今日が土曜日だからだろうか、昼過ぎの駅前はいつもより人の流れが激しかった。このところ寒い日が続いていたが、休日の街並にそんな事は関係ないらしい。雑多な人ごみは全体的に明るい雰囲気に包まれているように見えた。
「 うわ…雨、降りそう」
  しかし駅の改札を出てすぐ、ツキトは薄暗い曇り空に少しだけ顔をしかめた。気のせいだろうか、確か先月もこんな感じのぐずついた空模様だったような気がする。ツキトは心の中だけで「ついてない」とつぶやくと出掛けに傘を持たなかった事を少しだけ後悔した。
「あ…やばい!」
  それでもツキトは何気なく視線を落とした腕時計が示す時刻にぎょっとすると、すぐさま思考を切り替えて焦ったように駆け出した。元々人を待たせるのは好きではない。それがあの人なら尚更だと思う。
  今日こそは自分が先にいてあの人を待とうと決めていた。




冷たい雨、熱い痕。



「志井さん!」
  息せき切っていつものカフェテラスに飛び込んだ時には、そう口に出した人物はもういつもの窓際の席に座って本を読んでいた。
「また…っ。遅れちゃってごめんなさい!」
「別に、時間前だろ」
  文庫本を開いていた志井は、今日は午前中にも珍しく仕事がなかったのだろうか、濃紺のセーターにジーンズというラフな格好をしていた。仕事に行く時と違い、髪もおろしている。リラックスした風貌の志井はいつもより2、3才は若く見えた。
「いつから…いたの…っ」
  まだ息を切らせながらツキトは着ていたコートを脱ぎ、近づいてきたウエイトレスにアイスコーヒーを頼むと志井の目の前の席に座った。志井の傍にあるホットコーヒーは既に半分近くなくなっている。 
  もっと早くに来れば良かった。
「家の時計、ちょっと遅れてて…」
  コートと鞄を横の椅子に置きながらツキトは言い訳のようにつぶやいた。もう一度腕時計に目を落とす。やはり着こうと思っていた時間より大分遅れてしまっていた。
「約束の時間までまだ15分はあるだろ。俺はここでメシ食う為に早く来てるだけだよ」
  ツキトの考えを読むように志井は言って、やや皮肉っぽい笑みを見せた。本を横に置き、それから所在ないようにコーヒーカップの縁を指でつとなぞる。
  そんな相手の所作を眺めながらツキトは「うん」と頷いたきり、暫く押し黙った。
  志井の「その回答」はいつもと全く同じものだが、それでも待たせるのは嫌だと思う。たまには早く来たいと思うのに、何故だかそれを許さないという風に、志井は毎月第3土曜日のこの時間、ツキトよりも早くこの店にいて同じ席に座っていた。
  それが今のツキトには嬉しくもあり、哀しくもあった。
  しかし、そんな感傷も今日で最後なのか。
「―――で」
「えっ」
  ぼんやりと考えに耽っているようなツキトに、志井は早速切り出した。ツキトが慌てて顔を上げると、志井は感情の読めない顔で領収書とペンをテーブルの上に出して言った。
「今日で終わりだな」
「あ…うん」
  志井のその素っ気無い言い様につきりと胸の痛む思いがしたが、それでもツキトは慌てて鞄から茶封筒を取り出し、それを志井に渡した。
「最後くらいピン札にしたかったけど」
「はっ、ンな事はどうでもいいよ」
「うん……」
  バカにしたような言い様にもツキトは腑抜けた笑いを見せつつ相槌を打ったが、志井が封筒から札を出して数え始めた時には堪らなくなり下を向いた。志井がこの金を数え終わり、自分に領収証を切ったら。
  本当に自分たちはこれで終わりなんだなと、いよいよ実感してしまう。
「……きっちりあるな」
  志井はそう言ってからツキトが予想したようにテーブルの上の領収書にその受け取った金額と年月日をさらさらと書き連ね、最後にはご丁寧に印鑑まで押した。
  そうしてそれを俯いているツキトに差し出す。
「これで晴れて借金生活ともおさらばだ。おめでとう」
「うん。志井さん、今までありがとう」
「………」
  礼を言った事に対し志井は何の反応も示さなかったが、別に構わないとツキトは思った。元々この事に関して志井は最初から怒っていたのだから、今更どう気分を害されようと大して事態は変わらないはずである。
  毎月の家賃、そして入居前に支払った敷金・礼金等。
「本当にたくさん借りちゃったね」
  思わずそう言ったツキトに志井はぴくりと眉を吊り上げた。あ、また怒っているとツキトは肌でその気配を感じ取ったが敢えて知らないフリをした。


  志井と別れて新しい住処―以前に住んでいたような木造家屋のボロアパートだが―に移り住む際、当然の事ながら無職のツキトはほぼ一文無しに近かった。
  完全に別れを宣告され、家を出ろと言われた時。
  当初志井はツキトの住む場所は自分が確保すると言い、そこの家賃も自分が負担するとのたまった。勿論ツキトがそんな提案に同意などできるはずもなかったが、現実に金がないのも事実だった。仕方なく志井には最初だけ借金を頼み、その代わり志井が住めと言った豪華な1DKのマンションは辞退し、今のボロアパートを勝手に契約した。
  それからのツキトは昼は清掃業、夜は近所のコンビニエンスストアでほぼ休みなしのアルバイトに勤しんだ。当初志井はそんなツキトに「金は返さなくてもいい、あれはお前にやったのだ」と半ば激昂していたが、決して折れないツキトの頑固さに最後には根負けすると「勝手にしろ」と吐き捨てて、後は何も言わなくなった。
  そうして暫くしてツキトが少しずつ金を返せる余裕を見つけられるようになると、2人は毎月第3土曜日にこうして志井の家から程近いカフェテリアで落ち合うようになった。勿論、ツキトが志井に借りた金を返す為だけに、である。
  この日は借金返済最後の日だった。
「飯、食ってくか」
  志井は茶封筒に入った札を尻ポケットに乱暴に突っ込むとぶっきらぼうにそう言った。
「あ…うん」
  志井がこうやって自分をこの席に引き止めるのは初めてだと思いながら、ツキトは反射的に頷いていた。いつもは金を受け取ると志井が席を立つか自分にさっさと帰れと言うかどちらかだったのに。
  やはり今日で最後だからだろうかとぼんやり思う。
「お待たせ致しました」
  ウエイトレスがアイスコーヒーを運んできて、ツキトはそのついでにナポリタンを注文した。別段食べたい物があったわけでもないのでメニューも見ずにそう言ったが、それに志井は大層不服そうな顔をしていた。
「お前。飯、ちゃんと食ってるのか」
  不機嫌そうな目を向けられ、ツキトはシロップに触れようとしていた手を止めるとそう言った相手をじっと見やった。相変わらず綺麗な顔だと思ったが、今はそんな事を考えている場合ではなかったと気づいたのは相手のより一層キツイ声を聞いてから後の事だった。
「会う度に小さくなってないか、お前? まともな生活してんのか?」
「してるよ。ちゃんと食べてる」
「どうせコンビニの余り物だろう」
「そ、そんな事ないよ…」
  余り物かどうかはともかく、自炊を殆どしていないのは本当だったから自然言葉尻が弱くなった。ツキトは誤魔化すように再び手を動かし、目の前に置かれたアイスコーヒーにシロップとミルクを加えストローでがちゃがちゃとかき混ぜた。寒い中よくそんな冷たい物が飲めるなと、そのコーヒーよりも冷たい声が掛かったが、それにも知らないフリをした。
「バイトは減らすんだろ」
「え?」
  それでも志井の詰問はこれで終わりではないようだった。不味そうな顔で冷め切っているだろうコーヒーを一口啜ると、苦々しい声を放つ。
「もう借金生活も終わるんだ。これからは休み取って、絵も描くだろ」
「あ…うん」
「………」
「そうするつもりだよ」
  志井の探るような目は苦手だと思う。それから逃れるように、ツキトは窓の外へ視線を向けた。相変わらず人の通りが多い。今にも雨が降り出しそうな曇り空は変わりがないのに、行き交う人々は皆楽しそうに見えた。
  ただの僻みだろうかと自嘲的な笑みが出てしまう。
「ツキト」
  その時、志井がまた呼んだ。
「絵、描けよ」
「え……」
  驚いて弾かれたように顔を向けると、そこにはひどく神妙な顔をした元恋人の顔があった。

  お前を自由にしてやる。

  そう言った、ひどく辛そうなあの時の顔が脳裏に浮かんだ。
「志井さん…?」
「ちゃんと描けよ。いいな」
「………」
  分かったと言うつもりだったのに声が出なかった。ただじっとこちらを見やる目の前の男から逃れる為、ツキトは傍のグラスにだけ視線を集めた。
  熱い。
  志井と面と向かっている時はいつも暑い。だからツキトはついいつも冷たい飲み物を頼んでしまうのだった。





  食事を済ませて店を出たのは予定よりも大分遅い時間だった――が、幸いな事にまだ雨は降り出してはいなかった。
「良かった。濡れないで済みそう」
  ツキトがほっとしたように言うと、背後の志井は「そうだな」と比較的柔らかい声でそう応えた。
  食事の間中、志井はまるで監視するようにツキトのことをじっと見やっていた。ツキトにとってそれは心底参るものだったが、それでもこれでこの人とは本当に最後なのだと考えるとそんな居心地の悪い時間すら愛しかった。
  志井はがむしゃらにナポリタンを口に運ぶツキトに「早食いするな」と厳しい叱咤を飛ばし、更にその後もツキトの一週間の予定を事細かに聞いては、そこの労働時間は無駄だとか睡眠が足りないだとかぞろ騒々しくわめきたてていた。
「何だかんだで、バイトもそんなに苦じゃないんだよ」
  だからツキトは無理にそう言って笑って見せた。
  錯覚してしまうから言わないで。
  勘違いしてしまうから言わないで。
  一歩間違えればそう叫んでしまいそうだったから、ツキトはただ微笑んでいた。
「ツキト」
  店を出て暫く歩いたところで志井がツキトを呼び止めた。足を止め振り返ると、何故か半歩後ろを歩いていた志井は振り返ってきたツキトに小さな折り畳み傘を差し出してきた。
「え? これ?」
「持っていけよ」
「え…でも、もうすぐ駅だし」
「向こうの駅出てからまた帰りの道で降られるかもしれないだろう」
「でも…」
「俺はここを曲がればすぐだから」
  何度も往復したその見慣れた道を指し示されてツキトは再び胸の痛みを感じたが、すぐに苦笑すると首を横に振った。
「………そうじゃなくて」
  そういえば、この道の先にあるあの家を出た後。
  本当にあの毎夜のように続いた悪夢のような頭痛は嘘のように消え去ってしまった。絶対に治らないと思ったあの痛みが、志井から、志井のあの家から離れた途端に消えたのだ。
  胸の痛みは消えないけれど。
「どうした」
  志井の訝るような声にツキトははっとして顔を上げた。
「あのさ」
  そうして言いにくそうにしながらツキトは志井が差し出した傘をやんわりと押し戻した。相手はそれで多少驚いたように目を見開いたが、それには構わずに小さく言った。
「今日で志井さんとは完全にお別れだから。これ借りちゃったら、また返さないといけないだろ? だから」
  もう、会う口実を作りたくない。
「志井さん。俺、多分まだ志井さんのことが好きなんだ」
  思わずするりと出てしまった言葉に苦笑しながらツキトはかぶりを振った。
「ごめん、しつこくこんなこと言っちゃって。でも、だからもう志井さんに会うような事したくないんだ。志井さんの迷惑にならないようにもう忘れるし…。きっとこの駅…この近くに来る事ももうないだろうし」
  背後にいる志井の視線がちくちくと痛かったが、ツキトは笑顔だけは絶やさぬようにしようと思いながら尚も続けた。
「志井さん。志井さんはさ、前に付き合ってた人の事なんかいちいち覚えていられないって言ってたじゃない。俺はしつこい性格だからそういう事すぐ出来るかは分からないけど…。そうするように頑張るよ。だからさ…ここでさよならする」
「……そうか」
  あまり聞き取りやすい声ではなかったが、志井の掠れた声がツキトの耳にじんと響いた。
  だから精一杯笑って見せた。
「うん。それじゃ…もう、ここで…」
「ああ……」
「志井さん、ありがとう」
  良かった、ちゃんと礼が言えた。
  ツキトはそんな自分自身に心底安堵した気持ちになり、志井に背を向けた。いろいろあっったが、志井と暮らせた数ヶ月は幸せだった。だから嫌な別れ方だけはしたくなかった。
  何故かあれから一枚たりとも、それこそ落書きのような絵すら描けなくなってしまっていたが、みっともない姿を志井に見られてさよならするのだけは嫌だとツキトは考えていた。
「え……」
  しかし、駅に向かう道を歩き出そうとしてツキトはぎくりと動きを止めた。
「志井さん…?」
  振り返りざま、ツキトは志井によって与えられた不意の痛みに眉をひそめた。ゆっくりと視線をその下に落とすと、自分の手首をぎゅっと掴んでいる志井の手が目に入った。
「な、に…?」
  こちらを掴んでくるその手の力が何やら異様に強くて、ツキトは思わず裏返った声で問うた。しかし訊いた瞬間その拘束はより強くなり、はっとして顔を上げた時にはますますその力は強まっていた。
「痛…っ。ちょ…志井さん…?」
「………」
  しかし志井は何も言おうとしなかった。ただ真っ直ぐに自分よりも小さいツキトを見下ろし、黙って手首を掴んでいるだけで。
「……っ」
  ツキトはそんな志井に無意識にゾクリを背中を震わせた。以前、恐ろしく冷たい目で自分を見下ろし、何も言わずに身体を重ねてきたあの時の志井にどことなく似ていた。どうした事だろう、先刻まであれほど穏やかで静かだった志井なのに。
「志井さん…どうしたの…?」
  志井は応えない。ツキトは逸る胸を必死に抑えながら努めて冷静な声で言った。
「離してよ…。人、見てるし」
  いよいよ空模様が怪しくなってきたせいか、周囲を行き交う人の数は店内にいた時よりは少なくなっている。それでも、道の往来で手首を掴まれたまま動けなくなっているツキトと、そのツキトを拘束して憮然としている志井の姿はどうしても目立った。通りを行く人間たちにちらちらと視線を寄越され、ツキトは自然顔が熱くなるのを感じた。
「俺、もう帰るから…」
「………」
「志井さん…っ」
  いよいよ強めに呼んで、試しに腕を引っ張り手首の拘束を解こうとしたが、それでも志井はびくともしなかった。元々志井より力がない事など明白だったが、それでもこんな風に何も言われずに引き止められているのは堪らないとツキトは思う。
「………?」
  引き止められている?
「志井さ…」
  そう、引き止められている。一瞬、その考えが脳裏をよぎりツキトはかっと頭に血が上った。
「……放し…ッ」
  再度強引に身体を引いて逃れようとしたがやはり駄目で。ツキトはそれでも必死に抵抗を試みながら、自分がバカな自惚れた考えを抱かぬように手首にだけ意識を集中させようとした。
  それでもどんなにしても志井はツキトの手を放そうとはしなかった。
「放してくれってば、志井さん!」
  いよいよ叫んだツキトだったが、それでも志井は微動だにしない。
「志井さんっ。な、何で…っ」
  やばい、危険信号。
  泣き出しそうになる自分をはっきりと自覚してしまい、ツキトは更に焦った気持ちになって下を向いた。唇を噛んでしまえば志井を責める言葉が吐けなくなってしまうが、ここで踏ん張らなければすぐに嗚咽が漏れそうで、ツキトはぐっと歯を食いしばって俯いた。
  こんな道の往来で、一体何をしているのだろうか。
「どうして…何考えてるんだよ…」
  折角お礼を言って、ちゃんとお金も返せて、綺麗にさよならできると思っていたのに。
  下手にまだ好きだなどと言ったから怒っているのだろうか。最後の最後に嫌がらせなんだろうか。そう思いながら、それでもただ黙ってこちらを見つめているような志井の視線が痛くて苦しくてツキトはただどうする事もできずにその場に留まっていた。
  ぽつり、ぽつりと。
「……ッ」
  気づくと、そんなツキトの気持ちを代弁するように、遂に空からは細く長い雨が降り出してきた。その雨と一緒に泣いてしまいたかったが、徐々に濡れていく灰色のコンクリートを眺めながら、ああやっぱり自分はついていないとツキトは思った。そういえば今日のアルバイトも何だか訳の分からないお喋りな学生と同じ時間帯だったっけと、そんなどうでもいい考えまでが頭をよぎった。
  けれど、どれくらい雨に濡れていたのだろうか。
「あ……?」
  不意に、志井からの拘束が解けた。
「志井さ…?」
  驚いて顔を上げると、そこにはツキトよりも驚いたような、途惑った顔をしている志井がいた。さっきまでぎゅっと掴んで放さなかったツキトの手を放した志井はそんな自分の掌をじっと眺めた後、突然荒い息を吐き出し言った。
「悪い…」
  それは心の奥底にある痛みと共に吐き出されたような苦しげな声だった。
「志井さん…」
「雨、激しくなる。これは持って行け」
「え…でも…」
「返さなくていい。持って行け」
  躊躇するツキトに志井は強引に先刻差し出し断られた折り畳み傘を押し付けると、後はまるで逃げるように背中を向け、元来た道を戻って行こうとした。
  ツキトはそんな志井に向かって思わず叫んでいた。
「何でだよ…!」
  志井はぴたりと足を止めた。ツキトは段々と激しくなる雨に視界を遮断されそうになりながらも、悔しそうに口元を歪め初めて責めるような声で志井に向かって叫んだ。
「ひどいよ…っ」
  どうして断ち切らせてくれない。
  もう終わりだと言ったのは志井の方であるのに。
  どうして、こんな風に期待を持たせるような事をしてくるのだろう。
「ずるい…!」
  そうだ。
  この人はずるい。
  初めてそう思った。
「………いらないなら捨てていい」
  振り返らずに志井はツキトにそれだけ言った。そして後は振り切るように歩き出し、決してツキトを顧みようとはしなかった。
「………俺が」
  与えられた、まだ新品に近いその黒い折りたたみ傘をぎゅっと握り締めながら、ツキトは去って行く志井の背中をただじっと見やり続けた。じんじんと痛む自らの手首にも手を添える。まだ志井の温もりが、志井によって残された熱い痕が残っているような気がした。
「俺が…捨てられないの知ってるくせに…!」
  もう聞いている者などいはしないのに、ツキトは叩きつけるようにそんな言葉を口にしていた。サーサーと断続的に降り続ける雨に段々と身体が冷えていくのを感じる。
  それなのに、志井に掴まれていた手首だけは熱い。
「返しになんか…いかないから…」
  癪に障ってツキトはもう一度つぶやいた。そうして自分の元を去った志井を振り切るように、自分を濡らす雨を振り払うように、ツキトはくるりと踵を返すとだっと勢いつけて走り出した。志井の考えている事は自分には分からない。志井が何を望んでいるのかも、もう自分には予想することもできない。
  ただ、胸が苦しい。悔しい。ひどい。
  返してなどやるものか。
「………っ」
  殆ど息つぎもせず、ツキトはただ走り続けた。
  とりあえず泣いているところを他人に気づかれない点では、この雨はありがたいと思いながら。