(あ…いいな……)
  何気なく眺めていた新聞に、好きな画家の作品展が催されるという記事が載っていた。月人はそれに「いいな」と思い、その直後、殆ど無意識のうちにその美術展の開催期間と、そこへ行くまでの交通経路などを頭の中で思い描いた。
  だから、はたと気付いた時には少々青褪めた。
「駄目だ駄目…ッ」
  自らにきつく言い聞かせ、月人は激しく首を振った。
  季節は夏も過ぎ、日が落ちるのもすっかり早くなった。それでも今日は気持ちの良い秋晴れで、窓を開け放した外では子どもらの快活な掛け声などが聞こえてくる。恐らくはこのマンション近くにある小学校が運動会の練習でもしているのだろう、軽やかなパレード曲は月人も昔よく聴いた馴染みの深いもので、喧騒とした雰囲気に更なる色を添えている。
「勉強しようっ」
  けれどそんな外界との接触を断つべく、月人は無理矢理大きな声を出してピシャンと窓を閉じると、カーテンまで締めて背を向けた。日中はいつも大抵独りだから、こうしてしまうと本当に何もかもから隔絶されてしんとした静寂を享受する事が出来る。月人はその無音を良しとし、既に開いていたノートがあるローテーブルの前へすとんと腰を落とした。
  いつも午前中はこの広いリビングで勉強し、昼食の後は気分転換に隣の勉強机がある部屋へ移る。それでもやる事はいつも同じで、月人は来年の1月以降から始まる2度目の大学受験の為、現在は殆どこのマンションに缶詰状態、ひたすら勉強に打ち込んでいた。
  兄の太樹が月人の為にこの部屋を用意したのはもう数ヶ月も前の事だ。

  お前のことは俺が決める。
  お前の幸せは俺にしか作れない。

  このあまりに一方的な兄からの言い分を月人が素直に受け入れたのも、この部屋に移った時とまた同じ日だった。月人は兄の為にずっと続けていきたいと願っていた絵を断ち、兄が望む道に進むべく、新たな努力を始めた。と同時に、絵はやめると決めたのだからと、これまで描いていた物はラフスケッチから、手馴らしで行っていた粘土細工まで全て捨て、美術館に行く事も画集を眺める事も、テレビでそういった関連の番組を見る事も一切やめた。今日の新聞記事のように意図せず情報を得てしまう事はあるが、しかしその徹底ぶりは絵をやめろと言った兄の太樹すら眉をひそめるほど極端なものだった。
  それでも月人にはそういった事でしか兄に誠意を見せる術を知らない。中途半端なこだわりを持ってしまえば、自分はまた何をしでかすか分からない。卒業式の直後に断行しようとしたあの「家出未遂」のように、兄を裏切るような真似はもう出来ない。それによってあの自分にとってたった一人の存在を失う事になるくらいならもういい、と。
  月人はそう思い、兄以外の全てのものを切り捨てたのだ。
  少なくとも、今はそうしたつもりになっている。

「え…何、言ってるの?」

  だからその日。
  珍しく夕食の時間に帰宅してきた太樹が何という事もない風に言ってきた台詞に、月人はぴたりと動きを止めた。きっと聞き間違いだ、咄嗟にそう思った。
「知り合いがくれたんだ」
  けれど今度は実際にその「物」まで見せ付けられた。そうして太樹はスーツの上着をソファの背に投げ捨て、ネクタイを緩めながら、手にしたその数枚のチケットをテーブルの上に投げ置いた。
  それは今朝方月人が新聞で「いいな」と思っていた美術展の鑑賞チケットだった。
「これ、何……どうし……」
  そう言いながら食い入るようにチケットを見つめている月人に、太樹は相変わらず淡々とした口調で言った。
「見れば分かるだろう、貰ったんだ。だからお前にやる」
「何で……」
「何で? お前、好きじゃなかったのか」
  太樹も怪訝な顔をしているが、月人の方も訳が分からないという風に兄の顔をまじまじと見上げた。これは兄に不思議そうな顔をさせている自分が悪いのか? それとも、やはり兄の方がおかしいのか?と。
  月人の頭の中は暫し密やかなパニックを起こしていた。
「偶には外に出たらどうだ」
  すると太樹が洗面所へ向かいながらそう言った。
「え」
  兄の姿が視界から消えた事によって金縛りのようになっていた月人の身体がふっと軽くなる。慌てて後を追おうとしたが、しかし兄はすぐに戻ってきて、妙な前傾姿勢を取っている月人を一瞥して「だから」と続けた。
「偶には外の空気も吸えと言っているんだ。典子や支倉が言っていたが、お前、1日中殆ど外に出ていないんだろう。模試の日も試験の後はそのままここに直行していると聞いた」
「だって別に……寄りたいとこも、ないし……」
  月人は悪い事をして怒られている子どものように、ぼそぼそと言い訳めいた口調を発しながら下を向いた。
  恐らくは兄からの命令なのだろう、偶に模擬試験で外に出る時は、その送迎をしてくれる支倉が必ず帰りに「偶には外で食事でもどうですか」と誘ってくれた。―…が、月人はそれを受けた事が1度もない。昼と夜の食事を作り置きしに来てくれる屋敷の家政婦である典子も、時折酷く心配した風に「一緒に買い物へ行きませんか」と声を掛けてくれるのだが、それも無碍に断っていた。1度くらいは首を縦に振らないと悪いと頭では分かっているのだが、どうしてもそれに対して「イエス」の返答が出来ない。月人はそうする事がいつしか酷く「怖い」と思うようになっていた。
  4月から週5で通っていた予備校も、このマンションへ移ってからは一切行けなくなった。月に1度の模擬試験だけはかろうじて出席しているが、それも大教室でたくさんの受験生に囲まれていると帰りにはぐったりとしてしまって、吐き気すら覚えている。月人は人が怖かった。人の視線が怖かったし、また必要以上に他人にびくびくする自分自身を自覚するのも怖かった。
  兄の太樹を深く愛している。この人以外と共に在る事はありえないと確信しているが、それでも月人は「あの日」から、明らかにそれ以外の人間と接するのが恐怖になったし、実の兄弟で身体を繋げているという、一般的に禁忌である行為を犯した己にも、病的なほどの鬱屈を感じるようになっていた。
  だから月人は、この部屋にずっといたい。
  第一、 兄だってそれを望んでいるし、その望み通りにしていれば兄はいつだって優しく自分を見てくれて、何も怖い事は起こらない。問題はない。問題が起こらないのなら、大好きだった絵だってやめられる。
  簡単に、捨てられるのだ。
「行きたくないのか」
  それなのに無情にも、月人のたった一人の支えであるはずの太樹自身が、追い詰めるように再度きつく問い掛けてきた。
「たかだか半日息抜きするくらいなら、幾ら俺だってとやかく言わない。むしろ息抜きはした方がいい。だから―」
「命令?」
「何?」
  月人が咄嗟に唇を開いて発した言葉に、太樹がぴたりと動きを止めて眉をひそめた。
  しかし当の月人は必死になっているのでそれに気づかない。
「それって兄さんの命令? 絶対に行かなくちゃいけないの?」
「……別に、義務じゃない。お前が行きたいんじゃないかと思ったから俺は―」
「なら行かない。行きたくない」
  激しく首を振る月人に、太樹の眉間の皺はますます深くなる。端整な顔がどこか苦痛に歪むその様を月人も同じく悲痛な目で見つめた。
「行かなくていいでしょ?」
「……どうして行きたくないんだ」
「外に出たくない」
「何でだ」
「分からない。でも、なるべく出たくない。外は怖い」
「……月人」
「それに美術館になんて、もっと行きたくない」
  それは明らかな嘘だったが、月人は「本当に行きたくないんだ」と言い聞かせるように力強く発して、自分自身にすらその嘘を飲み込ませようと躍起になった。中途半端は良くない。そういう事をすると絶対に自分と兄にとってこの先良くない事が起きる。本能がそう言っていた。
「この間の模試の結果も良くなかった。兄さんだってもう少し頑張らなくちゃ第一希望には届かないって言ったじゃないか」
「……だからこそ気分転換が必要なんだろうが」
  太樹の至極もっともな台詞に月人はむっとした。
「何で? そんな事したら折角覚えたの、また忘れちゃうよ。とにかく行きたくないのに、何でそんなしつこく言うの? 命令でもないのに…。それにあんな遠い所、電車もバスも使って1時間以上掛かる。そんなの1人で―」
「俺も行く」
「え?」
  早口でまくしたてていたのに遮られるように言われ、月人は咄嗟に動きを止めた。
  太樹はそんな弟をじっとした眼差しで見やりながら尚強い口調で繰り返した。
「俺も行く。車で行けば乗り継ぎの必要もないし、そうすれば然程人に揉まれる事もないから楽だろう? それならいいだろう?」
「……やだよ」
「月人」
  駄々を捏ねる子どものように尚も拒絶の意を唱える月人に、太樹はここで初めて呆れたような、怒りの混じったような眼を向けた。まさか自分も一緒に行くと言って断られるとは思っていなかったのだろう。
  しかし月人にしてみれば兄のそんな態度こそ理不尽極まりないもので、自分はこんなにまでして己や、己と兄の関係を護ろうとしているのに、それを自ら危くしようとする太樹は酷いとしか思えなかった。
  だから自然、声も刺々しくなった。
「何なんだ、何なんだよ…っ。行きたくないって言ってるじゃないかっ! 嫌だって! それなのに、何でそんな顔するの? それなら命令だって言ってよ、そしたら納得して行……仕方なく、行くよ! でも…でも、そうじゃないなら……嫌なんだ、絶対嫌なんだよ!」
「月人」 
「大体、兄さんあれだけ僕に勝手に何処かへ行ったり、絵を描いたりするの駄目って言ってたくせに、何で今さら美術館なんて誘うんだよ? ひ、酷過ぎるよ! 兄さ……っ、兄さんは、勝手だ! 酷い!」
「月人―」
「嫌いだ!」
  別にそこまで言うつもりはなかった。
「あ…」
  けれど一旦零れ落ちた言葉はもう二度と元には戻らない。自分に「嫌い」と言われ、さっと驚愕の色を浮かべる兄の顔が視界に飛び込んできて、月人はわなわなと身体を震わせた。

  嫌われる事に一番恐怖しているのはこの僕だ。兄さんじゃない。

「……っ」
  それでもすぐに謝る事も縋りつく事も出来なくて、月人は今にも倒れそうな足を意地で踏ん張ってみせると、後はただ闇雲に駆け出して隣の寝室へと飛び込み、バタンと勢いよくドアを閉めた。
  それから逃げるようにベッドに潜り込んで身体を丸める。
「うっ…」
  そこまですると先刻の恐怖を身体がまた思い出し、途端ガタガタと震えが起きた。鎮まれ、鎮まれと何度も命令するが、身体は全く言う事をきかない。兄は酷い、でも自分もバカだ―。そんな考えがぐるぐると頭を駆け巡って収拾がつかない。こんな遣り取りはもう一体何度繰り返している事だろう、それを知っているのに、何かがあるとすぐ自分たちは駄目になる。同じ過ちを繰り返す。
  布団を頭から被り、月人は無理矢理目を閉じた。太樹が部屋にやってくる様子はない。きっと呆れているのだろう、そう思うとまた居た堪れなかった。
  だから月人はそのまま闇の中に包まって意識を遠くへ飛ばした。





  いつだったか兄の目を盗んでの事だろう、このマンションに忍びこむようにしてやってきた姉の陽子は、月人を蔑むように見つつ冷徹な言葉を浴びせかけた。
「あんたがいなけりゃ、あのお兄様ももう少しまっとうな人生を歩めたでしょうに」
  美しい姉の、けれどだからこそ棘のある言葉をそのまま受け留める事が出来なくて、月人は努めて目を合わせず、彼女の煙草を持つ指先のマニキュアだけを見つめた。
  それは血のように毒々しい赤だった。
「まったく、まさかここまでイッちゃうとはね。自分から逃げ出そうとするアンタに血が上ったんでしょうケド、実の弟を監禁紛いにこんな所に拉致って、縛りつけて? 家族であるアタシ達からも遠ざけるんだから異常だわ。……ま、お陰であの人の精神状態はここにきてようやく落ち着いたというか、仕事の方には身が入るようになったみたいだけどね」
「姉さん……兄さんは――」
「別にアンタを縛りつけてはいないって? 確かに、見える首輪をつけられているわけではないようね。この状況なら、その気になれば外にでも何処でも行けるでしょうよ。―…でもね、これって余計に救いがない状態だと思わない? もう見えない首輪はきつく締まって、決して外せないようになっている。当のアンタがその状況を良しとしちゃってるから、またどうしようもない」
「何……」
  陽子の冷たい口調から、酷い事を言われているというのは分かる。けれど月人は姉の言う事に承服しかねた。
  確かに、太樹から酷い束縛を受けて、続けたいと思っていた絵を取り上げられた時は悲しかったし、「お前の人生は俺が決める」と言われた時は、無茶苦茶だ、自分は兄のペットではないと強く思った。そんなのは駄目だと反発心も覚えた。…けれど結局のところ、我を通して太樹という存在をを永遠に失うくらいならば、自分の夢など何ほどの事もない―…そう結論を出したのは月人自身であり、太樹の縛りは関係ない。救いがないなどという事はない。今の状況を良しとしているそれが駄目だと言うのなら、一体自分はあの時どうすべきだったのか。分からない。
  月人の困惑した表情でその疑問を易々と見破ったのだろう、陽子はふっと形の良い唇から細い紫煙を噴き出すと、乱暴な所作で灰皿のないテーブルにその吸殻を押し付けた。
  そうして颯爽と立ち上がり、これがトドメとばかりに言い放った。
「要は、アンタはどうしようもないバカって事よ」
  勿論、あのお兄様は言うに及ばずね、と。姉はそれだけを言い置き、帰って行った。
  それ以来、陽子はここに姿を見せない。兄にこの訪問がバレてより監視の目が強くなったのかもしれないし、姉自身が自らの意思で月人に会いに来るのを止めたのかもしれない。
  その答えは後者な確率が高いと月人は思ったが、いずれにしろその真実を明らかにする術はなかった。





「月人」
  泣き疲れていつしか眠ってしまったらしい。軽く揺さぶられてはっと目を開くと、傍には兄の太樹がベッド脇に立ってこちらを窺っていた。電灯のない暗い室内でも容易に分かる、兄の爛とした眼光に月人はドキリとした。
「兄さん…」
「腹減ってないか。食べるなら温め直す」
「ううん…」
  緩く首を振っていらないと言う所作を示すと、太樹はあからさま良くないという風に顔をしかめた。元々食の細い月人は、何かと言うとすぐに食欲を失くしてそのまますぐに痩せ衰える。通常より神経が太いと思われる小林家の面々の中で、何故末っ子の月人だけがこうも「弱い」のかとは、家族だけでなく一族の人間たちも口を揃えて嘆く事だ。
  月人自身そんな自分をいつも情けなく思っているが、無理をすればその後さらに酷いしっぺ返しがくる事は経験済みなので、結局は「マシ」な道を選ぶ他ない。
「なら果物だけでも食べたらどうだ。甘い物でもいい。欲しい物がないなら、買ってきてやる」
「いらないよ…」
  病人じゃないんだからと続けて、月人はここでようやく少しだけ笑えた。太樹がとても優しい。基本的に兄はいつだって優しいのだが、普段それが表に出る事はあまりない。元々不器用な人だからというのもあるだろうが、幼い頃から月人の親代わりのようなところもあったから、何かと口煩くなってしまう手前、こういう時でもなければ甲斐甲斐しい世話など焼けないのだろう。
  けれどだからこそ、月人もこういう時の太樹にはすぐさま素直になれた。頭半分まで掛かっていた布団を取る事はできなかったが、首を竦めながらも月人は太樹に先刻の失言を謝った。
「兄さん、さっきはごめんなさい」
「ああ…」
  案の定、太樹はすぐに許してくれた。ほっと安心して月人はのそのそと上体を起こしたが、決まりが悪いのは変わらなかったのですぐに俯いた。
「兄さんのこと、嫌いなわけないよ…」
「分かってる」
  優しく髪に触れられ、頬を撫でられて月人は嬉しくて顔を上げた。それでも不意に泣きそうになり、ぐっと潤む瞳に力を込めた。そうする事によってより涙が浮かび上がりそうになったのだが、兄の手が添えられているせいで今度は下を向けない。
「絵……もう、やめたから」
  だから声だけはしっかりしたものにしようと言い聞かせながら月人は言った。
「中途半端なの、嫌だから。今朝新聞見て、偶々知ってたんだ、あの美術展あること。本当は……それですぐに、いいな、行きたいなって思った。……けど。外に、出たくないのも、本当なんだ」
「俺が一緒にいても嫌か」
  太樹の声は相変わらず穏やかで静かだった。月人は安心しきって、触れてくれている手に自らの手を合わせて「うん」と頷いた。
「怖いよ」
「月人」
「ごめんっ…ごめん、なさい…。でも…でも、想像、出来ない…。兄さんと、絵を見に行く自分……そういうの、駄目、だから」
「以前は一緒に行ったじゃないか」
「うん……でも、もう行かない」
  きっぱりとそう言った後、月人は緊張した面持ちのまま改めて兄の顔を見上げた。次の言葉を出すのが空恐ろしかったが、それでも唇を戦慄かせつつ、月人は言った。
「こんな情けない奴……呆れた? き…嫌いに……なった?」
「なるわけない」
「本、本当…?」
「ああ…」
「にぃさ…っ」
  ゆっくりと近づいてくる太樹の唇に後の言葉を塞がれて、月人はぎゅっと目を瞑った。
「ふっ…ん…」
  慰めるように軽く触れては離れ、また触れてくるそんな兄からの口づけが悲しい程に嬉しかった。月人はもっとと言う風に身体を揺らし、太樹の腕をきゅっと掴んだ。
「月人」
  するとそれに呼応するように太樹からのキスは激しくなり、逆に腕を掴み返されて起こされた身体を再びベッドに沈みこまされた。荒々しく太樹が上に圧し掛かり、被さっていた布団を下に落とされて月人はひゅっと小さく息を呑んだ。兄とのこういった行為は別段もう驚くべき事ではないはずなのに、鋭いこの眼に見据えられるといつでも逃げ場を失った小動物のように身体が硬くなった。
「出たくないのなら、出なくていい」
  だから太樹が呟くように発したその台詞にも、月人はただ大人しく耳に入れるだけだ。
  喉笛を噛み千切られるのではないかという程荒々しく吸われてびくびくと身体を揺らす中、太樹は更に月人の服を乱暴に掻き開いて肌を暴きながら熱の篭もった声で言った。
「ここにいろ。……俺の傍にいればいい」
  それは芥子の花のように危険な香りのする誘いだ。それでも月人はその言葉が嬉しくて、震える唇で小さく「うん」と応えた。

  そしてその後はもういつもと同じだった。

「あっ。あ、あ、あ」
  太樹が自身を捻じ込んでくると同時、月人の身体はこれまで以上に火を帯びて、中をまさぐられる感覚だけで他に何も考えられなくなった。
「あんっ…あ、あっ…に…兄、さん…ッ」
  互いに一糸も纏わぬ姿のまま絡み合う。こんな行為は異常だと分かっているけれど、この時だけは考えない、考えられないようにさせられるから、月人には却って楽だった。むしろ兄が月人の身体を気遣って前戯を丁寧にしてくると恥ずかしさが増すし頭の中が余計に混乱するから、強引にされる方が好きなくらいだ。
「兄さん…っ」
  特に今夜のように前からされると、激しく律動する兄の身体や、それを正面から受け入れるべく、あられもない姿で両足を開く自分の痴態が見えてしまうから居た堪れない。何も考えない方が楽だし苦しまないでいられるから、月人はいつだって早く太樹に中を突いてもらい、乱暴に揺さぶってもらいたいと不埒な考えを抱いてしまう。
「はぅっ。あ。あぁ、あっ、あっ…。い、いや、ひあぁッ…」
  けれどそういった考えがあまりに見え透いてしまうと、太樹から苛められる事もままあった。自らのお世辞にも立派とは言えない性器を兄の大きな掌で抑えつけられ精を止められるなどというのはザラで、そんな時は月人がどんなに泣いて懇願しても許してもらえない。こんなにも兄に従順なのに、兄にしてみればまだ足りない、まだ月人は全然「自分の所にまで到達していない」と言う事らしい。
「兄さ…兄さんっ」
「月人……」
「ん…っ」
  熱っぽい太樹の声に月人が呼応して目を開くと、覆い被さる陰と同時に深い口づけが降りてきた。それによって互いの結合部はより深くなって月人は苦痛に顔を歪ませたのだが、それでも太樹は構わず月人の舌を味わい、どちらのものともつかない唾液を絡ませる程のキスを続けた。
「んっ、ふ…んぅ…」
「月人…愛してる」
  長い口づけの後、太樹がそう囁いた。月人はそれにぶるりと身体を震わせた。同時に、さんざ中を掻き混ぜられて生じた快感と苦痛とが交じり合い、瞳に浮かんでいた涙が頬を伝って落ちてしまう。太樹がそれをどういう風に捉えたのかは分からなかったが、月人自身はそれで誤解されるのが嫌だったから、必死に片手を兄の首に回し、荒い吐息と共に訴えた。
「僕も……あっ…ん……す、好き…っ」
  兄の髪の毛をまさぐる。今は動かないでという懇願だったが、それは通じたようだった。
「ずっと……ずっと、このまま……」
「いいのか……」
「ん…」
「それで、お前はいいのか…」
「そうじゃなきゃ……あぁっ」
  嫌だと言いたかったのに、最後まで言わせてはもらえなかった。
「ひぁっ。あ、あ!」
「バカだな……」
  太樹の再び動き出した律動に月人は堪らず嬌声をあげた。
  だから結局兄が呟いたその台詞が一体何を指すものなのか、どちらを示すものなのかは問いかける事が出来なかった。姉の陽子は月人も兄もバカだと言ったけれど、月人自身は愚かなのは自分だけだと思っている。
  それでも、そんな愚かな自分をこうして愛してくれる兄も、完璧ではないと今は分かる。
「もっと…」
  だから月人は太樹を更に自分の奥で感じたいと、感じさせて欲しいと両腕を出して貪欲に強請った。
  やがて飛散する兄の熱を体内に受けるその時だけは、月人は不安で堪らないこの世界で、唯一の安寧を感じ取る事が出来る。それは真っ暗な闇の中に灯るたった1つの明かりであり、ここで生きる上での唯一無二の宝物だった。







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