夢の中ではいつも優しい温もりを感じる事ができたから幸せだった。
「志井さ、ん…」
  ツキトが小さく呼ぶと、その感触はいつもぴくりと途惑ったように動きを止めたが、こちらが微動だにしないと分かると再びその手はそっと近づいてきて、決まって額を撫でてきた。前髪の上から降りてくるそれはとてももどかしくて、けれど嬉しくて、ツキトは目を開けたいのに開けられない、そんな状況が少しだけ疎ましかった。
  けれど、目覚めてはいけない。
  夢から覚めたら、またいつもの冷たい現実が待っているから。




その温もりが消えるとき



「ん……」
  瞼にちりりと差し当たる日の光を感じてツキトは薄っすらと目を覚ました。
「………」
  ぼんやりとした視界に入ってくる、見慣れたクローゼット。それからシーツの感触。
  ツキトは暫くの間じっとその景色を眺めながら、徐々にはっきりとしてくる意識の中でもう朝かと心の中で呟いた。そうしてごろりと寝返りを打ち、天井を見上げる。

  今日で何日連続だっけ…?

  何ともなしにそんな事を考えてから、ツキトは再び身体をうつ伏せにし、柔らかい枕に顔を埋めた。
  志井の匂いがする。
「気持ちい…」
  ここは志井の寝室だ。今日もここで目を覚ます事ができたのだ。
「ツキト」
  しかしその幸せな静寂もすぐに壊された。
  未だ起き上がれずにいたツキトの前に、ガチャリと乱暴にドアを開け入ってきたのは、この家の主―志井だった。バタバタと階段を上ってきた様子から急いでいるらしい事は分かったが、いつもの事ながらきっちりと髪を整え、バリッとしたスーツに身を包んでいる。志井は低血圧のツキトとは違い朝に強いらしかった。
「いつまで寝てる」
「あっ…今…」
  起きようと思った、などという苦しい言い訳を吐きかけ、それでもツキトはその後の言葉を出せずにただ慌てて半身を起こした。志井はそんなツキトを相変わらずの冷めた目で見ていたが、締め切ったカーテンを開け広げながら要点だけを述べた。
「今日もメシ食うからな。用意しておけよ」
「あ、うん」
  最近、志井はまたツキトと共に夕食を摂るようになっていた。帰りが早いのだ。
「志井さん、何食べたい?」
  窓を開けた後すぐに部屋を出て行こうとする志井に、ツキトは慌てて訊いた。元々それほどのレパートリーがあるわけでもないから、夕飯のメニューには毎度四苦八苦していたのだ。
  そんなツキトに志井は呆れたようにため息をつくと素っ気無く言った。
「面倒なこと考えさせるな。どうせ大したもん作れないだろ。お前の食いたいもん適当に作れよ」
「わ、分かった…」
「じゃあな」
「うん……」
  去って行こうとする志井にツキトはシュンとなって俯いた。何とか返事をするものの、いつものこんな他愛のない会話でさえ胸が苦しい。志井が早く帰ってきてくれる事は嬉しい。自分が作る物を食べてくれる事もとても嬉しい。
  それでも、何だか最近は富にひどいのだ。
  志井の冷たい声を聞くこと。
  同時に感じる、身体の痛み。
「おい」
  その時、部屋の入り口にまで行っていた志井が突然ツキトに声をかけた。慌てて顔をあげると、そこにはすっかり表情を消している、けれど心では不快になっているであろう志井の姿があった。
「え…?」
  ツキトが聞き返すと志井はますます不機嫌な顔をして言った。
「うん、じゃないだろ。これから働きに行こうって相手にそれだけか? もっと気の利いた事は言えないのか?」
「あっ…ごめ…! い、いってらっしゃい!」
  慌てて言うと、志井は暫くは黙ってそんなツキトを眺めていたが、すぐにつかつかとベッド脇に近づいてくると。
「あ…?」
「だから、それだけかって言うんだ」
「え……」
「俺が行く事に不満そうなくせに」
「志井さ――」
  しかし呼びかけたと同時にもう唇は塞がれていた。指先で顎を掴まれ上を向かせられたと思った瞬間だ。ツキトは目を閉じる間もなくそのキスを受け入れるしかなかった。
「………」
  呆けていると志井はち、と微かに舌打ちをした。
「志井さん…」
  そうして呼びかけるツキトには何も応えず、志井はそのまま黙って去って行ってしまった。いつもそうだった。強引なくせに、求めるくせに冷たい。
  怒っている。
「何で…」
  何故志井はこんな事をするのだろう。
  胸の疼きを感じながらツキトは志井に触れられた唇に指を当てた。
  最近の志井はこんな風にすぐ口付けをしてくる。何度も、何度も。





  具合の悪さは治らなかった。
「頭…いた……」
  志井が出掛けた後もすぐに起き上がる気がせず、ツキトは暫しベッドの上でうつ伏せになったまま、ズキズキする痛みを堪えるように目をつむっていた。
  志井のベッド。
  段々と枕の高さが鬱陶しくなり、ツキトはそれを下に投げ捨てるとシーツに直接頬を擦りつけ、より強く志井の温もりを求めた。
  昨夜は早くに休ませてもらったからシャワーを浴びる余裕もあったし、洗濯したばかりのパジャマに袖を通す事もできて寝心地も良かった。いつまでもここでこうして眠っていたいとツキトは思った。
  この頭痛さえなければ良い日なのに。
  窓から差し込む陽の光とカーテンに絡むそよ風を肌に感じながら、ツキトは昨夜の志井を思い出していた。ここ最近ずっとそうだ。志井は帰ってくるとツキトが用意した夕食を摂り、居間で少し酒を飲んだ後シャワーを浴びてツキトに自分の寝室へ来るよう命令した。優しい言葉も労わるような抱き方もしてはくれないけれど、ツキトにとってはそれはとても嬉しい事だった。

  来いよ。抱いてやる。

  志井は偉そうにそう言ってはツキトが泣いて嫌がるまで身体を繋げ、そうして息も絶え絶えの相手を卑下するようにぎらついた視線を落としてきた。

  もう…駄目だよ…。

  そう言っても本当は求めている。ツキトはそんな自分の身体が疎ましくもあり、また愛しくもあった。志井を好きな自分を見捨てたくはなかったから。
  それでも、その事を思い出すと頭が痛くなる。
「くっそ…」
  目をつむったまままた呟き、ツキトは眉をひそめた。違う事を考えよう、そう思いながらロクでもない事ばかりが脳裏をよぎった。
  あの会社の同僚の女性とは別れたのだろうか。志井の周辺に、今はその影すら感じない。
「バカな期待するなって…」
  やはり瞼が重くて目は開けられない。瞳を閉ざしたままツキトはぽつりとまたそう独りごちた。
  志井がほんの気紛れで今だけ自分に戻っているのだろうということ、良い関係になっているらしい同僚の女性と今は疎遠でも、そのうちまたよりを戻すだろうこと、はたまた新しい相手ができてそちらにいくだろうこと、そんなことはツキトとて重々承知していた。
  だから、だからこそなのかもしれない。ツキトはふうと息を吐き、思った。
  この痛みがなくならない訳は。
「吐…きそう…」
  ふっと喉元を圧迫するその嫌悪感にツキトは眉をひそめた。ずっと寝ていたかったのに、しかし仕方なく身体を起こす。だるい。フラリと眩暈を感じたものの、何とかベッドを出て2階のトイレへ直行した。志井に抱かれて、一晩中その懐で寝かせてもらえて。幸せなはずなのにどうしてこんなに気持ちが悪いのだろう。むかむかしてくる胸焼けに腹立たしさを覚えた。
「う……っ」
  それでもツキトはここ数日間の決まり事のように、トイレで吐いた。
  体重はちっとも増えなかった。





「ツキトは今まで女の子とはどんなエッチしてたんだ」
  付き合い始めた当初、志井が唐突にそんなことを訊いてきたものだからツキトは手にしていたフォークをポロリと落としてあたふたとしてしまった。
  そこは確か志井が初めてのデートで連れて行ってくれた洒落たイタリアンレストランで、ツキトは周囲に響き渡った金属音にただわたわたとし、真面目な顔をしている志井を責めるように見やった。
「も、もう志井さんがヘンなこと言うから…っ」
「何がだよ。フォーク拾うなよ。すみません」
  近くを通った店員に新しい物を用意してもらいながら、志井は依然として真摯な顔をしたままツキトを見つめた。
「何でそんなに慌てるんだ?」
「だって…突然そんなこと訊くからさ」
「別に普通だろ? 恋人の過去の相手はどうしたって気になるものさ」
「そんなの…」
「そういやお前はあんまり訊いてこないな」
  ふと思い立ったようになって志井は不満そうにそう言い、「俺の事なんか興味ないか」とまるで子供のように棘のある言い方をした。
  ツキトは慌てた。
「そういうわけじゃないよ。俺、元々そういう話題が苦手なんだ。それに俺は志井さんと違ってそんなにモテたわけでもないから。中学からの同級生と付き合っただけ」
「へえ、1人だけ? 純愛だ」
「そんなんじゃ…」
「で、いつヤッたんだ」
「だ…っ。だから何でそんな即物的な言い方しかできないかな!」
「即物的? ふうん、よく分からんが…。まあツキトがそういう話が嫌いなら仕方ないけどな。でも俺は、今日ツキトをお持ち帰りする気満々」
「え」
「え、じゃない。いい加減ヤらせろ。お前、いつまで勿体ぶってるつもりだよ」
「………」
  あまりの言いように絶句していると、志井はここで初めて柔らかく笑った。それから傍のグラスを行儀悪くもフォークでチン、と鳴らし、妙に悪戯っぽく言ったのだ。
「逃げるなら今のうちだぜ? 俺はもう結構本気なんだ。こうなると俺自身では止められないから、ツキトが何とかするしかないよ」
「志井さん…」
  どう何とかしろというのだろう。
  分からないままにツキトはしかしその日結局志井の家へ行き、そのままなし崩し的に抱かれてしまった。
  痛くて怖くてどうしようもなかったが、志井がやたらと甘い声で好きだの何だの囁いてくれたから我慢できたし、それを素直に嬉しいとも思った。
「ツキト。いいな、お前」
  志井のそのあっさりとした台詞だけで背筋がゾクっとするほど感じてしまった。
  だからツキトは。
  だからツキトは、その日のうちにバラされてしまった。昔郷里で付き合っていた彼女とは手を握っただけでキスもできなかった事。セックスなどとは勿論無縁だったという事。それをベッドの中で志井に抱かれながら告白させられた時は顔から火が出るほど恥ずかしかった。
  けれど、思いの他志井がその事を喜んでくれたのでまあいいかと思う事もできた。





  日が暮れるほどに体調は悪化の一途を辿っていた。
「ご飯…作らないとなのに…っ」
  どうしたのだろう。熱はない。一応体温計で計ってみたが平熱だ。なのにどうしても立ち上がって何かをしようという気持ちになれなかった。ズキズキする痛み、きりりと痛む胸。何とかリビングにまで下りてきたものの、ツキトは未だ寝巻き姿のまま、ソファにもたれかかった状態で動く事が叶わずにいた。
  どうしよう。
「はあ、もう…!」
  苛立たしくなって呟いてみたものの、状況はちっとも好転しなかった。
  こんなことをしていたらまた志井に怒られてしまう。そうしたら今日はあの部屋へ行く事はできないだろう。きっと志井はこんな自分を呆れた目で見やるだけに違いない。
「せめてご飯炊かないと…っ」
  歯を食いしばって起き上がり、ツキトはのろのろとキッチンへ向かった。またズキンと頭が痛む。一体何なのだろうと思う。もう訳が分からなかった。
「……っ…」
  ガクリと膝が折れてツキトはそのまま台所で倒れ込んだ。
  意識が昏倒としていた。こんな状況で志井が帰ってきたら非常にマズイ、それが分かっているのに、けれどツキトは目をつむった。身体が重くて痛くてもうどうしようもなかった。
「1分だけ…」
  1分だけこのままでいようと思った。少しだけ休憩して、その後立ち上がろう。それなら何とかできそうだ。そう思ってツキトは真っ暗な視界を更により深い闇へと向けていった。





  けれど次にツキトが目を開いた時、周囲はもう真っ暗だった。
「え…!?」
  焦って状態を起こそうとすると、物凄い力に押さえつけられてツキトはそのまま再び柔らかいベッドの上に引き戻された。
  そう、そこはベッドの上だった。
「どこの…?」
「ツキト」
  志井の声が聞こえた。
「志井、さ…?」
  驚いて目を凝らすと、すぐ傍には確かに志井の姿があり、段々と目が慣れてくると今度ははっきりと確認する事ができた。部屋の灯りはついていないが分かる。ここは志井の部屋で、志井のベッドの上だった。
  嬉しかった。
「志井さん、俺…?」
「だるいか」
「え…?」
  志井の言っている事の意味が分からず、ツキトは掠れた声で聞き返した。志井はそんなツキトにひやりとする掌を額にかざしてきて再度言った。
「熱があるぞ」
「え…俺?」
「倒れてた」
「え」
「台所で」
「………!!」
  はっとして再び起き上がろうとして、また志井によって両肩を掴まれベッドにねじ伏せられた。志井は焦るツキトに怒ったような声で「静かに寝てろ」と厳しく言った。
「だ、だって俺、まだ夕飯…」
「バカか。もう0時だ。んなもんは、もういい」
「え……」
  途端しんとした部屋の中でツキトは驚いて目の前の志井を見つめた。志井は静かだ。カチカチと時を刻む時計の針の音がいやにはっきり聞こえたと思った。
  ツキトはベッドの上から必死に志井の顔を見つめ、そして言った。
「俺…俺、ごめん、志井さん…」
「何がだ」
「俺、晩御飯…」
「いらないっつっただろ」
「でも……」
「それより。いつからだ」
「え……」
  また厳しく訊かれてツキトは言いよどんだ。志井はイラついたように言った。
「いつから具合が悪かったんだ。昨日の今日じゃないだろ」
「な、んで……」
「薬があった。大分減ってたぞ」
「………」
  出しっぱなしにしていただろうか。しまったと思いながらツキトは唇を噛んだ。
「何で黙ってた」
  言葉を出せずにいると追い討ちのように志井は言った。
「お前は俺を人殺しにする気か。死にそうなガキを毎晩抱いて、気づかないうちにヤり殺してたかもしれないだろうが。毎晩毎晩よがりやがって。たまには逆らえよ」
「そん…っ」
  ひどい言い方に二の句が告げずにいると、志井はまた小さく舌打ちして視線を逸らした。ツキトはそんな志井の横顔を見つめながらみるみる迫ってくる胸の痛みを抱きつつ言った。声がきちんと出ていたかは定かではないが。
「……嫌じゃなかったから」
  志井は応えなかった。やはり聞こえていないのだろうとツキトは思った。
  それでも構わず続ける。
「志井さんと一緒にいたかったんだ…」
「………」
「志井さんに抱いてもらいたかったんだ…」
「だったら…」
  すると志井は腹の底から絞り出すような声でまずそれだけを言い、それから急にきっとなってツキトを睨むと半ばヒステリックに怒鳴り散らした。
「だったらそんな死にそうな面してんじゃねえよ!」
「……っ」
「お前は…気づいていないのか。いつだって無理して…俺を見て、泣いて…」
「ちが…」
「当たり前だ。それが普通の反応だ。そもそもお前が出て行くと言った時、引きとめた俺が間違ってた。俺もあの時は…頭がおかしかった」
  何かがガンと脳天を叩き割ってきた気がした。
  痛みが増幅し、ツキトはみるみるうちに涙がこぼれてきてどうしようもなくなった。
「俺たち…もう、駄目なの…?」
  否定して欲しくてそう訊いたが、暫くの間の後志井は言った。
「とっくにな……」
  それはひどく疲弊したような、憔悴した声だった。
「嫌だ…」
「………」
「嫌だ、志井さん…」
  往生際悪く縋ってみたが、志井は首を振った。
「嫌だじゃない…。お前は俺といるのがキツイんだよ、何で分からない。ちゃんと自分に訊いてみろよ。そしたらすぐ分かるだろうが…」
「違う…」
「絵を描かなくなったのも」
「え…?」
「俺のせいだろ…」
  志井はツキトの顔を見ていなかった。節目がちに吐かれたその台詞にツキトは声を失った。
  何も言えなかった。
「……新しい部屋は見つけてやる」
  志井が言った。暗闇の中でその表情はもう読み取る事はできなかった。
「金も出してやる。お前が新しい仕事見つけるまで…遊ばせてもらった代償は払ってやるよ。お前の面倒くらい見てやる」
「遊び…?」
「そうさ」
  急に涙の温度が感じられなくなった。すっと冷たくなる全身にツキトが茫然としていると、志井はそんなツキトの前髪をさらりと撫でた。そうしてすっかり抑揚の取れた声で自分を見つめる元恋人に言い放った。
「お前の代わりなんて幾らでもいる。こんな弱った奴は、もうゴメンだ…」
「………」
  起き上がって志井にそれは違うだろうと、嘘だろうと言いたかったが声がもう出なかった。ただショックが大き過ぎたのか、頭の痛み、胸の痛みは消えていた。感じられなくなってしまっただけなんだろうか、頭の隅でそんな事をぼんやりと思いながら、ツキトはただ自分の頭を撫でる志井を見つめていた。
「俺が…」
  やがて意思に反して自らの唇が動くのをツキトは感じた。志井は黙ってそんなツキトを見やっていた。 
「俺がこうなったの志井さんのせいだ…。知ってるだろ」
  志井はやはり応えなかった。ツキトは急かされるように口を開いていた。
「もし俺が強くなったらまた遊んでくれる…?」
「バカが…」
「バカだよ…。だからこんな所にいるんじゃないか…」
「……俺を犯罪者にする前にここから消えろ」
  吐き捨てるように、低く押し殺したような声で志井は言った。しかし刹那、まるで何かに突き動かされるように、その衝動のまま、志井はツキトに唇を寄せた。
「あ…」
  その口づけは。
  気遣うような、本当に触れるだけの、それは遠慮がちなキスだった。
「志井さん……」
「もう寝ろ」
  ツキトから手を離し、立ち上がると志井は言った。少しだけ開いていたドアから差し込む電気の光で、その時ツキトは初めて志井が未だスーツのままだという事に気がついた。
「志井さん…」
「今は寝ろ。明日…ここを出ればお前の痛みは消えてなくなる」

  まるで全部が夢だったみたいに。
  俺から開放されれば、お前はもう自由なのだから。

「………どうして」
  こんなに好きなのに。
  けれどもうツキトは去っていく志井にかける言葉を見つける事ができなかった。独りにされた部屋の中で消えた痛みについて考える。あの人から開放されれば、もうあの痛みがやってくる事はないのだろうか。自分はまた、あの人に会う前の日常を送る事ができるのだろか、と。
「志井さん……」
  考えても出てきそうにない答え。ツキトは再びぐっと目をつむった。身体を横向きにしてシーツの匂いを嗅ぎ、その感触を確かめる。頬を伝う何かが鬱陶しかったけれど、今はそんな事はどうでも良いと思った。
  今はただ、このベッドの温もりで志井の熱を思い出していたかった。