熱情


「ツキト」
  仕事を終え帰宅した太樹が真っ先にツキトの部屋へ向かうと、果たしてその弟はいつもと同じようにベッドの上でスケッチブック片手に嬉々として絵を描いていた。
「あ…太樹兄さん、お帰りなさい」
  さっと顔を上げた先に見えるその笑顔は本来嬉しいもののはずだったが、最近太樹は弟のそれを見ても素直に笑う事ができなくなっていた。
「……またそんな無駄な事をしていたのか」
  それどころか常に無愛想な声が出てしまう。
  鬱陶しそうにネクタイを緩めながらそう言う太樹に、ツキトは途端弱々しく目尻を下げた。無理に笑おうとして失敗する時の、それはいつもの表情だった。
「う、うん。でもこれは選択授業の宿題だよ」
「そもそも美術なんて余計な科目を取るのが間違いだ。選択必修は英語か数学にしろと言っただろう」
「……どっちも苦手だから」
「………」
「ごっ…ごめんなさい!」
  いつものように叱り飛ばされるとでも思ったのか、もう高校2年にもなるのにツキトは小さな子どものように萎縮して俯いた。恐ろしい兄の詰問に言い返す事も、うまい具合にかわす事もできない。そんな不器用さが、鋭敏な家族たちからいつでも蔑まれ冷笑される原因になっていた。
「ツキト。今度の日曜日は俺と一緒に会社へ行くぞ」
「え…な、何で…?」
  隣に腰掛けて当然のようにそう言ってきた太樹にツキトは驚いて顔を上げた。
  太樹はそんなツキトの視線には構う風もなく、その手からスケッチブックを奪うとそれをまじまじと眺めた。
  誰だろう。白い紙の中では見知らぬ少女がキラキラとして笑っていた。
「別にお前は何もしなくていい。ただ俺の仕事を見ていろ。お前も大学を出たら小林グループの一員になるんだからな、今のうちにあっちの様子を見学しておくのもいいだろう」
「………」
「何だ?」
  いつもは素直に頷くツキトが困ったように言い淀んだので、太樹は途端端整な眉を吊り上げた。瞬時、手にしていたスケッチブックの中の少女がより綺麗に笑ったような気がした。
「あの…さ。日曜日、友達と映画を観に行く約束しているんだ」
「映画?」
「うん。今流行ってるんだって。それで…」
「女か?」
「えっ…」
「その友達だ。……こいつか?」
「……っ」
  途端ツキトの頬がぼっと燃え立ったように赤くなった。本当に分かりやすい弟だと思う。そういえば妹の陽子が「ツキトが生意気にも彼女を作ったらしい」と騒いでいたが、あれは嘘ではなかったのか。……そんな事を思いながら太樹はもう一度手の中の絵を眺め、それからそれを持ったまま立ち上がった。
「た、太樹兄さん…?」
「断れ」
「え……」
「その約束は断れ。分かったな」
「そ…そんなの、無理だよ…」
  じろりと見下ろし睨みつけると、案の定ツキトはびくんと肩を揺らして慌てて視線を逸らし、「ごめんなさい」とまた謝った。
  一体いつからだろうと思う。
  ツキトがこんな風に露骨に兄である自分に怯え、そして距離を取るようになったのは。以前はこれほど酷くなかったように思う。むしろ一族の中でもトップに立とうとする自分を尊敬の目で見ていたはずなのに。
  自分が変わったせいだろうか。このツキトに対して。
「……ツキト」
「……っ」
「分かったのか? どうなんだ?」
  再度顔を寄せて訊ねる太樹に、ツキトも恐る恐るという風に顔を向けてきた。
  だから。
  その今にも泣き出しそうな弟の瞳に、太樹は思わず欲情した。
  衝動に駆られる。この力ない弟を強引に組み伏せ己のモノだけにするということ。
「……うん。分かった」
  黙りこくったままの太樹に、暫くしてツキトが諦めたように頷いた。
「太樹兄さんと一緒に行くよ…」
「………」
「に、兄さん…? どうしたの…」
「分かったならいい」
「うん…ごめん」
「……二度と俺に逆らうな」
  しょんぼりとする弟に冷たく言い放ち、太樹はそのまま部屋を出た。むかむかとした気持ちを抑えられない。無意識のうちに取り上げてしまったスケッチブックが急に重くなったような気がした。そして脳裏に焼きついた忌々しい少女の笑顔が余計自身から沸き立つマイナスの感情に火をつけた。
  こんなガキとは早急に別れさせなければ。
「生意気に女だと…」
  吐き捨てるように呟き、太樹はぐっと空いている方の拳を握った。あの弱々しい役立たずの弟に何故自分はこうも入れ込んでいるのだろう。頭がおかしくなっているのか。
「くそ…」
  居た堪れない想いのまま、太樹は荒々しい足取りで弟の部屋とは反対方向の場所にある自室へと向かっていった。










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