「ちょっと月人! アタシのベッドシーツ換えておいてって言ったのに忘れてたでしょーッ!!」
「え…あっ。ご、ごめん!」
 太樹がちろりと横目で追った先には、いつでもギャーギャーと騒がしい妹と大人しい弟がリビングのソファで絡み合っていた。
 太樹たちの両親は今夜から1週間屋敷にはいない。父方の身内である県会議員の息子がハワイで挙式するとかで2人して出かけたのだ。大して会話のない親が数日いないくらいどうという事もないが、彼らはご丁寧にも住み込みの使用人まで連れて行ってしまった。
 つまり家の中の事をやる者がいない、というわけなのだが。
「ごめんで済んだら下僕はいらないのよ〜ッ。まったく月人はいっつもボケボケなんだからー!!」
「うぐっ…。ね、姉さん、苦し…っ」
 陽子がツキトの首に自らの腕を回し、ぐいぐいと容赦なく締め付けている。彼女は風呂上りらしく既に寝巻きに着替えていたが、相変わらずどういう趣味をしているのか、やたらとフリルのついたド派手なショッキングピンクのネグリジェを身に着けていた。
 太樹は無意識のうちに眉をひそめた。
 何となくこの後の展開が読める。
「悪い月人にはお仕置きしてあげなきゃね、お仕置き〜ッ」
 とにかく陽子は月人を「苛める」のが大好きだ。気分が乗らない時、機嫌が良い時、特に何もない時でも、暇さえあれば月人に辛辣な言葉やからかいの声を掛け、その反応をいちいち楽しむ。
「うふふ…。ほらほら月人〜」
「わっ…」
 そして陽子は何より月人の身体に触るのが大好きなのだ。
「ね、姉さん、やめ…!」
「あーっ。やだ月人、アタシのおっきい胸にぐりぐりしてもらって興奮してる〜。お姉様に欲情しちゃうなんて変態ねぇ」
「そ、そんなのしてない!」
「むっ、思い切り否定すんじゃないわよ。罰として更にぱふぱふの刑にしちゃうっ」
「やっ…」
「陽子、いい加減にしろ」
「………ちっ」
 太樹の制止に陽子はあからさまに舌打ちをし、それでも渋々と動きを止めた。
 キッチンからピリピリとくる怒りの低音は陽子が最も忌み嫌うものだ。世間では仲の良い兄妹として通っているが、陽子は兄の太樹が嫌いだし、太樹もこの非常識な妹が大嫌いだ。
 そしてそんな2人に挟まれた末っ子のツキトはいつでもオロオロするばかり。
「兄さん、何だって今日に限って帰りが早いの。折角今日はツキトを独り占めできるって思っていたのに」
「……月人、こっちへ来い」
「う、うん」
 陽子を無視して自分を呼ぶ太樹にツキトは慌てて頷き立ち上がった。先刻まで薄着の姉にセクハラ紛いの事をされて辟易していたのもあるのだろう、いつもは恐ろしい兄でも助かったと思ったのか、ツキトは素直に太樹の傍へと駆け寄った。
 それを見送った陽子はソファの前で大きくため息をつき、肩を竦める。
「あーあ。つまんない」
 それでも陽子は兄とツキトを取り合う気はないらしい。
 「彼氏のとこにでも電話しようかな」などと言い、彼女は思いのほかあっさりとその場を引いて、昨日と同じベッドシーツが待つ自室へと下がって行った。
 けれどすぐさま太樹の元へ来たツキトが、そんな姉の後ろ姿に困ったような視線を向けた。大方彼女のシーツを取り替えに行くべきかと悩んでいるのだろうが、お人よしにも程がある。
「月人」
 太樹はツキトを強い口調で呼ぶと、その余計な考えを遮断するようにして椅子を引いた。
「放っておけ。そんなもん自分でやらせろ」
「うん…」
「座れ」
「う、うん」
 椅子を引いてそこへ掛けろと促す太樹に、ツキトは従順に頷いた。大人しく腰を下ろすのを見届けてから、太樹はツキトが座った椅子の背もたれに手を掛けたまま言った。
「あれの事だからお袋たちが帰ってくるまでやりたい放題だろうが、お前もあのバカの言うなりにはなるな。図に乗る」
「………でも」
「何だ」
「な、何でもない…」
 慌てて口を噤むツキトは、自分の椅子に手を掛けたまま背後に立つ太樹から逃げるように首を竦めた。言ってはならない事を言ってしまったというような、オドオドとしたその仕草。
 小さくなるツキトを見つめながら太樹はその場に立ったまま、何故そうまでと自身でも不思議なくらい冷たい声を発した。
「あいつに何かされたのか」
「べっ、別に…」
「………」
 自分たちと違い嘘の下手な弟は蒼白になりながら首をぶんぶんと横に振った。それでも恐る恐る振り返った先、太樹の容赦ない眼光に再びびくんとなって下を向く。
 そんなツキトの項を見やりながら太樹は口を開いた。
「……金か」
「!!」
 あからさまにこちらを向いたツキトに太樹は思い切り眉をひそめた。
 それに気づいたツキトは焦ったように言葉を切る。
「だ、だってアルバイトしちゃ駄目だって言うから…!」
「あのバカにつけこまれてでも金が欲しいのか。そんなに小遣い足りないわけか、お前は?」
「………」
「バイトなんか時間の無駄だ。ただでさえ成績の悪いお前が――」
「……どうしても」
「ん…」
 珍しく食い下がるツキトに太樹は更に眉間に皺を寄せた。
 ツキトの必死な表情が視界に飛び込んでくる。
「どうしても行きたかったんだ。い、今S市の美術館でやっている絵画展、来月頭までで…っ。学生料金でも千円するし、1週間見に行ったとしても交通費とあわせて…」
「1週間?」
 何でそんなに行く必要があるんだと暗に示すと、ツキトはぼそぼそと口篭るようにして説明した。
「東京と違ってこっちでやる事なんてもうないよ…。本当は毎日見に行きたい…。で、でも兄さんが駄目って言うと思って」
「……1週間くらいなら許すと思ったのか?」
 呆れたように声を上げると、ツキトは今にも泣き出しそうな潤んだ瞳でそっと口を開いた。
「駄目…?」
「………」
 諦めきれないという風にこちらを見つめるツキトのその双眸に、太樹はまた訳の分からない苛立たしさに駆られた。絵なんてくだらない。そんなものに時間と情熱を傾ける弟が太樹には理解できないし、理解したくもない。いつでもそればかり見つめている、それにばかりこの純粋な瞳を注ぐ弟が許せない。
 お前は俺だけ見ていればいいんだ、と。
「……月人」
「え……」
 いつか言ってしまいそうで。
「まだ夕飯食ってないんだろ。冷めるから早く食べろ」
「兄さん…」
 テーブルの前に置かれた有名店の仕出し弁当はツキトの為だけに買ってきたものだ。使用人のいないこの家で食事の支度をする人間がいるはずもない。となると当然、陽子は外食だし、ツキトは食事を抜く。
 だから早くに帰ってきたのだと、太樹のそんな行動にツキトは気づくはずもないのだけれど。
「……兄さん、どうしても駄目?」
「しつこいぞ、月人」
「どうしても…」
「駄目だ」
「………」
 がっくりと項垂れるツキトの後ろ姿にまたちりりと胸が燃えるように熱くなる。
 妹の陽子などより余程重症なのだ、自分は。
「……っ」
 太樹は弟のほっそりとした首筋を再度見やった。今にも手を伸ばしそれに触れてしまいそうな自分を必死に抑える。強く抱き締めたらきっと驚きで声を上げるだろうその姿を想像し、目を瞑る。いつでも不安そうな声を紡ぎ出すその唇を強引に塞ぎたくなる、そんな自分を無理に殺す。
「……いつまでも」
 壊したいのに、壊したくない。
 その想いだけがここまで自分を縛り付けてきた。そうまでして護りたいものは一体何なのだろうかと常に自問自答しながら。
「いつまでもいじけるな。食う時は食う事に専念しろ。……残さず食べたら連れて行ってやる。今度の休みは俺も時間が取れそうだから」
「え…?」
 驚きに目を見開くツキトに胸の痛みが少しだけ和らぐ。
 けれどそれに敢えて目を逸らし、太樹はすっとその場から離れるとわざと素っ気無い声をあげた。
「残さず食べたら、だぞ」
「太樹兄さん、本当っ!?」
「……っ。でかい声出すな。夜だぞ」
「あっ、う、うんっ、ごめん! でも、ありがとう!!」
「………」
「僕、絶対全部食べるよっ。絶対!!」
「……分かった分かった」
「嬉しい!! ありがとう兄さん!!」
「………」
 きっと自分の弟は今とてつもなく眩しい顔で笑っているのだろう。あの瞳を輝かせてこちらを見ているに違いない。
「………」
 それでも太樹はツキトの顔を見たくはなかった。パチリとコンロの火をつけて湯を沸かす。どうでもいい作業だったが、今は振り返りたくはなかった。
 矛盾した自分を発見する度に、どす黒い想いは留めようもない程に広がっていくから。










ツキトのおまけページはみんな太樹兄さんネタになっていく…。
だって志井さんより人気あるみたいなので(笑)。