レモンの砂糖漬け
|
「和衛さん、どうしたの。煩いんだけど」 妹の部屋を通り過ぎる時にたまたま兄の和樹と出会ったので、数馬は何ともなしに訊いてみた。 先ほどから家中響き渡るほどに、彼女の泣き声が凄い。 「学期末テストで学年1位の座を逃したんだって。前回も3位で相当悔しがってたから、今度こそ…と思っていたのに」 「また3位だったの?」 「いや。4位だって」 苦笑する和樹は軽く肩を竦めると、すぐにその場を離れて行った。数馬も勿論そうだが、長兄の和樹も基本的には「可哀想な妹」を慰めるような優しさは持ち合わせていないらしい。……否、放っておくのが一番の優しさだと知っているからこその放置なのかもしれないが。 「4位ねえ」 少なくとも数馬の方は「優しくない」から、和衛に掛ける言葉を持たない。 それどころか、妹のヒステリックなまでの泣き声を鬱陶しいと思いこそすれ、可哀想などとは露ほども思わないのだ。 和衛は決して憐れみを受けるような子どもではない。 むしろこんな風に何かにムキになれて羨ましいくらいだ。 「別にいいじゃない。ビリってわけでもないんだし」 もし和衛が「いつでもトップ」である数馬のこの台詞を聞いていたら、またぞろ騒々しく怒鳴り散らしたに違いない……が、幸いにして、彼女は号泣の真っ最中だ。 「全く、イライラするなぁ」 数馬はがしがしと明るい頭髪をかき回しながら、ふっとらしくないため息をついた後、和樹から遅れてその場を去った。 数馬は今年の4月でようやく17歳になるが、彼を知る大概の人間は「何て生意気な高校生だ」と眉をひそめる。彼の群を抜いたあらゆる才には感嘆し尊敬する者が後を絶たないが、反面、そのあまりにふてぶてしい言動に反発を覚える者も少なくないのだ。 要は常に「あらゆる人間を小ばかにしている」風に取られてしまうのがいけない。 「お前は性格が悪いな」 仕事を引退してから離れで独り暮らしをしている偏屈な祖父から一言そう言い切られた時、数馬は、「アンタにだけは言われたくない」と憮然とした。けれど、その時は特に何も言い返さなかった。元々祖父とは普段から殆ど言葉を交わさない。祖父は用がある時はいつでも長兄の和樹を呼び出すし、和樹がいない時は他の家族の誰でもなく、使用人の女性を「次点」として選ぶ。その基準は恐らく「従順で察しが良い」に尽きるのだが、数馬自身、決して選ばれたいとは思わないので、求められない事はいっそ幸いに思えた。 「昴馬さんは、どうして和樹お兄ちゃんばかり贔屓するの!?」 けれども将来の香坂家を率先して担いたい野心家の和衛としては、既に一線から引いているとはいえ、少なからず組織に対し発言権なり影響力を持つ祖父が長兄の和樹を一目置いているらしい点に嫉妬心を抱くようだ。…もっとも、和衛は和樹だけでなく、次兄の数馬を筆頭に、学校で自分より勉強が出来る生徒や容姿を可愛いと誉められる子、それに何より、人望の厚い者を激しく妬む。そういう負のオーラを微塵も隠さないところが「いっそ清々しい」と、母の峰子などは贔屓目全開で和衛を誉めるのだが、少なくとも香坂家の男性陣には、その態度はあまり受け入れられていなかった。特別邪険にされているわけでもないが。 「何て面倒臭いんだ」 そんな家庭環境の中、数馬が時折つい零してしまうのは、そんな埒もない愚痴だった。 面倒臭い。うちって本当に面倒臭い。確かに他所よりとても恵まれているし、自分は好き勝手自由にさせてもらっている。今のところは。 でも、どうしたって何か抗えないものに縛られて、今のこの状況も父親や、そしてあの祖父にコントロールされているような、そんな得体の知れない不気味さを感じる。 それは全く根拠のない数馬の単なる勘だったのだが、生憎数馬のそれはよく当たった。 そのうちとんでもない迷惑な事態に巻き込まれてしまいそうな、そんな予感。それを抱えて、常に身体がじりじりする。若干17歳の数馬には受け入れ難い鬱屈だった。 「出て行きたいな」 先の事など大して考えていない。だからそれは高校生という年代にありがちな、ただの我侭で浅はかな願望に過ぎないのかもしれない。 それでも数馬はふとした時にはそう思い、その訳の分からない鎖に雁字搦めにされる前には、どうにかしてこの家を出なければならないだろうと考えていた。 「数馬…。こ、これ、食べる?」 日曜日の河川敷グラウンド。 いつものように恒例の草野球チームに顔を出した数馬は、練習が終わって皆がそれぞれ片づけを始める中、フラリと近づいてきた友之に声を掛けられた。 「んー…?」 ベンチで寝転んでいた数馬がふと目を向けると、友之がおずおずとした、けれどどこか妙な期待を込めた目でこちらを見上げていた。 友之の手には透明のタッパーに入ったレモンの砂糖漬けが入っている。 「これ…昨日から、冷やしておいたんだ。練習の後に食べようと思って…」 「あー、食べる食べる。ありがと」 「おっ、いいな!」 けれど数馬が素直に礼を言ってそれを摘もうとした瞬間、ひょいとそれは器ごと友之の手から奪い去られ、追った目線の先には何とも意地の悪そうな顔を湛えている中原正人の姿があった。 「トモ、気が利くじゃねーか。美味いよなぁ、これ」 「う…うん」 「……ちょっと。それ、今ボクがトモ君から貰おうとしてたんですけど」 数馬は実に当然の不平を述べたのだが、正人はそれに微塵も動じなかった。 「ふざけんな。こういうのは偉い奴順に食らうもんだ。トモ、お前も何か持ってきたんなら、そーゆーもんはまず俺に差し出すのが普通だろが、あぁ? 何だってよりにもよってこんなバ数馬に先にやる!?」 「え、えっ、それは……」 「それはトモ君が中原先輩よりボクの事が好きだからでしょ」 「数馬…テメエ…」 ひくと正人の唇の端が引きつったように動いた。友之はそれだけで途端あわあわとして落ち着きなく身体を揺らしたのだが、数馬としても折角味わえると思った美味しい物を奪われた事に対し、珍しく子どもじみた恨みを抱いていた。 「早く返して下さいよ、ボクが食べるんだから。ついでにトモ君に食べさせてもらおうかな」 「えっ」 「何が『えっ』だよ。それくらい出来るでしょ? 『はい、数馬アーンして』くらい言ってくれても罰は当たらないよ」 「罰は当たらなくても、俺がテメエを殴る!」 「いって!」 咄嗟に大きな声を出したのは、大袈裟でも何でもない。本当に正人の拳から繰り出されたゲンコツが痛かったのだ。 「何すんですか、もう!」 数馬が両手で殴られた頭を抑えながら唇を尖らせると、正人は「ったりめえだ、バカ!」と数馬よりも大声をあげ、そのままレモンの入ったタッパーを持って行ってしまった。 「あー!」 「おーい、お前ら。これ回すぞ。トモからの差し入れ」 そうして正人は後ろで尚も抗議の目を向ける数馬を尻目に、片づけをしている他の仲間たちに器をさっさと回し始めた。……因みにその間、数馬の傍に立っていた友之はポカンとしたまま身動きすらしていない。あまりに早急な展開についていけないといったところか。 「何なんだよ、ちぇっ。全くツイてない」 数馬は無条件に喜び浮かれているような大人たちの群れをブリザード並に冷めた目で睨みつけていたが、すっかり諦めたようになるとゴロンと再び横になり、不貞腐れた。たかがレモン、然程の未練はないけれど、それでも自分の思う通りにならない事はこんなにも苛立たしい。 最近どうにも、うまくいかない。 「数馬…」 眉間に皺を寄せたまま目を瞑って寝転んだ数馬を友之が心配そうに呼んだ。数馬は酷く面倒臭い思いがしてそんな友之の声を軽く無視したのだが、横からその小さな気配が去る様子はなかった。 「数馬」 そうして友之はもう一度、今度は数馬の肩先を遠慮がちに揺すりながら、目を開けてと言わんばかりの調子で呼んだ。 「なーにさ。ボク、不貞寝する事にしたんだから、放っておいてくれない?」 「そんなにレモン食べたかった?」 「うん、食べたかったね。それなのにトモ君があっさり中原先輩にタッパー渡しちゃうから。いや、たとえ取られちゃったとしても、ちゃんと『これは数馬にあげる為に持ってきたんだから、返して!』って言えれば良かったのに、言えないし。そんなだから、ボクだけレモン食べられなかったじゃん。あ〜、ビタミン足りなくて死んじゃう。ボクがこのまま干からびて死んだら、トモ君のせいだね」 「あの、数馬……何か、あった?」 「…は?」 ぱちりと目を開いて友之の方を見ると、その普段は鈍感が服を歩いているようなイメージしかないおっとり屋が、何もかもを見据えるような目をしてこちらを見つめていた。 「あったよね……?」 訊いている割には、まるで確信しているかのような声色。こんな友之はとても珍しかった。 「何でそう思うわけ」 冗談じゃない、たかが友之ごときに見破られたくはない。 数馬はそれに思い切りむっとして気分を害したのだが、相手にはその毒は通じても、それを浴びせられる理由までは理解出来ない。びくびくとした友之は「ごめんっ」ととりあえず謝った後、いつものように所在なさげに視線をあちこちへ動かしてから、たどたどしく唇を動かした。 「数馬、今日来た時から……ちょっと様子、いつもと……違ったから。あんまり喋らなかったし、僕……俺にも、意地悪、言わないし」 「何その判断基準。まるでボクの絶好調時は、いつでもキミを苛めてるみたいな」 「そういうわけじゃないけど……」 「そういう事でしょうが、要は。それで? 結局ボクの様子がおかしいなら、キミは何が言いたいわけ?」 そうきつく言ってやると、友之は更にぎくぎくと身体を震わせ暫し逡巡した後、ゆっくりと言葉を継いだ。 「もし何かあるなら……話して欲しい」 「キミに?」 「うん…」 「ボクのことを?」 「うん」 しっかりと頷いて友之は数馬を直視した。 数馬はこういう時の友之が好きだけれど、大嫌いだ。いつもは弱々しいイメージしかないのに、こんな時だけはしっかり「男の子」なのだなと分かるし、それに、そういう友之を見てしまう時というのは、大抵自分自身が弱っている時と相場が決まっていた。 癪に障る。 「絶対イヤ」 だから数馬は再び目を瞑ってそう言った。 「え」 あからさま失望したような声が下りてきたが、数馬はそれも容易に無視して繰り返した。 「キミになんか相談出来ないよ。大体キミに何か相談して、ボクの中にある悩みとやらは解決されるわけ? 絶対解決しないでしょ? そんな意味ない事したってしょうがないじゃん」 しかも、数馬にはそもそも友之に語るだけの悩みがなかった。 確かに漠然としたモヤモヤはここ最近ずっと続いているのだけれど、自分でも「それ」が何なのかは、よく分かっていないのだ。 そんな意味不明なものに不安になっているなんて。苛立ちを覚えているなんて。 そんなカッコ悪い事は、友之には言えない。 友之には、いつだって先に立って歩いている所を見せていたいのだから。 「ほらよ」 「あ」 その時、正人が戻ってきて友之にぽんと先刻のタッパーを投げて寄越してきた。友之の胸元に抱えられたそれは、音からして随分と軽くなっている。すっかり空になったのだろう、あの大人たちは容赦なく数馬の分も残さず、全てのレモンをたいらげたらしい。 「トモ、そんなクソガキいつまでも構ってんな。こいつは他人に弱味なんか見せねーよ」 「え?」 友之が途惑ったように正人を見上げたのが目を開けなくても分かった。全く厄介な先輩だよなあと数馬が思っていると、しかし向こうは何やら勝手知ったる様子で大袈裟に溜息をついた。 「こいつ、実はすんげえバカだからな。周りがどう誤解してんのかほとほと謎だがよ…。俺は修司に次ぐバカだと見てる」 「……何それ、その中途半端な位置づけ。どうせなら1番バカがいいんですけど!」 堪らなくなって数馬はガバリと上体を起こしたが、正人は数馬がこの口論に乗ってきたのを察知するとそのまま無視して行ってしまった。恐らく数馬と長い間言い合いをするのは嫌なのだろう。 結局他のチームメイトたちも皆アラキへ行ってしまい、河川敷には友之と数馬2人だけが取り残された。 「あーあ」 急に吹き込んできた風がいやに冷たいと感じる。友之にも変なところを見られたし、本当に最近の自分は駄目だなと数馬は脱力する。 「数馬…うち来る?」 すると暫くして友之が言った。 「レモン、まだちょっとだけ冷蔵庫に残ってるから。コウにあげようと思ってたけど、数馬が食べたいなら」 「あれ、いいの? 大好きなお兄さんの分をボクが貰っちゃって」 「いいよ」 友之は珍しく迷いなく頷いた。数馬はそんな友之に多少面食らったのだが、くれるというものを、そして折角友之の家に行けるものを断る理由もない。 「それじゃ、行こうかな」 だからあっさりと了承すると、目の前の小さな少年はこれでもかという程嬉しそうな笑みを浮かべた。 友之の住む年季の入ったアパートへ来るのは、これが初めてではない。 「……んー」 けれど時々というか、稀というか。 北川兄弟というのはいつでも大抵能面のように無表情で何を考えているのか分からないと言われているが、実は「こういうところ」からしても案外分かりやすい奴らなのではないかと数馬は思う。 「何かあったわけ? 幾ら何でも散らかし過ぎ」 「あ……」 けれど、友之自身は数馬に指摘されるまであまり感じていなかったようである。焦った風にテーブル近辺に放り出されたままの教科書やノート、参考書。それに勉強とはまるで関係のない箱やら衣類やら小物やらをあせあせと両腕に抱え込み始める。 数馬は呆れたようにかぶりを振った。 「そんでそれをまとめて隣の部屋にぽいする気? ちょっと待っててあげるから、ちゃんとしまうところへしまいなよ。後で光一郎さんに怒られるよ?」 言いながら数馬は心の中で首をかしげた。 光一郎という友之の兄は、見た目通りの「ちゃんとした」人物で、たとえ家の中であろうと油断など一切しない。いつでも乱れたところがなく、それは友之が汚した所であろうと同じことで、絶対にこんな風にしたままにはしない。友之が散らかしても、勝手にさっさと片付けてしまうような人なのに。 何故こんな状態を許容しているのだろうか。 「光一郎さん、具合でも悪いの? 君のズボラは元からとしてもさぁ、こんな風に部屋が散らかっているのって大抵何かあった時じゃない。忙し過ぎて家の中にまで気が回らないとか?」 「……コウはこれ、知らない。今朝までは綺麗だったから」 「は?」 数馬は一瞬眉をひそめたものの、「いやいやいや」と苦笑しながらかぶりを振った。 「嘘でしょ? こんだけ汚いのを光一郎さんが出かけた後のほんの数時間でやっちゃったわけ? 君一人で?」 「後で片付けようと思ってた」 「後でっていつよ? 大体、何だってこういう無駄な出しっぱするわけ? 必要なもんだけ出して、後はどこぞへしまうなり何なりすればいいじゃん。何でそのままにするの?」 「……探し物とかしてて。急いでたし」 「探し物って」 「レモンを包む布とか、爪楊枝とか…。あと、紙袋とか」 ぼそぼそ言う友之に数馬は「ああ」と納得したような、それでも「酷い」と思うような曖昧な顔で頷き、やっぱり最後には「仕方がないな」と眉をひそめた。 「あのレモンを持って行くのに夢中でこうなっちゃったにしてもさ。あのね、トモクン。何をするのも、やりっ放しは良くないよ。だらしない。こういうの片付ける人の身になって考えたことある? 光一郎さんにもちょっと同情しちゃうね、ボクは」 「数馬って……」 「ん?」 「お母さんみたいだね」 「………おい」 思わず唇の端がひくついたが、同時に猛烈に腹が立って数馬は勢いのまま友之の頭をばしりと叩いた。友之はそれにまんまと痛烈な顔をして両手でそこを押さえたのだが、不平の言葉は漏らさない。それどころかどこか嬉しそうな顔すら見せて、友之は「レモン出してくる」と冷蔵庫の方へ向かっていった。 「何なんだよ」 数馬は憮然としながらその背中を見送ったが、いつまでも立ち尽くしたままなのも何やら癪で、どっかとその場に胡坐をかいて両腕を組んだ。 お母さん。冗談ではない。何だって自分がこんな不出来な息子を持たなくてはならないのか。いや、それ以前に何なんだろう、友之にとっての自分の立ち位置は。安心しきって、全幅の信頼を寄せている事を分かってはいたが、だからと言って「まあいいか」といつものノリで流せる程、今日は寛容な気持ちではない。 甘やかし過ぎたのか。 「はい」 そんな事を考えている間に友之が早々戻ってきて、タッパーに入ったレモンの砂糖漬けをずいと差し出してきた。数馬はそんな友之とレモンとを交互に見やりながら未だ組んだ腕を解こうとはせず、依然として不服そうな表情のまま唇を尖らせた。 「あのさ、キミのお母さんってボクみたいだったの」 「え?」 「今言ったでしょう。ボクのこと、お母さんみたいだねって」 「あ……嫌、だった?」 「嫌に決まってんだろーが。バカかお前は?」 「………」 友之は数馬のその言い様で初めて己の失言に気づいたようだ。途端焦った風に俯き、限りなく小さな声で「ごめん」と謝った後、所在なくレモンの砂糖漬けに目を落とした。 「……で? どんな人だったのよ、キミのお母さん」 折角冷えているレモンを放置も何だったので、数馬はそのうちの一つを味わってから、その言葉を発してみた。口の中でじわりと広がる甘酸っぱさが、思った以上に心地良い。 「……やさしかった」 友之が暫し考えてからそう答えるのを、数馬は二つ目のレモンを食べながら見つめやった。亡くなった母親の思い出話ができるほどに、まだその死からは立ち直れていないのだろう。どこか暗くなる友之に、数馬はしかし無表情のまま更に訊いた。 「優しかった? ボクみたいに?」 言って数馬は一人で笑いたくなった。お世辞にも自分は友之にとって優しい人間などではない。冷たくはないし、いざという時友之を救えるのは自分だけという自負もあるが、それでも友之が「お母さん」と繋げてくるものを自分は一つでも持っているかと考えると、首をかしげざるを得ない。 だから数馬には分からなかった。 「あの……ぼ……俺の、お母さんのことじゃない」 すると友之はそう言った後、気まずそうに目を逸らした。 「イ…イメージで…言っただけ。お母さんって、そこ片付けなさいとか、どうしなさい、とか。色々言ってそうなイメージがある、から」 「……君のお母さんはそういう一般的なお母さんとは違ったの?」 「叱られた記憶とか、あんまりない」 友之は言った後、いよいよ困った風になってからさっと数馬の顔を見上げた。これ以上もうこの話はしたくないという意思表示だった。 数馬にはそれが正確に読み取れたけれど、しかし最初に「これ」を持ち出したのは友之の方だ。何となく理不尽な気持ちが胸に燻り、数馬は渋面を作った。 そしてだからだろうか、別に言わなくても良い事も言ってしまった。 「キミの狭い世界で何をどうイメージしてるのか知らないけどさ。世の中のお母さんでおんなじ人なんて唯の一人もいないよ。みんな変な人ばっかだよ」 「変な人……?」 「そう。変じゃない母親なんて一人もいないの。変じゃない風に子育てしてるお母さんなんて一人もいない。だからこの世の中には変な子ども、変な大人しかいない。キミもボクも。変な人に育てられて変な人になって、そのうち変な子どもを作るかもね」 子作りうんぬんの話をしたところで、数馬は「友之には無縁なことだったか」と咄嗟に思いつつ、それでも相手の反応が知りたくて、黙って視線を差し向けた。 案の定友之は何事か考えこむように俯いていたが、やがて顔を上げるとどこか心配そうに眉を下げ、黒々とした瞳を真っ直ぐに向けてきた。 そして言った。 「数馬、何かヤケクソみたいだ」 「はぁ…?」 「時々適当なこと言うけど、今、そんなの全然思ってないってこと、話したでしょ」 「………」 「あ……違った?」 数馬が無意識のうちに虚ろな目をしたせいだろう、友之は途端慌てて、それこそ「今のなし」と訂正しそうな勢いで身体を揺らし、その場から逃げようとした。 「あのねえ」 けれど数馬はそれを良しとせず、咄嗟にその細い手首を掴むとそのまま友之を押し倒し、上に乗りかかってその退路を塞いでしまった。 「数馬……?」 「そうかも。ヤケクソかも」 「え?」 「完全に適当ってワケじゃないよ。何に悩んでるか話して欲しいって言ったよね。悩みかどうかも分かんないけどさ、キミんち程じゃないけど、ボクも自分ちのコトとか色々考えてたら、何か最近むしゃくしゃしてて。あんな変な奴らに育てられた自分自身って奴にもゾッとしてて。それなのにキミがお母さんだ何だ言うから。ちょっと、ヤケクソになったかもね」 「数馬の家族……変じゃ、ないよ?」 「何でそう思うのかなぁ? まぁキミにとっちゃ、どんな変人だってまともな人なんだろうけどさ。実際キミが『変だなこいつ』って思った人、いないの?」 「……いない、よ」 「ふうん。何でかな?」 数馬が再度疑問を投げ掛けると、友之は暫し言い淀んだ後、思いきった風に言った。 「それ……悪口に、聞こえる」 「え?」 「バカにしてるように、聞こえる。だから、嫌いなんだ」 「……ふうん」 友之の回答に納得したのかしないのか分からないような反応を返した数馬は、けれどやはり依然として面白くなくて、友之の鼻先に音が出るような荒っぽいキスをした。ただ、友之がそれに驚いて目を見開くと忽ち面白くなったので、今度は瞼や額や頬や、そして唇や。色々なところにキスの雨を降らせて、友之の反応を窺い見た。 「数馬…っ」 友之は別段逆らった風ではなかったけれど、明らか赤面し、途惑った風になりながら力なく数馬の名を呼んだ。 「何」 だから数馬がそれでキスをやめて再び見下ろすような体勢に戻ると、友之は潤んだ瞳を向けながら恐る恐るといった風に告げた。 「数馬は変じゃない。でも……特別な人、だよ」 数馬が何も答えないのが怖かったのだろうか、言った数拍後に友之はくしゃりと表情を歪ませたが、それでも意思の強い様子で繰り返した。 「これ……周りの人……数馬の家族にとってもそうだし、俺にとっても、そう。数馬は凄いから。だから、変じゃないよ?」 「……変じゃなくて、特別?」 「うん……」 「キミにとっての、特別?」 「うん」 友之が返事をしたと同時、数馬は友之を押さえつけていた手首から己の手を離した。 「数馬…」 両手が自由になった友之は最初こそ途惑ったようだったけれど、やがておずおずとながらその手を数馬の腕に伸ばし、遠慮がちにそこにちょこんと触れた。 「数馬なら、何でもできるよ」 この手は何でも持ちうる。全てを手に入れられるから。 「は……」 確信を持ったようにそう言われて、数馬は思わず乾いた笑いを漏らした。 家族は皆そう思っていたとしても、数馬当人に直接そんな風に言ったことはない。「普通」はそこまで言わないだろう。思っていたとしても言わない。それは相手を思い遣ってだったり、過ぎた希望を口にすることへの恐怖だったり、色々だ。 けれど相変わらず友之はそういうところが鈍感で、そして無垢なのだった。 「そういうこと言われてボクがプレッシャー感じないとでも思うの?」 「えっ」 「別に感じないけど」 すぐさま否定したのは、友之を苛める気持ちが不思議なほど消えてしまっていたからだ。ただもう一度、友之の唇に押し付けるようなキスだけはした。友之は途惑いながらもまるで逆らわないし、試しに身体を愛撫しても、未熟な反応を返しこそすれ、嫌悪の様子は一切示さなかったから。 だから数馬はどんどん気分が良くなって、清々とした笑みを零した。 「なあんだ。キミってそんなにボクのことが好きだったのか」 いつもふざけた時に言う、それは数馬の常套句だった。 何かにつけて、友之が自分に何かを言えば必ず数馬はそう言う。けれどそれを今日ほど実感の篭もった声で言ったことはなかった。 「うん。好きだよ」 すると友之も何の照れもなくあっさりとそう返した。何を今さら、そんな当たり前のことを言うのだろうという風に。 「知らなかったよ。もっとはっきり意思表示してくんないとさ」 数馬は言うと、友之をぐいと引っ張って上体を起こさせると、茶化すように自らの唇を当てた。 気持ち良い。それは先刻口にしたレモンの砂糖漬けのような心地良い感覚を数馬に与えた。 だから数馬は微笑んだ。 「それじゃあさ、トモ君。遅い思春期の悩める数馬クンにさ。もっと慰めのちゅうしてよ? そしたらボクは立ち直って、いつもの無敵の、何でも出来る数馬クンに戻るから」 「もうなってるように見えるけど」 「いいから早く」 笑いながらそう急かすと、友之は膝を立てて数馬に視線を合わせてきた。数馬はそんな友之をじっと見詰めながら、「いやでも、やっぱり、あんたも俺も変な人には違いないんじゃないか」――そう思った。 「ん……あ!」 けれどそろそろと自分に遠慮がちなキスを仕掛けてくる友之を直視した瞬間、数馬はその華奢な身体をぎゅっと抱きしめながら「まあいいか」と心内だけで呟いた。 どちらでもいい。 「うん。キミがいれば、ボクはもう、何でもいいや」 そうして数馬は、不思議そうな顔をする友之と再度視線を交わらせて、今度こそ深々とした甘い口づけを自分から仕掛けた。 |
了 |