―+α―



  あれからひと月が経ったが、歩遊はいまだ俊史とまともに話をしていない。
  最初こそ、歩遊は俊史がいつ怒り心頭でやって来るかと怯えていたが、思えば、その気があるならあの歩道橋で出会った時にとっくにやってきて然るべきだ。けれど俊史はあの時、歩遊を黙って見送ったし、その後も耀の家へ押しかけるどころか、歩遊にも何の連絡も寄越さなかった。耀も「俺が瀬能と話すから」と、はじめは電話なり訪問なりを続けたようだったが、いずれもまともな話はできなかったらしい。次第に耀も歩遊の前で俊史のことを話さなくなり、偶に口にすることがあっても、「いじけているんなら、放っておけばいいんだ」と腹立たしそうに呟く程度になった。
  歩遊は、あのマンションを出た当初こそ耀の家に邪魔していたが、耀に無駄な迷惑をかけたくないと、数日の後は実家へ帰った。そこから大学へ通うことにしたと言った歩遊に両親は何も言わなかったし、俊史の父親などはそれを歓迎して、「どうせくだらない喧嘩したんだろうけど、あいつのことなんか放っておけばいい」と歩遊を慰めた。
  放っておけばいい。
  それは耀も言った台詞だったけれど、実際歩遊はあれから俊史に何のアプローチも取らなかった。取れなかった、という方が正しいのかもしれないが、「取りたくない」と思う気持ちも本当だった。
  まだ、俊史と面と向って自分の気持ちを語る術がない。
  そしてそれは、実は俊史の方もそうなのかもしれなかった。あれから俊史を大学で見かけることはなくなった。意図的に歩遊を避けているのかもしれない。或いは、元々興味のなかった学部学科だ、歩遊との関係が切れている現在、そこへ通う意義を見いだせないのかもしれない。
  それを考える時、歩遊は忸怩たる想いを抱くのだが、それでもどうすることも出来なかった。
  大学の講義を終えて駅へ向かうと、道すがら、耀が前方から手を振っているのが見えた。
  歩遊はそれにほっとして笑顔で返した。
「ごめん、耀君。もしかして凄く待った?」
「ぜんぜん。まだ待ち合わせ時間より前じゃん。俺が早く来ちゃったから、どうせなら大学まで迎えに行こうかと思っただけ。どうせここ一本道だからすれ違うこともないと思ったし」
「うん」
「何それ? 本?」
「あ、うん。今度のレポートに使う参考書。面白そうだと思って」
「分厚いなぁ。見せて」
  歩遊が購買で入手したばかりの本が入った袋を、耀は興味深そうに覗きこんだ後、実に自然にそれを自分の手荷物として歩き出した。
「あ、耀君、いいよ」
「いいの、いいの。それより、どこ行く? 先に飯食うだろ?」
「うん。僕、あのお好み焼き屋がいい」
「歩遊あそこ気に入ったなぁ。ま、俺もあそこがいいと思っていたけど!」
  意見が一致して良かったな!と、にこにこしながら耀は笑った。つられて歩遊も笑顔になった。
  あれから耀は歩遊にしょっちゅう連絡してきては、食事や買い物に行こうと誘ったり、時には今日のように歩遊の興味に合わせたコンサートに付き合うなど、率先して行動を共にしたがった。耀は留学準備の為に外語学校へ通い始めたが、同時にサッカーのトレーニングも変わらず続けていて、大学のチームと一緒に練習することもあったから、歩遊との時間を作るのは難しいはずだった。
  それでも耀はスケジュールの小さな隙間を見つけては歩遊に一緒に出掛けようと声をかけた。歩遊はそれに「大丈夫かな」と思いつつも、耀といるのがあまりに楽しかったから、都度その好意に甘えた。
  耀と一緒にいると、心から笑うことが出来る。安心なのだ。
  耀は歩遊をバカだと蔑まないし、何でも自分だけで決めたりしない。歩遊の気持ちを尊重して、歩遊の言葉を聞いてくれる。歩遊の趣味にも関心を示して一緒に楽しんでくれるし、笑ってくれる。また、耀自身が好きで取り組んでいることも一生懸命話してくれる。
  それに何より……耀は自分の友人を歩遊に紹介してくる。自分が好きだと思って付き合っている仲間は、同じく大好きな歩遊にも知り合ってもらいたいからと、耀は屈託なく笑って言う。
 耀と一緒にいる時間は夢のようだ。これからもずっと仲良くしていたいと歩遊は思う。
  食事をしてコンサートを聴きに行って、楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。歩遊は以前から大ファンだったピアニストに会えて大興奮だったが、その感想を語っていたらすっかり遅くなってしまった。耀は何も言わず、最後まで歩遊に付き合ってくれたが、お陰で気づいた頃には時間も深夜を回っていた。自宅近くにまで来て今さらそれに気づかされた歩遊は、わざわざ送ってくれた耀に慌てて謝った。
「何か、今日ごめんっ。僕ばっかり話しちゃって。こんな遅くなっちゃって、耀君、大丈夫?」
「全然! 俺も楽しかったし。また遊ぼうな!」
「うん。あの、もう遅いから泊まって行かない? 電車もないでしょ?」
「えっ。いやあ…俺、どうせ走って帰るつもりだったし、いいよ」
  歩遊の誘いに相当驚いたようになった耀は、すぐにそれを断って首を振った。
  しかし歩遊としてもそれですぐにはいそうですかと頷けなくて、「でも」と食い下がった。
「明日の朝、早くから予定ある?」
「いや、明日は午後からだけど」
「なら、今日はもう泊まって、午前中のうちに帰ればいいよね? 今から走って帰るなんて大変だし。危ないし」
「はは…俺、女の子じゃないから別に平気だよ」
  歩遊は何やらそわそわし始める耀を不思議に思って首をかしげた。いつもの耀なら、誘われたら「いいの? ラッキー!」とでも言ってすぐに了承しそうなのに。あっ、と思い、歩遊はまた申し訳なさそうに俯いた。
「ごめん、疲れちゃった? この上、人の家に泊まるのは気を遣うとか…」
「え!? ああ、歩遊はそうくるのかぁ…。そうじゃなくて、えっと何ていうのかなあ」
  耀は困ったように苦笑しながら顎先を掻き、それから思い切ったようになると身体を屈めて歩遊の唇にキスをした。
「!」
  歩遊が突然のそれに驚いて目を瞬かせると、耀は悪戯が成功したような顔で「フェイント〜」などとおどけてから、不意に真面目な顔になって視線を泳がせた。
「えーっと、つまり。何か俺、最近、歩遊にそういうことしたくなっているっていうか。だから、一緒に泊まるとかは…何か、やばいかなあと思って」
「え……」
「歩遊と一緒にいると楽しいんだ」
  今度は真っ直ぐに歩遊を見てきて耀は告げた。
「誰より、1番楽しいし、安心するし。好きだなって。俺、歩遊のこと好きみたい。ずっと一緒にいたいな」
「よ……」
「あいつのこと、まだ忘れられない?」
  耀がちらと隣を見て言った。隣家―俊史の家には、人の息吹が感じられない。俊史の両親も、そして俊史も、ほとんど帰ってきてはいないようだ。というよりも、歩遊が実家へ帰ってきてから、俊史が隣の実家へ戻ってきた気配は一度もしていない。
  それでもこの家にいれば毎日でも思い出す。隣から何の許可もなしに突然我が物顔で押しかけてくる俊史のことも、勉強が分からなくて、歩遊自ら俊史の家へあがりこんだことも。
  リビングの窓から外を見れば、すぐ隣は俊史の家のリビングが垣間見える。
  けれどそこに俊史はいない。
「いいよ、歩遊」
「えっ…」
  黙り込んでいると耀が言った。耀の瞳はとても優しい、澄んだ色をしている。
  綺麗だなと歩遊は思った。
「別にいいよ、あんなインパクトある奴、すぐに忘れられるわけないし。今は全然会ってないって言っても、歩遊があいつのことまだ好きなんだろうなってのは分かるから。俺、それでもいいし」
「でも…」
「ああ、それに」
  歩遊が言いかけるのを遮って、耀はいやに自信ありげな顔をした。
「俺、このひと月で凄く分かったことがあるんだよな。歩遊はあいつを好きかもしれないけど、歩遊は俺といた方が笑えるし、楽しめるし、絶対幸せになれるよ」
「よ……」
「だから俺、歩遊の気持ちを待つことは出来るけど、歩遊をあいつの元へ戻すとかは、もう全然考えてない。ごめんな?」
「――……」
  歩遊は絶句して何も言えなかった。そして、そんなことを堂々と言えるなんて、やっぱり耀は凄いな、と思った。
  それに、そんな耀に「好きだ」と言ってもらえたことを、とても幸せだと思った。
  そうだ、耀の言う通り。もうとっくに幸せだと思っている。
  この胸の奥に潜むあの影にさえ目を瞑れば。
「そういうわけだから、俺、今日は帰るな?」
「えっ」
  そうこうしているうちに、耀は独りで結論づけて踵を返した。歩遊はそれに思わず声を上げ、咄嗟に去りかける耀の腕を掴んだ。耀が驚いて振り返った。その顔をいやに冷静に眺めた後、歩遊は急激に熱くなる身体を意識しながら早口で告げた。
「帰らないでっ。ぼぼ、僕、耀君にいて欲しいから…!」
「けど…」
「耀君が良ければ…だけど。僕も……耀君といるの、楽しい…」
  きゅっと耀の服の裾を掴み、歩遊は懸命に告げた。どきどきした。段々と、先刻耀にしてもらったキスが効いてきて顔が赤くなった。
「歩遊」
  それなのに耀はそれが分かっているのかいないのか、意識し始めたばかりの歩遊の顔を掬うと、今度は互いにしっかり確か合いめながらの口づけをしてきた。唇をあわせるその瞬間まで、耀は歩遊を見つめていたし、歩遊もまた耀を見つめて。ゆっくりと重ねあわさったそれは何度か角度を変えて離れては再び触れあい、また深く絡めて互いの熱をじわじわと高めた。
「ん…」
  耀の口づけは熱烈なのに優しい。歩遊の気持ちを確認しながらゆっくりしてくれる。それが強く伝わるから、歩遊は安心して耀に自分を預けられた。自然、耀の腕にしがみ付いて自らも唇を差し出した。
「歩遊…俺、やっぱり泊まらせてもらう…」
  すると耀が熱っぽい目を向けてそう言った。そして歩遊がそれに「うん」と小さく頷くと、大きな花びらがぱっと開くように耀は嬉しそうに微笑んだ。
  だから歩遊も一緒に笑って。
  自然と繋がれた手を引っ張るようにして、歩遊は耀を自宅へ招き入れた。そこに以前燻っていた恐怖の色は何もない。だからもう何も見ない方が良い。
  彼に、さよならを。
「…………」
  歩遊はちらとだけ隣家を見た後、一度だけ目を瞑り――…それから、耀の手をきゅっと握り直した。







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そんで、塀の陰かどっかで一部始終を見て死人同然の顔して立ち尽くす俊ちゃんがいると…(合掌)。