―後編― |
友之は昔から光一郎の寝顔というものをあまり見た事がなかった。家族と一緒に暮らしていた頃は勿論、共に同じ部屋で眠るようになった今ですら。光一郎はいつでも友之より先に起きて、後に寝ていた。一時は本当に眠っているのだろうかと疑った程だ。光一郎自身は「ちゃんと寝てる」と言うのだが、少なくとも友之にとって光一郎のこういった面は「凄い」と尊敬してしまう一方で、時々ひどく不安にもなった。 ところがどうだろう。その日、光一郎は実によく寝ていた。 「 あーあ。コウ君、寝ちゃったな」 修司がくすくす笑いながら目を細めた。 「 ………」 友之が必死にかっこんでいたカップラーメンから顔を上げると、目の前には軽く腕組をしたまま大木に寄りかかり目を閉じている光一郎の姿が見えた。確かに眠っている。静かな昼下がり、微かな寝息がさらりと流れてきた小さな風に乗って友之の元にもやってきた。 「 車でも寝てた」 「 うん」 「 さっきだって…。釣りするって言って、ずっと寝てたし」 「 そうだな。きっと疲れてるんだよ、コウ君は」 胡坐を掻き、背中を丸めて膝の上で頬杖をした修司は、実に面白いものを見るような目で光一郎の事を見やった。 3人がやって来たのは都心郊外にある小さな湖水で、車では小2時間といった所だった。 早朝、北川兄弟の住むアパートへやって来た修司は「最近の趣味なんだって」と、父親であるマスターの愛車―大家族が乗るような4WD―の車体を運転席から軽く叩いて見せた。そうして車内では当然のように友之を自分の隣である助手席に座らせ、何やら異様に上機嫌であれやこれやと周りの街並について丁寧なガイドをし始めた。またそれをされる友之は友之で、都心から離れる毎にどんどん変わっていく景色が珍しくて嬉しくて、修司の話に耳を傾けながらも半ば乗り出すような形で流れる車窓の景色を眺めていた。2人は車に乗ってからここまで、ずっといつにないハイテンションだったのだ。 ところが光一郎だけはずっと熟睡―否、「爆睡」だった。 広い後部座席を独り占め、そこに一旦落ち着いた光一郎は、マスターが用意してくれたという釣り道具を一通り観察した後は、仰向けに寝っ転がってそのまま目的地に着くまで1度も目を覚まさなかった。窓の外から差し込む陽の光が眩しいのか、片腕だけはずっと額に当てていたが、それ以外の動きは特になし。修司が「死んでたりして」などと悪い冗談を言って友之をうろたえさせた程だ。 けれどそれくらい、光一郎は静かだった。 そして目的地に着いてからも湖の周りの森を探検しようと言う修司に「俺は釣り」と言い張って、釣り糸を垂れたままその場に敷いたビニルシートの上でずっと寝ていた。エサの取られた釣竿にもまるで無関心のようだった。 「 ま、こんなオネムなコウ君はほっといて。トモ、バナナ食べる? バナナ」 思わず光一郎の寝顔をじーっと凝視していた友之に修司が言った。 湖のすぐ傍にそびえ立つ大木の下で昼食を摂っていた3人だが、その内容はお粗末な事に市販のカップラーメンだった。それらを早々に食べ終えた光一郎は熟睡、修司は友之を構う事に決めたようだ。その「第2の兄」は、今にも歌いだしそうな程うきうきとした様子で友之に「どう?」と再度問い直した。 「 あ…でもまだ…」 自分はおやつに行く着く前に、まだ昼食を済ませていない。 けれどそれを修司に言おうとした矢先、その大好きな手が大きなバスケットからまるで魔法のようにバナナだのりんごだの、その他色とりどりのスナック菓子を取り出したものだから、友之はつい違う事を口走ってしまった。 「 凄い、たくさんだね」 友之が素直な感想を漏らすと修司は自身も感心したように頷いた。 「 ホントにね。これな、全部親父殿が用意してくれたの」 「 マスターが?」 「 うん。トモとコウ君とでピクニック行くって言ったらさ。『俺も行きたい』って駄々こねてたけど、お前は駄目って言ったら泣きながらこれだけ用意してくれた」 「 マスターも来たいって言ったの…?」 「 言ったよ勿論。他の奴だってこの事知ったら絶対行きたいって言っただろ」 「 ………」 「 かわいそう?」 「 え?」 顔を覗きこむようにしてそう訊いてきた修司に友之は面食らった。どう答えようか悩んでいるうちに、修司が先に言葉を取った。 「 でも、駄目だね」 それは友之にではない誰かへ向けた、修司がほんの時折見せる意地の悪い顔だった。 「 トモがどんな可愛い顔してどんな風に頼んできたとしても……駄目。俺は誰も連れてきたくなかったんだから」 「 ……誰も? 裕子さんでも?」 「 ハッ…。うん、勿論そうだよ。裕子さんでも駄目」 にやりと笑った後、修司は自分の足元にある、既に空になったカップラーメンの容器を見やった。 実際その眼には何も映し出されてはいないようだったけれど。 「 修兄…?」 「 ったくなあ」 けれどそれに友之が心配そうな声を出すと、修司は再び元気いっぱいの調子に戻った。 「 しっかし親父殿も厭味な奴だぜ。おやつはこんだけ渡してきて、昼飯は?って聞いたらこれだもん。ピクニックのお弁当がカップラーメンって、それはないよな。なのに『向こうで湯でも沸かせ』だから。ささやかな仕返しってところかな」 「 でも、こういうの、キャンプみたいで楽しい」 修司の態度にほっとした友之は遠慮がちになりながら先ほど作った即席釜戸に目をやり言った。鍋やミネラルウオーター、それに火をつけるマッチは持参してきたものだとしても、薪や釜戸造りに使った材料は全部現地調達。 昔、学校行事で楽しみにしていたキャンプが風邪で行けなかった時の事を友之はぼんやりと思い返していた。 「 んー? そうか。ならカレーでも作れば良かったかな」 修司は友之の発言に半分頷いたようになった後、再び頬杖をついて光一郎を見やった。 光一郎は2人の話し声もまるで気にならないのか、依然として目覚める気配がなかった。 「 まったく。いい男だな」 そんな光一郎を見つめながら修司が言った。 「 起きてても絵になるけど、寝てても絵になるわ。な、トモ」 「 うん」 「 ふっ…でもそうやって深く同意して頷くトモの方が俺にとっては百倍価値があるな。撮りたい」 「 え?」 「 写真」 「 あ…」 けれど友之はそこでようやく修司がいつものカメラを持っていない事を思い出した。午前中に森の中を散策した時も、風景専門の修司にしては珍しく一枚も撮っていないと不思議だったのだ。そう疑問を抱いていたはずなのに、あまりにも楽しくて全てが珍しくて、友之はいつしかその事をすっかり忘れてしまっていたのだ。 その想いが率直に顔に出たのだろう。修司が笑った。 「 そう、今日は持ってきてない。別にいいか、と思って」 「 どうして?」 「 どうせ今日はトモの顔ばっか見るだろうし、大体にしてこの人がカメラ嫌いだから」 修司が顎で指し示したのは光一郎の方。 友之は不審に思って首を捻った。 「 コウ兄は修兄の写真、好きだよ」 「 ああ、そういう意味じゃなくて。自分が撮られるのが嫌いって事。ふ…元からお前を撮る気なんかないってのになぁ」 「 ……どうして?」 「 ん?」 「 修兄が撮ったコウ兄の写真も見たい」 「 ええ…マジ?」 「 うん。だって修兄、僕のはたくさん撮るのに」 「 だってトモは可愛いから」 きっぱりと言った後、修司はけらけらと笑った。 「 ………」 そんな楽しそうな修司に反し、逆に友之はこういう時はどう返して良いものやらと大抵途惑って黙りこくってしまう。それをしても修司が他の人間のように呆れたりイラつかないでいてくれるのを知っている分、まだ気持ちは楽だったが。 それでも、いつも言葉に詰まり相手との会話を途切らせてしまう事を、友之は友之なりに申し訳ないと思っていた。思うようになっていた。 「 なあトモ」 そんな事を考えながら友之が俯いていると、不意に修司が呼んだ。 「 ところでここさ、こんなに綺麗な湖なのに人いないだろ? 何でだと思う?」 「 え?」 突然そんな事を訊かれ、友之は驚いて顔を上げた。 言われて見れば確かにその通りだった。 修司たちがやってきた湖は、指定の市立駐車場から徒歩20分程、深い森林に囲まれた緩やかな坂道を下った先にあった。森を抜け、開けた場所に佇むその湖は周囲もぐるりと濃い緑の木々に囲まれていてひたすらに静寂。時折耳に響く野鳥の声だけが唯一の音源で、本当にここは人の来る場所なのだろうかと思わせる程だった。 ただ、実際に駐車場や坂道を下る際見られた案内板が示すように、メジャーな場所ではないにしろ、ここがそれなりの観光地である事は間違いなかった。…にも関わらず、こんな天気の良い日に自分たちしか客がいないというのは、なるほどおかしな事だと言えた。 「 どうして誰も来ないの?」 「 だからどうしてだと思う?」 「 今日、日曜日だよね?」 「 だね」 「 ……本当は今日入っちゃ行けなかったとか?」 嫌な予感を抱きながら友之が恐る恐る訊くと、修司が意表をつかれたような顔を閃かせてぷっと吹き出した。 「 トモ、お前、俺をそういう奴だと思ってんのか? そりゃまあ…俺1人だったらそういう事もたまにはするだろうけどさ。今日はトモがいる上に怖いお兄ちゃんだって一緒なんだぜ? んな事するわけないだろうが。それにここは年中解放してる湖だよ」 「 じゃあ何で?」 「 ……知りたい?」 「 うん…?」 急に真面目な顔をする修司に友之は自然一緒に真顔になり、息を呑んだ。 すると修司はその真剣な顔そのままに口を開き、言った。 「 実はな、出るんだよな」 「 え?」 「 だから。出るの。昔ここで人生を儚んで自殺した人間の霊が」 「 ……本当?」 「 ホントホント」 友之のリアクションを確認するような目をして修司は頷いた。 「 実はカメラを持ってこなかったのもそういうワケがあったからなんだよねー。撮ると必ず写るっていうし。俺、そういうの怖いから」 「 ………」 「 でな、本来この場所が人で賑わうのはどっちかっていうと夜中なの。釣りっていっても、コウ君の釣果からも分かるだろ、魚なんかあんまりいないんだよ」 「 ………」 「 どうした? あ、トモこういう話、やっぱり嫌いだった?」 「 ……ううん」 微かに返答する友之に修司は途端ぱっと嬉しそうになり、待ってましたとばかりに両腕を広げた。 「 遠慮しなくていいぞ、トモっ。怖かったらほら、修兄ちゃんが抱きしめてやるから。ほらほら、こっち来い!」 「 わっ…修兄…!」 「 遠慮しないで、膝抱っこしてあげるから、ほらほらほら」 「 い、いいよっ…。大丈夫、だってまだラーメン…っ」 「 えーっ。まだ食ってなかったのかお前はっ!? 不味くないか?」 「 煩い…」 けれど、その時。 「 お前の声は響く」 「 あー…」 「 あ」 箸を持ったままの友之を強引に自分の元へ引き寄せようとしていた修司に、その物凄く不機嫌そうな声はやってきた。その声と一緒に鋭い棘まで飛んできそうな様子で。 その声の主、光一郎はひどく低い声で誰に言うでもなく呟いた。 「 折角意識消えてたのに…」 「 寝てていいよ」 「 もう遅い…冴えた」 修司のまるで悪びれたところのないその態度に、光一郎は更に「冴えた」と言いつつも寝起き独特のどこかくぐもった声で「何が膝抱っこだよ」と眉をひそめた。 そんな親友の様子にも、やはり修司はへっちゃらなのだが。 「 いいだろ、たまに帰ってきた時くらい。俺、トモにしか甘えられないんだから。コウ君は冷たいし」 「 ……ああ分かった。じゃあ俺がお前を抱っこしてやるよ。だからトモ離せ」 「 うっ…。お、お前、少し離れてた間にちょっと変わったんじゃない?」 「 普通」 「 ……?」 2人のやりとりを「きょとん」として見ていた友之は、しかし手を離してもらった後、すぐにはっとして急ぎ光一郎に向き直った。 「 コ、コウ兄、ここ…出るんだって…!」 「 ん…?」 「 霊が出るんだって。自殺しちゃった人の霊だからきっと地縛霊だ…。その場所に花とか置いてきたい」 「 ………」 「 コウ兄?」 「 ……修司」 「 あ、あはは…。あれ? 何トモ、お前、こういう話全然平気?」 「 何が? あ、そういえば前に読んだ本で関東にある心霊スポットにここと似たような湖があった。釣り橋とかもあって、そこを渡る時はちゃんと最後まで向こう岸だけ見ていないと駄目なんだって。振り返ったらいけないんだって」 「「………」」 「 そういえばさっき修兄と一緒に見に行った森、色々な見た事ない植物とかいっぱいあったんだ。ああいう所って、不思議な力があるんだって。だからちゃんと感謝しながら歩かないといけないんだって」 「 ……あー…トモ? お前、何か凄くお喋りだなあ…」 「 感謝して歩くって何だ?」 いきなり口がよく動き出した友之に笑みをひきつらせる修司、今度は自分が「きょとん」として場違いな質問をかます光一郎。 友之はそんな2人を同時に見やりながら、嬉々として答えた。 「 その場所にいて、その場所の空気を吸える事にありがとうって思うと、周りの空気も柔らかくなって、彷徨っている霊とかも天に上がっていけるの。本に書いてあった」 「 ……どんな本だ」 「 光一郎。お前、トモに何かヤバイ宗教でも教えてんのか」 「 あのな…」 「 …何? 何か変…?」 「 いや別に…」 「 うん、トモ変だよ。すっごい変。でも可愛いからいいけど」 「 え……」 「 修司!」 光一郎がすかさず嗜めると、修司は「ホントの事だろが」と珍しく食い下がり友之をまじまじと見やった。当たり前だけれど、まだまだ自分の知らない一面がこの少年にもあったのだなあと思いながら。 「 まあいいや。何か当てが外れた。それより、コウ君も起きた事だし、午後は3人で探検の続き?」 「 うん!」 「 え…俺も?」 「 俺も! 当たり前だろうが、お前。少しは動けよ」 「 ああ…でも……」 またまた珍しく修司に怒られた光一郎は、しかし依然としてぼーっとしたような視線を遠くの森へとやりつつ、ひどく感嘆したようにぽつりと言った。 「 凄く深い眠りだった…。俺、どっか病気かな」 「 ……バカ、お前は普段が眠らな過ぎ。それが普通なの」 「 ………」 「 コウ兄、どこか悪いの…?」 光一郎の発言に友之がさっと顔を青褪めさせた。光一郎はそんな友之に慌てて首を振ると苦笑し、「違う違う」と2回言った後、ゆっくりと立ち上がった。 「 まあ釣りも飽きたしな。行くか、トモ?」 「 え…」 「 だから。探検」 「 おっ」 「 う、うん」 「 だから大丈夫だって」 言い淀む友之にもう一度苦く笑うと、光一郎は「…それ、まだ食うのか?」とふと呆れたように視線を落とした。そこには未だ友之の手の中にある麺ののびきったカップラーメンがあった。 「 あ…うん」 「 じゃ、早く食え。修司、後のもんは片付けるから手伝えよ」 「 はいはい」 てきぱきと片づけを始める光一郎は、後はもうすっかりいつもの光一郎だった。同様に修司も割と手際良く自分が散らかした物をぽいぽいとバスケットやカバンに戻して行きながら、普段通りの曇りない明るい表情になっていった。 時折ふざけたように何事か話し合いながら作業を続けるそんな2人を、友之早くしろと言われていたのにまた手を止めてじっと眺めやってしまった。 そして不意に裕子が先日言っていた「合コン」なるものに行くと言っていた話を思い出した。 修司よりも格好いい人を探すと言っていた裕子。修司はそれは自分ではなく光一郎の事だろうと言っていたけれど。 「 ……っ」 はっと1つため息をついて、友之はあの時自分が思わず発してしまった台詞を脳裏に浮かべた。 そんなの無理だよ…。 友之にとって修司より、そして光一郎より格好良い人など世界のどこにもいなかった。けれどそんな事を咄嗟に放ってしまったあの時の自分は何だか妙に恥ずかしかった。本心には違いないけれど、少なくともその台詞を当人たちの前で言う勇気は友之にはない。改まって言う機会でもあれば別だけれど…。 「 トモ〜? どうした、おててが留守だぞー?」 その時、既に湖の入り江の方にまで歩いて行っている修司が片手を挙げて友之を呼んだ。 「 お前、もしかしてもう腹いっぱいなんじゃないのか。修司、お前がほいほい菓子やるから」 その傍では光一郎が放り出していた釣竿を仕舞いながら心配そうな声を発していた。軽く修司に足蹴りをかましながら、「お前はトモを甘やかし過ぎなんだよ」としきりと責めている。 「 あ、あのなあ、バナナは未遂に終わってんだよ。そういうお前だって何だかんだでトモに美味いもん放るだろうが」 「 放ってねえよ。餌付けかよ」 「 あ、ほら! ツッコミ。コウ君もトモも嫌だなあ、俺がちょっといない間にどんどん成長してってんだもん」 「 お前もしてるだろ、そのわざとらしくバカっぽくするところ」 「 わざとじゃないって」 その不毛な言い合いは友之が立ち上がって2人の元へ行かなければ延々と続いてしまうように思えた。友之はそれはそれでいいかな、なんて思いながら、もうすっかりズルズルと伸び切ってしまったちじれた麺を箸で丁寧に拾い上げ、口に入れた。カップラーメンは時々食べるけれど、こんなに美味しいと思ったのは初めてだった。 だからそれでより元気になっていた友之は、そんな自分がまた光一郎たちに我がままを言ってしまうのではないかと心配だった。2人を困らせるのは本意ではない。いつも2人が誉めてくれる自分でありたい。けれど友之は「ああ、でもやっぱり言いたい」と思っていた。その時、2人はどんな顔をするだろうか、そんな事を考えながら、友之はまた一口、残っている麺を啜った。 どうせなら夜中までいて、夜の森も探検したい。 |
おわり |