その夜は突然に



「中ちゃん、聞いたよ。エリちゃんのこと、フッちゃったんだって?」
「……っせえな。誰が言ったんだよ」
「エリ様ご本人」
  職場の同僚がニヤニヤとした笑みでそう言うのを中原は苦々しい顔でただ見返した。この男は明るくて適当に付き合う分には良いが、こうやって何かと言ってはこちらの様子を探ってくるのは鬱陶しい。
「中ちゃんてさぁ、よっく分かンない人だよね」
  赤茶けた長い髪の毛を弄繰り回しながら同僚はとぼけた風に言った。
「エリちゃんだけじゃなくてサ、事務所の女の子とかにも結構モテてんのに。『正人クンの硬派なところがカッコイイ』って。なのに、そういう露骨に言い寄ってくるコ、あんまし相手にしてないっしょ。何で? 本命いるから? それとも硬派のイメージ大事にしてるとか」
「だからうるせェってんだよ。ほっとけ」
「何でさ〜。だってさ、興味あるんだもん。中ちゃんどういうコがタイプなの? エリちゃん、結構気ぃつくし可愛いし。あ、もしかして美人さんタイプが良かった? 案外年上好み?」
「帰る」
「えーっ。ちょっとちょっと中ちゃん!」
  背後からぶうぶうと文句を垂れる同僚を完全に無視すると、中原は野球帽を目深に被って表情を隠した後、そのままタイムカードを押して会社を出た。最近、社長が社用の携帯を買い換えたと言って全員にその新しいのを持たせ嬉々としていたが、中原はわざとそれを机の引き出しに入れて出てきた。
  知るかと思った。
  最近、中原は仕事が妙に込み入っていて、唯一の息抜きである草野球チームの練習にも顔を出せずにいた。ボロアパートと仕事先を行ったり来たり、特にここ数ヶ月は遠距離の仕事と一緒に何故か内勤の仕事まで請け負わされたりして、勤め始めた当初より明らかに重い責任を負わされるようになっていた。ズボラだが気さくで剛毅な社長に可愛がってもらっていると言えば聞こえは良いが、要はハードな仕事量に中原と同じくらいの年齢の奴はどんどん辞めていなくなっているから、その分の仕事を押し付けられているだけなのだ。
  それでも自分が不平も言わず、むしろ内にストレスを溜めつつもこの仕事を続けていられるのは、恐らくは人間が変わったせいと、それから。


  どんなコがタイプなの?


「くそっ…」
  この頃では始終気になって仕方がない、あの「弟」のせいな気がする、と中原は思った。あれに仕事ひとつ満足にこなせないような情けない姿を見せたくないから。
  昔はうじうじとした気弱なあの態度が大嫌いでむかついて仕方がなかった。今でもかなりむかつくが、それでも以前よりは明らかに異なった感情で「あれ」を見ている自分がいた。親友の弟だからとか、腐れ縁の幼馴染だからとか、そういうのとはまるで違う何かが中原の中に芽生えていた。
  そういえばあの自分をスキだと、付き合ってくれと言ってきたエリは、そうやって告白する前はアイツに少し似ていると思っていたのだ。内気で子どもで、どこか面倒を見てやらなければと思わせるような、そんなところが。
「……それが計算だってんだから、女は嫌になるな」
  本当にアイツに似ていたら、告白なんかしてくるものか。手も出さない自分に遂に痺れを切らしたのだろう。彼女の正体を見た時、中原は嫌悪を通り越して呆れの感情が先立った。
「はーあ。どうせ女運ねえよ…」
  中原はそろそろ油を差さねば保たないだろう自転車をギシギシと言わせながら、何もないアパートへの道のりを急いだ。帰ったって何もない。メシ食って寝るだけ。明日も早い。
  中原はらしくもなく、再度深いため息をついた。


「な……」


  けれど、ドアの前に座り込んでいた「それ」を見て、中原は暫しボー然とその場に立ち尽くしてしまった。
「正兄…」
  相手は中原の姿を認めるとすぐに慌てて立ち上がった。
「トモ…お前」
  中原がぽつりとその名を呼ぶと、呼ばれた目の前の相手―友之―は頼りない双眸を閃かせながらオドオドとして言った。
「あ………コウ、兄が…」
「コウが? あいつがどうした?」
「今日、帰らなくて…。なのに……鍵…」
「………」
  自分を相手にしてはよく喋っている方だが、明らかにびびっているんだろうと中原は心の中で嘆息した。こんな風にたどたどしく話す友之にはどうしても苛立ちを感じてしまうのだが、それでも今にも泣き出しそうなこの相手に、中原自身ひどく疲れ切っていたせいかあまり声を荒げる気持ちにもなれなかった。
  友之の肩を軽く押しドアからどかすと、中原はどうでも良いような声色で小さく言った。
「とにかく入れ。こんな所で突っ立ってても仕方ねえだろ」
「………」
  友之はこくりと頷き、大人しく中原の後に続いて中に入った。



  辛抱強く友之の言う事に耳を傾けたところ、要は「自分の家に入れない」というのがここへ来た理由らしい。光一郎はその日たまたまバイト先の要請で泊りがけの仕事を手伝う事になっており、今朝方一緒に家を出る時もその兄からさんざ「鍵を忘れるな」と念を押されたのだと言う。
「なのにまんまと忘れたのかお前は」
「………」
  恥ずかしそうに項垂れる友之に、中原はテーブルの上に置いたコンビニの弁当を広げながら「裕子は?」と訊いた。確かこの北川兄弟宅のスペアキーを預かっているのは、非常に癪に障る話だが彼女だったはずだ。第一、友之が締め出しを食らって一番に自分の家を訪ねるはずがない。
  多少僻みめいた想いで中原は傍で正座している(何度言っても足を崩さない)友之をちらと見やった。
「裕子が留守でも修司ん家だのバ数馬ん家だの色々あるだろ。何で俺の所になんか来てんだよ」
「……く…?」
「あ?」
「…ぃ…く?」
「……聞こえねえ」
  いつもの事だと思いながらも面白くない。
  兄の光一郎には勿論、修司や数馬や、最近ではその他大勢の人間たちにもそれなりに口を動かす友之が、こと自分が相手だとこうも弱々しく萎んだ風船のように黙り込んでしまう。萎縮する。
  弁当と一緒に置いた缶ビールをぐいと煽ってから、中原はよせばいいのに更に凄んだ風に迫った。
「何言ってんだって訊いてんだよ。お前、俺と会話する気あんのか?」
「……迷惑?」
「あ?」
「正兄は…僕がいるの、迷惑……?」
「……べ、別に」
  思わずどもると、友之はじっとそんな風に答えた中原をその大きな瞳で覗きこんだ。
  動揺する。
「……んな、見てんじゃねえよ」
  慌てて視線を逸らすと、友之も慌てた風になって俯いた。ちろとそんな相手を盗み見すると、やはり今にも崩れ落ちそうな顔をしている。両手の拳もきゅっと握られたままだ。
  思わず煙草に手が伸びそうになるのをぐっと我慢して、中原は咳き込むと何でもない事のように言った。
「迷惑なんかじゃねェよ。お前みたいなちびっこいのが一人くらいいても、別に変わんねーしな」
「………」
「どうでもいいが足崩せ! あとメシは? 食ったのか?」
「……っ」
「だから! 俺が立て続けに喋ったくれーでびびんなっての!」
「……ぅん」
  こくこくと頷く友之にじりじりとした想いながら、中原は自分の為に買ってきた弁当を友之の前に突き出すと自分は缶ビールを煽った。ちろりと横目で眺めると、友之はそれを食べていいのかどうか迷った風にただじっとそれを見つめているだけだった。
「食え」
  臆病な捨て犬に餌付けしている気分だ。
「ちっ…」
  けれど中原はそんな「しょうもない考え」をしてしまった自分に腹が立ち、それを誤魔化すように更にビールを煽った。





  中原の家には客用の布団などという気の利いたものは皆無なので、当然狭い部屋に敷かれたそれは一式のみだった。
「……何考えてんだ俺は」
  玄関横にあるユニットバスを使用している友之を背後に感じながら、中原は何事か思案するように腕を組んだ。こんな姿、絶対誰にも見られたくない。数馬や修司に知れたらエライ事だと思う。先刻もさんざどちらが先にシャワーを使うかで揉めたのだが(先に入れと言う中原に友之が自分は後だと言ってきかなかったから)、これで友之は案外頑固だ。一式しかない布団を見て中原が少しでも途惑うものなら、黙って自分は畳の上で…と寝転びそうだ。それだけは断じて避けたい中原だった。
「ぐ……」
  かといって。中原は喉の奥だけで呻いた。
  かといって自分から友之と一緒に寝ようと言うのも気が引けた。どうした事だろう、以前だったらそんな台詞どうという事もなかったはずなのに。
「ホント…どうかしちまったんじゃねェのか、俺は」
「正兄…」
「はっ」
  その声に慌てて振り返ると、既にシャワーを浴び終わった友之が火照った顔をしてこちらを見ていた。
「……な」
  最初こそ焦って顔を引きつらせていたものの、その目の前の姿に思わず顔が緩む。だぼだぼのTシャツにパジャマズボンが妙に似合っている。友之は歩きづらそうだが、どうにも相当に可愛らしい。
「かわ…!?」
  けれど「可愛い」などという単語に中原はまた慌ててかぶりを振った。
  一体何を考えているのか。
「……正兄?」
「な、何だよッ」
「………っ」
  怯えたように黙って首を振る友之に中原は心の中で自らを罵倒した。
  何だも何もないだろう。1人で百面相の自分を友之が不審に思うのは当たり前だ。どうしてこんな風に冷たい態度しか取れないのだろうと思う。
「……ちゃんと髪乾かしたか?」
「………」
  声はない。けれどしっかと頷く友之にふうと中原は息を吐いた。
  そうして観念したように布団の上で胡坐をかき、こいこいと片手で呼び寄せる。
  友之は大人しく傍に寄ってきた。
  自分の傍にちょこんと座り込む友之をじっと見やりながら中原は努めて何でもない事のように言った。
「ちょっと狭いけどよ。うちには余計な数の布団はねーし、我慢しろよ?」
「………」
「あーっと、俺は全然気にしてねーんだからなっ。遠慮とかそういうのは口にすんなよ。したらキレるからな」
「……っ」
  「キレる」という言葉に過剰反応を見せ、友之は慌てて頷いた。中原はそんな友之の姿を見やりながら、まるで俺が脅して無理やり一緒に寝かせようとしているみたいじゃねえか…と、げんなりした。
「じゃな。電気消すぞ」
「………おやすみなさい」
「ああ」
  まだ自分は全然「おやすみなさい」できる状態じゃないのだが。
  それでも中原は「コイツ、俺に『おやすみなさい』と言いやがった」という方向に妙に感慨深い気持ちがしながら、自らも壁際に顔を向けてやや丸くなる友之を見つつ横になった。
「………」
  目が慣れてくると、暗くした室内でも色々なものが見えてくる。
  中原は仰向け状態で両手を頭の下に敷いた格好ながらぼんやりと薄暗くも蛍光灯がぶら下がる天井板の継ぎ目を見やっていた。
  隣の友之は微動だにしない。まさか緊張して身じろぎもできないのだろうかと嫌な予感を抱きつつ、暫くは中原も何も言わなかった。
  身体は思い切り休息を求めていて、本当は今すぐにでも眠りたいのだ。けれど眠れない。
  よくよく考えると幼馴染とはいえ、こうして友之と2人で1つの布団で眠る事も初めてなら、2人きりで同じ場所に居るという事も初めてなのではないだろうかと中原は今さらながらにその事実に驚嘆した。
「……おい」
  返事がなくても構わない。それでも、中原はふと首を横に向けるともう声を出していた。
「トモ…まだ起きてんだろ?」
「………」
  友之は返事の代わりにもぞもぞと動くと体勢を変え、中原の方に顔を向けてきた。限りなく壁に背をつけるような、中原と接触しまいとしているその様子に自然滅入る。
「んな、はみ出てたら寒ィだろ。もっとこっち寄れよ」
「………」
「寄れ」
  強く言うと、友之はびくりとしつつも、まずは上体から中原の胸元へ寄っていき、俯くようにそこへ頭を寄せてきた。
  中原はすかさず片腕を伸ばすとそんな友之を抱き抱えるようにして引き寄せた。
  そうして友之の黒髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら、「……こんなもん」と呟いてみせる。
「別にどうって事ないだろうが。俺が怖いか?」
「……ぅん」
「は?」
「ううんっ」
  肯定されたのかと強めに聞き返すと、友之は慌てて首をぶんぶんと振った。中原の胸に顔を押し付けている状態なので、その震動は直接中原にまで伝わってくる。その焦りように中原はまた苦々しい思いをしつつ、ハアとため息をついた。
「怖くないだろ。俺はなぁ…別にお前さえシャンとしてりゃあ、別に怒りもしねえし、勿論手だって出さねーんだよ」
「………」
「あのバ数馬に何言われてるか知らないけどな。あいつ、お前に俺の事マジ好き勝手吹き込んでるだろ?」
「……数馬」
「ん?」
  友之は彼にとって大事な「友人」数馬が話題に上ると途端声が出る。それを面白くないと感じつつも、中原はやっと喋る気になっているような友之に目を向けた。
  友之はそんな中原の胸元を見つめながらぼそぼそと言った。
「正兄は…1人で百人くらい相手に喧嘩したこと…あるって。みんな血みどろになって、その場に倒れて…それから、伝説が出来たって」
「………アホだ」
  そんな話を信じているような友之も友之だが、こういう奴をからかって嬉々としていただろう後輩がとりあえず一番呆れると中原は心の中だけで嘆息した。ただでさえ、昔「それなりにワルかった」という自覚がある中原としては、またそれを友之にもさんざ知られている中原としては、早くあの頃の印象を薄くしたいと思っているのに。
  もっとも気が短くて手が早いという部分が完全に治っているかというと、それも少し怪しいのだが。
「だからってお前みたいな奴を俺が血みどろにするわけないだろ? お前、もしかしてそういうの聞いて俺にいちいちびびってたのか?」
「……ううん」
「嘘つけ。大体、お前はいつだって俺を前にするとキョドって落ちつかなくなるだろーが。他の奴には最近結構喋ってんのによ」
「え……」
「あ、いや…」
  何だ、この僻みめいた発言は。
  中原はぷかりと浮かぶ額の汗を意識しつつ、それを誤魔化すように友之の髪の毛をまたぐしゃりとまさぐった。
  そして話を変えようとわざと明るく言ってみる。
「…ま、何だ。けどお前、何で俺のとこ来たんだ? そういやさっきだって訊いたのに、お前、迷惑なのか何なのかってはぐらかして答えなかったよな。何で大して喋れねえ俺のとこなんかに来たんだよ?」
「……迷惑?」
「だぁから、そういうのじゃねえって。単純に不思議だからだよ」
「………」
  中原が言うと、友之は何事かじっと考えあぐねるようにして黙りこくった。
「………」
  その沈黙に気まずいものを感じながら中原がどうしたものかと思っていると、いつの間にこうなっていたのだろう、既にぴったりと自分に抱きつくようにして寄り添ってきていた友之が不意に意を決したように息を呑んだのが分かった。
  そうしてぎゅっと中原のTシャツを掴むとぽつりと言った。
「正兄は…怒ってくれるから」
「あ…?」
「鍵…ちゃんと持ってけって…コウ兄に言われたのに、忘れて…。正兄ならそういうの…怒るって思ったから。だから」
「……何だお前。何だって怒られたいんだよ。そんなの嫌だろが」
「………」
「他の奴のとこ行けば、こんなきったねえ部屋で狭い布団で寝なくても済んだしよ。うまいメシ食わせてくれるとこだっていっぱいあっただろうし。なのに…何なんだそれ。煩いだけの俺が逆に良かったって? 訳分かんねえ」
「正兄に言われると」
  友之が言った。割にはっきりとした声だった。
「ちゃんとしなきゃって思うから」
  Tシャツに縋る手の力が強まった。
「な……」
  それで中原は思わず意表をつかれ、声を失った。
「………」
「正兄…?」
「………」
  マズイ事を言っただろうかと不安な目を向けてくる友之の視線から逃れながら、中原はこの状況こそが非常に「マズイ」ように思えて、途端どっと冷や汗が出た。
  コイツは無意識でこういう台詞をぽんぽんと言うのだろうが、なるほど周りがいかれるはずだと痛感した。ただでさえこの顔は反則なのに、この台詞この声。
  この感触。
「………」
「正兄…どうしたの」
  友之が不思議そうに訊いてきた。自分を抱きしめる中原の腕の力が先刻より増した事に気づいたようだ。身じろぎし、再び壁に背中をつけようと身体を動かす。
「あ…」
「……トモ」
  けれど中原はそれを許さなかった。
  心臓がバカみたいにドクドク蠢いている。今の自分は明らかにおかしい、その自覚があったけれど、中原はそんな自分にブレーキをかけなかった。
「………」
  己の懐に納まっている友之の顔を見下ろしながら、中原は低い声で言った。
「俺は…お前が考えてるようなもんじゃねえんだよ」
「え…?」
「お前を叱れるほど大層な奴じゃないって事だ……」
「正兄…」
「黙ってろ…」
「んッ」
「………」
  囁きながら顔を近づけ、そのまま自分を見つめる友之の唇に、中原は自らのそれをそっと重ねた。その小さく柔らかい唇ははじめこそびくりと怯えたように震えたものの、力強く押し潰すと驚くくらい心地良い感触を中原に与え、身体の芯まで熱くさせた。
「んぅ…ふ…」
  何度も舐るように食いつくように唇を捕まえ、中原は友之の唇を貪った。一旦箍が外れると後は何も考えられなくなるように、中原はいよいよその口づけを激しくすると、友之の後頭部を支えたまま上体を起こしその上に覆い被さった。
「正兄…っ?」
  唇を離した瞬間、友之が震える声で呼んだ。中原はそれには応えず、もう1度深い口付けをすると、友之が着るTシャツの中に手を突っ込んだ。
「ひっ…」
  びくんと華奢な身体が跳ねる。それだけで中原の身体は疼いた。中心に血が集まった。冷えた指先を遠慮なく彷徨わせ、友之の腹から胸へと愛撫をしていく。小粒の飾りを指で摘むと、友之はいよいよ困惑したように小さな悲鳴を漏らした。
「や…やぁ…っ」
  それでもあからさまに逆らわないのは、やはり畏れているからだろうか。
「トモ…」
  荒く息を吐きながら、そんな相手の反応に複雑な想いが走る。
  それでも自分の息子もいよいよ自己を主張し始めてきた。
「……お前の、見せろよ」
  中原は言いながらもう一度友之に言い訳のようなキスをし、それから片手を下へと下ろした。
「やっ…やっ!」
  友之がぎくりとして中原の手に自らの手を添えた。それでも中原は構わず、友之のズボンの中へ手を差し入れ、すぐにもどかしくなって下着ごとそれを膝下にまでずり下げた。
「…ぃ…っ…」
  友之が声にならない声を喉の奥で漏らした。露になった自分の下肢に耳まで赤くなっているのが見える。不思議な事に薄暗い部屋の中で、中原には友之の羞恥に染まる顔が実に鮮明に見えた。
  勿論、友之の小ぶりなそれも。さわとした感触に淡い陰毛の存在も知った。
「……に、してんだ」
  それを見やりながら中原は熱に浮かされたように呟いた。友之の性器に触れ欲望を募らせながら、尚同時に頭がガンガンと痛む。息苦しくなっていく。
「ぁ…あっ…。ま、正っ…正兄ぃッ…」
  必死に呼ぶ友之の声に眩暈がした。手でやってやるのが悪い気すらして、コイツのなら舐めてもいいかもしれないとすら思った。友之はもう中原に逆らう所作は一切見せず、ただ身体を預け目を瞑り喘いでいる。暴走する身体には慣れていないのだろう、変化する己に途惑い恥じている様子は見せても、中原を責める気配はない。
  コイツはそういう奴なんだ、と思う。
「お前…。こんなんじゃ…っ。どんな奴にも、いつでもヤられちまうじゃねえかよ…!」
「正に…正兄っ」
「バカが…! んな声出すな…っ」
「…っく。ごめ…っ」
  性器を扱かれ翻弄されつつも、叱られているのが分かったのだろう。友之は咄嗟に謝罪の言葉を唇に乗せ、それからつっと涙を落とした。
「………はっ」
  それを見た瞬間、中原の中で何かが弾けた。
「………」
「ひ…ひあぁッ」
  その直後、友之の情けない嬌声が薄闇の部屋に響いた。
「………トモ」
「…っ…う…ひぅ…っ」
  やがて漏れる嗚咽に中原は白濁に塗れた片手を見つめ、それからそれをそのまま友之の頬へと持っていった。わざと精液で濡れたその手を頬へと差し向け、そのままざらりと撫で付けた。
「………」
  仄かに上気し虚ろな目をした友之は、ぼんやりとそんな中原の事を見やっていた。
  2人は暫し黙ったまま見つめあった。
  それは1分にも、或いは1時間にも感じられたのだけれど。

  不意に、電話が鳴った。

「な…っ!?」
  ぎくりとして中原はすぐ振り返り、反射的にその電話に手を伸ばした。けたたましいその音を早く消したいという思いが混乱を抑え、その行動を起こさせた。
「何だ…?」
  間の抜けた声で受話器に向かってそう言った。ドキドキとする胸の鼓動はそのままだった。
『正人、こんな時間に悪い。俺だよ』
「光一郎……」
  声になっているだろうか。中原は唇を僅かに動かし、その親友の名を呟いた。
『悪いな。友之来てるか。あいつ家に電話しても出ないんだ。裕子に部屋行ってもらったらいないと言うから』
「あ…ああ、悪い。いるぜ。ここに」
『ああ、やっぱりそうだったか。あいつ鍵忘れてお前んとこ転がりこんだんだろ。悪かったな』
「いや……」
  淡々としながらも安堵したような光一郎の声。中原の意識は恐ろしい程に冴えてきていた。
  同時に、罪悪感も。
「お前、今日迎えに来れるのかよ」
  なるべく冷静に訊くと、電話の向こうの声はやや困ったように返答した。
『いや、今日はどうしても帰れないんだ。悪いけどそのまま泊めてやってくれないか。明日は夕方までには帰るから』
「………」
『正人?』
「………じゃあ裕子は?」
『裕子? ああ、心配してたから俺からお前ん所行ってたって言っておくよ』
「そうじゃねえよ」
『え?』
  ちらと振り返ると、友之は既に自らも上体を起こしてこちらを見ていた。弱々しいその瞳に胸がむかついた。すぐに視線を元に戻し、中原はきっぱりと言った。
「裕子んちにコイツやれねえかなって。俺ん所狭いしさ。コイツもあいつん所の方がいいだろうし」
『そんな事ないだろ。友之はお前の所が良かったからそこにいるんだ』
「……とにかく、俺は」
  しかし尚も発しようとする中原を光一郎が遮って言った。
『ちょっと友之に代わってくれよ』
「あ?」
『いいから』
「……ああ」
  兄貴に助けを求めるなら求めるがいい。
「トモ」
  中原は半ば自棄になったように友之に受話器を差し出した。友之はそんな中原の顔をまじまじを見やった後、布団からそろそろと身体を伸ばして受話器を取った。
「……コウ」
  甘えるような声だった。胸のむかつきがひどくなる。中原は立ち上がり、もやもやとした思考を振り払うべく外気を入れようと窓を大きく開け広げた。
  煙草が吸いたい。そう思った。
「うん……うん、ここにいる」
  その時だ。
  友之がそういうのが聞こえた。
「うん。正兄のとこにいる……」
  中原が驚きに目を見開いて振り返ると、もうとうにこちらを向いている友之の視線ともろに目があった。それは先刻までの弱々しいものではなく、はっきりと意思を持った強い光を持っていた。
「ト……」
「うん。おやすみなさい」
「トモ…」
「………」
  光一郎と丁寧な会話を済ませた後、友之はこれまた大事そうに受話器を起き、それからまたちらりと中原の方を見やった。怯えた態度に戻っている。それでも中原から逃げようという気配はない。
  じっと電話の前で正座をし、友之は俯いたまま中原の気配を探っているようだった。
「………」
  中原はそんな友之にすっかり毒気を抜かれたようになり、暫し呆然としていた。背後からは開け広げた窓からぴゅーぴゅーと冷たい風が流れてくる。それを背中一身に浴びながら、それでも中原は目の前の小さなその存在に釘付けとなっていた。
「お前は……」
  そしてようやく口を開いて言葉が出たと思ったら。
「お前は、バカだろ…」
  そんな自分の行動を棚に上げた発言しか出来なくて。
「……正兄と」
  するとそんな情けない中原を前に、友之の方がそろそろと探るような感じながらもきっぱりと言った。
「正兄と一緒にいる」
「………」
「いたかったから」
  だから、来たのだから。
「………」
  そう暗に言う友之を前に、中原はただいつまでも立ち尽くしていた。
  背中に当たる風が冷たい。けれどそれが何だというのだろう。むしろもっともっと凍りつくくらいの風をぶつけて、この愛しい存在を壊さないように俺をがんじがらめにしてくれ。
「………もう寝ろ」
  中原はぐちゃぐちゃになる思考を整理しながらただそれだけ言った。
  もうまともに見られない。この友之という存在をああいう形で認識してしまった自分は、もう。
「……最低だな」
  乱れきった髪の毛をぐしゃりとかきまぜるフリをして、中原は友之から自らの顔を隠した。夜の闇が全部を隠してしまえばいい。そして早く早く朝が来て欲しい。それだけを願った。


  汚したいのに、でも触れられない。


「参った……」
  中原にとってその夜は全ての事柄に―己の隠してきた、抑えてきたもの全ての事に気づいてしまった夜だった。
  それは恐ろしい程に長く感じる一夜の幕開けだった。






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