―2―


  太樹には月人の嘘はすぐに分かる。
  幼い頃から見てきたのだ。高圧的な陽子や情のない両親を家族に持ち、よくもここまで曲がらずに来たとその点は感心するが、その分臆病で気弱な人間に育ってしまった。
  勿論、その原因の一端は太樹自身にもあるのだが。
  月人が「何でもない」とか「別に」とか言いながら太樹から目を逸らす時、または普段から細い食がより一層酷いものとなった時、そこには必ず何かがあった。月人自身が何故そのあからさまな己の変化に気づかないのかが不思議だが、それはそれでこの力ない弟が誰よりも素直で純粋な証拠かもしれないと太樹は思う。

  卒業式の翌早朝、家からこっそり抜け出した月人を太樹は駅のホームで捕まえた。

  あの時の驚愕と絶望に満ちた月人の顔が太樹の脳裏には一ヶ月以上経った今でも鮮明にこびりついている。幾ら月人が「何かを隠している」とは言っても、それがまさか「こんな事」だとは思いもしなかった。自分に対する月人の感情を過信していたのか。どこかで「この弟が自分から離れるわけはない」と自惚れていたのか。
  衝撃だった。月人が自分から「逃げようとしていた」事が。
  そしてその受け入れ難い事実は月人が高校へ上がってから太樹が常に抱いていた鬱屈を更に加速させるには十分だったし、ずっと擦り切れて限界点に近づいていた心の綱を失うきっかけともなった。



「んっ…や…! に、兄さん、何…っ」
  何度も触れていた唇が無理にこちらを突き離すようにして横へ向けられるのを太樹はじっと見つめやった。
  心は恐ろしいほど静かだった。月人にキスを仕掛けたのは殆ど衝動的なもので、はじめから意図していたわけではない。それでもここ数日の間言葉を交わしていなかった弟から謝罪の言葉が紡がれた事、「兄さんが口をきいてくれて良かった」と微笑んだその顔を見たら、太樹はもう次の瞬間、その小さな唇に己のそれを重ねていたのだ。
  ずっと欲しいと思っていた。この愚かで無力な弟の全てを。
「兄さん…。な…何で…?」
  何も言わずにただ黙っている太樹がひたすらに不安なのだろう。月人はキスを嫌がった割にベッドから抜け出す事はせず、横たわったままの半ばボー然とした状態で、ただ太樹の双眸を見つめていた。
  太樹はそれをどこか他人事のように受けとめた後、その目の前にいる弟の腕をぐっと掴んだ。
「い、痛…っ」
  月人が軽く眉をひそめたが、それにも胸は痛まなかった。普段ならば何よりこの弟の痛みには敏感だし、出来る事ならどんな苦痛からも守ってやりたいと思っているはずなのに。
  それは今この時とて、変わる事などないはずなのに。
「兄さん…どうしたの、離し…」
  掠れた声で月人が懇願している。
  それでも太樹は掴んだ手を離す気になれず、もう一度顔を寄せると今にも泣き出しそうな弟の唇を再度奪った。
「んっ…!」
  驚くほど簡単に手に入る。
  嫌だという割に非力で、そもそも最初からまともに逆らおうという意思が見られない。本当はそこまで嫌ではないか、そうでなければこの弟は心底まで兄である自分の事を畏れていて、徹底的に抵抗する事に躊躇いを持っているかの、どちらかだ。
  恐らく答えは後者なのだろうが。
「ふぁ…んぅ…」
  唇を離しては再度捉え、苦しそうに息を継ごうと開いたそこに舌を差し入れる。
「ふっ…」
  すると月人は案の上それにも敏感な反応を返してびくびくと身体を震わせ、それにより一層太樹の中の熱を掻き立てた。太樹はロクな言葉も与えないままただ月人の唇を貪り、その口腔内をかき回し、そして零れる唾液を自らの舌で掬い取った。
「や…」
  その仕草が淫猥だったからだろうか。薄っすらと目を開いていた月人が責めるような声を出した。暗闇の中でも分かる程に赤面し、どうして良いか分からないという風に所在ない手をこちらの腕に添えてきている。
  だからというわけでもないが、太樹はそれを自分から外すと代わりに月人の身体を背中ごと抱き起こして改めて月人の髪から額、そして頬へとキスを降らせて行った。この状況が分からないというのなら、はっきりと起こした状態でこの様を認識させたいと思ったのだ。
「ん…」
  けれども、そんな体勢になって尚、月人はぎゅっと目を瞑ったまま太樹からのキスを甘んじて受けるだけだった。そしてその表情は困惑と辛そうな色に満ちている。
  ただ、やはり逆いはしない。
「……月人」
  何だ、その顔は?
  このままこの弟を完全に組み敷いて完全に征服したいと思っている。思っているのに、その態度が太樹にはどうしても気に掛かった。引っかかった。嫌なら嫌だとはっきり言えば良いし、嫌ではないならこんな苦しそうな顔はするな。……そういった苛立たしい気持ちが太樹から月人へのキスを止めさせた。
「嫌か」
  動きを止めてストレートにそう訊いてみると、月人ははっと目を見開き、再びあの先刻閃かせたような恐れの表情を向けた。
「あ…」
  そうして月人はオドオドと視線をあちこちへ移動させた後、ぽつりと自信のない声を紡いだ。
「い、嫌じゃないよ…。で、でも…」
「でも、何だ?」
「こん…こんなの、何だか……変。変、だから……」
「変?」
  すかさず問い返すと月人は傍目にも憐れだと見えるようにびくんと肩を揺らして怯えた後、太樹に潤んだ瞳を向けた。
「だ、だって…。仲直りはしたけど兄さんが…キ、キスまでするなんて思わない…。も、もう昔みたいに子どもじゃないんだしっ」
「昔?」
  月人の言いたい事が今いち分からずに太樹が怪訝な様子を示すと、月人は自分こそが「え」というような顔をした後、おずおずと答えた。
「昔は…僕が兄さんに怒られて落ち込んだりした後、よくしてくれたから…。ま、前は額とかだったけど…。そ、それ、してもらうの久しぶりだったから!」
「………」
「兄さん……?」
  何も答えない太樹に不思議そうな顔を向ける月人。
  太樹はその時、らしくもなく固まっていた。

  そんな事があっただろうか。………確かにあった。

「兄さん、どうし…」
「何でもない」
  しかしすぐに立ち直ったようにそう言うと、太樹は月人の頭をぐしゃりと撫でて誤魔化すようにすっくと勢い良く立ち上がった。すると先刻までさんざ燃え上がっていた理性の切れた情欲が恐ろしい程に冷めていって、いつもの壁一枚作った普段の己に戻っていくのをひしひしと感じた。
  月人を思うがまま蹂躙したいと思う反面、太樹の心の中にはいつでも「月人を護りたい、良い兄でいたい」という願望が存在していた。
「もう寝ろ」
  太樹はそう言って踵を返すと月人の部屋を後にした。
  背中には未だ月人の途惑ったような気配が伝わってきたが、正直この時の太樹にそれを構う余裕はなかった。
  だから決して振り返らず、太樹は文字通り月人の元から「逃げ出した」。

  しかし、その日を境に二人の関係はある種の変化を迎えた。

  もともと月人の勉強や進路の話さえ出なければ、基本的には陽子曰く「異常な兄弟愛」を育んできた2人である。ここ暫く互いに口をきいていなかったという「ストレス」が解放された事もあり、太樹も月人を小煩く叱ったりはしなかったし、月人は月人で穏やかに接してくれる太樹の態度が嬉しくて、必要以上に纏わりついたりもした。
  たとえば朝は、太樹が早くに家を出る時は自分も早起きをして一緒に食事を取る。見送りも玄関先で典子と一緒に一度したのにわざわざ外にまで出て再度「行ってらっしゃい」を言う。太樹の帰りが遅くとも極力起きて待ち、「お帰りなさい」と出迎えたし、それまでは自室で真面目に勉強している様子も見られた。……そうとなれば、これまた太樹が月人を怒る理由はなくなるわけだから、自然態度も優しいものとなって、月人がこれにより一層懐く……という図式が成立した。
  太樹は自分に無邪気な笑顔を向ける月人が可愛くて仕方なかった。
  実際、こんな状態は久しぶりだったのだ。月人が高校に上がってからというもの、絵の事や成績の事、卒業後の進路の事で月人とは大いに揉めてきた。いつからか月人が太樹を見る目はすっかり変わり、いつでも怯えて泣き出しそうなものばかりになった。それが堪らなく辛く、また猛烈に腹が立ったから太樹も余計月人に冷たくなって、それで月人はますます小さく縮こまって太樹の事を見なくなった。
  本当に悪循環だったのだ。
  それが、ここ最近はそれが全く悪い夢だったかのようになりを潜めている。一体何が問題だったのかという程に、とても穏やかな時間が流れている。
  これなら自分もあの暗い情念を月人に明かす事なく、まだ理想の、月人にとって憧れの兄としてうまくやっていけるのではないか。あの夜、ギリギリ押し留めた欲望を抑え、月人にとって安心して傍にいてやれる兄でいられるのではないか…半ば真剣に太樹はそんな事を考えていた。月人の身体を心底から欲しいと想うようになったのはもう随分と前で、それがいつからの事だったのかなど覚えてもいないが、それでも太樹にとってそれ以上に必要で大切なのは月人の自分に対する絶対的な信頼だった。心だった。
  だからそれさえ手に入り続けるのならば…月人がそうして自分だけの傍にいる事を選ぶのならば。
  肉体同士の繋がりなどという些細な事にこだわるつもりはない。太樹は本心からそう思っていた。

  その穏やかで静かな思考にヒビが入ったのは、月人のほんの些細な「裏切り」がキッカケだった。

「あ…!」
  突然自分の目の前に現れた太樹の姿に、月人は自分が持っていたものをバサバサと取り落とし、真っ青になってその場に立ち尽くした。
  その日、太樹は月人に「帰りは遅いから先に休んでおくように」と言っていた……が、難航を予想していた取引が予想以上にとんとん拍子でうまくいき、気分の良いまま思わぬ早い帰還を果たせたのだ。
  しかしそんな太樹が目にしたものは、真面目に勉強している弟の姿ではなく、自室で必死に絵を描いていたであろう「認めたくない」別の人間の姿だった。
「………」
  はじめは言葉が出なかった。
  太樹は絵を描いている時の月人が嫌いだ。以前、まだ二人の関係がそこまでぎこちないものでなかった時、月人のおねだりに根負けして太樹は一緒に都内の美術館へ絵を観に行った事があった。その時の月人の嬉々とした様子は太樹も不本意ながら嬉しかったし、作品の感想に驚くほど饒舌なその姿も新鮮で随分と気分が良かったのも覚えている。そんなに絵を観る事が好きなら、これからもちょくちょく連れて来てやってもいいとすら思った。
  けれど描いている時の月人は太樹にとっては受け入れ難い。
  その姿は太樹が昔から知っている「自分がいないと駄目な弱くて無力な弟」ではない、何か別の強い意思を持った不可解な生き物に見えた。月人は自分が描いた作品を学校やクラブを通じた展覧会などに提出する際ペンネームのつもりなのか「小林ツキト」という名を使っていたが、それもまた太樹には気に食わない事だった。ただ漢字がカタカナになっただけなのに、月人が酷く遠い、自分の知らない場所へ行ってしまったような気になったのだ。
「……何をしている」
  やっと太樹が声を出せた時、それは二人にとってとても長い時間だったが、月人は未だ固まったまま動こうとはしなかった。足元にバラバラに零れているのはスケッチブックと、そこから切り離されている作品の残骸だ。ゆっくりとそれに目を落とすと、そこにはこの部屋にないものの写実画が何枚も描かれているのが見えた。
  今日だけではない、きっと隠れて今まで描いていたのだ。それがすぐに分かった。
「月人」
「どうしてもっ」
  太樹が再度口を開くと、遂にそれを遮るようにして月人が声を上げた。
「どうしても! どうしても描きたかった! 我慢できなかったんだ!」
「………」
「温室を見る度に気になって…。勉強しようと思って鉛筆握っていても、気づいたら描いてる…。駄目だって思っても右手がじんじんしてきて…描きたい描きたいって言ってて…! ごめんなさい、兄さん、ごめんなさい! でも、でも僕はどうしても、絵を止めたくない! もっともっと描きたいんだ!」
「……いつから描いてたんだ」
「兄さん、僕は…!」
「答えろ月人」
  ぴしゃりと言い捨てて太樹は厳しく月人に詰め寄った。びくんと身体が震えて後退する相手の手首を掴み、より責めるようにそこに力を込める。
「痛い…っ」
「月人、答えろ。お前は一体いつからこんな事をしていた? いつから俺を騙していたんだ!」
  自然声が荒っぽくなるのを太樹は止められなかった。
  月人はそんな太樹にあからさまショックを受けた顔をしていた。がくがくと震えながら背の高い太樹を見上げ、血の気のなくなった白い唇を震わせている。
「騙す…?」
「そうだ」
「そんな…そんなの、違う。僕は、僕は、ただ……」
「煩い。言い訳を聞く気はない。お前は俺の言う事を聞いたフリをして、今まで陰でこそこそラクガキ遊びを続けていた。すっかり騙された。本当にガッカリだ、お前には」
「兄さん…」
「少しでもお前を信じた俺が馬鹿だった」
「どうして…どうして、どうして、そんな言い方…」
  もう月人はぐしゃぐしゃに泣き始めていた。
  それでも太樹は怒りが納まらず、けれど今はすっかり「月人」に戻ったボロボロの姿を認めるとそれ以上の罵倒を浴びせる気にもならず、ただ力任せに掴んでいた手を振り放した。月人がそれで再度怯えたように肩を震わせたが、それがまた余計に癪に障り、太樹は傍に落ちていたスケッチ画を乱暴に拾い上げるとそのままぐしゃぐしゃに丸めて屑篭に投げ捨てた。
「……っ」
  月人がそれを見つめながら衝撃を受けたように目を見開いている。小刻みに震える両手が痛々しい。
「……もうお前を信じてここに置いておくのはやめだ」
  けれど太樹は怒りを湛えたまま一言そう告げた。月人がそれに何の反応を示さない事にも構わず、太樹は「別の意味で」用意していたあの場所を思い描きながら独り言のように繰り返した。
「お前をこの家で自由にしておくのはやめだ」





  そもそも太樹がそのマンションを密かに用意していたのは、自分たちの事をやたらと勘繰り鎌を掛けてくる妹の陽子の存在が疎ましかったからだ。最近特に親密になった月人の事を陽子は折に触れて「もう食べたのか」とか「私もおこぼれを貰いたい」だとか太樹の逆鱗に触れるような事を実に無神経に放ってきた。実の妹でさえなければとうに僻地へ飛ばして二度と顔が見えないようにするのにと何度も思った。…そんな陽子が月人に対して性的な、それも単なる暇つぶしの玩具として扱いたいという欲求を向けている事には気づいていたから、太樹は以前から受験が差し迫った時期には月人をここへ連れて来ようと思っていたのだ。
  それは太樹が用意した月人と二人だけの秘密の場所だった。
「今日からはここに住め」
  それがこんな形で。
  この部屋が月人を閉じ込める箱になるとは。
「………ここに」
  半ば無理矢理の体で車に押し込まれここまで連れ込まれた月人は、未だ呆けた状態で力なく広い室内を見渡した。
  夜が明けるのも待たずにそのまま月人をこの部屋まで連れてきた太樹は、つい先だってまで本当に静かで穏やかだったはずの自分が実はちっともその現状に満足していない事に気づいてしまった。
  がっくりと肩を落とす月人の後ろ姿を見つめながら太樹の双眸はただひたすらに暗かった。
「兄さん…」
  そんな太樹に月人は気づく風もなく、未だ怯えた様子で薄枯れた声を出した。
「僕…いつまでここにいるの」
「ずっとだ」
「ずっと…?」
「ここならお前が遊ぶ物は何もないからな。ここで勉強しろ。俺が選んだ大学に合格する為にな」
「………」
「……何か言う事はあるか」
  黙って俯く月人に太樹は訊いた。ムカムカする胸。グラグラする腸。ズキズキする頭。
  けれどそれ以上に何か別の得体の知れない痛みが太樹を襲っている。
「絵…」
  やがて月人が口を開いた。太樹の方は見ないまま。
「兄さんは…僕の絵がそんなに嫌い…?」
「………」
「才能ないって何度も言ったよね。そんなの分かってる。僕は兄さんや陽子姉さんと違って何の取り柄もない。好きだって思ってる事さえ人並だ。でも……才能とかそういうのとは別に…そんなの考えないで、兄さんはそんなに僕の絵が嫌いなの?」
「……好きとか嫌いとかいう問題じゃない」
「どういう問題…」
「お前の将来の問題だ。お前と俺の将来の問題だ」
「兄さんの…?」
  ようやっと月人が振り返った。意味が分かっていないというような顔。それにまた太樹の胸はちりりと燃え、ツカツカと歩み寄るとそんな許し難い顔を見せた「弟」の顎先を掴んだ。
「そうだ。お前だけの問題じゃない。お前は俺の夢だ」
「……夢?」
「お前が俺の右腕となって……うちをもっと大きくする。それが俺の夢だ」
「僕に兄さんの手伝いなんか出来ないよ…。僕は…」
「出来る。お前なら……いや、お前しかいない。俺の夢を支えられるのは」

  そうしていつか、自分の傍らに寄り添うこの弟の為に世界で一番高い城を造る。

「……お前だけなんだ、月人」
「僕……僕は……」
「月人」
  無理だよ、と言おうとした月人のその唇を太樹は強引に塞いだ。あの夜、衝動でしたキスとは違う、しようと思ってした口づけだ。しっかりと捉えて深く重ね合わせる。何も言えないようきつく吸い上げて、自分の想い全てを伝えるように月人の舌を絡め取った。
「ふっ…んん…」
  月人ががつりと焦った風に腕を掴んできた。止めさせようと袖口を引っ張るが何ほどの事もない。それどころか太樹は月人のそんな抵抗すら忌々しくて、逆に唇を離した後はぐしゃりと髪の毛を引っつかむようにして自分の方を向かせると、鋭く睨み据えてその所作を完全に封印した。
  一つ睨みさえすれば月人は石のようになって動かなくなる。そんな事、昔からとっくに知っていた。
「兄さ…っ」
  それでも太樹がこれからしようとしている事が不安なのだろう。突然抱えられて隣の寝室へ運ばれた月人は、ベッドに己の身体を横たえさせられ、震えた声を出した。
  太樹はもう答えなかった。
「兄さ…? 嫌…! や、何…!?」
  途惑う月人の首筋に噛み付くようなキスをしながら上へと覆い被さり、衣服を無理に脱がせつつ愛撫を始める。さすがにその動きで月人にも太樹がこれからしようとしている事が分かったのか、信じられないという顔をしながらも「嫌だ」と言い、必死にそこから逃れようとしてきた。
  おかしい、睨みが足りなかったかなどと思いながら、それでも太樹は構わずに悲鳴のようなな音を漏らす月人の肌をその暗室に晒した。
「んっ…」
  必死に耐えているが、太樹によって開かれ露になった胸に唇を寄せられると、月人はそれだけで感じたような声を漏らした。それに気を良くして、太樹は薄闇の中でも映えて見える月人の小さな胸の突起に舌を這わせ、その形をなぞるような円をゆったりと描いて見せた。すると月人はそれだけで新たな泣き声を上げ、上から押さえつけられているにも関わらずびくびくと足を動かし、やはり何とかそこから逃げようと激しくもがいた。
「あっ…はぁッ…」
  ただ、それも全て無駄な抵抗として終わっている。
「んんっ」
  硬くなっていく乳首を太樹に軽く歯先で引っ張られるように摘まれただけで月人は「ひぃッ」と悲しく鳴いた。太樹の元に腕を伸ばし、くしゃりとその頭髪に指を絡めるものの、その力は極めて弱い。ただ今はもう荒い息を漏らして、月人はその合間合間に「兄さん」と呼ぶだけだった。
「……月人」
  そうして太樹が唇を離してそっとそう呼び返すと、月人は薄く目を開いた状態で太樹を見下ろし、やはり泣き出しそうな瞳で「兄さん」と繰り返した。
「兄さん…兄さ…」
「……もう諦めろ、月人」
  太樹はそう切り捨てて月人のズボンを下着ごと一気に取り払った。すっかり裸にさせられた月人がそれを見たくないとばかりに首を横に逸らす。太樹は構わずに月人の成熟しきれていないような色合いの性器に手を這わせ、ゆっくりと扱きながらその反応を伺った。
「あぅッ…」
  月人はそれに痛みを感じたようでふるふると首を振った。太樹がそれを見ながら今度は袋をやんわりと包み込むように撫でてやると、月人は「んんっ」とやはり声を堪えるような喉の奥での音を出した後、ぎゅっと白いシーツを掴んで激しくかぶりを振った。
「はあ…はあ…あ、兄さッ…兄さんっ…」
「……月人」
  月人の痴態に太樹の身体も次第に燃え立ってくる。あの夜につきかけた火がぽっと灯るのを感じた。身体はいいと思っていた。月人の心さえ手に入るのならば…あんな風に笑って「お帰りなさい」と迎えてくれる月人が傍にいるのならば……こんな事はどうでもいいと。
  そう思っていたのに。
「やあぁっ…やだ、そんな、とこ…!」
  性器を刺激され喘ぎながらも、月人は太樹の所作に気づいて声をあげた。膝を立てさせられ、晒された奥―自分でさえ見た事のない部分に兄が顔を寄せているところを見てしまったからだろう。月人は必死に両足を閉じようとして、何とか「それ」を食い止めようとした。
「嫌っ…やだ、兄さん…っ」
  それでも太樹は月人の要求をことごとく無視した。
  両足を大きく抱え上げられた月人の格好は確かに滑稽だったが、その秘所は既に太樹を迎え入れているように見えて、ただただ愛しいもののように思えた。だから動物がそうするように、最初は月人のまだ完全にイッていない性器を舌で何度か舐め上げてやった後、太樹は同じようにその窪みにもすっと舌を差し込んだ。
「い、あぁっ」
  太樹のした事自体が衝撃だったのだろう。月人が喘いでひくひくとそこを蠢かした。
「ただ感じていればいい」
  太樹はそう告げた後再度そこに舌を差し込み何度か抜き差しを繰り返し、やがてゆっくりとそこを押し広げるように指を突き入れた。
「アァッ! あ、あ、あ、兄さ…太、兄……ぁんッ」
  指で月人の入口から少し奥を突付いてはズッと勢い良く引き抜くのを繰り返していると、月人はハアハアと苦しそうに喘ぐものの、時折感じたように背中を逸らして嬌声を上げた。
「やぁ…! や、そこ…」
  そうしてある一点の部分には過剰に反応を返し、太樹がわざとそこを避けて近辺だけを弄るとくしゃりと顔を歪め、悔しそうに唇をへの字に曲げた。
「う、う…兄さ…」
「月人。……お前は俺から逃げられない」
  用意を整え自らも月人の前に全てを晒すと太樹は言った。月人の身体に己のそれを差し込み、ゆっくりと挿入を開始する。月人がそれに気づき、はっとしたように目を見開いたが、太樹は逆に挑むようにその視線と自らのそれを絡めあわせた。
「ひぅっ…兄さ…」
「お前は俺のものだ…。逃げられないし…、お前の望み通りには生きられない」
「兄さ…ッ。あ、あ…」
「その代わり絶対にお前を幸せする。お前に満足させる暮らしをさせてやる」
「やぁ、あ、あ…!」
「お前の幸せは俺にしか作れない」
  全くおかしな話だった。
  しかし太樹は真剣そのものだった。
  月人のしたい事を奪っておいて、月人の自由を奪う事を自覚していて、太樹はそれでもそれによって月人に幸せを与えてやれると信じていた。時に子どもというのは大きな夢を抱くあまり人生において間違った選択をしてしまいがちだ。それを自分が修正してやらなければならないのだと太樹は頑なに思っていた。
  本当は太樹自身が月人を「ツキト」にしたくないからという……そんなエゴで動いている部分も多いのに。
「兄さ……あぁ、んッ! あ、あぁーッ!」
  太樹のものを全て捻じ込まれ、月人は絶叫した。その直前、太樹の言葉に何かを言いかけていた月人だったのに、深く突き刺さるような結合のせいでそれは見事にかき消された。
「やぁっ、あ、あ、あっ」
  そしてすぐに始まった太樹の激しい抽挿に、月人はその動きに合わせ喘ぎ声をあげるよりなかった。ゆさゆさとベッドと一緒に下半身を揺らし、背中を刷り、両手はシーツを掴んだりそれを外してぶらりと力を失ったり。
  そして視線は閉じられては開いて涙を零し、その瞬間瞬間に太樹を見つめては「兄さん」と力ない訴えを寄越してきた。
「あん、あ…あ…兄さんっ…」
「月人…ッ」
「やぁ…あ。アアァ…!」

  互いが胸に秘めていた「ある一部分」さえなければ、二人はうまくやれていた。

  太樹は月人に対する歪んだ情念を、月人は絵を描くという欲求を。
「あ、あ、ぁんッ…」
「く…っ」
  それさえ互いが捨て去っていれば。或いは隠しとおしていれば。
  二人はいつまでもただの仲の良い兄弟でいられたのに。
「ふ……ッ!」
「アアァッ!」
  けれど月人を激しく貫いていた太樹がやがて己の欲を全てその月人の中に叩きつけた時……その今までの関係は全てなくなり、もう二度と戻る事はなかった。
「……兄さん」
「………」
  どくりと月人の内股から精液が流れ落ちるのを眺めながら、太樹はまだ自分の事を「兄」と呼ぶ月人の声を聞いていた。そしてその後、この弟が自分に何を言う気で呼んできたのだろうかと考えた。
「………」
  けれど月人は太樹が自分の中から出て行ったと感じるや否やすうっと目を閉じてそのまま意識を失った。頬に残る涙の跡だけが語れなかったその言葉の続きを発しているようで、太樹は荒い息を吐き出した後、すぐにそこから目を逸らした。





  翌朝、太樹が起こす前に月人は一人で目覚めてリビングにやってきた。
「おはよ……」
  寝惚けたような声で月人はそう言い、自分に着せられているパジャマを不思議そうに見つめた後、ソファに座っていた太樹に目をやった。あの後の事が記憶にないのだろう。自分はどうなったのかと暗に問い掛けるような視線だった。
「何か飲むか」
  けれど太樹はそれには敢えて知らないフリをしてそう訊いた。「おはよう」と言ったその声は酷く枯れていたし、きっと喉が渇いているだろうと思ったのだ。
「………」
  けれど月人は何も答えず、ただのろのろと傍に歩み寄ると、すとんとそのまま太樹の隣に腰を下ろした。そうして暫しぼんやりと前方を見やったまま、隣の太樹には視線をちらとも寄越さなかった。
「……どうした」
  昨日あんな事があったばかりだ。こんな風に放心状態になるのも致し方ないだろう。そう思いつつも太樹はついいつものぶっきらぼうな調子でそう訊ねてしまった。どうしたもこうしたもない、信じていたはずの兄に裏切られ、昨晩は思うままに身体を汚されたのだ。月人には答える義務などない、むしろ太樹を罵倒して然りなのだ。
  けれど月人は焦れたような太樹に対し暫くはじっと唇を閉ざし続けていたものの、不意にぽつりと呟いた。
「絵はやめる」
「………」
「もう描かない」
  そして月人は静かな感情の見えない顔を太樹に向けると、抑揚の取れた声で言った。
「だからもう嫌わないで」
「月……」
「もうあんな風に……僕を見ないで…」
  何も映していなかっ目にみるみる涙がたまっていったのはその後だった。
  月人は唖然とする太樹を前にぽろぽろと涙を落とし続けながらぐっと俯いた。
「兄さんだけなんだ…。だから、だから、嫌わないで、下さい…」
「………」
「嫌わないで……」
「嫌ってない」
  およそ冷静とはかけ離れた声が無意識に飛び出た。
「月人」
  同時にさっと伸びた腕はそのまま月人の身体を引き寄せ、自分の懐へと抱え込んでいた。
  昨夜のあれを「そういう風」に解釈されたのかと知って、ショックだった。
  確かに「ツキト」を憎悪し、荒れていた昨夜の自分は「月人」に対しての労わりはまるでなかったけれど。
  それでも。
「愛しているからお前を抱いた」
  この手に繋ぎ止めておきたかったから。
「月人」

  お前が起きてきた時、お前が俺をどんな顔で見つめるのかと……俺がどれほど怯えていたか分かるか?

「嫌ってなんかいない。当たり前だろう」
「……っ。う、う……」
「悪かった。月人、悪かった」
  遂に泣きじゃくり始めた月人を更にぎゅっと抱きかかえ、太樹は何度も謝った。何度も頭を撫で、「悪かった」と言い、そして「愛してる」と繰り返した。
「愛してる、月人。ずっと俺の傍にいろ」
「…っ。う……うん」
  涙声の月人が胸の中で微かに頷くのを太樹は見た。自然抱きしめる腕に力が入り、太樹は己のそれが震えていないかと気になった。
「月人」
  だから太樹はそれを月人に悟られないように何度も何度もその弟の名を呼んだ。
  恐らくはこんな風に、こんな形で不安な月人を手に入れても、月人はまたいつか必ず暴発する。今はこうして自分に依存していても、落ち着けばまた自分たちは同じような擦れ違いを繰り返す気がする。
「月人」
  それでも、今は。今だけは。
「愛してる、月人」
  今この温もりは自分だけのものなのだ。
「愛してる」
  太樹は今度は両腕で月人の小さな身体を覆い隠すようにして抱きしめ、その黒い髪の毛に自らの顔を埋めた。







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遊技場バージョンは「太樹の為に夢を捨てた月人」でした。
何か救いのないカップルみたいですけど、基本は幸せです。甘々なのです。