眩暈



  今まで適当に生きてきて損をしたことなどなかった。


「志井。お前、まぁた残業?」
  閑散としたオフィスの一角。スーツを肩先にかけ退社準備万端の小野が未だパソコンと向き合っている志井に声を掛けた。志井は丁度煙草が吸いたくて席を立とうと画面から目を外し椅子の背もたれに身体を預けていたところだったから、その同僚の声にはすぐに反応する事ができた。
「あぁ…もうこんな時間か」
  壁に掛かっている時計は既に20時を回っていた。この時間にここにいる事も他の同僚より仕事が多い事も別段珍しい事ではなかったけれど、確か今日は新しく入った派遣社員を囲んで飲み会をしようと誰かが言っていた。その事を志井は小野を見た事で不意に思い出した。
  そんな志井の表情から意を汲み取ったのか、小野は軽く頷いてから腕時計に目をやった。
「俺も大分遅れちまったけど。まだ例の店でやっているらしいし、行こうぜ?」
  気さくな同僚はネクタイを緩めながら疲弊したような顔を向けつつ志井にそう言って笑いかけた。入社当時から同じ部署にいるこの友人は、ざっくばらんとしていて明るく付き合いやすい好人物だ。多少長めの鬱陶しい髪型を上司に咎められないのも、恐らくは彼の人徳だろうと志井は思う。
  しかし今日は同じように軽いノリで立ち上がる事ができず、志井は苦笑したままひらひらと片手を振った。
「俺はパス。今日は遠慮する」
「……お前さァ、最近付き合い悪いよなあ?」
  やっぱり佐藤さんと仲良しになったせいかねえ?
  茶化すように小野はそう言い、それから「まあいいや」と言った後、そのままオフィスのドアを閉め、去って行った。歓迎会の主役である女子社員を可愛い可愛いとべた褒めしていたから、きっと誰かに取られてしまわないかと心配なのだろう。バタバタと忙しない足音が遠ざかって行くのを耳にしながら、志井は少しだけ口の端を上げた。
  カチカチと時計の針が時を刻む音が独りの空間に広がって行く。
「………気色悪ィ」
  何ともなしにつぶやいてから、志井はその言葉をすぐさまかき消すようにしてかぶりを振った。それから腕を伸ばしてデスクの上に無造作に転がっていた煙草の箱をぐしゃりと握り潰す。

  ツキトは、煙草の煙が苦手だった。

  知り合った当初は随分と年下のように思っていたが、実際に年齢は6つ離れている程度だった。高校を卒業してから上京してきたとツキトは言ったが、その見た目はどう贔屓目に見ても「童顔」の部類に属した。そのあどけない大きな瞳がくるくると動くと、まるでネジ巻き式の玩具みたいだと志井は当初意地悪くもそんな風に思ったものだ。
  それでも、付き合おうと言い出したのは自分の方で。
  出て行くと言う相手を怒って引き止めたのも自分だった。
「………」
  意味もなく苛立たしい気持ちになり、志井は再度握りしめたままの煙草をぐっと掴み直した。一昨日買った物だがまだあと数本残っている。会社内の、しかも休憩の合間に喫煙コーナーで吸うのみだから随分と減りが遅くなったとぼんやり思う。
  ツキトが嫌いだというからやめたのだ。
  ツキトが身体に悪いと言うからやめたのだ。
「今さら義理立てする必要なんかない…か」
  志井は再び誰もいない空間で独りごち、手にしたそれをじっと眺めやってから、何ともなしにワイシャツの胸ポケットにそれを突っ込んだ。そして今度は傍に置いてあった携帯にちらと視線を送った。
  電話もメールも数件入っている。相手が誰かなど分かっていた。
  ほんの少し気まぐれで相手をしただけだったのに、「向こう」は有頂天になってこちらに接近してきた。友人の小野からは「佐藤さんは俺も狙っていたのに」などという恨み言まで言われたが、自分とて呆気に取られている間に周囲によって勝手に「作り上げられて」しまったのだ。顔立ちの整ったその新入社員と自分の「仲」は、志井自身が自覚しないうちに社内でも知らない者はないという程のものになってしまっていた。
「女は怖いな……」
  それでも、どうでもいいかという気持ちがあったから放っておいた。丁度良いかとも思った。
  その時、再度メールの着信を告げる音が鳴った。
「面倒臭ェ……」
  軽く舌打ちした後、志井はその携帯をデスクの引き出しに叩き込むように仕舞い、それから髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜた後、PC内のファイルを保存し,電源を消した。
  本当は、仕事なんかどうだっていいのだ。もう、どうでも。そう頭の中ではっきりと思った瞬間、志井は立ち上がっていた。
  ごまかしてばかりのこんな生活。





  初めてツキトを抱きしめてキスをした時、その目の前の青年はただただ驚いて当惑してあたふたとしていた。
「ななな何で…こんな事…っ」
「好きだから」
「す、好き…なんですか…? 志井さんが? 俺を…?」
  悪い冗談はよしてくれと言わんばかりの顔をツキトはして、それから未だ自分を強く抱きしめて放さない志井から逃れようとまたあわあわとして身体を震わせた。
「お、俺なんか、志井さんに比べたらしょーもないただの生意気なガキですよ。っていうか、俺、そもそも男だし。だからあんまり…そういうのは…」
「嫌?」
  あの時は、そう訊きつつも断られる事など微塵も考えていなかった。ツキトは自分を受け入れる、その確信があったからこそ告白したのだ。今まで誰かに告白をして断られた事など一度としてなかったし。
  だからそれが男だろうと、そんな事は関係なかった。
「それじゃお試し期間でいいよ。とりあえず、うち来い」
「うち…うちって…え、ええ…?」
  ころころ表情を変えるツキトは可愛くて可笑しくて、これは本当の恋かもしれないと志井は真剣に思った。今まで誰かを好きだと思って告白しても、想いが通じるとすぐに気持ちは冷めてしまった。「飽きて」しまった。これは性質の悪い一種の病気なのだと、己の事ながらそんな風に見放して諦めてもいた。相手に好かれるとすぐにその人間のことをどうでもよいと感じてしまう。鬱陶しく、くだらないと思ってしまう。ロクでもないなと自分で分かっていても止める事ができなかった。
  けれど「ツキト」は、こいつこそは今度こそ本物ではないかと。
  そう思った。だから今までした事のない同居もした。迷わず家に連れて帰った。

  そして、その予感は。



「………鍵は2つ掛けろって言ってんのに」
  「今日は帰らない」と言った日に帰宅したのは初めてだった。あの後すぐにオフィスを出たもののやはり真っ直ぐに帰るのは何だか躊躇われて、志井は幾つかの店を梯子した後、深夜遅くに自宅の門をくぐった。玄関先のランプはさすがに消えていたが、しかし自分の言いつけを守らずドアの鍵を1つしか掛けていない同居人に志井は眉をひそめた。
  もう寝ただろう、そう思いながら足を忍ばせリビングに入る。生活臭のない、簡素な部屋だった。志井は電気は消したまま脱いだスーツをソファへ投げ捨てた後、キッチンに入って手を洗った。冷水で顔を洗い、傍のコンロに目を向ける。何かを作った形跡はなかった。独りの時は料理をしないのだろうかとちらとだけ思った。
  志井は階段を上り、真っ直ぐにツキトの部屋へ向かった。
「………」
  2階の八畳間を絵を描くスペースに丸々使っていいと言った時、ツキトはやはり大いに慌てて「とんでもない」を連呼した。アルバイトも辞めろ、お前は俺が食わせてやると言った時も、ツキトは「そこまで甘えられないから」と何度も何度も首を振った。頑固な青年に多少むっとしつつも、それでも志井は絵の勉強をしに単身上京してきたというツキトを本当に偉いと思っていたし、その情熱の手助けができるのならこれほど嬉しいことはないと真面目に考えてもいた。
  それに自分と付き合う前のツキトが色々な所で身体に似合わない力仕事や夜遅いアルバイトをしていたのを知っていたから、尚のことそれは辞めさせたかった。学校にも行かせてやると言ったが、「それだけはやめてくれ」と殆ど泣くように縋りつかれたのでそれは思いとどまった。
「……ツキト?」
  その寝室兼アトリエにそっと入った瞬間、その目当ての人間がいない事に志井は目を見張った。もう当にベッドの中だろうと思っていたのに、ツキトはいない。ただ机の上に無造作に置かれていた何枚かのラフ画だけが視界に飛び込み、志井はそれに微かな胸の痛みを感じた後、逸る心を抑えながら踵を返し他の部屋へ向かった。
  ツキトは何処にもいなかった。
「何でだ……」
  まさか、あいつにここ以外で行く所などあるものか。
  そう思いながら志井はより一層早くなる鼓動に息苦しさを感じつつ、もう一度階下へ降り、リビングや応接室などを巡り、人の気配など全く感じられない浴室や雨戸を開けて庭先にまで目を配った。
  ツキトはいなかった。
「……まさか」
  いよいよどくんと跳ね上がる心臓を片手で抑えながら、志井は再度階段を上った。
  そうして。
「は……」
  すっかり頭の隅から消えていたその場所に。
  愛していると容易に口から出せていた時には何度も連れ込み抱いた場所。自分の寝室のベッドで穏やかな寝息を立てているツキトに、志井はほっと安堵の息を吐いた。
  いつもこうしていたのだろうか。
「ツキト」
  短時間で家の中をバタバタと移動した志井は多少息を弾ませながら自分のベッドで寝ているツキトに近づいた。壁に背を向けて横向きの状態で眠っているツキトは大きめの寝巻きから指先だけを覗かせ、掛け布団はほぼ投げ捨て状態で死んだように眠っていた。多少癖のある柔らかい髪の毛は、明日になれば随分とひどい寝癖を作っているだろう事を予想させるくらいに乱れていた。
「寝相悪いな……」
  ぽつりとつぶやいて、志井はベッドの端に座りこむとそっとその髪の毛に触れてみた。いつもと同じ、心地よい感触に気持ちが静かになるのを感じた。
  こうして眠っている時は、本当にただの小さい子供のくせに。
「お前なんかな…こうしてずっと寝てればいいんだ」
  何処にも行くな。
「こうして…ただの役立たずでいればいいんだ」
  子供のような愚痴を言っているのは自分の方。
「ふ……」
  分かっているのに、志井はその感情を止める事ができなかった。
  志井はツキトが好きで、狂おしいくらいにこの青年の事が愛しくて仕方がなかった。こんな気持ちになった事はなかった。今まで何もかもを適当に流してきて、何も感じることのなかった自分。それがツキトの表情に揺さぶられ、ツキトの言葉に喜び、ツキトの行動に驚かされ。
  そして志井はツキトの情熱と才能に嫌悪を感じていた。

「あ……?」

  その時、ようやく傍の気配に勘付いたのか、ツキトが寝ぼけたような声を出して目を開いた。
「……え……」
  まだ事態を飲み込めていないようだ。志井はすかさずツキトを撫でていた手を放し、すっかり冷えた目をして傍で横になっている相手を見つめた。
「え…え、志井、さん…?」
「……何してんだお前」
「あ…っ」
  志井の責めるような声にツキトは瞬間目を見開き、慌てたようになって飛び起きた。逆立ったような黒髪がしばらくの間乱れたままなびいていたが、ツキトは焦りを隠すようにそんな髪の毛を両手でなだめすかしつつ目の前の志井を見やった。
「し、志井さん…。今日は帰らないって…」
「帰らないのを良いことに人のベッドでおねん寝か? 自分のはそんなに気に食わなかったか」
「そ、そんな…そんな事は…! た、ただ…っ」
「まぁ、どうでもいいけどな」
  素っ気無く言って志井は立ち上がった。これ以上泣き出しそうなツキトの顔を見ていたくなかった。一体どうしてこんな風に、こんなに愛している相手に冷たくしてしまう自分がいるのだろう。
  いや、それはきっとこの目の前の青年が悪いに違いないのだ。
  志井は何故か頑なにそう思った。
「ご、ごめん、ごめんなさい、志井さん…! 俺、すぐどくから…!」
「いいって言ってるだろ」
「で、でも…」
  部屋の入口にまで差し掛かった所で志井は先刻ツキトの部屋で見たスケッチブックにあったラフ画を思い出していた。
  ツキトに冷たくなっていったきっかけの「絵」は、そういえばもう随分と目にしていない。どこかの画廊にでも持って言ったのだろうかと思う。
「志井さん、怒った…? お、俺、志井さん…志井さんの部屋が好きだから…」
  前はよくここで眠っていたから。
「………」
  黙ったまま振り返ると、ツキトは自分の台詞に恥じ入ったのか、暗闇でも分かるほど真っ赤な顔をして視線をよそへやっていた。
  そんな顔をして。
「……っ」

  いずれその天賦の才で俺を捨てて飛び立って行くのはお前のくせに。

「志井さん…。あの、さ…」
「煩い」
「え…っ」
  一度は去ろうとしたものの、再度ツキトに近づき志井はもうその手首を掴んでいた。驚いて目を見開くツキトには構わず勢いに乗ったまま唇を寄せ、威嚇するようにつぶやいた。
「悪いと思っているなら奉仕の1つもしてみろ。俺は今日機嫌が悪いんだ。うまい事できたら……ここで寝かせてやるよ」
「志井さん……」
  そう名前を呼んできたツキトは、ひどく傷ついた目をしていた。哀しそうな目をしていた。
  けれどツキトは殆ど無意識にだろう、そっと空いている方の片手で自分にそう言った志井の頬を撫でた。そうしてその所作に面食らい言葉を失う志井に恐る恐る言った。
「佐藤さんと喧嘩したの…? 俺がここにいるってバレちゃった…?」
「は……」
「志井さん…?」
「関係ないだろうが…」
「あ…う…うん…。でも…っ」
  突き放されて、それでもツキトは頷きながら自分の感情を抑えきれないという風に志井の胸に縋ってきた。そうして開放された手首を認めると、そっとその両手で志井のズボンのジッパーに触れてきた。
  本当にする気なんだ、こいつは。
「………馬鹿か」
  素でつぶやいた志井にツキトは最初びくりと肩を揺らしたものの、それでもベッドから降りると膝を折り、おずおずと従順に顔をうずめてきた。そして志井の元に屈み込むような姿勢で志井のものに舌を這わせ始める。
「ん…ふ、ぅ…ッ」
  平然としたままの志井に怯えながら焦ったようになりながら、ツキトは不慣れを露呈しつつも必死に口を動かし、音を立てて志井の欲求を促した。
「………お前は」
「んっ…。はぁっ、はっ…ぅ…」
  何事か言いかけた志井の声には聞こえないフリをしているのか、ツキトはただ必死に時折息継ぎを交えつつ、ただ志井の性器にしゃぶりついた。そうして震える手で、身体全身で志井を喜ばせようともくもくと働いた。
「この…っ…」
  無性に居た堪れない気持ちになりながら、けれど志井は徐々に熱を帯び始める自身を感じ、それを払いのけるようにツキトの前髪を乱暴に掴んだ。
「……っ」
  その突然の動作にツキトは再度びくりと身体を震わせたが、それでも行為はやめなかった。

  志井さん。俺さ…俺も、志井さんがすごく好きだ。

「……ッ」
  暮らし始めてから暫くした後、ツキトは真っ赤になりながらそう言った。あたふたとするその仕草はあの時のままで。そう、ツキトは知り合った当初から何も変わっていないのだと志井は思った。
  変わったのは、歪んでいるのは自分だけだ。
「ツキト……」
「は…っ…」
  苦し紛れに呼んだその声に相手は確かに反応を返した。肩を揺らし薄っすらと涙ぐんだその目で静かにこちらを見上げてくる。
「く…ッ…」
  思わずこぼしそうになる好意の言葉を無理に飲み込み、志井はツキトの髪の毛をまさぐりながら目線は逃げるように窓の方へ移した。
  暗い。
「あ、ふぅ…っ。んん…ッ」
「……っ」
  しきりに自分を慰めようとぴちゃぴちゃと舌を動かすツキト。ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき混ぜると、それを喜ぶように動きは早まった。
  それでも、どうしてもそちらを見られないと志井は思った。
  暗い、から。
  暗い暗い闇が、ただ黒い心に支配される自分を嘲笑うように激しい勢いで覆いかぶさってきているような気がした。