それはぜんぶ、好きな味



  ツキトは志井のことを尊敬している。
  ツキトにとって志井はカッコイイし、優しいし、何でもできる。特にこの「何でもできる」ということに関しては半ば驚異的にすら思っていて、一通り学べばどんなことでも人並以上にこなせてしまう志井を、ツキトは心から「凄い」と思っていた。
  それは例えば陶芸であったり。
  料理もそうだ。

「ツキト。これ初めて作ってみたんだが、ちょっと味見してみてくれ」

  その日もツキトは互いの隙を見つけて志井の住むマンションへ遊びに来ていた。そしてそういう時は大抵昼食を共にすることになっていて、この時もそれは変わりなかった。兄の太樹が「早過ぎる門限」を課してくるせいで夕飯まではいられないので、この昼食は実に貴重な時間なのだが、最近では外で食べるよりも、こうして志井が家で作ることが圧倒的に多くなっていた。
  有り体に言えば、その方が部屋でいちゃいちゃできる時間が増えるからだ。

「わ。何これ? 花?」

  そんなわけで、この日も志井は朝からツキトの為に考えた新メニューに挑戦していたのだが、今回は自信がなかったのか、味見の段階からその品を見せてきた。
  それは野菜なのか花なのか?
  赤く美しい色をしたその植物は、何らかのソースと絡まって、サイコロ状に小さく切り分けられた牛肉と一緒に添えられていた。ツキトは一度も見たことがない。

「タルティーボって言うんだ。イタリア野菜の王様だな」
「へーえ。初めて見た」
「あまり見ないかもな。この間、善太郎が持ってきたんだ」
「相馬さん、今度はイタリアに行っていたの?」
「さあ、どうだかな。あいつはしょっちゅうあっちこっち飛んでいるから。まぁあんな奴のことはどうでもいいから、とりあえず早く食べてみてくれ」
「志井さんって、相馬さんのことになるとかなり適当だよね」
 
  ツキトが苦笑しながら指摘すると、志井は少しむくれたようになって「ツキトがあいつと仲良くし過ぎるのがいけない」などと実に正直な感想を述べてきた。

「……いただきますっ」

  それが何だか気恥ずかしくて、ツキトはごまかすように差し出された皿からその赤い花びらのような部分をフォークで切って口に運んだ。

「………」

  どんな味か想像もせずいきなり放り込んだせいか、その甘苦い味はこれまでにない食感で、「微妙」なものだった。
  率直に言えば、あまり好きな味ではない。

「どうだ…? やっぱり、あまりうまくないか?」
「え!? いや、美味しいよっ!? でも、やっぱりって何? 志井さんはこれ、好きな味じゃなかったの?」
「いや、俺は好きな方なんだけど、ツキトには合わないような気もしていて…。一応、苦みを消すためにブルーベリージャムでソテーにしてみたんだが…」

  確かに少し大人な味だったかもしれない。ツキトとて、もう二十歳を超えた立派な大人ではあるが、味覚に関しては志井からも兄からも「お子様」とからかわれることが多い。ツキトは志井が作るオムライスだったり、典子得意のハンバーグだったり、或いは有名店のプリンだったり。そういう「如何にも」なものが好きなのだ。
  しかし志井が作ってくれたものだ。「合わない」などと正直に言う選択肢はツキトにはない。

「俺も好きな味だよ? 大丈夫、全然いけてるよ」
「……ホントか? 肉は勿論イイやつなんだが、けどやっぱり…ソースはいつものやつに戻すこともできるぞ?」
「何で、大丈夫だって。そんなの二度手間だし! 第一、俺、志井さんが作ってくれたものなら何だって好きだし!」
「お前はすぐそうやって俺を甘やかすんだよな…」

  志井は困ったような憮然としたような顔で小さく呟いた。ツキトはドキリとした。志井を気遣ったつもりだけれど、その態度が却って志井に気づまりな想いをさせたのだろうか。
  志井が嫌な気持ちになっていたら大変だ。

「ご、ごめん、俺…! 志井さん、怒った?」
「は? い、いや、怒るわけないだろ? 何でそうなるんだ、俺こそ悪い! そん、そんななぁ、困った顔するなよ!?」
「えっ、ごめん! いや違う、でもごめん! でも志井さんこそ困った顔してるし!」
「してない! 強いて言えば、お前がテンパってるのに戸惑ってるだけだ!」
「ごめん!」
「だから謝るのはなしだって!」
「うん、ごめん!」
「ツキト!!」
「あっ!」

  決してわざとやっているわけではない。ツキトは素で謝り倒して墓穴を掘っただけである。それでも一度パニックになるともう駄目で、最近はめっきりこういう「失態」も減っていたのに、やっぱり時々は「こう」なってしまう。
  志井に嫌われたくないが故に、異常に卑屈な態度を取ってしまう。
  それに対して、志井もついつい「怒ったような」声をあげてしまう。
  そうして互いに「やってしまった」と後悔して黙り込む。

「……飯にするか」

  先に立ち直ったのは志井だった。ただでさえ丸一日一緒にいることは不可能なのだ。くだらないことで気まずいままなのは勘弁だと思ったのだろう。いまだ立ち直れていないツキトを後目に、志井はさっと立ち上がると再びキッチンへ戻って昼食の準備を再開した。
  ツキトはそんな志井の背中を成す術なく見つめた。志井が怒っていたらどうしよう。こんな自分に愛想を尽かせてしまったら? ……そんな不安を感じながら、それでもツキトは志井にかける言葉を見つけられずに途方にくれた。

「ツキト、できたぞ」

  やがて志井がレストランのウエイターのように皿を何枚も両手に携え戻ってきた。
  それからテーブル上にそれらを並べ、フォークとナイフも完璧に揃えて、ツキトに「どうぞ」と微笑んでみせる。志井の目は穏やかだった。どうやら怒っていないようだとツキトはほっとして、「いただきます」と両手を合わせ、まずはスープに口をつけた。

「……っ!?」

  けれどそれは。

「がっ…」

  とんでもなく、マズイ。

「どうしたツキト?」
「えっ」

  訊かれてツキトは慌てて顔を上げた。志井は怪訝な顔をしている。ツキトはもう一度、そのじゃがいものスープか何かだろうか? 見た感じは全く綺麗な色をした白色の液体を眺めて、ごくりと喉を鳴らした。
  気のせいなどではない。このスープはとんでもなく不味かった。先ほどのタルティーボのソースは自分の味覚に合う合わないとか、そんなレベルの話だったが、このスープはそういう次元のものではない。単純に「物凄くまずい」のだ。とても飲めた代物ではない。
  一体、料理上手の志井に何が起きたのか。新しいソースに気を取られて、こちらのスープには何か間違った調味料でも入れてしまったのか。

「何か変だったか?」

  志井が改めて訊いてきた。明らかに様子のおかしいツキトに違和感を覚えたのだろう。
  ツキトはどうしようと考えた挙句、しかしもう一度スプーンを握り直すと、そのスープをもう一口啜り、(やっぱりとんでもなくまずい)と心の中で絶叫しつつも、渾身の気合で笑ってみせた。

「ううん、何でもないよ。美味しいよ? 志井さんの作るものは何でも凄く美味しい」
「……ツキト」
「いつもありがとう、志井さん。俺もたまには志井さんに食事作ったりできるといいんだけど…俺が料理全然駄目なのは、もうとっくに証明済みだもんね。あ、でも、それで諦めてたら駄目だよね? やっぱり、俺も頑張って料理習おうか――」
「ツキトっ!」
「わっ!?」

  ツキトがじりじりする舌をごまかそうと急いで紡いでいた言葉を、しかし志井が途中で遮った。

「し、志井さん!?」

  しかもいきなりガバリと立ち上がると、志井はそのまま両腕を広げて、ツキトを力いっぱい抱きしめてきたのだ。
  それはあまりに強い力で、ツキトは先ほどの激マズのスープを出してしまうかと思うほどだった。

「すまない、ツキト!」
「え? ど、どうし――」
「何で不味いって言わないんだ!? 何でそんなに俺に気を遣うんだよ!? ああでも、それがツキトなんだよな! そんなこと知っていたのに、俺は大馬鹿野郎だ! 俺のこと、思いっ切りぶん殴ってくれ、頼む!」
「ちょっ…志井さ…」
「あれがうまいわけないだろ! ああもう、本当にすまん!」
「え……ええっ? もしかして、わざと…!?」

  ツキトが志井にぎゅうぎゅうと抱きしめられながらも「その事実」に驚愕すると、志井は心底気まずそうな顔をしながらそっと身体を離し、もう一度深々と頭を下げた。

「本当に悪い。これだけはっきり不味くしたら、さすがにツキトは俺を責めるんじゃないか、文句言うんじゃないかと思って……とんでもないことした」
「そ、そんな、志井さん。な、何なの、それ…?」
「だってお前が、あんまり何でもかんでも俺を称賛しまくるからだな…。いやでも、最悪だ、本当に。気の迷いなんてもんじゃ到底許されねェ。だから罵ってくれ、ツキト! 俺を!」
「そ…無理だよ、俺が志井さんを、そんな…!」
「だからそんな風に遠慮するな、頼む! 余計つらくなる!」
「えっ!? ごめん!」
「あ!? いや違う、俺こそが悪いんだ! 謝るな!」
「そんなこと! 俺の方がごめんだよ!?」
「……ツキト」
「あっ、そうか、こういうところが駄目なのか、ごめんっ!」
「……まずいな。真剣に泣けてきた」

  俺にそんな資格ないのに、と。
  志井は口元でもごもごと呟いてさらに苦悶した顔になりつつ、しかしその後は再度居た堪れなくなったようにツキトの身体を掻き抱いた。
  ツキトはそんな志井に返すべく、これまた必死にその背に腕を回してぎゅっと胸に鼻先擦りつけたのだが。
  互いが互いに必死に抱き合うその様子は、恐らく第三者が目撃したならば、どうにも異様なものに見えたことだろう。

「ツキト……好きだ」
「うん。俺も…」

  けれども2人は2人だけの空間で、そうして好意を伝え合った後も、まだ暫し離れ難く抱き合っていた。ツキトは自分から離れるのは嫌だと思っていたので、志井が離してくるまではこの手を離さないと決めていたし、恐らくは志井もそうだったから、その時間はとても長いものだった。

(あ……もう不味くないや……)

  だからそうこうしているうちにツキトの口内に在った苦味は過ぎ去り、今はただ温かい感触のみが残った。
  ツキトが志井を殴れるわけがない。
  だから、もしも志井が自分にわざとまずいものを与えて謝りたいと言うのなら、もう少しこうして抱きしめてくれたらよいなと、ツキトは口には出さないまま、ただ愛しい胸に縋ってその想いを念じた。
  それが伝わったのかどうかは定かでないが、その後も志井はツキトを抱く力を弱めることはなく、それどころか頭に何度も親愛のキスをしては「好きだ」の言葉を繰り返した。
  ツキトはそれだけで夢見心地となり、自分をここまで幸せな気持ちにさせてくれる志井は「やっぱり凄い」と、普段の称賛オーラを出しまくった。