―3―



  数馬はフリスビーを追いかける友之はご主人様にじゃれつく子犬のようだとのたまった。
「だってあれは犬の姿そのものだよ。トモ君てばさ、如何にも『早く投げてー』って目をして僕の手をじっと見てるんだもの。うん、でもあれはホント早く投げてあげなくちゃって気持ちにさせられたね。だからある意味、キミの目は凄い」
  いつもの事ながら数馬の舌はべらべらと本当によく回ったが、この時はいつも以上に饒舌だった。しかし当然の事ながらそんな感想を述べられた友之の方としては、楽しかったのは事実としても、そんな風にからかわれる事にはやはり多少むっとしてしまう。
「なーにさ、その何か言いたげな顔は」
「別に…」
  数馬のにやけた追求に、しかし友之は何も返せなかった。本当は「それでは数馬は楽しくなかったのか」と訊いてみたいのに。
  その「確認」をするのはやはり怖かった。
「どうもありがとうね!」
  十分に汗をかいて満足した後、2人はフリスビーを貸してくれた少女たちに礼を言ってその場を離れた。
「……っ」
  急にどっと疲れを感じて友之は荒く息をついた。夢中になっていた時には気づかなかったが、恐らくは相当な運動量だったのだろう。普段《アラキ》で汗を流す以外に身体を動かさないせいもあるだろうが、数馬とフリスビーを追いかけた時間はそれ程に長いものだったのだ。
「少し休む?」
  サイクリングコースも兼ねている公道を歩きながら数馬が言った。友之が遠慮がちに言い淀むと、数馬はすいとすぐ先にあった自動販売機に近づいて行って「何にする?」と訊いた。友之がどう答えようが休む気のようだった。
「コーラ」
「また? さっきもコーラ飲んでたじゃん」
「うん」
「コーラ好きなの?」
  訊きながら数馬はズボンのポケットから財布を取り出してジャラリと小銭を手のひらに乗せた。それからそれを丹念に一枚一枚投入口に入れ、「ボクは何にしようかな」と歌うように呟いた。
  そして数馬は友之にコーラ、自分の分として野菜ジュースを買った。
「あそこ。芝生の所座ろ」
  率先して歩いて行く数馬に友之はただついて行く。そんな友之に構わずにどんどん先を行く数馬はやはり多少は疲れていたのか、先に座った場所でぐんと大きく伸びをした。
「あー気持ちいい。芝生って好きだなー」
「数馬」
「んー?」
「これ、ありがとう」
「え?」
  数馬は最初何を言われたのか分かっていないようだった。ああ買ってやったコーラの礼かと気づいたのは数秒後で、どうやら先刻からそれを言いたくて仕方なかったらしい友之の顔に、数馬は思わずくぐもった笑いを漏らした。
「何がおかしいの?」
  友之が訊くと数馬は肩を竦めた。
「だって行きにも言ったでしょ。そのお金は正人大先生のお金だって」
「………」
「ボクのお金じゃないの。中原先輩がトモ君の為にくれたお金なの。ボクは言わばそのおこぼれに預かってるわけだね。だからお礼を言うとしたらボクの方かな」
  手にした缶を指で弾きながら数馬はそう言い、もう一度面白そうに目を細めて隣の友之をじっと見つめた。
  それからふと思い出したように先刻の質問を繰り返した。
「で? トモ君ってコーラ好きなんだ」
「あ…うん」
  不器用な手つきで栓を開け、それを一口やった友之は、何故か自分の事を凝視しているような数馬に慌てて頷いた。
「こういうの、家ではあんまり飲まないから」
「何で」
「夕実……姉さんが、『炭酸は骨が溶けるから駄目』って言って、飲むとよく怒ったんだ」
「へえ…」
  友之が光一郎以外の家族の事を口にしたのが珍しかったのだろう。数馬の瞳が微かに揺れた。
  友之はそれに気づかなかったが。
「本当はコーラとかファンタとか…そういうの。飲みたかったんだ。母さん、それ知ってたから、時々こっそり買ってきて飲ませてくれた…。でも、バレると凄く怒られた」
  友之の話に数馬は思い切り頬を引きつらせた。
「何それ…。それってさあ…何か、昔の嫁姑のドラマみたいだね。ほらあるじゃん、子どもに美味しい物食べさせようとしただけのお嫁さんにちくちく嫌味言う理不尽な姑」
「………」
「お姉さんは炭酸とか嫌いだったんだ?」
「知らない…。別に普通じゃないかな。自分は飲んだりしてたもん」
「へえー。トモ君には駄目って言って自分は飲むなんて、ますます意地悪だ」
「………」
「……でもさあ、今は光一郎さんと2人暮らしなわけでしょ。飲みたい時に飲めば?」
「うん…」
「何、今度は光一郎さんが駄目って言ってるの? あ、そういえばキミん家って牛乳絶対常備だよね! やっぱり大きくならないとって事で炭酸禁止なのかなあ」
「そういうわけじゃないよ。家で飲む気がしないだけ…。それだけ」
  たぶん友之自身意識していないところで、夕実から与えられた制約が今もまだ生きている。こうやって外に出ている時はともかく、「家」には夕実に怒られた怖い記憶があり、悲しい思い出があった。だから光一郎から小遣いを渡され「好きな物を買えばよい」と言われても、未だに炭酸類には手が伸びないのだ。
  数馬は友之の顔色を見やった後、とぼけた口調で続けた。
「それにしても、キミの周りのお兄さんたちはキミの成長に関してはホント異常に神経細かいよね。光一郎さんはキミに美味しいご飯食べさせる事に余念がないし、正人大先生もキミの前だと絶対煙草とか吸わないでしょ。荒城さんは…まあ何してるか知らないけど、とりあえずキミに愛情注ぐの忘れないし。やっぱ子どもの成長に愛情は基本だからね」
「数馬…何の話してんの」
「だから。キミを取り巻く愛の話だよ」
  夕実の話をして暗くなった友之に気づいているのだ。数馬は明るい口調で3人の兄たちの話を持ち出すと、大袈裟に両手を挙げ嬉しそうに笑った。何故数馬が嬉しそうにするのかは謎だったが、それでも数馬は友之をじっと見つめながら笑っていた。
  友之は沈みかけた気持ちをそれで浮上させる事ができた。
  ただ、数馬の笑顔を見ただけで。
「ねえトモ君」
  そして数馬は言った。
「ボクも結構キミが好きだよ」
  友之はそう言った数馬の顔を2、3度瞬きをして見つめ返した。
  一瞬何を言われたのか分からなかったから。
「何呆けてんのさ」
  けれど考える時間を与える間もなく数馬がしらっとした目で友之に言った。
「あっ…」
「あっじゃないよ。何なのそのハトが豆鉄砲食らったような顔は。このボクが! この数馬クンがキミを好きって言ってあげたんだよ。なのに、そんな風に言われて嬉しくないの? 嬉しかったら素直に嬉しいって言っていいよ」
「………」
「またそこで黙るかお前は」
「だっ…!」
「だって何」
  すぐに切り返す数馬に友之は口をあぐあぐとさせて、後の言葉を探した。回転の速い数馬についていくのはただでさえ大変なのに、「好き」という言葉がまた一層頭を混乱させていた。
  友之は手にしたコーラをぎゅっと手で握り直してからコホと1つ咳き込んだ。
「ボクたちって同じ野球チームに1年以上もいるのにさぁ」
  その時、数馬が唐突にそんな事を言い出した。
「何故か2人でまともにキャッチボールした事ってないでしょ。まあ、トモ君下手くそだからキミの相手って大抵先輩とかムラさんがやるよね。でも、今日フリスビーやって今度はボクもキミの相手したいって思ったな」
「どうして…?」
「どうして? 気持ち良かったから」
  いつの間に飲み終わっていたのか、数馬は手にしていた野菜ジュースを横に置くと、ゴロンと仰向けに寝転んで目を瞑った。それでもじっと見下ろす友之の視線は感じているのだろう、気持ち良さそうな表情で後を続ける。
「心のキャッチボールとはよく言ったもんだよ。今まで考えた事もなかった。大勢でやるスポーツも遊びも本当は大嫌いさ。いや、そんな中でも楽しい事はある、そんなことは知ってたんだ。でも、今日はそれの本当の楽しみを見つけたと思った」
「数馬?」
「キミのこと見て、キミの為にキミが良いって思ってるだろう位置を読んで投げるでしょ。すっごいね、あれ。びゅんって飛んでくフリスビーが全部自分の気持ち持ってっちゃう。らしくもなくね、翻弄されてたね、このボクが」
「え……」
「結構今素直な気持ち」
「………」
  両手を頭の下に置いた格好ですらすらとそんな事を言った数馬の事を友之はじっと見やった。そして、どうしたのだろう、どうしてこんな風に胸の中がふかふかと心地良い気持ちになっているのだろうと思った。
「同じだ……」
 すると ふと開いた唇からそんな言葉が漏れていた。
「ん?」
  数馬が器用に片目だけ開いて友之を見やる。友之はその瞳に吸い込まれるようにして応えていた。
「数馬のこと、好きだよ…」
「………」
「ずっとそう思ってた…」
「………そう」
  一拍ほど置いた後、数馬は素っ気無くそう返してきた。そうして、今度は両の目でしっかりと自分を見つめる友之を見据え、それからにゅっと長くしなやかな腕をその方向へ伸ばした。
「あっ」
  友之は数馬のその所作が何を意味するのかまるで分かっていなかったから完全に意表をつかれてしまった。
「数…ッ」
  呼びかけた時にはもう身体を引き寄せられていて、仰向けに寝転んでいる数馬の胸に思い切りもたれかかる格好となってしまった。焦ってその胸に手を置いて起き上がろうとしたけれど、背中をぎゅっと抱きすくめられた状態で身動きが取れない。
  友之は戸惑いながら自分を引き寄せた数馬の顔を見上げた。
「か、数馬…?」
「友之ってさ」
  数馬の声音はいつもと違う、一段低いものに変わっていた。
  そして表情も。
「あ……」
「無自覚なところがむかつくね」
「え…?」
「そういう台詞は反則じゃないの?」
「な、何が…」
「聞き返すな。バカ」
「………」
  平坦な口調の数馬に返す言葉も禁じられて、友之はただ困惑したように数馬の胸に抱かれながら沈黙した。同じ年のはずなのに、こんな風に抱きすくめられるとやはり小さい子ども扱いされているようで癪に障る。
  なのに一方でこんなに安心した気持ちになるのは何故だろうと友之は考えていた。
「いい天気だよね。ちょっと寝ない?」
  友之の髪の毛をゆっくりとかき混ぜながら数馬が言った。2人がいる芝生に太陽の日差しは眩し過ぎず、時折吹いてくる涼やかな風も穏やかだった。数馬はそんな陽気に気持ち良さそうに目を細めるとふわあと大きく欠伸をし、その後は本当に目を瞑って本格的に寝入ってしまった。
「数馬…?」
  遠慮がちに呼んだ友之の声に数馬は反応しなかった。
「………」
  数馬は友之をしっかと抱えたまま眠ってしまった。
「数馬…」
  友之はそんな自分の状態を多少窮屈に感じながらも、穏やかな眠りに入っている数馬を眺めながら、いつしか自分も目を瞑るとその心地良い外の空気に身を委ねて意識を遠くへやってしまった。

  そうして2人の昼寝はその午後いっぱい続いた。



×××



  目が覚めた時はもう大分風が冷たくなっていて、肌に触れていた温かい日差しもすっかり落ちかけてしまっていた。
「ん……」
  あ、そろそろ起きなくてはいけないかもしれない。夢だか現実だか分からない状態の中で友之はぼんやりとそんな事を思い、それから一瞬、そういえばここは何処だっけと眠る前の事をまた虚ろな意識の中で考えたりした。
「……あーあ」
「……?」
  その時、ふと自分のすぐ傍でそんな小さな呟きが聞こえた。そうして友之がそれを何だろうと訝しんだのとほぼ同時、唇に降りてきたその感触に友之は思わず身体をびくりと動かした。
「んっ…」
  急にそこへ降りてきたその柔らかいものに友之はたちまち息を塞がれた。驚いて逃げようとしたが、身体がまだ起きていないせいか、それとも何かが自分を抑え付けているせいか、思うように身じろぐ事はできなかった。瞼も重くて開けない。
「あ…っ」
  けれど、どうしようと思った時には、もう身体は軽くなっていた。
  目も開けた。
「数馬……」
「うん」
  開いた視界に最初に映ってきたのは、こちらをじっと見据えている数馬の顔で。
「数馬」
「うん。おはよう」
  数馬はもうとうに目覚めていたのだろうか。上体を起こした格好で片手だけ友之のすぐ傍につき、ただ真っ直ぐな視線を落としてきている。友之はややぼうっとした目でそんな数馬を見返した。
「いつから…起きてたの?」
「今さっきだよ。そろそろ寒くなってきたしね。トモ君もでしょ」
「うん…」
  寝ぼけ眼をこすりながらゆっくりと起き上がると、それに呼応するように数馬も片手を地面から浮かして友之から離れた。
「よっく寝たねえ」
「うん…」
「まだ眠い?」
「ううん…」
 今さっきのあれは何だったのだろう。
 何となくそれが気になって、友之は今まであったはずの感触を追うように自らの唇に手を当ててみた。
「……キミが悪いんだよ」
  すると数馬が言った。友之が意味が分からず顔を上げると、おもむろに立ち上がった数馬はそのまま友之に背を向けた。視線は遠くへやっている。
  そろそろ帰ろうという人で1つ向こうの通りは幾らかざわついていた。周囲の芝生でもレジャーシートを片付けたりバトミントンの道具をしまったりしている家族連れが多く目に付いた。
「お土産、買って行こうね」
  何となく数馬が見ていた方へ視線をやっていた友之は、ふとかけられたその言葉に反応して再度その背中を見やった。当たり前だが数馬の顔は見えない。けれど今自分に向けて発せられたその声はいつもの数馬に近いような気が友之にはした。
  幾らかほっとした。
「うん。特に正兄に…」
「うわ、それ聞いたらあの人も喜ぶよ」
「何がいいかな…」
「何でも喜ぶよ、キミが選んだものなら」
  数馬が振り返った。
  西日に照らされたその姿は一瞬友之の目を晦ませ、ぼやけさせた。
「あ…」
  けれど目を細めて見た先、数馬が確かに笑っているのが見えて、友之は思わず声を漏らした。数馬のいつもの笑顔だった。
  だからようやく訊ねる事ができた。
「数馬、楽しかった?」
「ん?」
「今日……」
「うん」
  数馬はあっさりと答えた。友之がやや驚いたように目を丸くすると、数馬は今度こそ大きく笑い、やや大袈裟に両手を広げた。
「すっご〜く楽しかった! トモ君のお陰だね!」
「……わざとらしい」
「あっ、ひどいなそれ」
  しかし数馬はわざとらしく唇を尖らせながらも、その後はまたすぐに笑った。そうして未だ座ったままの友之の片手をぐんと引っ張って立ち上がらせると、そのまま当然のようにその手を握って歩き始めた。
「か、数馬…?」
「だーめだめ」
  友之が途惑ってその手を離そうとするのを数馬が叱った。
「デートなんだからこれくらいは当たり前」
「で、でも…っ」
「ね、トモ君」
  友之に言わせないで数馬が言った。
「また来ようね」
「あ……」
「ね」
「……うん」
  気づくともうそうやって答えていた。
「うん……」
  そして友之は数馬から与えられる熱を自らの手のひらに強く感じながら、半ば真剣に「絶対」と心の中で呟いた。すると数馬の気持ちと自分の気持ちとがすっと重なったような、そんな不思議な感覚に捕らわれて、友之はそれが嬉しくて思わず握られた手を自分もぎゅっと握り返した。


  こんな素敵な日曜日なら、もっと何回も過ごしたいと思った。








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