(30)



  さっきまで貪るように魅入っていたはずなのに、いつの間にかうとうとと眠りに落ちていた。
  日差しもそれほどは強くない。窓からそよいでくる風も随分と心地良かった。
  緩やかな時の流れに身を任せているとこのままふわりと温かい夢に包まれていられそうな気がした。

  トモユキ……。

  その時、本に手を掛けたままの指先にすっと誰かの触れてくる感触があった。
  それは友之の指先から手の甲までを何度か優しく行き来した後、そっと離れた。
「 あ…?」
  その瞬間、友之は急に現実に引き戻されたようになって閉じていた目を開いた。
「 おはよ」
「 ………」
  ぼやけた瞳で声の掛けられた方を見ると、いつからいたのか前の席に沢海が座っていた。
「 拡…」
「 ごめん起こして。眠かった?」
「 あ…ううん…」
  ふやけた声で返答しながら、友之は意識をはっきりさせる為に何度か首を振った。それから未だ寝ぼけ眼の状態で辺りをきょろきょろと見渡してみる。
  学校の図書室。書棚から離れた自習スペースには友之と沢海以外誰もいない。目の前にある開かれた大きな窓からは先ほど夢の中で感じたそよ風が戯れのように白藍色のカーテンを揺らしている。
  それに何となく目をやってから、友之は改めて目前にいる沢海を見つめた。
  沢海は静かな表情に少しだけ笑みを湛えて友之を見つめている。
「 こんな冷房の効いていない所でよく眠れたなあ」
「 うん」
  普段ならここも宿題をしたり読書を楽しむ生徒でもう少しは賑わう。夏休みと言えども運動部や生徒会等は変わらず活動を続けているし、友之のように補講を受ける生徒もいるから、学校はほぼ毎日解放されている。…にも関わらずここまでこの図書室に人の影がないのは、先週から壊れて動かない冷房器具のせいだった。
「 でも…このくらいの方が好きだな」
  もう一度、窓から流れてくる風を感じるように顔を上げて友之は言った。確かに暑いと言えば暑いのだろうが、自分にはこれくらいが丁度良いように思える。クーラーが効き過ぎると却って気分が悪くなる程だったから。
「 友之」
「 え…?」
  そんな事を思っている時、沢海が呼んできた。はっとして視線を戻すと、沢海は友之が持っていた本を奪うようにして自分の元に引き寄せてから、すっとそれに目を落とした。
「 これ、友之が好きな写真家の本?」
「 あ、うん」
「 ………」
「 ……?」
  ぱらぱらと流すように写真のページをめくる沢海を友之は不思議そうに見やった。
  こんな所に来てもいいのだろうか。訊きそびれてしまい途惑った。今日はバスケットボール部は自主練習日としても、沢海は委員会活動やら何やら色々と忙しい身だ。補習の後、少しだけ本を読んで行くと言った自分の様子をわざわざ見に来てくれたのは嬉しいが、誰かを待たせているのなら悪いなと友之は思った。
「 実は夕べ」
  そんな友之の思いにも構わず、沢海は視線を下に落としたまま言った。
「 光一郎さんに手紙書いた」
「 え…コウ兄に…?」
「 うん」
  驚く友之に、ここで沢海はようやく顔を上げた。口元は笑みを湛えているものの、目はどことなく真剣だった。友之はそんな沢海に困惑して、口を半分開きかけたものの声を出せずに黙りこくった。
「 この間の、ほら友之が出した絵葉書にはさ。あんまり思った事書けなかったし」
  友之の返事は期待していないのだろう、沢海は1人で続けた。
「 だから昨日。友之が寝た後に書いたんだ」
「 何て…?」
「 ん?」
「 何て…書いたの…?」
「 知りたい?」
  黙って頷くと、沢海はようやく目でもにこりと笑って友之の手に再度触れた。眠りの国にいる時に優しく触れられていたのとは違う、今度はしっかりと握られて友之は焦って図書室の入り口に視線をやった。
「 誰もいないよ」
  友之の気持ちを素早く察して沢海は言った。そうして暗に「今は俺だけを見ろ」とでも言わんばかりの強い視線で友之のことを貫いてきた。
「 ……拡?」
「 な、友之」
「 あ…」
  そして沢海は途惑う友之には構わず、椅子からやや腰を浮かすと上体ごと顔を寄せてそのまま触れるだけのキスをした。
  また。
  こんな、誰が来るか分からないところで。
「 ひ、拡…っ」
  逆らおうと顔を背けようとしたものの、沢海に戒めのように手をぎゅっと握り直されてぴたりと動きを止める。沢海には逆らえない。困ったように上目遣いで見やると、相手は勝手知ったるような顔でにっこりと笑った。
「 つまり、そういう事を書いた」
「 え?」
  意味が分からずきょとんとしている友之に沢海はくっと小さく笑うだけだった。
  そして突然声色を変えて楽しそうに言う。
「 なあ友之。この後さ、どっかお昼食べに行こうか?」
「 こ、この後…?」
「 うん」
「 でも……」
  委員の仕事などはないのだろうか。
  それに沢海は最近富に自分とばかりいるような気がする。友達のたくさんいる沢海がこんな風に自分とばかり一緒にいて、周りは不満に思わないだろうか。
  ぐるぐるとそんな事を考え逡巡している友之に、沢海は再度言い聞かせるように今度は両手を掴むと言った。
「 いいんだよ。友之は余計な事考えなくていいんだ。俺は友之と一緒にいたいんだから。友之は? 俺と一緒にいたくない?」
「 あ、あの…」
「 ん、嫌?」
「 そ、そうじゃなくて…」
  性急に答えを求めようとする沢海に友之は焦りながらも急いで首を横に振った。
  まだ沢海に触れられた唇がじんと熱い。
  友之は赤面している自分に気づかないフリをしながら握られた両手に視線を集め、小さく言った。
「 ……てくれたら」
「 え?」
  しかしそれはあまりに小さ過ぎて沢海の耳まで届かなかったようだ。友之が慌てて下を向くと、沢海は困ったようになりながらも優しく笑い首をかしげた。
「 ごめん友之。今、何て言ったんだ?」
「 ご…、……らせて」
「 ええ…? ちょっと、友之」
「 だから…ご飯、奢らせてくれるなら」

  一緒に、出掛けたい。

「 …………」
  やっとのことでそれだけ言うと、友之はそろそろと目の前の沢海に目をやった。
  沢海はぽかんとしたまま微動だにしない。余程言われた事が意外だったのか、それともまだそんな事を気にしているのかと呆れているのか。
「 ……っ」
  いずれにしろ黙りこくったまま反応のない沢海に友之はただオロオロとみっともなく困惑していた。しかし両手を引っ張ろうとしても拘束されたそれは解放される事はない。沢海は友之の手を掴んだまま、ただ真っ直ぐな視線を向けていた。
「 ふ……」
  けれど、やがて。
「 友之」
  沢海は何か悪い事でも思いついたような悪戯っ子のような笑みを向けると、友之の手の甲にちゅっと音のするキスをした。
  そうしてその所作に友之が慌てて口を開こうとした瞬間――。
「 駄目」
「 え…」
  沢海はあっさりと友之の申し出を却下した。
「 今日は俺が奢る」
  そして沢海はようやくここで友之の手を離し、がたりと椅子を蹴ると立ち上がった。夏の日差しの中整然と立ち尽くす沢海の姿はどことなく大人びているように見えた。
  だから友之は反論の声を出すのがすっかり遅れてしまったのだが。
「 さ、行こ友之。何が食べたい? 友之の好きな所行こう?」
「 え…あ…!」
「 ちょっと電車乗って遠出しようか? 何なら夕飯も何処かで食べてもいいよな…」
「 あの、拡…!」
  先にさっさと歩いて図書室を出ようとしている沢海に友之は慌てて自分も立ち上がるとその後を追った。それから1人でどんどんと今日のプランを立て始めている沢海に必死に声を掛ける。
「 ひ、拡…! 奢るのは…!」
「 だから今日は俺が奢る」
「 きょ、今日って…いつも拡が…っ」
「 聞こえなーい」
「 ……っ!!」
  ふざけたように両手を両耳に当てて友之の声にしらばっくれる沢海。
  そんな沢海をただただ焦ったように見上げながら後に続く友之。



  2人が出て行くと、誰もいない図書室には静かな風のざわめきと窓から差し込む明るい日差しだけが残った。しかしそれは穏やかに訪れた2人のやさしい時間を歓迎するかのように眩しく輝いていた。



Fin


…最後まで読んで下さった皆さん、長い間ありがとうございました。(04.1.27)

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