零れ落ちた感情―番外1―
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その日は志井から「どうしても帰れない」と電話で連絡があり、ツキトはしんとしたリビングの中央で小さくため息をついた。 1人の夜は嫌いだ。 「ガキじゃないってのに…」 情けない自分に毒づきながらも、ツキトはリビングだけでなくダイニングや隣の寝室、はては玄関、浴室まで…全ての部屋の電灯をつけまくり、ハッと息を吐いた。 それから再び誰もいないリビングのソファに腰掛ける。 「……静かだな」 テレビをつけようか。音楽をかけてみようか。 そんな風にも思ったけれど、一旦腰を下ろしてしまうともうそんな動作すら億劫だった。あとほんの少し手を伸ばせば、テレビのリモコンまではすぐだというのに。 傍にあるクッションをぎゅうと抱きしめ、ツキトはもう一度息を吐いた。 志井はいつもやさしい。大好きだ。 『ツキトと少しでも多く一緒にいたいから』 そう言って志井は今まで勤めていた会社をあっさり辞めてしまうと、これまでとは全く異なるフリーの翻訳の仕事を始めた。元々が外資系企業の通信部に所属していたからというのもあるが、海外に出張する事も多かった志井は語学も堪能だった。また性格的にもマイペースで几帳面なところがあるから、あれで案外向いている仕事だったのかもしれない。仕事は多忙を極めた。 本来、裕福だった両親が遺してくれた財産のお陰で志井は別段働かなくともそれなりに生きていけるだけの蓄えはあり、無理に仕事を取る必要はない身分だった。ツキトと一緒にいたいのなら余計な仕事など増やさなければいい。 それでも「動いていないと、ただでさえ腐っている俺がもっと腐るから」という理由で、志井は仕事を辞める事はできないとツキトに言った。そしてそんな理由で続けている仕事であるのに、それは本人の意思に反しどんどん忙しいものになっていったというわけだ。 けれどツキトはそんな志井のことが誇りだった。 志井は凄いのだ。あらゆる才に長けていて「非凡な人」で、自分などとははなから釣り合いの取れる人ではないのだと思う。 そして、そんな志井が何故自分のような人間の方をこそ「非凡」と呼ぶのだろうかと、ツキトにはそれが不思議でならない。 「はあ…」 ため息を1つつき、ツキトは自らの右手を目の前に掲げるとぎゅっぎゅと固く握り直してみた。 握力がある。何でも握れそうだと思った。 けれど。 「志井さん…」 ぽつりと呼ぶと、もう胸が痛い。テーブルの上に置いたままのスケッチブックに目をやってしまうと、途端にまた右手の力は失われた。 志井とここで暮らすようになってからもう大分経つけれど、いつまでも成長のない自分が嫌になる。 「志井さん…」 もう一度と、ツキトは志井の名前を呼んだ。時々は下の名前…「克己さん」とも呼んでみるが、やはりそれは何だか照れくさくて思うようにはなかなか呼べない。志井は呼び名などどうでもいいと言ってくれるけれど、ツキトはそのうちは「克己さん」と呼べるようになりたいと思っている。 志井が本当はそう呼ばれるととても喜ぶのを知っていたから。 プルルルル… その時、ソファの隅に落としていた携帯が音を立てた。 「……っ。はいっ?」 慌てて取ると、声の向こうの主はツキトのその様子に微かに苦く笑ったようだった。 『その様子じゃ、まだ起きてたな』 「志井さん…」 嬉しい。もう今夜は電話をくれないと思っていたから。 ツキトの不安だった気持ちにぽっと温かい火が点った。 『寝ていたら悪いかとも思ったんだけどな、どうしてももう一度ツキトの声が聞きたくて』 「うん…。俺も…」 大事に大事に、志井の声を届けてくれる携帯電話を耳に当てながら、ツキトはゆっくりと目を瞑った。志井の温かい声がじくじくと胸に染み渡る。耳から頬へ、喉元から胸へ、腹へ、そして足の指先にまで。どんどんと伝わっていく。 「志井さん…今ホテル?」 『ああ。明日は朝イチで帰るからな』 「うん」 『ツキトが起きる前には帰る』 「本当? ……うん」 『……今、何してた?』 「うん。ソファに座ってた。一番明るいところ」 思わず口走ってしまったツキトのその言葉に、志井は一瞬言い淀んだようになった。 けれどもすぐに凛とした声を出すと。 『……俺のベッドで寝て待ってろ』 ――そう言ってくれた。ツキトは思わず顔を綻ばせた。 「うん」 『明日なんかすぐだ』 「うん」 『そうだ。土産は何がいい』 「うん」 『……お前。『うん』以外何かないのか?』 「うん」 『ツキト』 「だって…」 呆れたような志井の声にツキトは慌てながらも、それでも何も言えずにいた。何か言えと言われてそのまま素直に口を開いたりしたら、たちまち本音が出てしまいそうで怖かった。 早く帰ってきてとか、寂しいとか。部屋中全部の電気をつけてる、本当は一秒だって独りでなんていたくないのだと。 そんなバカな我がままを言ってしまいそうだから。 『ツキト』 けれどそんなツキトの思いを見透かしたような声がその後すぐにやってきた。 『ツキト…愛してる』 「志井さん…」 『愛してるからな…』 「……うん」 『…お前が眠るまで、ずっとこうしててやる』 「………」 『このままベッド行け。な…ずっと何か話しててやるから』 「……そんなの」 『いいから行けよ。今日あった事とか話してやる』 「………うん」 不意に泣きそうになるのを堪え、ツキトはふっと表情を緩めた。 離れていたって、今はこんなに近い。 大好きだ、志井さん。 「志井さん…」 けれどツキトはその思いを何故か口にする事ができなかった。自分が声を発することで志井が沈黙するのが嫌だった。ずっと志井だけの声を聞いていたい。志井に語りかけていて欲しい。 そう、思ったから。 『ツキト…。可愛いお前の顔を…早く見たい…』 以前のあの時なら決して聞く事など叶わなかっただろうそんな台詞を、志井は何度も紡いでくれた。 ツキトはソファの上で膝を抱えたまま、うっとりとそんな志井の声を聞いていた。 このまま深い眠りにつきたい。そうすれば、目が覚めた時にはもう志井がいるのだ。 「志井さん…早く帰ってきて…」 ああ、やっぱり口にしてしまった。 つい零してしまった失言にちくりと胸を痛めながら、ツキトは煌々と明りのつく部屋で苦笑しつつ、そっと身体を丸めた。 |
了 |