夜に泣く声



  遠くの方から誰かの泣き声が聞こえてきた。
  志井は誰もいない自室で目を閉じたままその声を何となく聞いていた。
  何だろう、しかしこの声はたぶん子どもだ。小学生くらいか。
  男か女かは声があまりにヒステリックで判別できない。
  煩わしい。
「くそ……」
  目は閉じたまま、志井は寝室のベッドの上で軽く舌打ちした。
  元々子どもは嫌いだ。
  そういえば、と志井は思う。数年前、割と長く付き合っていた女から「どうしても20代のうちに出産したい」とストレートに結婚を切り出され、辟易した。冷徹に容赦なくその要求を拒絶すると、女は別れの一ヶ月後にはもう別の男とくっついてハワイで式を挙げた。幸せそうな2ショット写真に「後悔した?」という一言が添えられた葉書が送られてきた時は随分と失笑したものだ。
  子どもは尚も泣き続けている。
「………」
  志井は眉をひそめたまま、それでも暫くは意地のようにベッドの上に横たわっていた。このまま目をつむっていればそのうち眠れるはずだ。声も気にならなくなるはずだ。
  ――が。
「煩ェ…!」
  その声がある拍子に強烈な響きを持って耳に突き刺さってくると、志井はもう我慢が出来なかった。
  叫ぶと同時に上体を起こした。

  いつの間にか陽もすっかり落ちている。

  久しぶりの完全休養日に、一日家で寝っ転がって終わってしまった。動かなかったせいか空腹感はないが、朝から何も食べていない。さすがに何か腹に入れようと立ち上がり、志井は部屋を出た。
  しんと静まり返った広いだけの家に1人。
  一体どれくらいぶりだろうと思う。
  ツキトと別れてからも仕事が忙しくて1人を実感する暇などなかった。それは恐らく自分にとっては有難い事だったのだろう。いざこうしてガランとした空間に身を置いていると、ツキトがいたあの時間こそが夢だったのではないかと思ってしまう。
  信じられない空虚感。
「何も…ないか」
  キッチンに入って何気なく冷蔵庫を開けたが、当然の事ながらまともな物など何も入っていない。缶ビールすら切れていた。昔はそれだけは切らすまいと小まめに買い込んでいたものだが、ツキトと暮らすようになってからはいつも買い置きしてもらえていたので、その習慣もいつの間にかなくなってしまったのだ。
  夕飯の作り方とて忘れてしまった。
「いや…やる気の問題だろ」
  以前の志井なら疲れて帰宅した日でもラーメンくらいは作れていたのだ。
  しかし志井はそんな過去の自分を嘲るように、そして今の自分を呪うように、実に乱暴な所作で冷蔵庫のドアをバタンと閉めた。

  子どもの泣き声はまだ続いている。

「……ったく。虐待でもしてんじゃねーのか…」
  意識がはっきりしてくるとその声はより一層志井の神経に障った。
  リビングの窓に近づいて行って庭先から向こう、大して交流のない他所の家々へと視線を投げかける。
「あ…?」
  子どもの泣き声を気にして外に顔を出したのは志井だけではなかったようだ。
  近隣の住民の中には、既に外に出てその泣いている子どもがいるだろう家の前にまで来て様子を伺っている者もいる。
  そこは志井の家からはす向かいにあたった。
  しかしそこの住民の名前も顔も志井は知らない。
  夜遅くにも関わらず、外はひどくざわついた雰囲気を呈していた。
「事件か何かか…?」
  多少の興味が湧き、もう少し身を乗り出して見てみようかと一瞬だけ考える。
「………」
  しかしその考えはまさにその一瞬だけだった。
  志井はすぐに思い留まると外へ向けていた視線を下に落とした。それからすぐに引き戸を閉め、開いていたカーテンも引く。くるりと踵を返して改めてリビングの自分の部屋を見渡した。
  自分には関係のない事だ。
  他所の家の誰かに何が起ころうが、何を悲しもうが。
  自分には関係ない。
  この住処もこの住処の周辺の事も、気になる事柄など何もない。元々空っぽの、何もない家に住んでいた。ここは寝る為だけに帰っていた場所なのだから。


  ツキト。


「……何考えてんだ」
  不意に頭にぽっかりと浮かんだその名前に、志井は忌々しそうに眉をひそめた。
  何かにつけては思い返される別れたばかりの恋人。顔を見なくなってからまだ一月程しか経っていない。
  しかし、言い返せばもう一月も顔を見ていない。
「バカ、だな……」
  自嘲して志井はかぶりを振った。
  ツキトの姿、ツキトの声、ツキトがこの家に残した痕跡すべて。
  それら全部を頭に思い浮かべる度に、志井は未だ消化しきれていない自らの感情を持て余し困惑した。今頃何をしているのか。あいつは俺があれだけ反対したのにも関わらず、駅から離れた惨めなボロアパートを新しい住処にしてしまった。あんな所でこの真冬の最中、震えていたりはしないだろうか。細かいようでいてそういうところには気が回らないというか淡白なところがあるから、画材を買う事ばかりに感けて灯油を買う事など忘れてしまっているかもしれない。アルバイトは減らしたのだろうか。せめて深夜のコンビニのバイトは辞めさせたい。あの道は夜は暗くて危ないし、ツキトのような奴があんな時間にフラフラと歩いていたりしたら、それこそどんな輩が近づいてくるか分かったものではない。
「……は」
  しかしそんな事を一通り頭に思い描いたところで、志井は思わず渋い物でも食べたように口元を歪めた。
  バカバカしい。
  そんな心配をする権利がどこにあるのか。


「救急車が来たよ!」


  その時、通りの方で女性の張り詰めたような大声が部屋の中にまで聞こえてきた。
  はっと我に返って閉めきった窓の方へ身体ごと視線を送ると、恐らくは随分前から鳴り響いていたのだろう、救急サイレンの激しく鳴り響く音が突然遮断していた聴覚に飛び込んできた。明らかにすぐ傍に停車したそれに辺りが結構な騒ぎになっているのが分かる。
  急病なのだろうか。
  子どもの泣き声はもう聞こえない。サイレンにかき消されているのか。泣き止んだのか。
  志井はしかし、もう扉を開けてその光景を確かめようとは思わなかった。
  自分には関係がないから。
  何もかもどうでもいい。


×××××


「俺、自分には家って呼べるものはないって思ってますから」
  知り合った当初、志井に家族の事を聞かれてツキトは屈託ない笑顔でそんな事をさらりと言った。
「あ、でも別にね、そんなにひどい親じゃないと思うんですよ。高校出るまでちゃんと養ってくれたし、今すごく増えてるやつ…ほら、虐待とかってのもされた事もないし」
「そんなもん、しないのが当たり前だろ」
「ああ、それもそうですよね」
  志井の憮然とした言い方にツキトはにこりと笑ってから続けた。
「でも…これって俺の我がままなのかなあ? 俺、親に何か言って『それいいね』って言ってもらえた事って一度もない。全部『でも…』なの。何を言っても何を考えても、自分の考えは全部否定されてたんですよ。まあ俺、実際バカだから仕方ないけど」
「何だよそれは」
  ツキトの告白に多少の衝撃を受けながら志井が訊くと、答えはまたすぐにあっさりと返ってきた。
「俺ン家って所謂名家ってものらしいですよ。土地もいっぱい持ってるしね。上の兄も姉もすごく優秀な人で、親も何か手広く色々な商売やってたりして。そんな中で俺だけ落ちこぼれだったから。だからそんな俺が何言っても皆は 『そんなのは駄目』って。『バカ』って」
  あははとツキトは1人で笑っていたが、一体何が可笑しいのか志井には分からなかった。
  ツキトは続けた。
「だからね、俺基本的に自分にすごい自信ないんですよ。本当言うと、絵も描くの好きってだけ。家を飛び出てきて、東京で勉強するんだなんて偉そうなこと言ってるけど、本当は…自信なんかまるでないんです」
  語尾だけいやに小さくなり、ツキトは恥ずかしさを隠すように笑んで見せた。
  それでも志井はやはり一緒に笑えなかった。
  絵を描いている時のツキトはとても楽しそうで生き生きとしていた。
  詰まるところあの姿を見たから、あの姿を偶然に見つけてしまったから、志井はツキトに声を掛けたのだ。話がしたいと思った。ツキトの傍にスケッチブックがあったからこそ、自分たちは出逢い、こうして面と向かい合い言葉を交わす事ができているのだ。
  それだけでも、少なくとも志井にはツキトの絵は価値のあるものだった。
  けれどツキトは自分のそんな才能にあまりにも無自覚だった。もっともそれこそが志井が最初にツキトに惹かれた理由だったのだが。
「俺の名前小林ツキトって月の人って書いて月人なんですけど、俺は本当はそれも嫌い」
  考え込む志井にツキトは言った。
「兄は太樹で、姉は陽子って言うんです。で、俺が月人。何か…俺のただの卑屈な考えがそう思わせるだけだけど、どうせ俺はあの家ではずっと影の人間なんだって思った」
「ツキトっていい名前だと思うけど?」
  それは志井の正直な感想だった。
  喧騒とした煩わしさばかりが先行する昼間より、静かで幻想的な夜の方が好きだ。
  自分は太陽よりも月の方が好きだと志井は言った。
「本当…? はは、嬉しいな。ありがとう、志井さん」
  ごくごく社交辞令的にではあったが、その時ツキトはそう応えた志井に口元を綻ばせてそう言ったのだった。
  その日から志井がツキトに告白するまで、そう時間は掛からなかった。


×××××


  あの夜泣いていた子どもは急性の盲腸炎だったと、志井は後日隣家の主婦から聞かされた。
  夜も遅く、帰宅したばかりで未だスーツ姿の志井に回覧板を持ってきた話好きの「白石さんの奥さん」は、さも大仰に自分が周辺で得てきた情報を志井に話して聞かせた。
  共働きの家庭の為、幼い子どもはいつも夜の家に1人だったこと。子どもが腹痛を訴えた時、両親はまだ帰宅していなかったこと。病院に着いてからも両親は子どもを心配するよりも周囲にかけた迷惑にただただ恐縮していたことなど。
  「白石さんの奥さん」はそれらをまくしたてるように話した後、やはり母親は家にいなくてはいけない、愛されていない子どもは可哀想だと切々と語り、ただ適当に相槌を打つ志井に満足するとやがてにこにことして去って行った。
  くだらない。
  志井には何もかもが知った事ではなかった。
  親に愛されていない子どものことも、子どもを愛していない親のことも。志井にはまるで関係のない事だった。大体、愛しているとかいないとか、そんな事を他人である「白石さんの奥さん」が何を持って分かった風な口をきくのか。志井は親の愛情というものも、もしかすると人間の情愛というものも基本的にはよく分かっていないので、むしろああいう言葉を気軽に口にして笑っていられる人間の方をこそ嘘寒く思った。
  家で1人の子どもなどこの世の中には五万といるだろうし、家に親がいても愛されていない子どももまた然りだろう。そんな事にいちいち考えを巡らせたり人に意見を述べるほど、志井は他人というものに興味がなかった。
  それよりも、と志井は思う。
  しんとしたリビングに足を踏み入れ、志井はふとツキトのことを思った。
 
  あいつが1人の部屋でもし身体の具合が悪くなったなら、あいつは誰に助けを求めるのだろう。

  結局のところ志井の思考の中には常にツキトの事しかなかったので、その事件から思いを馳せる事柄と言ったらせいぜいそれだけだった。しかしそれこそが志井にとっては重要で、あの頃体調を崩して台所で倒れていたツキトや、日々痩せていくあの姿を思い返すにつけ、志井は途端に不吉な予感に駆られて胸の中がざわざわと騒ぎ出すのを感じた。
  東京というこの町に、ツキトは知り合いという知り合いがいない。
  アルバイト先にはそれなりに友人も、多少自活する少年の生活を気に掛けてくれる親切な雇い主もいるだろう。
  それでも、きっと自分ほどにツキトと接した人間はこの町にはいないはずだと志井は思った。
  少なくともこの町には。
「……あいつ…ちゃんと生きてるんだろうな…」
  口に出してしまうと、志井はますます不安になった。
  先日の、喉が引きちぎれるのではないかと思われるほど泣き喚いていたあの時の子どもの声が木霊する。
  ぞっとした。
  ツキトを突き放したのは紛れもない自分であるのに、ツキトの身に何かある事が耐えられない。とても多くの他人同様、「自分には関係がない」とそ知らぬフリをする事などできそうになかった。
  志井はツキトに執着していた。
  恐らくはこれ以上ない程に、初めて自分の温度を他人に伝えたいと欲し求めた、ツキトは唯1人の相手だったから。
  志井は緩めたネクタイをそのままに、再びスーツ姿のまま家を飛び出した。





  ツキトが深夜アルバイトをしているというコンビニエンスストアは、ツキトが住んでいる新しい住処―ボロアパート―からはほど近い。志井も引越しの手配をした時にそこへは一度車で訪れた事がある。だからもう一度そこへ足を向けるなど簡単な事だった。
  今の今まで、そうする事は出来なかったけれど。
  勢いとは呆れるほどに今までの悶々とした悩みを吹き飛ばしてくれる。一旦来てしまえば本当に呆気ないものだった。
  アパートの部屋の明りが消えていた為、志井は駅前の裏手側、線路沿いの道に車を停めて、そこから歩いて5分のコンビニへ向かった。
  人の通りはもう殆どない。終電の時間ももう間近のはずだった。
  それでも、誰に見られていなくとも、この時の志井は明らかに不審人物だった。さすがにそのまま店に入って行く気にはなれず、既にシャッターの閉じられている隣の精肉店からこっそり店内の様子を伺った。
  店の外からでもレジに立ってさえいればツキトの姿は見えるはずだった。
  一目元気な姿が見られればそれで良かった。
「……いないのか」
  しかし1人勝手に緊張している志井を嘲笑うかのように、そこにツキトの姿はなかった。
  遠目から店の様子を伺い、何度か逡巡する。しかし何度確認しようともツキトの姿はない。辞めたのだろうか。確かにこんな夜のアルバイトは辞めてしまえばいいと思っていたが、本当にツキトが仕事を辞めているとは正直思えなかった。
  ツキトは自身で卑下するのとはまた違った意味で、「バカ」がつくほど真面目な性格だったから。

「ツキトー。今日、お前ン家泊まるから!」

「……っ!?」
  その時、不意に目を離した店先から、そんな大きな声が耳に響いてきた。
「煩いな、分かったから中で待ってろよ」
  ツキト。
  すぐ後に返ってきたその声に、志井は無意識のうち傍の電信柱に身を潜めた。
  扉を開いて外に出て来たのは未だ制服を着たツキトと、同じバイト店員だろう、しかしこちらは既に私服になっている若い男だった。先にツキトを呼んでいたのはどうやらこの人物で、男は明るい茶色がかった髪を肩先まで伸ばし銀のピアスをつけていて、容貌もそれに併せ幾らか派手に見えた。背はツキトよりも頭一つ分ほど高く、年齢は恐らく20代前半だろう。
「もうこんな時間だしさ。な、いいだろ?」
「だから分かったって言ってるだろ」
  ゴミ袋を持って現れたツキトは自分に付きまとうように立っているその男にぞんざいな言い方ながらも仕方がないなという風に笑って応えていた。
  志井はその場から動けず身を固めて2人の姿を見つめていた。
  男のツキトを見る眼に何やら言い知れぬ暗い予感を抱いてしまい背筋が震えた。
「ツキトも安心だろ? お前ンとこのボロアパート、結構こっから離れてて暗いしさー。あそこって結構痴漢出るらしいよ?」
  志井の存在になど気づく風もなく、男はダウンジャケットに両手を突っ込んだままツキトに話し掛けている。
「ツキトも早く上がれよ。俺、待ってるから」
  急かすように言う男の明るい声。
「分かってるよ。それより、ボロは余計」
  それにあわせて発せられるツキトの声。
「それに俺と痴漢とどう関係あるわけ?」
「んー、何、ツキトは分かんないの?」
「何が」
「あーあ、無自覚君はこれだから。世間知らずの田舎モンは世話が焼ける」
「もう、煩いなあ」
「お前、そんなんでよく今まで悪い虫に引っかからなかったねえ」
「泊めないよ、それ以上言ったら」
「うそうそごめ〜ん、ツキトちゃん。なあ、一緒に寝ようって!」
「その言い方やめろ!」
  ツキトが相手をあしらいながら店の中へ入って行くと、男も甘えたような猫なで声で結局自分もまた店内へ戻って行った。
  志井は2人が店の中へ消えた後、逃げるように踵を返した。既に思考は破裂寸前だったが、その嵐を必死の思いで抑制すると、後には妙な笑みすら残った。
  今更ながらこんな風にこんな所まで来てしまった自分を笑わずにはいられない。
「……俺はバカか」
  全てを払拭するようにそう吐き捨てて、志井は足を速めた。
  ツキトは既に違う世界の住人なのだ。もう自分との事は忘れ、新たなスタートを切ろうとしているのだ。それに比べて自分はまだ未練がましくあいつの後を追っている。みっともないを通り越してある種ヤバイ病気にかかっていると言ってもいい。
  思いつく限りの罵詈雑言を自分自身に投げつけながら、志井は停めていた自分の車の前にまで辿り着くと、そこでようやく息をついた。
  そうして暫しその場に立ち尽くす。
  丁度最終電車だろう、轟音と強風を運びながら見慣れた私鉄が志井の横を通り過ぎて行く。
「………」
  遠くで踏み切りの鳴り響く音が聞こえた。
「………」
  何も聞きたくない。無音の世界に行きたかった。あの見知らぬ軽そうな男の声も、それに柔らかく応えているツキトの声も。
  何も聞こえない、無の世界に。
「くそ…っ!」
  電車の走り去る音に紛れて、志井は自らの愛車を力任せに蹴り付けた。ガンと派手な音がしたはずだが、通り過ぎて行く電車の音に遮られて志井本人の耳にすらそれは届かなかった。

  泣きたいのはこっちの方だ。

  何故か志井はあの夜泣き叫んでいた、必死に危険信号を発していた子どもの声を思い出して苛立たし気にそんなことを思った。


  寒さは感じない。
  けれど誰もいない夜の線路沿いは、志井に突き刺さるような胸の痛みと孤独感を与えていた。