彼の月は消え去りて
|
その男を大切な友人と認識はしているけれど、触れて欲しくないと思う時にも容赦がない、こんな時は本当に疎ましい。 「俺は行かない」 「お前の意思なんか聞いてねェよ。来いって言ってんだ」 普段滅多に不機嫌な顔を見せないだけに、同じメンバー連中はハラハラとした様子でこのリーダー格の男を見守っていた。名実共に自分達のバンドを引っ張っているアキラは、彼らにとって同士というよりは絶対の存在である。その男がこんなにも怒っているのだから、早く謝ってくれ、折れてくれ―…。そう言外に訴えてきているのが、その波風を立てた張本人・刈谷にも容易に感じ取れた。 「…何見てんだよ」 けれど刈谷は仲間のそんな弱気っぷりをこの時は余計に鬱陶しく苛立たしく思った。人の良すぎる彼らを嫌いにはなれないが、決して好きにもなれない。無遠慮に眉をひそめ、刈谷は彼らにわざと睨みを効かせるとくるりと背を向け、乱暴に控え室を後にした。辛うじて舌打ちを押し留めたのは自分が不利な立場にいる事が分かっていたからだが、それでも譲る気はなかった。 「おい貴広! 待て!」 けれどこの時はアキラもしつこかった。我慢出来ないというように声を荒げ、ドアの前で「いい加減にしろ、テメエ!」と口汚く唾を飛ばす。 それで刈谷もぴたりと足を止め、わざと大袈裟に嘆息して見せた。 「打ち上げに出ないってのは前からの約束だろ。お前等だけで行って来ればいいだろうが」 「今回はただの打ち上げじゃねェ。A社の松井さんも来る。メインのお前が挨拶しないでバックれなんてありえねえだろ」 「ありえるよ。俺のあの噂、本当だからって言っておいて」 「貴広!」 「アキラ」 親友の「勘弁しろ」と言う想いの篭もった叫びに強くかぶりを振り、刈谷は頑として受け入れないという目を向けた。 「俺は嫌だ。ライブ以外で大勢の前には立たない」 「………」 「デビューの前に約束した」 「けどな…」 何か言いたげに口を動かしたアキラだったが、もう駄目だと思ったのだろう。やがて自棄になったように「勝手にしろ!」と怒鳴ると、勢いよくドアを閉めて控え室に戻って行ってしまった。 「………」 刈谷はそれを何の感情の色もなく見つめていたが、ようやく解放されたという安堵は確かに感じて、改めて荷物を肩に抱え直し、ジャケットの胸ポケットからサングラスを掛けると足早にその場を去った。やっと離れられる。別段寒くもないのに、刈谷はふっと息を吐いた後、ぶるりと身体を震わせた。 バンド名をCeleste(セレスト)と改めてから、歌がやたらと売れるようになった。 メンバーは親友のアキラをはじめ、中学時代から1人も欠ける事なく同じ面子だ。誰かの音楽性に劇的な変化が訪れたわけでもない。意欲的に営業活動に勤しみ、派手なパフォーマンスを増やしたわけでもない。どちらかというと皆マイペースで淡々としており、基本的にはロックバンドらしからぬ堅実さと地味さを兼ね備えた、「己」の変化を好まない連中である。自分達の中で既に「こうありたい」という方向性がはっきりしていたせいかもしれないが、だからこそバンド名が変わったからと言って彼らの音楽そのものの何かが変化したというわけでは決してなかった。 だから、何かが変わったというのなら、それは刈谷貴広唯一人だ。 いい加減な遊び仲間との関係を一切切り、働きながら本気で歌うようになっていたら。祈るような気持ちで書いた詩を曲にのせるようになったら。 知らない間に「共感した」と応援してくれる人が増えていた。 メジャーデビューまでも嘘みたいに早かった。口さがない世間の評価の中においては、「メンバーのルックスだけが際立ったバンド」とか「今年だけの一過性人気」だとか言うものもあったし、刈谷自身の過去を責めた「ボーカルTakahiroの暗い過去」などと週刊誌に取り沙汰される事もあったが…ライブの数を真摯に増やし、ひたすら音楽にだけ打ち込む事で、そういった風聞には刈谷自身が全く気にならなくなっていた。 「気難し屋のTakahiroはやや鬱気味で、周囲の誰とも溶け込もうとせず、古くからのメンバーとすら距離を取っている」という「噂」もあったが、自分の人付き合いの悪さが心の病のせいだ、それなら仕方ないねと言って見過ごされるならばそれに越した事はないと思った。そういうものが世間で言う「逆差別」で、それを利用する卑怯な自分を知っていても、それでも刈谷は周りと馴れ合う事をしたくなかった。 もういい。 別に誰とも仲良くなろうとなんて思わない。ただ歌っていられればそれでいいのだ。 詩でも言っているだろう。“もう誰も慕わない、触れる事はない”って。 「おや…いらっしゃい。貴広君」 「どうも」 やっと独りになれると思ったのに、今日はツイてない。 そう思いながら刈谷が扉を開けた先に見つけた人物に自然渋い顔をすると、その教会の主である老齢の神父は勝手知ったるような顔で穏やかに笑んだ。 「心配しなくとも、今からここは君だけの場所だよ。私は忘れ物を取りに来ただけだから」 神父の手には小さな熊のぬいぐるみが握られていた。ここへ「遊びに来た」子どもが置き忘れていったものだろう、やたらとイベントの多い教会だからと、刈谷は心の中で何の感慨もなくそう推測した。 「今週は来られないかと思っていたよ」 無表情の刈谷に神父は言った。 「確か今月から地方公演だっただろう。車で来たのかい?」 「バイクで」 やたらとしつこいストーカー紛いのファンや、スキャンダルを狙う雑誌記者を撒く為には車より小回りの利くバイクの方が都合が良かった。事故が怖いからバイクは止めろとアキラは折に触れ口煩く言ってきたが、自由に動けなくなるくらいなら俺は抜けると逆らったら、以降は何も言われなくなった。 「祭壇前のライトはつけていくよ」 ふと物思いに耽っていたらしい。 はっとして顔を上げると、神父は相変わらずの優しい目をして刈谷を見ていたが、すぐに視線を外すとさっさと横を通り過ぎ、出口のある扉へ歩いて行った。神父は刈谷が自分に懺悔を求めに来ているわけではない、ただ独りになりに来ている事をもうよく知っているのだ。 教会全体を照らしていた電灯だけはパチリと消して、神父は自分を見ている刈谷に「おやすみ」とだけ言って出て行った。都外の狭い土地にこのスペイン風の建築物が造られたのは今からもう80年以上も前だと言う。お世辞にも綺麗とは言い難いその教会は、しかし立て付けの悪い重い扉を除けば天井も高く壁画も見事で、灯りを消してより一層の静寂を得られればこの上なく安心した美しい空間となった。 刈谷は毎週金曜の夜、こうしてここへ訪れては、祈るでもなくただ小さく歌を口ずさむ。それを続けて、かれこれもう1年以上が経過した。 「昼間、皆さんと一緒に歌えばもっと楽しいのに」 最初神父はそう言って普段の祈りと歌の時間にも来るよう誘ったが、自分の発言に刈谷が怒りにも似た固辞の眼を叩きつけてくると、二度と同じような言葉を出す事はなくなった。 「………君の、指先、に―…」 中ほどの席に深く腰をおろし背中を預けると、刈谷はすうと目を閉じて呟くように歌い始めた。このシンとした中に流れる澄んだ空気が好きだった。初めて訪れた時から、この喧騒の世から隔絶された「異世界」に心惹かれて、本来神など信じないくせに、気づけば心を休めたい時にはいつもここに足を運ぶようになっていた。 だからいつも土曜日の深夜、数時間だけは自分だけの場所としてここを開放してもらっていた。この事はアキラにすら言っていない。 「ツキト……」 口ずさんでいた歌をぴたりと止め、刈谷はふと唇にその名を乗せ、目を開けた。そうしてジャケットのポケットに無造作に突っ込んでいた両手をすっと出し、再びその姿を振り切るように歌い出す。歌は最近作ったものだったり、Celesteになる前、ツキトのいたあのアパートで作詞した歌だったり色々だったが、とにかく思いつくままに歌うのが刈谷の「週慣」だった。 「ツキト……」 けれど今日はどうにも駄目だ。一曲歌い終える前に意図せずその名が口をついてしまい、刈谷は微かに困惑した。会いたい。死ぬほど会いたい。顔が見たい。名前を呼べば呼ぶほど、目を瞑りその姿を思い返せば返すほど、思いは激しく募っていった。それはもう叶わない事で許されない事で、そうする資格がない事も十ニ分に知っている。 けれど忘れられなかった。忘れるつもりもなかった。 ずっと死ぬまで想っていようと、心に決めていた。 「月人君からの伝言だよ。『悲しい歌ばかりじゃなくて、楽しい歌も書いて』ってさ」 ある日突然現れたその「月人の友人」だという私立探偵は、驚く刈谷を前にやや憮然としたようにそう告げた。ツキトの地元にある市民会館で殆ど突発的に敢行したライブの初日、その演奏が無事終わった控え室での出来事だ。 「君の事は恨んでない、今自分は幸せだから…とも、言ってたよ」 一体どうやって警備の目をすり抜けて入り込んできたのか。若い優男はその顔に似合わぬ毒の篭もった目を閃かせていたが、刈谷自身にとってそれはどうでも良い事だった。 「……ツキトが。ツキト、今日は―」 「来てないよ。来られないって」 「………」 「刈谷クン。君もいい加減、過去の恋は忘れて新しい恋でもしたら? 若いんだしさ。それに、そうする事が月人君の為でもある」 刈谷がぼうとした顔を上げると男は続けた。 「君みたいのにいつまでもしつっこく想われてたんじゃ、月人君が可哀想だからね。俺の立場から言わせてもらうなら、《お前、マジで気持ち悪ィ》…ってとこかな?」 「………」 お前は一体誰なんだとか、ツキトとはどういう関係なんだとか。 お前なんかに何が分かるんだ、とか。 ともすれば殴りかかってしまいそうな衝動も覚えたのだが、それでも刈谷は動けなかった。男に対する怒りは勿論あったが、それ以上にツキトが自分の事を気に掛けてこうしてメッセージをくれた、その事に胸が一杯になっていた。 そうなんだ、幸せなんだ? 俺の歌、聴いてくれたんだ? 俺のこと、心配してくれた? 「ツキト…ツキト…!」 今すぐ走って会いに行きたい、そう思った。ツキトの居所はとうに調べて知っていて、本当ならその気になりさえすればすぐに会いに行く事も出来たから。 それでもそれをしなかったのは、ツキトの事を思い遣る、というよりは、怖かったからだ。何にしに来たんだ、お前など嫌いだ、一生恨んでやる―…そう言われたらどうしようと思うと、怖くて近づく事が出来なかった。この期に及んでそうして自分の事しか考えられない自分が嫌になったが、刈谷にとってツキトは本当に全てだったから。 別れてからより一層、その存在感は増すばかりだった。 「ツキト…。まだ明るい曲はうまく書けないんだけどさ。…今、色々考えてる。ツキトがそれを聴いてちょっとびっくりしてくれたりとか、ほっとしてくれるとことか想像して…考えてるよ」 誰もいない教会で刈谷はそう独りごちた。それからまたすうと目を瞑った。また何曲も何曲も、喉が枯れて声が掠れるまで刈谷は歌い続けた。 そんな悲しくも穏やかな時間がどのくらい続いたのか。 「刈谷」 不意にギギと重い扉の開く音がして、直後自分の名を呼ぶ声が聞こえた。 「え……」 ぎくりとしてさっと振り返ると、暗闇の中、小さな影が遠慮がちにこちらの様子を窺っているのが見えた。刈谷は一気に心臓を跳ね上がらせながら、目を凝らして突然現れたその人影を注視した。 「刈谷…何してるの、こんな所で?」 「ツキ―…」 直後それは確信に変わり、刈谷は慌てて立ち上がった。すぐにその場に駆け寄る事は出来なかったが、それでも何度も瞬きして遂に教会内に入ってきた人物にごくりと喉を鳴らす。 何をしているか、だって? それはこちらの台詞なわけで―。 「何で…」 間の抜けた声でそれだけを問うた。歌い続けていたせいで声がうまく出ない。本当はこんなしゃがれた耳汚い声なんて聞かせたくない。もっとよく通るはっきりした声で伝えたいのに。 それが出来ない。 「えっと…。俺も、ここ結構よく来るんだ」 「え…?」 「刈谷もなの? 凄いね。偶然だね」 ゆっくりとこちらに歩み寄ってくるその影は、遂に刈谷の目の前にまでその全貌を現すと、あの柔らかい眼差しを向けてニコリと微笑んだ。正面にある祭壇のほんの一部分からしか灯りのないこんな場所では、その愛しい顔も薄ぼんやりとして明瞭ではない。 それでも刈谷には十分だった。 目の前に立っているのは紛れもなくツキトだったから。 「普段はこんな時間には来ないんだけど、今日は昼間に来られなかったから。本当は怖いから嫌だったんだけどね…。ほら、夜の教会ってただでさえ静かなのに余計しーんとしてるし…神秘的だけど、その分余計にゾクッとくるじゃん」 「ツキト…」 「え?」 「あ……いや。……ツキト、怖いの苦手だっけ?」 「そういうわけじゃないけどっ」 からかわれたと思ったのか、ツキトはむっとして警戒したような目を向け、それからふいと視線を逸らした。 「―……っ」 どんどん記憶が蘇ってくる。そう、ツキトにはこういう意地っぱりな面があって、本当は怖いくせに「怖くない」と言ったり、本当は困っているくせに「大丈夫」と言って弱さを隠そうとするところがあった。 それがあまりにミエミエで分かりやすいから、余計に可愛く見えてしまうんだなんて事は……本人は一切分からないのだ。 「ふ……」 昔、そんなツキトが可笑しくて、わざと意地悪で怖いホラービデオを持って部屋に押しかけた事があった。ツキトはうちにそんなもの見るテレビはないと突っぱねたけれど、その時はその貧しさに対し明らかに安堵した様子で、でも本当はそのホラー作品のパッケージを見るのも嫌みたいで、「早く持って帰れよ」と刈谷に文句を言っていた。 可笑しくて、やっぱり可愛くて。あの時は堪らず力任せにぎゅっと抱きしめたら、案の定驚かれて迷惑がられてめちゃくちゃに暴れられたっけ。 「何笑ってんの?」 不貞腐れて横を向いていたはずのツキトが不思議そうな顔をして訊ねてきた。刈谷はそれに慌てて首を振ると「何でもない」と答え、困ったように笑った。どういう顔をしていいか分からない。何を言ったら良いかも分からない。 ただ、ツキトが傍にいてその息遣いを感じるだけで頭がどうかなりそうだった。 「刈谷は何でここに来てるの?」 刈谷がいた場所とは通路を隔てた隣の席に腰かけ、ツキトはまた質問した。視線は前方、イエスの像ではない正面横の何かに向いている。その横顔を僅かな灯りの中で見つめやりながら、刈谷は「えっと」と口篭った。お前を想いながら歌っているなど、気恥ずかしくてとても言えたものではなかった。 「ツキトは?」 だから答えず聞き返したのだが、ツキトはそれに気分を害する風でもなく「あれ」と嬉しそうにイエス像の右側面に飾られている絵画を指した。 「あの絵が好きで通ってるんだ。一目惚れ…へへ。こんな寂れた…って言ったら、申し訳ないか。でも、近所の人達にしか知られてないような小さな教会にこんな凄い絵があるなんてさ。初めて見た時びっくりして動けなかった」 「ふうん」 「凄いよね?」 「う……うん」 自分に絵の事は分からない。刈谷は狼狽した。 正直、ツキトの絵を見た時もそれほどの衝撃は受けなかった。ただ単純に「スゲー巧いな」とは思ったけれど、それだけだ。それどころか、気楽な感じに「こんな地味なつまらんもの描いてないで、もっと面白いもの描けば?」などと生意気な事を言った事もある。 今、音楽に真剣に取り組んでいる自分なら分かる。あの頃の己の発言がどれほど失礼で的外れだったかという事を。 「あの…」 そこまで思うと、今さっき口にした適当な返事がまた申し訳ないような気がして、刈谷は思い切ってツキトに一歩近づき、言った。 「悪い…。俺には、よく分からない」 「え?」 「俺…絵とかの良し悪しって、よく分かんねえから…」 「あ…ああ、うん。何だ。いいよ、そんなの。別に」 ツキトは刈谷が何故謝ったのか、最初意味が分からなかったらしい。けれどすぐに笑顔になると、納得したように頷いて「そりゃそうだよ」と頷いた。 「感じ方なんてその人によって違うし。俺はあの絵を好きだけど、刈谷が同じように好きとは限らないよ。別に謝る必要なんかないって」 「……けど、俺はツキトが凄いって思って好きになったものなら、同じように好きになりたい」 「……刈谷?」 「今は俺まだバカだから分かんねえけど…。絵も勉強するよ。音楽やってるとさ。他の色々な事も大事だって段々分かってきて、俺、何でこんな物知らなかったんだとか、無神経野郎だったんだとかすっげえ実感してきてさ…。あ! 今な、アキラとかに謝ってまたちゃんとバンドやらせてもらえるようになってさ、歌ってるんだけど! そ、そうだ、ツキトは聴いてくれた事あんだよな、俺らのバンド! あ、あのさ、俺はともかく、あいつらって結構凄ェの。ブランクある俺フォローする天才だし。自分の楽器やるだけじゃなくて他のもん演る人の話聞きに行ったり、自分でも手ェ痛めるくらい練習したり。音楽やるだけじゃない、先の事考えて英語の勉強してる奴もいるし。とにかく、凄えんだよ」 「へえ…。そうなんだ」 「ああ、それにさ―」 「仲、いいんだね?」 「え」 ツキトの言葉に刈谷がぴたりと足を止めると、ツキトは安心したようにゆったりと笑った。 「一緒にバンドやってる人たちとも仲良くやれてるんだ? ほら、前はさ…。一応組んでるけど、それほど熱心にやってるって感じじゃなかったし」 「………」 「そうやって一緒にやってる人の話も初めて聞いたし。皆を尊敬してるんだ? いいね、そういうの」 「……俺」 「良かった。安心した」 「ツキト、俺…」 またよろりと歩み寄って、刈谷はごくりとのどを鳴らした。駄目だ、口の中がカラカラだ。何も言えない。言いたいのに。 ただ一言でも告げたいのに。 ごめん、と。 言いたいのに。 「あ、もうこんな時間だ。俺、そろそろ行かないと」 「え……」 ドキリとして目を見開くと、ツキトは腕時計をちらと見て「外に人待たせてるし」と実に自然な口調で言った。 「それ…」 あの男なのかと問いそうになって、刈谷は慌てて言葉を飲み込んだ。自分に何を問う資格もないし、大体そんな事知ってどうするというのだと思った。知ったところで意味などないし、またこの胸が潰れるだけじゃないか。 今ここで奇跡みたいに会えたのだから、それでいいじゃないか。 「それじゃ」 「あ……うん」 こんな風にツキトが何事もなく接してくれた。笑い掛けてくれて、普通に友達みたいに話してくれた。それで満足しよう。何を不服に思う事がある。 笑って見送らなくては。 「ツキト」 「ん?」 けれど既に自分に背を向けたツキトに対し、刈谷が発した言葉はまるで違うものだった。 「手……触らせて」 「え?」 あまりに小さな声だった為に聞き取れなかったのだろうか。ツキトは振り返りざま何だろうというような顔をして不思議そうに聞き返してきた。刈谷は緊張と眩暈で視界をぼんやりとあやふやなものにしながら、それでもぐっと握り締めていた手をゆっくりと前方にいるツキトへ向かって伸ばしてみた。 「手…手…っ。ツ、ツキトの手に……触りたい」 「………」 「だ、駄目…?」 駄目に決まっている。そんな事許されない。 自分自身が直接そう答えを下すのを頭の奥でしっかと聞きながら、それでも刈谷は差し出した手を引っ込める事が出来なかった。 手に入れられない、そんな事は分かっている。でも、どうしても。 ツキトのあの手に触れて、本当にここにいるのだという事を確かめたい。 「……どうしたの刈谷?」 暫くしてツキトが完全に向き直り、心底分からないという顔をして苦笑した。やや首をかしげてこちらを伺う様子に全身がカッと熱くなる。きっと今自分は酷くみっともなく茹蛸のように赤い顔をしているに違いない。 それでも。 頼りなく力の入らなくなっている両足をしっかと踏ん張って、刈谷はまだ手を差し出していた。 「手を……」 「別にいいけど―」 変なの、とツキトは口許で笑いながらそう呟いた。 そして一歩、二歩と近づき、刈谷の指先にそっと自らの手を伸ばして。 「……ツキト、俺―」 「刈谷」 その感触にはっとしたのも束の間、刈谷は話しかけた自分よりも先にツキトが唇を動かし何事か発したのを見た。 「え。何、何て―」 「―……て……」 「ツキト?」 けれどどんなに目を凝らしても、ツキトが自分に向かって言っている言葉を、刈谷は聞き取る事も視認する事も出来なかった。 「―……君。貴広君。いい加減に起きないと風邪を引きますよ」 「………」 ゆっくり目蓋を開くと、辺りは薄靄を残しながらも朝の光と共にすっかり明るくなっていた。 「あ……?」 「眠ってしまったんですか? 泊まったのは初めてですね」 上体を起こそうとして椅子から背を離した瞬間、ずきりと頭が痛んで刈谷は思い切り眉をひそめた。額に手を当て、じっと記憶を呼び起こそうとするも、イマイチはっきりとしない。一体いつ眠ってしまったのだろうか。 隣に立つ神父が心配そうにこちらを見やっていたが、そちらへ目をやる余裕はなかった。 そして徐々にはっきりとする意識の中で、「ああやっぱり夢だったのだな」と思った。 軽い失望はあったが、一方で安堵もしていた。あの手をあのまま握っていたら、きっと自分はまたとんでもない間違いを犯しただろうと思うから。 「帰るんですか? 宜しければ朝食をご一緒にどうです」 フラリと立ち上がってそのまま去ろうとする刈谷の背中に神父が声を掛けた。けれど刈谷は緩く首を振っただけで一瞥もやらなかった。とにかく頭が痛い。帰って改めて眠ろう、そう思った。 「おや…? こんな所に。まだ忘れ物があったんですね」 その時、刈谷の無反応に慣れていた神父がふと何かに目を留めたように呟き、「これは」とどこか感嘆するような声を漏らした。 「……?」 特に興味もなかったのに何故か何気なく振り返った刈谷は、その瞬間―…慌ててその場に駆け寄っていた。 「それ…!」 「え? これ貴広君の物なんですか? いや、驚いた。君がこんな才能も持っていたとは。素晴らしいですよ、あそこの壁画を見て描いて下さったんですね」 「……そんな…じゃあ…」 神父が手にしていた物をもぎ取るようにして、刈谷はそのスケッチブックに描かれていた物に目を見張った。昨夜の「夢」に出て来たツキトが「一目惚れした」と言っていた天使のラフ画がそこにはあった。 夢じゃ、なかった? 「まだ未完成のようですが、本当に見事だ。きちんと描き上がったらまた是非見せて下さいね」 「え……」 「え? いえ、ですから。完成品を是非見せてもらいたいと。駄目ですか?」 「………」 けれど、ニコニコした神父のその言い様に、未だ驚きで身体を石のようにしていた刈谷もはたと我に返ったようになった。ぐっと両手で掴んでいたスケッチブックだったけれど、改めて目を落とすその「途中の絵」に、ザッと背中から何か重いものが落ちたように感じたのだ。 「いや…」 だから刈谷はそのスケッチブックを神父の胸に押し付けるようにして渡すと、足早にそこから離れ、再び出口へと向かった。 「貴広君?」 当然の事ながら神父はそれで途惑った声を上げたが、刈谷はもう振り返らなかった。 そしてあのたてつけの悪い重い扉を両手で押し込むように開けてから、刈谷はようやっと害のない、実に静かな顔を向け、言った。 「それ、俺のじゃない。持ち主が来たら、返して」 「は…?」 「俺からは渡せないから」 「はあ…」 神父の意を飲み込めないという顔に初めて刈谷はぺこりと軽く頭を下げ、後はもう振り切るようにその場を飛び出た。途端、より眩しく照らしてくる陽光に一瞬目を眩ませて、刈谷はさっと目を細めながら忌々しいものを見るように天を仰いだ。 朝だ。もう月は見えない。 「………夢、だろ」 そうして自分自身に言い聞かせるようにそう言った。言って、ぶるぶると首を振り、ああギターに触りたい、歌いたいと思った。 だから先刻まで部屋に戻って寝ようと思っていた前言を撤回し、刈谷はアキラ達がいるであろうスタジオへ向け、跨ったバイクのエンジンを思い切り吹かした。 どくどくと高鳴る心臓の鼓動には、敢えて知らないフリをした。 |
了 |
戻る
刈谷の名前って貴広でしたっけ…(爆)?←調べてから書けよ…