日曜日



  飾られていた絵画に関する記憶は殆どないと言うべきだろう。

「凄かったよね! 本当に来て良かった!」
  珍しく饒舌になる弟を好奇の目で見やりながら、太樹は何と言って良いやら適当な言葉が見当たらず沈黙していた。
  月人が尊敬しているという印象派のその画家は、確かにこういった方面に無頓着の太樹でも聞き覚えのある名ではあった。作品も以前より幾つかは見た事がある。
  ただ太樹にとってはそんな見知らぬ昔の男が描いたものよりも、それを見て目を輝かせている月人の横顔を眺めている事の方が余程貴重だった。こんな笑顔はもうずっと見ていない。こんなに熱心な眼差しはどこまで遡っても記憶にない。
  何もないちっぽけな弟だと思っていたのに。
「来週も来ていいんだよね?」
「………」
「……? 兄さん…?」
  展示場を抜けて入口のロビーにまで来た時、月人がようやく様子のおかしい太樹に気がついた。先刻からはしゃいで喋っていたのは自分だけというその事実にも思い至ったらしく、途端ハッとして困ったように俯いている。
  そんな弟をやはり愚かだなと太樹は思った。
「……腹減ってないか」
「え…?」
  太樹の救いのようなその台詞に月人がさっと顔を上げた。またみるみるほっとしたような安堵の笑みを広げ、控え目ながらも「うん」と深く頷く。
「ならどこかで食べて行くか。何がいい」
  思えばこんな風に2人で食事へ行くなどいつ以来だろう。
  元々こうして出かけること自体、月人が高校へ上がってからめっきり少なくなっていたから。
「僕は何でもいいよ。太樹兄さんの食べたい物で」
「………」
  その返答は容易に予想できるものだったが、太樹は月人のそれを物足りないと感じた。いつも何をするにも自分が決めてしまわねば気が済まないくせに、こういうところでは月人に「ねだって欲しい」と思ってしまうのだ。
「あ……」
「…?」
  その時、月人がふと何かに気づいたようになって小さな声を漏らした。疑問に思い太樹もさっと目をやると、いつの間に来ていたのか、美術館を出たすぐ前方に大きな黄色いワゴン車が停まっているのが見えた。車体同様カラフルな看板には「Fish&chips」という文字が塗られている。
「珍しいな…」
  太樹が何気なく呟くと、月人も兄が自分と同じものを見ている事に気づき嬉しそうな声を出した。
「あれって兄さんがロンドンに留学していた時よく食べたって言ってたやつでしょ?」
「ああ…そうだな」
「あれが食べたい!」
  月人は元気良くそう言うとだっと走りかけ、しかし途端はっとして立ち止まった。
  それから心配そうな顔をして太樹の事を振り返る。
「あ…でも。やっぱり兄さんは普通のレストランとかの方がいい?」
  その言い様に太樹は一瞬「何が《やっぱり》なんだ」と不快な気持ちがしたのだが、ふと、先日月人が「部活の皆と夏祭りに行きたい」というのを許可しなかった事を思い出した。祭りうんぬんは関係なく、単純に月人を外に出したくなかったから許さなかっただけなのだが、傍にいた陽子が一緒になって「大体、あんな所で売られている物は汚らしい。小林家の人間が行って良い所じゃない」などと言ったのだ。ワゴンのそれも祭りの露店と同じようなもので、月人はそれを気にしたのだろうと思った。
  月人は無頓着でいるようで意外に「小林家」という名をとても気にしている。幼い頃から暗示のように「グループの一員として恥じた行動は取るな」と言われ続けたせいかもしれない。
  最近では折に触れ「自分は兄さん達の手伝いをする能力はない」と零すようになっていたが。
「そういえば…ちょっと油っこいから、兄さんはあんまり好きじゃないって言ってたよね…。兄さんが嫌なら他の所でもいいよ」
  何も言わない太樹に月人が恐る恐る言った。
「……そんな顔でいいも何もあったもんじゃないだろ」
  けれど太樹は月人の言葉をそう言って切り捨てると先にワゴンへと向かい、早々に2人前を頼んだ。店に群がっていたカップルや女子大生らしき2人組が、突然現れた太樹に何か自分たちとは違ったオーラを感じたのかさっと身を引いて沈黙した。萎縮したりため息をついたりと反応は各人それぞれだったが、少なくとも誰もが太樹のような人間がこういった物を購入するのを意外に思っているようだった。
「店によって当たり外れが酷かったが…何だかんだでよく食べたさ」
  公園のベンチに腰を下ろし、月人に買ってきたものを差し出しながら太樹は言った。
「短期と言っても親父は陽子の時とは違って俺にはロクに金をくれなかったからな。こいつは手軽に食えたし、まあ思い出の一品ではあるか」
「…兄さん大変だったんだ。そういう事はあんまり話してくれなかったよね」
「別に言う事でもないだろ」
「でも……」
「そんな事はいいから、熱いうちに食え。衣は半分残せよ。胸焼けするからな」
「うん、分かった」
  嬉しそうに頷き、それから月人はがぶりと勢い良く手の中のそれをほうばった。
「……美味いか?」
「うんっ」
「………」
  元気良く返答する月人の横顔を眺めながら、太樹はふとほんの数年前の当時を思い返し目を細めた。
  思えばあの頃は、たとえ離れ離れに暮らしていても月人とは通じ合っていると感じられていた。ほぼ毎日メールをして近況を報告しあっては、早く会いたいと互いが同じ事を口にした。電話は滅多にしなかったが、それでも「早く兄さんに会いたい」と打ってくる月人からのメールを読むだけで、太樹の心は温かくなったものだ。普段自分の内から消し去っている感情がその時だけはふいに蘇るように、熱く。

  それが今は、一緒にいてもどこか遠い。

「兄さん?」
「ん…」
  呼ばれた事にはっとし、太樹が慌てて反応すると、月人が不思議そうな顔をして覗き込むような視線を寄越していた。
「どうかした?」
「……いや。俺のも食うか?」
「えっ。でも兄さんの分…」
「俺はいい。お前が食え」
「でも…」
  差し出されて月人は一瞬躊躇したが、けれどすぐに「うん」と言うと素直にそれを受け取った。
「ありがとう。…でも、そしたらこの後、また何か食べに行きたい」
「お前、まだ食べるのか?」
「うん。だって兄さんだって食べるでしょ? あっ…兄さんが早く帰らなくちゃ駄目なら…家で食べてもいいけど…」
「………いや」
  また「遠慮している」と多少嘆息しながら、それでも太樹は何とか笑うと、自分を見つめる月人の頭をそっと撫でた。
「兄さん?」
「家だと陽子がまた煩いからな。どこか食いに行くか」
「うんっ」
「………」
「じゃあ、これ早く食べるね!」
「いい。落ち着いて食え」
「うん。でも、早く食べるよ!」
「………」

  そうやってずっと笑っていればいいのに。

「ほら。こぼしてるぞ」
「ん…むっ、ごめ…」
「………」
  月人の慌てたような、それでいて直後に漏れる無邪気な笑顔を見つめながら、太樹はこれが何故いつまでも続かないのかと訝しんだ。それを消し去っている最たる原因が自分であるという事を、太樹はこの時点ではまだ自覚しきれていなかった。










太樹兄が徹底的に冷たく容赦がなくなったのはツキトが高校3年生になってから。
この時点ではツキトも家出しようなんて微塵も思っていません。