たいせつ |
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―5― 元々友之はスキンシップというものそれ自体には異様に飢えている「子ども」である。過度のセックスは苦手だが、手を繋いだり抱きしめてもらったり、或いはキスをしたり。そういった類の事はむしろ好きな方なのだ。勿論他人との接触に未だ過剰な怯えや惑いがある事も事実だが、その「スキンシップ」の相手が光一郎ならば、多少の羞恥があったとしてもその事情は全く違うのである。 「……ごめ…ありがと…」 その友之は帰宅してすぐ、玄関先で光一郎に謝りかけた後礼を言った。語尾は今にも消え入りそうなものだったが、それでも一応ちゃんとした音にはなっていた。 「何だよそれは」 玄関の鍵を閉めながら、光一郎はそんな改まった様子の友之に軽い笑みを見せた。 「今日のことか?」 「それもあるけど…」 「ん…」 「嫌だったかと思って…」 今更のように友之はぽつとそう言った。 その視線はひたすらに己の手元に注がれている。光一郎はそれでようやく「ああ」と得心したように声をあげ、それから自分も未だ繋いだままの2人の手元に視線を落とした。 「………」 その手は友之の方から外した。 帰り道ずっと握っていた光一郎の手。するりと離してしまうと、絡めていた指先の感触が失われた事で、友之は自らの体温が一気に下がった錯覚に襲われた。 「嫌なわけないだろ」 ぽんぽんと友之の頭を2度軽く叩いて光一郎は鼻先で笑うと、先に靴を脱いで部屋に向かった。ぱちりとつけられた通路の電気、続いて居間にも明りが灯される。友之はその様子を眺めてから自分もゆっくりと靴を脱いだ。 「さすがに冷えてるな」 ヒーターを入れてから光一郎は台所に置いてあった湯沸しポットのコードを差し、それから「風呂を入れてくる」と1人さっさと洗面所へ向かった。いつでもそうだ。家の事は光一郎が何でも率先して始めてしまうから、こんな時友之はいつだってぼんやりと部屋の中央で所在無く立ち尽くすか、働く光一郎の後を意味もなく追うかするだけだった。 今日は後者を選んだ。 着ていたコートもそのままに、友之は浴槽を洗っている光一郎の背中に言った。 「でも恥ずかしくなかった…?」 「え…はは…お前まだその話してんのか。全然」 「本当…?」 「本当」 いやにあっさりと答える光一郎は不安そうな友之を振り返りもしなかった。 幾ら心で思っていても、普段さすがに「手を繋ぎたい」などとは自分から言わない。今日は半日光一郎と一緒にいられて、そんな事はめったにない事だったから友之は浮かれていたのだ。だからいつも心の奥底に沈めて沈めて滅多に表に出さない欲求をつい口にしてしまった。あの河原では2人きりだったし、光一郎が随分とリラックスしたように星の話なんかして、おまけにキスまでしてくれたから、余計気持ちが昂ぶったのだ。 それでも参ったような顔をしつつ手を繋いでくれた光一郎と歩き始め5分。 友之はすぐさま後悔した。 「いいじゃないか別に」 「え……」 その時、落ち込んだように俯く友之に、シャワーを使って洗剤を流し始めた光一郎が突然口を開いた。平静としたいつもの態度と変わりなかった。 「誰に見られても聞かれても別にいい。『可愛い弟だから』とでも言うさ」 「………」 「けどこんな時だけ『弟(それ)』を使うのも…やっぱり卑怯かな」 「え……」 「まあいいか。俺がずるいのは今更だしな」 「何…っ」 けれど途惑う友之に光一郎はもう答えてくれなかった。掃除を終えてようやっと視線を友之にくれると、「手は洗ったのか」だの「ちゃんとうがいしないと風邪を引く」だのいつものコースに突入し、友之は急かされるままに光一郎の指示通り動くしかなかった。こういう時は絶対逆らえない。反射的に従ってしまう。 そしてこんな風に言う光一郎は「いつもの光一郎だな」と友之は思った。 家に着く迄何度も晒された見知らぬ人間たちの好奇の視線。 光一郎は何とも思っていないのだろうかと思った。 「ああ凄いな。お前、これ完答」 「本当…?」 「本当だよ。和訳も正確。よく調べたな」 風呂から上がって髪も乾かした後、友之は光一郎が淹れてくれた紅茶を飲みながら英語のノートを開いていた。今日は普段と比べてかなり密度の濃い1日だった為既にぐったりしていたのだが、どうしても眠る前に昼間1人でやった予習を光一郎に見てもらいたかったのだ。 いつも英語の予習は任意という事になっているが、教科書の和訳とワークブックの文法演習はそれなりにやっておかないと後で絶対に困る事になる。英語の教師が早口で行う授業内容はどう考えても予習必須のものだった。ただでさえ勉強が遅れている友之には尚更だ。 「これ、どれくらい掛けた?」 「えっと…3時間くらい…」 「それはまた…掛けたな」 光一郎が感心しているんだが同情しているんだか分からないような微妙な表情で言った。 「拡は1時間くらいでいつも終わるって」 恥の上塗りのような気もしたが、友之はついそう口走っていた。以前橋本が自分はこの予習に2時間も掛けているというのに沢海は卑怯だとか何とか、どうにもよく分からない理不尽な八つ当たりをしていたのをふっと思い出したのだ。 「え、1時間? それは逆に優秀過ぎるな」 すると光一郎が心底驚いたような顔をした。何気なく友之の前髪を梳いてやりながら続ける。 「お前、それは拡君と比べて落ち込む必要なんかないんだからな」 「そうなの…?」 「そうだよ。大体この予習…っていうか宿題か。ワークはともかく、こんな全訳までやらされて1時間なんて、フツーの奴には絶対できない」 「そう…なんだ…?」 「そうだよ。何だよ、やっぱり落ち込んでたのか」 「……うん」 頷くと光一郎ははっと軽く息を吐き出してから、またぐしゃぐしゃと友之の髪の毛をかき混ぜた。ドライイヤーをかけたばかりだったが、乱れたところでどうとも思わない。むしろ、やっぱり嬉しいと感じた。こうして並んで机に向かっているのも、光一郎の息遣いをすぐ傍で感じられることも。 「とにかく、これなら明日はどこを当てられても絶対大丈夫だ」 半ば励ますような口調で光一郎はそう言った。 ただ直後、殆ど無意識に友之は「その事実」を口にしてしまったのだけれど。 「あ…英語は授業中当たらない。…当てられた事ない」 「え?」 「他の授業でもあんまり当たらないけど、特に英語は当てられた事ない」 「………」 「先生とも喋った事ない」 「……お前、そういう事は面談前に言えよ」 「え?」 「え、じゃないだろ…」 眉をひそめてこちらを見ている光一郎に友之はここでようやくまずい事を言ったのだろうかと気がついた。自分自身は教室では極力目立たず空気のようにそっと静かにしていたいという願望が強いから、教師から視線を外されている事を特別苦痛に感じた事はなかった。勿論、時々はクラスから漏れる「何故北川だけが特別扱いなのか」という冷ややかな視線に苦しいと思う事もあるが、それも全ては自分自身のせいなのだからと、あまり教師連中にどうこう思った事はなかったのだ。 「学校の先生、お前に冷たいか」 「え…そんなこと…」 「嫌な事言う奴とかは?」 「ううん…」 全くいないという事はなかったが、友之はすぐに首を横に振った。光一郎に負担が掛かるような想いはさせたくないのだ。第一、自分は恵まれている。教室には沢海と橋本がいて、担任の岡村とて悪い人ではないではないか。 「授業も好きなのあるよ。…嫌いなのもあるけど」 「何が好き?」 「数学…コウが教えてくれた時とか」 「それは授業じゃないだろ」 「でもテストでも分かると一番嬉しいから」 「………」 「この間も確率のところ全部当たってた」 「本当かよ? そういえば期末の答案見せてもらってない」 「あ……」 そういえばそうだった。余計な事を言ったと友之は思わず口を閉じた。 担任の岡村にも指摘された通り、友之の期末考査の結果は決して良いものではなかった。必死に頑張ってはいるが、欠席がちプラス元々の遅れが1年で取り戻せるわけもない。光一郎からは折に触れそれなりの「特訓」を受けているが、それにも限界はある。多忙な光一郎が友之の全ての事に目が行き届くわけもなし、その為今回の期末の結果も友之の自己申告くらいで答案をチェックしてもらうまでには至らなかったのだ。 もっとも、普通の兄と弟が答案を見せる見せないと言った会話を発生させるのかは甚だ疑問だが。 「そうだな…。けど俺はお前の保護者じゃないんだから、何もそこまで言う必要はないんだよな」 ふと、その考えに至ったのだろう。光一郎が考え直すようにそう言った。 友之がその発言に少なからず寂しそうな気持ちを抱くのは分かっていただろうが、それでも光一郎は続けた。 「俺は不必要にお前の兄貴役をやり過ぎるよな」 「………」 「なのに…そこまでやる必要はないと思ってても…な。ついやっちまうんだ。結局俺はそういう立場を維持する事でお前を引きとめようとしてるのかもしれない…」 それは光一郎が滅多に表に出す事のない自虐的な独白だった。 友之の反応を待たず光一郎は続けた。 「今日だってそうだ。俺はな…マスターも含めて、他の人間にお前のこと任せたくなかった。だからいつも以上に兄貴役…やりたいと思った」 「え?」 「嫌だ嫌だって言ってるくせに矛盾の固まりだ。全く自分で自分に呆れる」 「コウ…分からない…」 「ん…」 困惑したような友之に光一郎はここでようやく顔を上げると、「何でもない」と言って笑った。それからガラリと口調を変え、からかうような目を閃かせて友之を見た。 「正人に聞いたぞ。父親候補が何人も現れたって?」 「え…」 「皆が三者面談行ってくれるって言ったんだろ」 「あ…うん。みんな、行ってくれるって…」 「凄いな」 ははと乾いた笑いを漏らして光一郎はテーブルの上でおもむろに頬杖をついた。その格好のままちろと友之を見やる。何だろう、責められているのだろうかとびくつく友之の心意を知っているだろう光一郎は、けれどこの時は特に何のフォローもせず、ただ独り言のように普段は固く引き結んだ唇を動かした。 「大切にし過ぎると…。良い事もあるけど、悪い事も起こるよな」 「………?」 「俺は一体どうしたいんだろうな? お前のこと」 「どう…って?」 「ん…だからな。こうやって俺に勉強見せるお前とか、さっき周りの目を気にして申し訳なさそうな顔してたお前とか、さ。そういうのを見てるとお前をちゃんと俺の弟として扱ってやりたいって思うんだよ。お前が不安だと感じるもの、全部取っ払ってやりたい。でも一方で…むかついてる」 「コウ…」 「うん」 意味もなく頷いて光一郎はまた自嘲した。ふいと視線を逸らし、何気なく言う。 「お前が大切なんだ。けどそのせいで不意に身動き取れないって気づくと息が出来ない」 「……そんなの…嫌だ」 「ああ…」 「嫌だ…」 「………」 くるりとこちらを向いた光一郎と友之との視線があった。 友之にも分かった。さっきまでの空気があっという間に変わった事。こうして肩を並べて時折髪の毛をいじってもらえたり抱き寄せてもらえたり。 時々キスを貰ったり。 その嬉しいスキンシップから、もっと別の「接触」へと変わろうとしている瞬間。 「コウ兄…」 友之はそんな時いつでもさっきまで安心だったはずの気持ちがふっと影を落とし困惑の色に染まっていくのを感じた。嫌なのではない、大丈夫。もう大丈夫なのだけれど、やっぱり「どうしよう」という気持ちが消えない。 だからだろう。友之が「そう」だから、兄弟ではない関係になった今も光一郎は容易に友之の身体を求めてはこない。 友之が「たいせつ」だから。 「……でも、僕も」 こくりと唾を飲み込んで友之は何とか声を出した。 光一郎に言わねば。今日はずっとそう思っていたではないか。抱いた気持ちを素直に言える、そうでなくとも言わなくてはいけない、そんな日なのだ今日は。だから。 光一郎を大切に想う気持ちは自分とて同じなのだと言わなければ。 「………」 「友之?」 「……っ」 けれど言葉にならなかった。胸がいっぱいだった。同時に今日1日の光一郎と共に過ごせた楽しかった出来事が一気に脳裏を過ぎり、頭のてっぺんから足先までもが熱くなった。この高まりをどう伝えたら良いのだろう。それなのに言葉が出ないのだ。 どうしたら。 「……っ!!」 「友…っ!?」 だから困りきった挙句、友之はどんと思い切り強く光一郎の身体に体当たりをした。それは学校帰りの雨の中でしたのと全く同じものだった。光一郎に触れていたいのだという事、それが嬉しいのだという事を知って欲しかった。 後悔の気持ちが胸を占めたあの時でさえ、手を繋いで帰れた事はやはり嬉しかったのだから。 「……友之」 「……!」 ぎゅっと抱きついてきた友之を光一郎が呼んだ。けれどそれはひどく小さな低いもので、必死になっている友之にはあまりよく聞こえなかった。 ただその代わりすぐに抱きしめ返された。 「あ…」 そしてそれを意識した直後、友之は自分の身体がふっと宙に浮くのを感じた。 「コ…?」 「明日」 「え」 「明日学校休め」 そうして光一郎は友之を抱え上げた状態で出し抜けきっぱりとそう言った。 「……コウ?」 「どうせ英語当たらないんだろ。休め」 「………」 「分かったか?」 「……う…うん」 「……眠るのはもうちょっと我慢しろ」 「………うん」 光一郎にベッドのある隣の部屋へと運ばれながら友之は何とか返事をした。これから始まる事にやはり胸がどきどきしたけれど、自分を抱える光一郎の首筋にはしっかと掴まって離さなかった。嫌じゃなかった。それどころか幸せ過ぎてどうにかなってしまうのではないかと思った。求められる事、光一郎が自分を欲しいと思ってくれている事が堪らなく嬉しかった。 「コウ兄…好き…」 だから電気のついていない部屋に入ってすぐ、闇に表情を隠された事に乗じて友之はぽつりと言った。何度でも言わなくては。この温かい優しい温度をずっと感じられるように。ずっと傍にいてもらう為に。 「大好き…」 何度も何度も繰り返そうと、友之は視界を閉ざし何の声も発しない光一郎に縋り、それだけを思っていた。 どんな関係だっていい。大切なのは、一緒にいること。 |
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【おわり】 |