたその感触に沈んだ。よろよろと片手を差し出して志井の首筋に縋るとぴくりと相手の広い肩幅が揺れたように見えた。
「好き……」
  そうして無意識にではあるがようやっとその言葉を吐いた時。
「そんな言葉……」
「あ…? あ、んん…っ。や、やあぁ―――ッ!!」
  投げ捨てるような志井の言葉と共に、ツキトの半身に衝撃が走った。これでもかというほどに開脚させられ突き入れられた志井の男根はツキトのまともな思考を今度こそ完全にストップさせてしまった。
「い…痛…痛ぁ…ッ」
「黙れ…」
  冷たい志井のそんな台詞も、その時のツキトには聞こえなかった。ただ揺さぶられぎりぎりと突き刺さるようなその攻撃に悲鳴のような声を上げ続けた。
「あ…あ、ああぁッ」
 
  好き、なのに。

「はぁん、ああッ! …苦し…ッ」
  志井を求めて更に両腕に力をこめ、抱きついた。キスをねだるように唇も突き出す。応えるように、相手のその温もりはすぐにやってきた。
  やってきたのだけれど。
「むかつくんだよお前…」
「やぁ…ッ! あ、あん…ッ、ふ、ひぅッ」
「本当は…っ。気持ちいいんだろ、ツキト…?」
  荒い吐息と共に志井がそう言った言葉は、今度は聞こえた。うんうんと泣きながら必死に頷き、それでも止まらない涙にまた更に何か怒られてしまったような気がした。それでも何が何だか分からないままに腰を振り、もっともっととツキトは志井の身体をねだり続けた。


  空が白む頃には、だからすっかり意識も遠のいていた。


×××


「ツキト」
  その声に気がついて目を開くと、外からは明るい光がカーテンの隙間から細く長く差し込んできているのが見えた。ゆっくりとその視線をずらしていくと、やがて既に白いワイシャツ姿にネクタイを締めている志井の姿が認められた。
「あ、さ……」
「何回も呼ばせるな。死んだかと思った」
「今……?」
「今日は帰らない」
  志井はツキトの問いには答えず、きっちりとした動作でネクタイを締め終わるとそのままどっかりとベッドの端に腰をおろした。それからさらりと何気ない所作でツキトの前髪に触れる。「伸び過ぎだ、切れよ」という言葉はほとんどつぶやくように付け足された。
「………志井さん、仕事…?」
「悪いか?」
「そ、んな……」
  わけない、と言おうとしたが、先刻「今日は帰らない」と言った台詞にまた傷ついている自分を自覚していた。気まぐれでも時々ああやって抱いてくれるから、いつまで経ってもこの人から離れられないとツキトは思う。いっそ冷たくして捨ててくれれば諦めだってつくのだ。
  それなのに、今だってこうして。
「……っ」
  ああ、そういえば出会った当初はよくこうして頭を撫でてくれた。お前は猫みたいだとか何とか言って。
「俺…志井さんの都合のいいペットなのかな…?」
  都合の良い時だけ構ってくる飼い主。ひどい飼い主もあったものだが、実際のところそんな人間はこの世に五万といるだろう。きっと昨日は家に来た恋人と喧嘩でもして、それで自分を吐き出しの対象に選んだに違いない。
  けれどその真意を確かめる勇気はなかった。
「お前みたいなペットいらねえ」
  志井は眉根を寄せて「ふざけるな」と言った顔を見せ、それからすぐに立ち上がるとさっさと部屋の入口へと向かって行ってしまった。
  また怒らせてしまったと思った。
「行かないで……」
  だから。
「行かないで」
  咄嗟にその言葉が出ていた。本心だった。
「行かないで…」
  もう一度言った。
「………」
  ぴたりと志井の足が止まった。
「あ…」
「………」 
  くるりとこちらを振り返ってきた志井は本当に冷たい目をしていた。恐ろしさが全身を覆い、ツキトは思わず身体に掛けていた布団を頭からかぶった。とんでもない事を言ってしまった自覚があった。
  そんな事を言う資格はないのに。


「お前こそ」


  その時、そんな声が部屋に響いた。
  そして同時にガンと壁を拳で叩く音も聞こえた。
「……っ!」
  驚いて顔を上げたが、そこにはもう志井の姿はなかった。どんどんと大きな音で階段を駆け下りて行く、それだけが辺りに木霊しているだけで。
「志井さ……?」
  何が起きたのか分からなかった。
  ツキトはただ驚いて、目を見開いたまま志井が殴っただろう入口付近の壁に視線をやった。激しく怒りに震えた声。そう、志井の声は震えていたと思った。
「どうして……」
  こんなに好きなのに、あの人は今何を言ったのだろう。
「どうして…」
  ツキトはそうつぶやいたまま、ただ微動だにできなかった。不意に布団の端を固く握り閉めている自分の手元に目が行き、その手首が赤黒く痣になってしまっている事に気づいた。
  昨夜の志井に拘束された痕。
  ツキトはズキリと痛む胸をそのままに、ただその痛めつけられた己の手首をそっと撫でた。
  そこには痛みも熱さもない、ただひやりと冷たい感触があるだけだった。