デートの時間
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「それやばいよ。あんたユル過ぎ」 日曜のファーストフード店が昼になるととんでもなく混む…ということを、友之は沢海と付き合うようになってから初めて知った。 「何で。だって拒否って嫌われたくない。折角付き合えるようになったのに」 「だからって毎日やんなくてもいいでしょ? そんなの、向こうはあんたの身体のことなんか全然気にしてないってことじゃん。ヤる為だけに会ってんの?」 「そんなことないよ! ちょっと酷くない!? そんな風に言うのって!」 ざわつく店内で友之がこの女子高生らの、何やら不穏になっていく会話を聞き取れているのは、何のことはない、彼女たちが友之の座る真横の席にいるからだ。 少しでも座席数を増やそうという狙いで仕切られた店舗内には、これでもかというほど狭い間隔でテーブル席が隣接している。しかも長いソファ席は何の区切りもなく繋がっているから、友之は必然的にその見知らぬ女子高生2人の会話を真横のテーブルで聞く羽目になったのだった。 もちろん、これまでの友之だったら目的もなくいつまでもそのような場にはいなかったと思うが。 「あんたの為に言ってんじゃん!」 少女たちは周囲の好奇な目にはまるで気づいていなかった。鼻につく香水の臭いと興奮しきった荒い声はどんどんときつくなる。友之はハラハラした。友人同士だから多少きつい物言いになるのだろうが、最初に「やばい」と言われた方は今にも泣きそうになっている。 「ねえ。付き合うようになってから、あんた達って何した?」 それには気づかず、もう一方の女子高生が詰問した。 「何って」 すでに勝敗は決しているのかもしれない。不貞腐れたように、問われた方はくぐもった声を零した。 「デートとかしてんの。一緒に買い物行くとか、映画観に行くとか」 「映画は観るよ。っていうか、お笑いのビデオとかだけど。ユウ君そういうの見るの好きだから、DVDとか借りてってあげると喜ぶし」 「だからそういうことじゃなくて。要は、それだってあいつんちに行って見てるってことでしょ。しかもあんたが借りてあげて。お金は?」 「は?」 「だから。払ってくれんの、向こう。ご飯だってさ、この間作りに行ってあげたって言ってたけど、そんなんばっかりで、奢ってもらったことだってないでしょ」 「あるよ! 前は一緒に飲みに行ったりしたもん」 「だから、それは付き合う前でしょ? 付き合うようになってからはどうなのかって訊いてんの」 「……何でそんな意地悪ばっか言うの!」 ダンッと苛ついたようにテーブルの脚を蹴って、言われた少女は最後の抵抗とばかりに鋭い目を向けた。手にしたコーラの器もぎゅうと強く握りしめている。友之はそれだけでもう今すぐにでも逃げ出したい気分になった。人が争うところを見るのは嫌いだ。というよりも、恐怖と言って良い。特に若い女の子のそれは即効性の毒である。だからすぐさま立ち上がってこの場を去って、何も見なかった、聞かなかったことにしてしまいたいと願った。 けれど奥の席に座ったばかりに、テーブルを越えて通路に出るには、どうしたって彼女たちの横を通らねばならない。 「ごめん、友之。待ったか?」 その時、ようやく友之の前にその待ち人が現れた。 友之がはっとして顔を上げると、恐らくは走って店までやってきたのだろう、未だ制服姿の沢海が学校カバンを肩に下げた格好で息を切らせてその場にいた。 「拡…」 「ごめん、着替えに戻ったら余計待たせちゃうと思ってこのまま来た。今だってもう大分待ったよな? ごめん、本当に。なかなか出て来られなくて」 焦りながらひたすら謝る沢海に、友之はただ機械的に首を振った。確かに「ここ」にいるのはきつかったが、それは沢海のせいではないし、第一、時間的にはさほど待ってもいない。 問題は「隣」だ。 「はぁ、意地悪? そうとるわけ!」 友之たちの会話などまるで耳に入っていないのだろう、依然として女同士の険悪な空気は持続中で、それどころか友之側のソファ席に座っていた女子高生は、先刻の友人を真似ているのか、同じようにガツンとテーブルの脚を蹴った。 友之はそれに再びびくりと肩を揺らした。 「人の親切をそういう風に返すんだったら、分かったよ、もう何も言わねーよ。その代わり、つまんないノロケ聞かせんのもやめろよな。はぁ?って感じだよ、こっちにしてみれば。『毎日迫られて困る』っつーから、こっちは素直に思った感想言ってあげただけじゃん? それを逆ギレしてくんなら、最初っから自慢すんなって。自慢だったわけでしょ? 別に困ってないんでしょ?」 「もうやだ……アヤむかつく…!」 「やだはこっち! あたしが泣かせたみたいに泣くな!」 友之は慌てて俯いた。今、対面の少女を見てはいけないと思ったからだが、それによって一層身体が固くなる。どうして良いか分からない。 「友之」 すると、とんとんと。 その縮こまった肩先を叩かれて友之はハッとした。 「友之」 「あ…」 恐らく沢海は何度も友之を呼んでいたのだろう。困ったような苦笑したような顔がすぐ目の前にあり、それに「しまった」と思った瞬間、さほど痛くもない程度に、けれど強く腕を取られて、友之は無理やり席を立たされた。 「行こう。もう時間ないし」 「え…?」 何の時間だろう。一瞬そう思いながらも、しかし友之は慌てて横に置いていたカバンを引っ掻け、沢海の言う通り店を出た。 外の日差しは強く人通りも多かったが、店舗を一歩出ると、あの喧噪が嘘のように友之のじんじんとした耳はしんとして何も機能しなくなった。 (なに…?) そのあまりのギャップに友之は片耳に手を当てながら、きょろきょろと所在なく首を動かした。聞こえる。別に耳が遠くなったわけではない。通りを行く車の音も、通り過ぎる人々の話し声も煩くない程度に聴覚を刺激する。さきほどの雑音が異常だったのだ。徐々に通常の感覚に戻って行くのを感じ取ってから、友之はここでようやく自分の横を歩く沢海に目を向けた。先刻は特別急いでいるような声を出していたのに、今はゆったりとした足取りで歩いている。どこへ行くのだろうとぼんやり考えて、そうだった、今日はこれから映画を観に行くのだということを思い出す。普段は部活で忙しい沢海が、午前中のミーティングを終えたら午後は完全休養日になるから、どこかへ行こう、友之が好きそうな映画もやっているから出掛けないかと誘ってくれていたから、映画館近くのファーストフード店で待ち合わせをしていたのだ。 「拡、映画の時間、すぐなの?」 今は焦っていないが、「間に合わないから」と言っていた言葉が気になって、友之はやはり訊いてみることにした。 「ん? んーん。まだ30分以上あるよ。大丈夫」 「でもさっき…」 「うん。友之は早くあの店を出た方がいいと思ったからさ。ああいう風に言った方が向こうにも変に気にされないから、良かっただろ?」 「……うん」 そうか、やはりそうだったのか。 何となくそうだろうとは思ったものの、友之は改めてそれを確認して納得した。もともと沢海はよく気がつく。友之の心の機微には特に敏感だ。だからあの女子高生たちの言い争いに友之が萎縮していることにも容易に気づいたのだろう。 「ああいう子たちって、本当周りが見えてないんだよな。聞いているこっちが恥ずかしくなるよ」 「拡は恥ずかしくなるの…?」 「ええ? じゃあ、友之はならないの?」 「……僕は」 確かにハラハラしたし、どうしようと思ったけれど、恥ずかしいというのとは違った。 むしろ友之は言い負かされて泣いてしまったらしい少女のことが気掛かりだった。付き合っている彼氏に毎日のように「しよう」と持ち掛けられて、それを断れないでいる。彼のことは好きだけど、避妊もしてくれないから、そのことくらいは言った方がいいかな、と。恐る恐る相談していた彼女は、あの友人が怒って言っていたように「自慢」でその話をしている風には思えなかった。 かと言って、暗に「そんな男とは別れた方がいい」と勧めるあの気の強そうな友人が全面的に悪いという風にも、友之には思えなかった。「あんたの為に言っている」と発していたあの台詞を、全部が全部ウソとは感じなかったから。 「友之は人が良過ぎるよな」 随分とたどたどしいながら、友之が何とかのその想いを沢海に説明すると、辛抱強くその話に耳を傾けていた沢海はやがてぽつりとそう言った。 その呟きにはどこか呆れたような、そして少し怒っているような色が含まれていた。 「拡は…そういう風には思わない?」 友之はそれに途惑いながらも何とか訊き返した。沢海が自分と違う見方をしているのなら、その考えを知りたかった。 「んー…思わないって言うか。別に、そういう可能性もあるのかもしれないけど、俺だったらああいう話を横で聞かされても、ただ『煩い』としか思わないだろうなって。それだけだよ」 「……ふうん」 「そんな意外な顔されると困るけど」 「困る?」 すかさず反応した友之に、沢海は今度こそ困った風に笑った。 「いや、友之はさ。何かいまだに俺のことをスゴイ優しい奴みたいに思っているところがあるから。そりゃ、そう思ってもらえることは嬉しいけど、俺の素の感想にそう意外そうにされると、ちょっとしまったなって。もっといい人ぶった嘘の感想言った方が良かったかなって…焦っちゃうんだよ」 「それ……よく分かんないけど。拡は優しい人だと思うよ?」 「だから、それは友之限定だって、いつも言っているだろ?」 ははと軽く笑ってから、沢海は「ほら、看板!」と言って目の前の映画館を指さした。 駅前の大きな映画館はテレビや雑誌で宣伝している話題の作品を数多く公開している。休日ということもあって、チケット売り場にはたくさんの人が並んでいた。 「すごい行列だね」 「ああ。でも、チケットはもうあるから大丈夫だよ」 「え?」 当然のように言った沢海に友之は目を丸くした。 「前売り券買ってあるから。指定席だし、ぎりぎりに入っても座れるから、どうする? まだどこかで何か飲む? 映画館に入ってから何か買ってもいいけど」 「……拡は、ご飯食べた? 急いで来たんなら、食べてないんじゃない…?」 「んー、でも俺はそんな腹減ってないから。どこかの店入るならそこで何か軽く食べてもいいし、劇場入ってからホットドッグとか買ってもいいし」 「拡の良い方でいいよ」 「俺は友之のいい方がいいんだけど」 「え」 すかさず返されて友之は一瞬固まったのだが、どちらも選べず逡巡すると、結局沢海が「もう入ろうか」と言ってくれたのでことなきを得た。 「あの、お金払う」 友之たちの観る作品が上映される「7番シアター」は、すでに扉が開いていて席に着けた。沢海は荷物を置くと友之は座らせて、先刻言った通り、自分の軽食と友之の飲み物を持ってすぐに戻ってきた。 沢海が席に着いて人心地ついてから、友之は様子を見計らって財布を取り出し、「いくら?」と繰り返した。最初から嫌な予感はしていたのだ。沢海は一緒に映画を観に行こうなどとなったら、また全部自分がお金を出してしまうのではないかと。だから友之としては「今日こそは自分が払う」と、売り場にも真っ先に行こうと決めていた。 それなのに、チケットはすでに用意されていて。 おまけにこのコーラも。自分が行くと言う前に、沢海から「俺、自分で食べたい物選びたいから」と先取りされてはどうしようも出来ない。 「別に要らないんだけど」 そして案の定、沢海の返答はそれで。 「駄目。払う」 「今日のこと、俺が誘ったんだし」 「僕も行きたかったんだから、そんなの関係ない」 「は…友之も言うようになったなぁ…。じゃあ寮帰ってから」 沢海はしれっとそう返した後、平然とした顔で飲み物に口をつけた。 当然、友之としては不満だ。だから未だ薄暗く、人の入りも少ないシアター内で、友之は沢海の方に身体を向けて真剣に言い募った。 「拡、いつもそういう風に言って、自分ばっかり払う」 「そんなことないと思うけど」 「そんなことあるよ。どうして」 「何が、どうして?」 「どうしてそんな…してくれるの」 友之の必死の問いを沢海は笑い飛ばした。 「そんなの。それこそ、いつも言っていることだと思うけど? もう一度ここでみんなに聞こえるくらいの大声で言ってもいいけど、いい? 『俺が友之に尽くしたいから』だって」 「……っ」 ぐっと詰まって友之は黙りこんだ。意図せず顔も赤くなる。沢海はいつも優しいけれど、こういう時ばかりは何故かいつも意地が悪いと思う。友之が自分たちの関係を周囲に気取られるのを恥ずかしがると分かっていて、こうした展開になると決まってそれを持ち出し黙らせてしまうのだ。 「拡、ずるい」 けれどそのまま引き下がるのもしゃくだったので、友之はぼそりと呟き、恨めしそうな目を向けた。 「ふっ!」 どうやら沢海にはそれすら快感だったようだけれど。にこにことして「友之、可愛い」などと言い出すから始末に負えない。 「……拡、変だよ」 だから友之の方はますますぶすくれて、ふいと横を向いた。 するとその直後、何故だか急にすうっと先刻の女子高生たちが頭に浮かんだ。それは一見本当に唐突だった。もともとさっきあったばかりの出来事で、しかも気になっていたからかもしれないが。 何かが薄っすらと重なっていた。 「拡…」 「ん?」 「さっきのね…」 「さっき?」 「さっき、あのお店にいた子たち」 「ああ」 それこそ沢海には「唐突」な話題だったに違いない。 けれどそんな友之にもいい加減慣れているのか、多少面喰らった様子ながらも、沢海は落ち着いた様子で丁度良い相槌を返してきた。 だから友之もすんなり話すことが出来た。 「あの子の好きな人って……、付き合う前は、拡みたいにこうやっていろいろ奢ってくれたんだって」 「え?」 沢海が怪訝な声を出した。友之はそれに呼応するようにびくりと身体を震わせたが、視線をちらりと向けた後はすぐに話を続けた。 「でも付き合うようになってからは、逆のことが多くなったんだって…」 「逆…っていうのは、彼女の方が奢ったりってこと?」 「うん。ご飯作ってあげたり、その人が観たいDVD借りてあげたり」 「へーえ」 沢海はこの話にあまり興味がないようだった。ホットドッグが包まれていた紙を几帳面に小さく折りたたみ、それを学校カバンのポケットの中に捻じ込んでいる。 けれど友之はそんな沢海の所作をじっと眺めながら尚も言った。 「拡はおんなじだね。前からずっと変わらない」 「何が?」 「僕に対する態度。……どうして?」 「どうしてって…。むしろその子の彼氏みたいに、態度急変したらヤな感じだろ?」 沢海がひきつった笑いを浮かべて肩を竦めた。 「なのに友之が俺のことを変って言うのは、それこそどうして?」 「だってあの子の好きな人は……、う、うまく言えないけど……安心したのかもって」 「えぇ?」 非難めいたその反応に友之は焦ったが、それでもこの時は尚言葉を繋げた。 「あの子が自分を好きで、何でもしてくれるって分かったら安心して……だから甘え過ぎちゃったのかもしれない。何でもしてもらえると楽だから…。それで、向こうが困っているのにも気づかないくらいに、どんどん我がままになっちゃったのかも」 大抵の人間は、彼女に毎日身体を求める男の話など聞いたらドン引きするし、「早々に別れた方がいい」と忠告するだろう。金銭的に依存しているのなら尚更だ。たとえ付き合っている彼女当人が「本当はいい人なのよ」、「優しいところもあるのよ」とフォローしたとしても関係ない。あの店にいた彼女の友人は言い方こそきつかったかもしれないが、女子高生に避妊もしない男が「最低」だという、ごく当たり前の、世間の一般常識に倣っていただけとも言える。 それなのにこの友之という少年は、単なる又聞きの見知らぬ男にさえ、その心底に「良心」があると信じている。 どこかであの少女が傷つかない可能性を模索していると言っても良いが…。 「そんな風に考えるのは、やっぱり友之の人がいいからだよ」 沢海はその世間の常識に則ってそう答えた。 「その話の男はロクでもない奴だと思うよ。あの彼女には可哀想な事実かもしれないけどね」 「……僕は、でも、拡は安心してないのかもしれないって思った。だからまだ僕にこんなにしてくれるのかなって」 おいおい…と、小さく呟いて、拡はふっとふき出してかぶりを振った。それから今度は自分がちらとだけ友之を見て、ふうと一度嘆息する。 「そういう風に飛躍するのか。友之って面白いな」 「何で」 「もしそうだったとしてもさ。それは仕方のないことだよ」 「何が」 焦れたようになる友之に沢海はいよいよ笑って、おもむろに友之の手を握った。 友之が驚いてそれを引っ込めようとするも、その手は強く握られて離れない。上映時間が近づいてきて、徐々に人の入りは増してきているのに。 まるで構わない沢海は言った。 「もしその男がさ…、そう、彼女も自分を好きになってくれて、完全に自分のものになったんだって気持ちでそうなったんだとしてもだよ? やっぱりそいつは相当な馬鹿だよ。……俺は絶対そうならないね。俺は絶対に油断しないよ。それこそ、一時たりとも」 「油断…?」 友之が反芻すると、沢海は挑むように濃紺の瞳を閃かせた。 「そうだよ。この意味、分かる? 友之は」 「…ううん」 訳も分からず咄嗟に首を振ったのは、たぶん沢海の顔が怖かったからだ。友之は無意識に息を呑み、そしてもう一度かぶりを振った。 すると沢海は纏っていた空気をガラリと緩いものに変えると、再び前へ向き直って目を細めた。 「うん、いいよ。友之は分からなくても。……でも確かに、さっきの話は悪過ぎる例だとしても、そう考えるとそういうカップルって世の中に結構いるかもな。結婚した途端いきなり太る奥さんとか、パンツで部屋中歩き回る旦那さんとか。別に好きじゃなくなったから気を遣わなくなったっていうのとは違うんだろうけど…うん。でも、俺は絶対に気を抜かないって、そういう話」 「……僕の前で?」 友之がそっと訊くと、沢海は軽く目を見開いてから、「もちろん」と身を乗り出した。 「当たり前だよ。友之の前だったら尚更だよ。友之にカッコ悪いところは見せたくない」 「何で…? そんなの、疲れるよ」 拡は、自分と一緒にいる限り決して気を抜かないと言う。 その恋人の宣言に友之は軽い衝撃を受け、それからどんよりと落ち込んだ。何故こんな展開になったのだろうと思わないでもなかったが、自分たちの「変」な関係―ただ友之が沢海にしてもらうだけの不平等―を少しでも改善したくて持ち出したことなのに、事態はより一層その悪い方へ傾いた気がした。 「疲れてもいいよ」 それなのに、沢海はけろりとしてそう答える。友之が視線を上げると、そこにはいつもの堂々とした自信に満ち満ちた顔があった。 「友之とずっと一緒にいる為なら何だってやるよ、俺は」 大体疲れないしね、と。 そうして沢海は落ち込む友之とは全く対照的に楽しげな笑みを浮かべ、再度確かめるように友之の手を握りしめた。 しかもそれをおもむろに上げて自らの唇へ近づけると、ちゅっと軽いキスまでした。友之が止める間もなかった。 「拡…っ」 「誰も見てないよ」 小声で応えて、沢海はまた笑った。確かに人は増えてきているが、後方の席が幸いしてか、こちらに注意を向けている客はいないようだ。 それでも。 「……拡」 依然として涼しげな態度の沢海に、友之の胸はざわついた。寮のあの狭い部屋ではなく、外でこんな風に手を握り合うなんて恥ずかしいし、少し怖い。 ただ心のどこか片隅で、「拡が良いなら良いかな」とも思える。 そんな友之の気配に気づいたのか、やがて沢海が顔を寄せて「あのさ」と囁いた。 「さっき言いそびれたけど。友之は俺ばっかりが友之に何かしているみたいに言うけど、そんなことないよ。俺こそ友之にいっぱい貰ってるよ」 「何? 何もあげてないよ…?」 「貰ってるよ。いつも友之を貰ってる。心も、身体も」 「……!」 耳元で言われたせいもあって、友之はカッと赤面して絶句した。沢海はその反応を予測していたのか、くっと笑いを堪えたように肩を揺らし、顔を背けた。 友之は赤面しながらもそんな恋人の態度にむっとした。 「あげてない。いつもなんてしてないし…!」 「それはだって、毎日したら友之が辛いと思って」 「つ…! だから、そうやって気を遣われるの、嫌だ…!」 「ふーん。じゃあ毎日してもいいの?」 「ま…毎日は、嫌だ…」 友之がぼそりと決まり悪そうに返すと、沢海は再度小さく笑った。 ただその笑みは困惑した末必死に答えた友之にではなく、どこか自分自身への嘲りが混じったような軽い笑声だった。 だからその分だけ、友之は冷静さを取り戻せて沢海の横顔を観察出来たし、「次の言葉」もすんなり出せた。 「でも、拡が我慢しているなら…」 「え?」 どうしたって声は小さくなったけれど。 「……もっとしてもいいよ?」 それは友之の揺らぎない本心だ。 「はは……ホント。それはいいこと聞いたな」 「ホントだよっ?」 「分かった、分かった。とりあえずここまでにしとこ。映画始まるから」 沢海は友之の提案をさらりと受け流した。友之は釈然としなかったが、上映を知らせる合図と、スクリーンに鑑賞の際の注意事項が大音響と共に映し出されたので仕方なく口を閉じた。 いよいよ暗くなった劇場内では、時折発する光だけが隣の沢海の顔を仄めかす。沢海は「カッコ悪いところは見せたくない」と言ったけれど、友之には沢海のそんな姿は想像も出来なかった。沢海は友之にとっていつでもカッコ良い存在だった。それが沢海の努力と苦労の結果なのだとしたら尚更凄いことだと思うし、だからこそちょっとは「気を抜いて欲しい」と思う。 友之はそんなことを考えながら、沢海の横顔をちらちらと盗み見つつ、思い切ってすでに握られていた手を自分からもきゅっと握り返してみた。 「!」 すると沢海はすぐに驚いた様子でこちらを見た―…が、すぐに優しげな目を向けて微笑んだ。 そうして映画本編が始まる直前、「友之が好きだと思うからこれにしたけど、やっぱりこの後を考えたら違うのにすればよかった」と嘯いた。 「……?」 その言葉の意図するものが何なのか、友之には分からなかった。 ただ、温かい手と優しい瞳が傍にあったから。 おまけに、拡が選んでくれたその「ホラー映画」はやっぱり最高に面白かったから。 友之には何の不満もなかったし、その日は寮に帰った後も珍しく饒舌に映画の感想話に夢中となって、結局そのまま寝こけてしまった。 「拡がしたいならしてもいい」と自分から言ったこともすっかり忘却の彼方で。 |
了 |
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でも沢海は「一生懸命お喋りする友之」が見られたから、それはそれで至福だったと思われ。