ンバレ沢海君!


  ―後編―



  とりあえずは謝るしかない。急いで着替えてリビングへ行くと、友之は部屋のカーテンを身体に巻きつけたまま怯えた子犬よろしくこちらを睨んで震えていた。
「 友之…」
「 ふ…服…っ」
「 あ…ああ…」
  珍しく強い口調で言われて途惑ったものの、沢海はきょろきょろと辺りを見回した後、ソファの傍に置いてあった友之のカバンを手にとった。近づくと怯えるだろうから、足元に届くようにぽいと投げる。
「 ………」
  それでも友之はなかなか動こうとしなかった。
  沢海から夢中で逃げ出てきたせいで友之は裸のままなのだ。部屋まで来たはいいが、はたと我に返ってようやく自分の惨状に気がついたのだろう。恥ずかしさに顔を紅潮させた友之は今にも泣きそうな顔をしていた。いや、既に時遅しか。沢海の位置からも見える。友之の瞳にはじんわりと透明の雫が浮かんでいた。
「 本当に…ごめん……」
  他に言うべき言葉も見つからず沢海は項垂れたまま謝った。
「 本当に…」
「 ………」
  友之は何も言わない。ただ少しだけ、友之の身体を纏っているカーテンの布がゆらりと揺れた。友之がそれをぎゅっと握り直したせいだろう。
「 ふ、服着ろよ…。そのままじゃ風邪引くし…」
  誰がそんな状況に追い込んだんだよ、と激しく自身を叱咤しながら沢海はくるりと友之から背を向けた。
「 お、俺…っ。部屋、出てるから…。み、見ない…! そうしたら、安心して服着れるだろ?」
「 何で…」
「 え?」
  掠れたようなその声が心配で振り返りたかったけれど沢海はぐっと堪えてその場に留まった。
  そんな沢海に友之の消え入りそうな声が続いた。
「 何で…あんなこと、したの…?」
「 ………」
「 何で…?」
「 ……す」
  好きだから、と言おうとした沢海は、しかし自分のその言葉に勝手に傷ついた。
  友之を好きだから「あんな事」がしたかっただなんて、都合が良いにも程がある。本当に好きだというのなら、誰よりも大事なのだとしたら、尚更あんな事はしてはいけなかったのではないだろうか。ましてや友之は人並以上に他人との接触を恐れる傾向にある。今でこそ沢海拡という存在に慣れてくれた友之だけれど、だからこそこの信頼を裏切ってはいけなかったのだ。
「 ごめん…」
  他に言いようもなく、沢海は再びそう言った後、ぐっと唇を噛んだ。
「 ……っ?」
  その時、ふと服の裾に違和感を抱いて沢海は思わず振り返った。
「 って、うわ!」
「 拡…」
「 と、友…っ。わ、ごめん!」
「 ………」
  全く気配を感じなかったから心底驚いた。
  いつの間にか友之は隠れていたカーテンから離れ、沢海のすぐ背後にまで移動してきていたのだ。そして沢海の服の裾をちょいちょいと引っ張っていたわけだ。
  ちなみにそんな友之は未だ勿論裸であるから、思わずその姿を見てしまった沢海は反射的に声を上げてばっと顔を逸らした。
「 と、友之…!」
  片手で口元を抑えて沢海はカーッと赤くなる自分をどうともできずにただ下を向いた。どきどきする鼓動を止められない。友之が自分の傍にいて、自分に触れていて、そんな友之は真っ裸で。
「 拡」
  しかし友之は何を思っているのか、自分から目を逸らした沢海にまるで構う風もない。それどころか不思議そうな顔をしてただ首をかしげている。
「 拡、顔赤い…」
「 そ、それは…ごめん!」
「 ………。どうして謝ってばっかりなの…?」
「 え……」
「 お、怒ってる…?」
「 怒って……? 友之が…?」
「 ちがう…」
  友之はゆっくりを首を横に振ると沢海の服を更に強く掴んだ。そして自らも顔を赤くして俯くと言った。
「 拡が……」
「 お、俺が…? 何だよそれ…。何で俺が怒るんだよ…。逆だろ…」
「 ………」
「 友之、凄く嫌がったのに俺しつこくあんな事して…。だから謝ってるんじゃないか…」
  我慢できなくて沢海はつい友之の方を向いてしまった。どうしても目がいってしまう友之の身体には努めて意識を向けないようにして、瞳を潤ませたままのその顔だけをじっと見やった。
「 ………でも」
  すると友之は暫し悩んだ後、思いきったように口を開いた。
「 男同士なら、あれくらい、やるよね…?」
「 は……?」
  友之の言っている事の意味が分からず沢海は思わず間抜けな声を返してしまった。
  友之はそんな沢海の様子に気づいていない。ただますます顔を赤らめて俯いてしまったのだが、言う事は言わねば沢海に悪いと思っているのか必死に口をつく。
「 だ、だって…。この間、テレビで見たんだ…。旅行に行った友達同士が温泉で、その…見比べっこして…どっちか大きいか言い争ってた……」
「 ………」
「 で、でも…。あんまり、そういうの、やったことないし…。やっぱり、さ…触られると、怖かったんだ…。だから、逃げちゃって…」
「 いや…普通はそれでいいから…」
  今の声は届いただろうか?茫然としながら沢海は自身が発した声を頭の中だけで反芻した。
  沢海とてそういう経験が全くないわけではない。友之と違って修学旅行にも行ったし、時々は部活仲間と近くの銭湯へ寄って共に背中を流したりする事もあるから。そしてそんな時は決まって悪ふざけをしたがる仲間が1人や2人いて、俺の方がデカイだの何だのと言い出し、終いには皆で妙な「お披露目大会」になってしまう事もあった。
  しかし、今日沢海が友之にしたような「お触り」を友人同士がしていたとしたら、それはかなり大変な事なのではないだろうか。学校の教室で戯れにやるプロレスごっこではあるまいし、友之は沢海の興奮してそそり立ったアレに気づいていなかったのか。
「 拡…?」
  不安そうにこちらを見上げる友之。どうやら、全く気づいていなかったらしい。
「 …友之、早く服、着なくちゃ…」
  半ば呆然としながら、沢海は何とかそれだけを言った。素早く裸の友之から視線を逸らす。
「 ………」
  誤魔化せたのは幸いだったが、しかし複雑だった。この先友之が自分以外の「友達」の家へ泊まらないとも限らない。そしてあんな事をされても友人同士のおふざけなどと思って納得などしたら…。
「 拡、もう怒って…?」
「 怒ってない。……別の事では怒ってるけど」
「 えっ…」
「 ……そこでそういう顔するなよ」
「 ご、ごめ…」
  しゅんとする友之。いつからこんな立場逆転みたいになってしまったんだと、沢海は再び心内だけで1人覇気のない突っ込みを試みた。
  そうして煮え切らない気持ちを抱きながら、沢海はその後じくじくとした下半身を収めに1人トイレへ駆け込んだ。



  夕飯の時はその沈黙がたまらなくて、沢海は思わずテレビをつけた。あたりさわりのないプロ野球中継にチャンネルをあわせたが、思いのほか友之は喜んでおかずに箸をつけながらも頻繁にそちらへ目をやっていた。
  ただこうしているだけなら本当に平和だ。
「 ……友之、餃子うまい?」
「 あ、うん。皮、パリっとしてる」
「 うん。思ったよりうまく焼けたんだ」
  そんなやり取りをしながら沢海は再びテレビ画面へ視線をやった友之をじっと眺めた。
  平和。そう、何事もなかったかのように。友之は可愛いし、一緒に作った夕飯は美味しい。数馬はいないし、朝まで2人きり。この後だって色んな事が出来る。野球の話をしてもいいし、友之がやりたがっていたゲームだって一緒にやれる。ゲームに関しては、最新の機器やソフト等に沢海は全く興味がないのだが、意外にも父親の方がそういう流行物に手を出したがる人だった。「普通は子どもがねだるもの」と母などは呆れているが、お陰で沢海家は平均の家庭以上にゲームプレイ環境が整っている。今ばかりは放任の父にも感謝したい沢海だった。
「 これ片付けたらスイカ切るな。友之、食べるだろ?」
「 うん」
  一通り食事を済ませ、沢海がそう言って皿を重ね始めると友之は自分も片付けると言わんばかりに立ち上がった。沢海もそれを止めず「ありがとう」と言って自分も立ってキッチンへ向かった。
  ゲームの他には何があっただろう。DVDになったばかりの最新映画のチェック? それとも、アルバムでも見せるか?
  てきぱきと動きながら沢海は様々なスケジュールを尚も頭に思い浮かべた。友之は口数の少なくなっている沢海を明らかに不審がっていたようだが、口に出して問いただしてきたりはしなかった。
「 あ…拡…」
「 え?」
  しかしサラダに使っていたドレッシングを冷蔵庫にしまおうとした友之が、その時はたと動きを止めて沢海を呼んだ。
「 どうした?」
  沢海が訊くと、友之は遠慮がちになりながらも中に入っていたものを取り出すと言った。
「 これ、新発売のだ…」
「 え? ああ、ビール?」
  友之がそう指し示したのは、沢海が口にした通り350mlのビール缶だった。
「 新発売なんだそれ? 俺、そういうのCMとかでもあまり注目してないし全然知らないんだけど。友之、そういうの敏感なんだ?」
「 そういうわけじゃないけど…。あの、正兄と数馬がこの間これ飲んでて、凄く…喜んでたんだ。今までにない味なんだって」
「 へえ…」
  沢海は酒には全く興味がない。未成年なのだし興味がなくて当然なのだが、しかしどちらかというと友之たちの学校では沢海のようなタイプの方が珍しかった。だからといってまさか友之がと思いながら沢海が訝しんでいると、その友之は何故か恥ずかしそうな顔で俯き言った。
「 飲ませてもらえないんだ…」
「 え? 友之が?」
「 うん…。正兄、数馬にはいいって言うのに…」
「 ………」
  何となくそれの意図が分かって沢海が沈黙していると、友之がぱっと顔を上げて言った。
「 飲んでいい…?」
「 ええっ!」
「 ……っ。あとで、同じの買って返すから…」
「 ち、ちがっ…! 俺が言いたいのはそういう事じゃなくて…!」
「 ……駄目?」
「 う……」
  たかがビールといえども酒を欲する友之には何となく抵抗を感じる…。
  そう思いながらも、しかし沢海は友之の言わんとしている事がさすがにもう分かっていた。つまりはこれも、「大人に隠れて飲酒」というのも、友人同士のお泊りには欠かせないものなのに違いない。
  こっそり悪い事をする。共犯になる。この事は2人だけの秘密なのだ。
「 ……みんなには内緒だぞ?」
「 うんっ」
  案の定友之はとてつもなく嬉しそうな顔で微笑んだ。ああ、もう途中で数えるのを止めていたけれど、一体今日はこれで何度目の抱きしめたい衝動だろう。
「 ……俺も飲もうかな」
  多少の頭痛を感じながらも沢海はぽつりとそう呟いた。
「 うん!」
  その申し出に友之はこれまたこの上なく輝かしい笑顔で頷いた。


  しかし。


「 友之…。なあ、友之って…!」
「 う、ん……」
  多少きつめに揺さぶってみたが友之は寝言とも吐息ともつかぬ声を返しただけで、沢海の呼びかけから逃げるようにごろんと寝返りを打ってしまった。
  信じられない。たったの1缶だ。しかも、最後まで全部飲み干していない。
「 友之…。ゲームしないのか? したいって言ってた怪談話は?」
「 ……ん……」
「 ……絶対起きないな、これは……」
  はーとため息をついた後、沢海はリビングのカーペットの上、クッションを抱きしめるような格好でうつ伏せ寝をしている友之をじっと見下ろした。本来なら傍にいるこの様子を眺められるだけでも、十分自分は幸せだと思う。風呂にも既に入っているし、友之を抱きかかえて二階のベッドまで運ぶなど簡単な事だ。
  そして自分の目の前でこんなにも無防備な姿を晒している友之には、キスのひとつをしても許されるのではないだろうか。
「 ………はあ」
  しかし沢海はこんなオイシイ状況なのにどうしても最後の最後でブレーキがかかってしまい、「そういう気持ち」になれなかった。
  天に試されている気がして癪に障った。
「 これはきっと罰なんだ…。俺が夕方あんな真似をしたから…」
  独りそう呟いた後、沢海は再度嘆きの息を漏らした。
  友之は純粋に「友達の家に泊まる」という事を楽しみに来てくれた。そして実際そのお陰で自分の邪な行為は何のお咎めもなくやり過ごされる事となった。友之は沢海の事を微塵も疑っていない。沢海は友之にとって大切な友達で、一緒に夕飯を作ったり風呂に入ったり、裸を触りあったりできる仲で。
  こうして目の前で安心して眠る事ができる相手でもあるわけだ。
「 そんな風に思われてるのに…。なのに、その友之にこれ以上手を出したら…本当に終わりだな」
  友之が許してくれるくれないではなく、自分自身が己の事を嫌いになりそうで。
「 はあ…」
  沢海はまたため息をついた。人はこんな自分のことを「やっぱり優等生は違うねえ」と、皮肉交じりに言うだろうか。バカな奴だと笑うかもしれない。
  それでも。
「 ひろ…」
「 え?」
  友之の唇が微かに動いた。沢海がドキリとしてその口元を凝視すると、深い眠りにいるであろう友之はその問いかけに答えるように呟いた。
「 拡……」
「 と、友之…」
「 んん…」
  またごろりと寝返りを打った友之が、今度は自分の方を向いてくれた。沢海はその表情にまたドキドキとしながらほんの一瞬だけその頬に触れたが、すぐにその所作に恥じ入るように今度は自分から友之に背を向けた。
「 ………」
  テーブルに向き直ると、そこには友之が飲み残したビール缶が1本。
「 ………」
  沢海はじっとそれを眺めた後、思い切ってそれに手を伸ばした。友之の寝息が耳に入ってきて少しだけまた緊張した。
「 ……っ」
  けれど沢海はぐっと目を瞑ると、まるで毒を飲むかのような勢いでそのビール缶を一気に煽った。既に生ぬるいそれがとくとくと喉元を通り過ぎていったが、しかしそのビールの味はちっとも分からなかった。
  ただ栓に口をつけた唇だけが熱かった。
「 ごめんな友之…」
  沢海は友之がほんの数口で放棄してしまったそのビール缶を手にしながら、その相手に背中を向けたままぽつりとそう呟いた。
  この罪滅ぼしは、明日とびきりの朝食を用意する事で許してもらおうと思った。



【おわり】