温かい月



  小林太樹(こばやし たいき)は基本的に家族の誰も好きではなかったが、殊更嫌いなのが妹の陽子(ようこ)だった。陽子は兄である自分に似て狡賢く、わざとらしく作る笑みもいつもどこか偉そうなので、見ているだけで腹の底からムカムカするのだ。世間では「仲の良い兄妹」という事になっているが、本当は一秒だって一緒にいたくはない。
「そんなのはアタシだってそうよ。仕事でなかったら誰が兄さんみたいな人と」
  ふわりとカールのかかった長い髪を弄びながら、陽子は社長室のソファで足を組みフンと笑った。そんな彼女は真っ赤な口紅にマニキュア、おまけに身に纏っているスーツまで毒々しい赤色をしていたが、厭味なくらい似合っているのは彼女の恵まれた容姿のせいだと言えた。
  どちらにしろ最悪な趣味には変わりないと太樹などは思うのだが。
  今年の春に大学を卒業し本格的に家の事業に参画し始めたその賢しい妹は、朝からずっと不機嫌な様子の太樹を前にしても悠々としていた。
「今日は秘書室の人たち以外は皆逃げちゃってるわね。兄さんが鬼みたいな顔しているからよ」
「仕事で出ているだけだ」
「誤魔化そうとしてもダメよ。小林グループの次期トップになろうって人が公私混同しちゃっていいワケ?」
  それに、と陽子は組んでいた足を解くと今度は傍にある煙草に手を伸ばし言った。
「月人(ツキト)を追い出したのは兄さんじゃない? 自分から手放しておいて今さら逃がした魚の大きさに後悔されてもねえ。巻き込まれる方は堪らないわよ」
「陽子」
「何」
  太樹の殺気立った表情も陽子には何という事もないらしい。いい加減慣れてしまったのか、それとも彼女も同じくらい今回の事には頭にきているのか。
  どうやら答えは後者のようだった。
「あの子が家を出て行ったのはね。そりゃあ父さんたちやアタシにも非があったと思うけど、一番の原因はやっぱり太樹兄さんよ。兄さんが月人をクズ扱いして散々苛めたのがいけないんだわ。あの子はバカで役に立たないところが可愛かったんだから、ホントはあのままで良かったのよ。適度に弄って適度に好きな絵でも描かせていれば、今頃はまだアタシたちの傍にいたのに」
「………」
「なのにあの最後の年はしつこいほど責めたじゃない。あれさえなければ…」
「陽子」
「何よ」
「少し黙れ」
「嫌よ」
「………」
「月人、探してよ。ちゃんと東京に人やってるんでしょうね? 早く連れ戻してよ」
「連れ帰ってもお前にどうこうさせるつもりはない。あいつには俺の仕事を手伝わせる」
「それってアタシと仕事するって事じゃない。けど…つまりはそれよそれ。それだから月人は逃げ出したんだって何度も言ってるでしょ? 太樹兄さんが月人の卒業後の進路を勝手に決めようとしたのがいけないのよ。大人しい子だからって、全部自分の言うなりになると思ってたんでしょ? 全く甘いったら…」
「………」
  ぺらぺらとよく動く妹の口を忌々しそうに見やっていた太樹は、やがてあからさまに舌打ちすると手にしていた書類を全て足元に投げ捨てた。言い返してやりたい事など幾らでもあったけれど、最早この生意気な妹と舌戦を交わす程のエネルギーが今の太樹にはなかった。気力などとうになくなっていた。仕事に対してもその他の生活に対しても、全て。
  弟の月人がいなくなってしまったあの時から。
  どうせすぐ音を上げて帰ってくる。最後にはきっと自分を頼ると思っていたのに。

  ツキト…

『太樹兄さん、僕、将来絵描きになりたいんだ』
  大人しく、自己主張などめったにした事のない痩せっぽちの弟。その弟が高校卒業を控えたある日、思い切ったようにそう口を開き言ったのだ。
『だから…だから、兄さんが言う大学にも行きたくないし…。絵の勉強したいんだ。僕、兄さんや陽子姉さんみたいに家の事業手伝うなんて無理だから…!』
  既に父より一家の発言権を得ている兄の太樹が自分の夢を応援してくれるのならば、きっと道は開ける。愚かな弟はそう考えたに違いない。頬を上気させ、その後も何やら熱心に語っていたのだ。絵が描きたいと。色々な物を見て回りたいのだと。
「そんな事を許せるわけがない…」
「え?」
  ぽつりと呟いた太樹の言葉を訝って陽子が顔を上げた。太樹がそれに応えるはずもなく、無駄に広い社長室には重苦しい沈黙だけが漂っていた。
  地元でも有数の名士である小林家は建設業をはじめとした多くの事業を手がけている、昨今急成長の企業グループでもある。
  けれどそんな華々しい雰囲気は、少なくとも今この場所には一欠けらも感じる事はできなかった。
  そこには純粋な弟の心根ひとつ理解できなかった、傲慢な兄と姉がいるだけだ。
「アタシたちって両方とも性格サイアクだから」
  陽子がため息交じりに言った。
「月人がいてくれて丁度良いのよね。あの子こそが太陽よ。冷たい太陽(アタシたち)に比べてあの子はあったかいお月サマ。……そ、兄さんにどんな悪態つかれても後であの子に八つ当たりするとスッとして気が晴れたっけなぁ。あーあ、ホント、どこ行っちゃったんだろ。あの子可愛いし。東京なんか行ったら絶対モテてるわよ。今頃アタシたちの事なんかすっぱり忘れて、可愛いカノジョ作って楽しくやってるかもね」
「そんなわけあるか」
「はっ…。どうしてそう言えるわけ?」
「あんな不器用な奴にそんな生き方できるわけがない。むしろどこかで飢え死にしているかもな」
「……どうしてそうひねくれた物言いしかできないのかしらねえ」
  陽子の呆れた言い様に太樹があからさまむっとすると、追い討ちを掛けるように妹は続けた。
「兄さん。気づいてるワケ? 月人の行方が分からなくなってから一番どんどんやつれていってるの、兄さんよ。今朝だって興信所からの連絡が不発だったから部下に当たってたんでしょ」
「当たってねえよ!」
「あらら。今度はアタシに怒鳴っちゃう」
  嫌だ嫌だ…と陽子は肩を竦め、そうして改めて遠くを見るような目で呟いた。
「そうね、兄さんやアタシみたいなのがこんななんだから…。月人はもうきっと誰かに捕まってるわね。せめて性悪な人間吸い寄せてないといいんだけど」
「………」
「ねえっ。もしかして月人の事だから兄さんみたいなオトコに言い寄られてたりねっ」
「陽子」
「なあに」
「二度と言うな」
「………」
  今までで一番殺気の篭った兄の声に、さすがの陽子も息を呑んだ。
  太樹は太樹でそんな妹の様子にはまるで気づいていなかった。ただ言われた言葉だけが耳の奥で何度も何度も木霊した。

  兄さんみたいなオトコに言い寄られてたりね…。

「もしそんな奴がいたら…」
  コロシテヤル。
「……太樹兄さん?」
「月人は連れ戻す。今度は何処へも逃げ出せないようにするさ。少し甘やかし過ぎたな」
「…反省してないし」
  兄の台詞にまたまた大きくため息をついて、陽子は「お手上げ」という風に天を仰いだ。そうしてその直前兄から感じた不穏な空気には敢えて気づかぬフリをして、陽子はすっくと立ち上がった。
「帰るわ。今日はこれからデートだから」
「美作の長男か?」
「そう。お得でしょ。あそこは、なかなか」
「まあな」
「妹は平気で売り飛ばすくせに弟は自分のモノ…なんだから」
「何か言ったか」
「言ったわ。月人、帰ってきたらアタシにも遊ばせてよ」
「バカが。さっさと消えろ」
  陽子の発言を一蹴し、太樹は犬を追い払うように片手を振った。そういえば今日は日曜日だというのに、何が悲しくてこんな妹とこんな所で2人でいなければいけないのか。
「くそ…」
  バタンと閉じられたドアを見届けてから、太樹は思い切り舌打ちしてそのままギシリと椅子に深く寄りかかった。目を瞑る。もう大分会っていないけれど鮮明に浮かぶ弟の姿を思い描き、太樹は目を閉じたまま眉をひそめた。

  兄さん…僕…。

「何が絵描きだ…」
  お前にそんな才能などあるものか。お前は俺の傍にいればいい。俺に従順につき従っていればいいんだ。そしてもし本当に他の誰かにあの細い身体を触らせていたとしたら。
  その時は。
「月人…早く帰ってこい…」
  途中まで考えていた思考を放棄して太樹はうわ言のようにそう呟いた。










本編回想時にちょこりと名前だけ出て来たツキトの兄さんと姉さん。こんな人たちらしい〜。