★★どうでも裏事情★★ |
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春うららかな日曜の午後。バッティングセンター「アラキ」のカウンター席には珍しく光一郎の姿があった。修司がアパートに服やら何やらを置いていく為、こうして時間が空いた時にはそれらをまとめて届けるようにしているのだ。何故って修司の荷物にはよく彼の父・宗司の私物が紛れ込んでいるから、「えぇそれ、コウんとこあったの? 買い直しちゃったよ!」なんて事がしょっちゅうなのだ。 因みに今日はその「惨事」を未然に防止できたようで、宗司からは大変感謝された。 「いつも悪いねぇ。コウは今日バイト休みなのか? どうせもうすぐトモたち来るんだし、トモに持たせても良かったのに」 挽き立てのコーヒーを出しながら宗司――アラキのマスターは気遣いながらものんびりとした口調で訊いた。なるほど、もうじき昼である。午前中、河川敷グラウンドで練習試合をしているはずの正人たちチームの面々が間もなくやって来る時間だった。 そのトモを待つ為にカウンター席に腰をおろした光一郎は、手持ちの本を開きながら緩くかぶりを振った。 「あいつは修司がうちに残してった物はロクに見ないで全部押入れにしまっちゃうんですよ。まぁ着替えが主だから、『いつでもうちに泊まれるように』とでも思ってんでしょうね」 「愛されてるなぁ。何でトモはあんなバカ息子をそんなに気に入ってくれてんのかね?」 「ああいう生き方に憧れてるんでしょう」 「あんなちゃらんぽらんなのを? それこそ良くない、なら今のうちに釘刺しておいた方がいいよ。トモみたいなのはちゃんとまっとうな道歩ませないと」 「はは……それはいつも正人が言ってるから大丈夫ですよ」 苦虫を噛み潰したような宗司の顔を光一郎は同じく苦笑し流した後、ふと手元の本に目を落として、今度は自分こそが渋い表情になって押し黙った。 「何?」 勿論宗司はそれに訝しい視線を送った。光一郎が友之を待つ為にここで時間を潰すのは初めてではないし、その時こうして本を持参する事も珍しくはない。しかし丁寧にブックカバーされたそれに気の進まないような顔で視線を落とす姿は稀だった。修司ほどではないにしても、光一郎も昔から本はよく読む方だったから。 「先生から出された課題図書、とか? 大学生にでもなりゃあ、読みたくない本の一つや二つは手に取らなくちゃいけないだろうからね」 「そういう物の方がまだマシかも」 「んん?」 光一郎のウンザリする様にいよいよ不審な顔をして、宗司はぴたりと動きを止めた。 「何の本なのよ?」 「『日本で起きた本当に怖い話』第七集」 「はぁ?」 およそ光一郎から発せられる本の題名としてはほとほと似合わない気がして、宗司は間の抜けた声を返した。数秒後、やっと「ああ」と理解して笑みが浮かんだものの、当の光一郎は未だ面白くない顔をしている。 「トモか」 けれど事情が分かるとそれすらも楽しくなって宗司は破顔した。あの無口でいつでも何にでも怯えたような顔をしている少年が、実は「怖い話が好き」というのは、いつだったか誰かから聞いて宗司も知っている事だった。 「これまで自分が読んだものを勧めてくる事なんてなかったのに」 光一郎が言った。 「それが、よっぽど感動したのか、珍しく積極的にこれ読んでみてくれって。ある意味拷問」 「そんなに酷いの? 結構面白そうだけどなあ」 「まあ興味ある人にはいいんでしょうけど……読みますか?」 「いや、俺も別に興味はないからさ」 無理矢理自分に渡してこようとする光一郎が可笑しくて、宗司は大袈裟に両手を振ってそれを断った。 それから友之のいつでもどこか遠慮がちな視線を思い浮かべる。 「でもさ、いい事じゃないの? うん。それって喜ぶべき事だよ、コウ」 「そうですかね……」 「そうですとも。だってさ、自己主張でしょそれって。立派なさ。自分の好きな物だからコウにもそれを分かってもらいたくて、きっと勇気出して渡してきたんだと思うなぁ。いやぁ、成長したよ、うん。感動すら覚えるね!」 「大袈裟ですよ」 光一郎はやや引きつった顔でそれを否定したが、宗司の方は「いやいや」と腕を組みながら首を横に振った。 「絶対成長だって。だからな、それさっさと読んで、感想言ってあげなよ。『凄い、良かったぞ!』ってさ」 「ええ…? 面白くなくても?」 「まぁ……わざとらしい誉め言葉はいらないにしても、好意的な感想の方がいいだろうな。幾ら正直な気持ちとしても、『スゲーつまんなかった』とかは言えんだろ? そんな事聞いたら、トモ、きっと凄いショックを受けると思うぞ」 いつも忙しい光一郎を気遣っている友之だから、そんな兄に「スゲーつまんない」本など貸して彼の貴重な時間を台無しにしたと分かった日には、きっと何日も立ち直れない日を送るであろう。それは容易に想像がついた。 「……ま、何とか良い部分を探してみます」 光一郎もそれは重々分かっているのだろう、宗司の言わんとしている部分を正確に読み取り、苦笑いをしながら再びページを開く。 それで宗司も大して興味ないながらわざと背伸びをして、カウンター越し、彼の開いている本へ覗き込むような視線を向けた。 「実際そんなにつまんない話ばっかりなの? 日本のホラーブーム結構長くて、凝った話も多いって聞くけどな」 「つまんないと言うか……。そもそも俺が、本とか読んでもあまり感動しない性質なんですよ。『あ、そう。それが何?』みたいな」 「うわ、冷めた男だねえ。ドラマ見て泣いたりしないの?」 「ドラマ。観ないですね」 「映画も?」 「それは時々観ますけどね。別に感動とかしないですね」 「なら『火垂るの墓』を観ろよ! あれ観て泣かなかったら、俺はお前を人間と認めないぞ!」 宗司が力説するのを光一郎は困ったように笑って受け流した。 実際光一郎が文芸方面に疎く、情緒面に関して「欠落している部分がある」というのは親友の修司がよく指摘するところであった。そうかもしれないと光一郎も思う。友之ほどではないにしろ、彼も幼い頃から己の感情はひたすら押し殺し、日々動揺したり心を動かしたりする事がないよう、意識して気持ちを張り詰めさせてきた。それは一種の訓練、苦行と言っても良い。感情を昂ぶらせ、ムキになったり取り乱したところで何も良い事はない。むしろ恐ろしく憂鬱な事態となるだけだから、光一郎は努めて自分を出さないよう、動じないよう、己を律して生きてきたのだ。 それに父も、普段から表情の変わらない無機的な人間だったし、育ての母・涼子にしても、絶えぬ笑顔はいつだって力のない、作り上げたものだった。それは北川家の表面的な平和を保つ為には絶対に必要な事だったわけだから、光一郎も特別彼女を責める気はないのだが、ある程度大人になった今でも、あの頃の傷を未だ引きずっている部分があると感じる。第一、ドライで冷静な状態が知らずスタンダードになってしまったから、「情緒が欠落している」などと言われるのだ。 そういう意味では、友之なぞはあの時殺していた時間を取り戻すかのように、今は少しずつ己の興味ある物に対し熱心に、そして真摯に向き合うようになっている節が見られる。 全く羨ましい。自分にはない熱情だと光一郎は思う。 「でもな……」 「ん?」 「ああ、いえ」 思わず呟いた独り言に宗司が反応したものだから、光一郎は慌てて首を振って苦笑した。 それにしても、この「怖い話」はやはりちっとも「怖くない」。そして、どう好意的に取ろうとしても、「面白くない」と感じる。独り身の中年タクシードライバーが雨の降りしきる夜、ずぶ濡れの白服を着た幽女を乗せたからと言って、別段何とも思わない。友之はこういう話をどういう気持ちで読んでいるのか、むしろこっちが感想を訊きたいくらいだ。そうか、借りる時、友之の講評を先に聞いておくべきだった。今からでも遅くないから、さり気なくでも「お前はどうだったんだ?」とでも振ってみるか。 とにかく誰かの感想が聞きたい。 「あれ、コウ。来てたの」 その時、店の奥から如何にも今起きましたという風な修司が出てきて、光一郎は驚いた。 「お前、帰ってたのかよ」 「ホントだよ!」 「は?」 立て続けにぎょっとしたように言ったのは実父である宗司だった。どうやら彼自身、家に息子がいる事に気づいていなかったらしい。 しかし「帰ってきたのなら一言声掛けろ」とぶすくれるそんな父を華麗に素通りし、修司は乱れた髪の毛をまさぐりながら店の冷蔵庫を平気で開けて、中からオレンジを取り出した。そうしてそれを当たり前のように父に向かって放り投げ、ひょうひょうと笑って見せる。 「絞りたて飲みたーい」 「……ったく。しょうがねえなあ」 けれど結局甘い父親は渋面を作りながらも素直にその命に従ってしまう。光一郎はその遣り取りを呆れたように眺めていたが、修司の方は未だ寝惚けたような目をしながら自らもカウンター席に回りこみ、どっかと腰を下ろしてがくんと項垂れた。 「あったま痛ぇ」 「飲んでたのか?」 「まぁほどほどに」 「バイクで帰ってきたんじゃないだろうな」 すると光一郎のそんな台詞に、修司はだらりと伸ばしていた片腕をそのままに、くるりと顔だけ向けて意地の悪い笑みを浮かべた。 「コウ君。何? お父さんみたいな口きかないでくれる? ああ、俺のお父さんはそこにいるから、君はお母さんかな?」 「バカ、心配して言ってやってんだろう」 「そうだぞ修司。お前、今だってコウがお前が持ち出した荷物持ってきてくれたんだからな」 「わー、酷い事すんなよう! あれはね、わざと置いてきてんの。そんな俺に入り浸って欲しくないわけ? トモだったらそんな酷い事しないのに」 「煩い」 わざと間延びした言い方をする修司に無駄に苛立ち、光一郎は持っていた本を開いたままばしりとその顔に当ててやった。 「ん」 すると修司は最初こそ「いてえ」などと文句を言っていたものの、すぐにぱっとその本を自らが手にし、それを顔に当てたまま暫し微動だにしなかった。 けれどやがて「くく」と喉の奥で笑うようにしてから、がばりと勢いよく上体を起こす。 「何これ? 天下の光一郎君が珍しいもん読んでるね」 「……そうだ。お前、これあと10分で読んで、俺に感想教えろ」 「はぁ? ……ほうほう、トモからの宿題ってわけか」 「もうそろそろ正人たちとここ来るだろうから。それまでに読め。ほら早く」 「無茶言うなよ。ちょい待てって」 そうは言いながらも修司はすかさずしゃんとした姿勢になってぺらぺらと恐ろしい速度でページを手繰り始めた。彼が昔から世間でも注目されている「速読法」とやらを身に着けている事は光一郎も知っている。あんな速さで本当に内容が頭に入っているのかどうか、光一郎としては甚だ疑問なのであるが、実際訊いて見ると内容もきちんと答えられるので彼の視野が恐ろしく広い事は間違いないらしい。 宗司あたりは「そういう才能を何かに生かせればねえ」などと如何にも親らしい不平を零すのだが。 「おお、怖ェ!」 修司は時折そう言っては、わざと背筋に悪寒が走ったように背筋を震わせて笑った。光一郎はそれに何となくむっとして眉をひそめた。からかうような態度を見せつつ、この親友が何だかんだとそれなりにこの本を楽しんでいるのが分かってしまったから面白くなかったのだ。 自分はちっとも楽しめない。むしろ「苦痛」なのに。 こんな時は、やはり修司の方が友之を理解出来る「近い場所に居る人間」なのだと、嫌でも確信してしまう。 「はい、おしまい」 そうして本当にものの10分ほどでその本を読破してしまったらしい修司は、ひとしきり満足したように息を吐くと光一郎にそれを返して寄越した。いつの間にやら寝惚けて半分閉じていたような瞳もしゃんとして普段の生彩を放っている。イキイキとし始めた修司に光一郎は本を手に取りながら「どうだった」と訊いた。 「コウはどこまで読んだのよ。ネタバレしてもいいわけ」 「全然いい。というか、むしろあらすじ全部教えてくれ」 「ふっ…! そんで、如何にもな感想考えてトモに言うわけ? それずっけくない?」 「煩ェな。何の為にお前に読ませたと思ってんだよ、さっさと教えろ!」 「えー。どうしようっかなぁ」 「修司!」 「修司、お前性格悪いぞ。コウだってなぁ、忙しいんだから、さっさと教えてやれ。んな読みたくないもん読まされて、可哀想だろ?」 宗司も同情したように口を挟む。……が、そこまで言われると、光一郎としても友之の手前、ズキリと罪悪感に苛まれたりもするのだが。 案の定、修司はその点を突いてきた。 「ひっでえの。コウ君、あんた、トモが折角自分の好きなものをさ、『大好きなコウ兄ちゃんにも読んでもらいたい』って勇気出して差し出してきたもんを、そんな反則して誤魔化そうなんて、ココロ痛まないわけ?」 「こっ…心は、一応、痛むけどなっ…」 「一応? これまた酷いなぁ、もう。コウ兄ちゃんってそういう人だったんだあ。あーあ、何でトモは優しい修兄ちゃんより、こんな冷酷なお兄ちゃんの方がいいんだろうなあ」 「お前なぁ…! はなっから協力する気ないなら、今の10分返せよっ!」 「コ、コウ、お前も落ち着け?」 宗司が珍しく興奮したような光一郎に驚いてたじたじと後ずさった。息子である修司の方は慣れたもので平然と薄笑いなど浮かべているが、彼にしてみればいつでも冷静で丁寧な所作の光一郎がこんな風に乱雑な態度を見せる事自体レアなのだろう。 もっとも光一郎は修司の前では大抵「こんな」感じだが。 「……もういい」 それでもふうとすぐさま怒りを鎮めた光一郎は、浮かしかけた腰を再び席に落ち着けると、返された本をぱらりと開いた。元々こんな奴を頼ろうとしたのが間違いだったのだ。今からでも読めば1話分くらいは読み終わるはず。……しかし、気のせいか本が先刻よりも重くなったような気がした。そういえばこの短編の中には、抱き上げる度に重くなっていくという人形の話もあったが、今まさにこの本自体がそんな感じだ。 とはいえ、とにかく友之がここへ来る前に一つくらい気の利いた感想を考えなければ。 「あ、トモー!」 しかし、光一郎が焦り始めたまさにその直後だ。 「んだよ、バカ修司。テメエもいたのかよ…」 友之を呼ぶ浮かれた修司の声と、それを如何にも鬱陶しがる正人の声。 それらがほぼ重なるように連続で聞こえてきて光一郎が扉の方へ目をやると、ああ後10分遅く到着して欲しかった友之たちがぞろぞろと店内に入ってきたのが見えた。 光一郎はすかさず足元のカバンの中に持っていた本を滑り込ませた。正直、チームの誰かから「コウ、何読んでんだ?」などと訊かれたくない。 「コウ……来てたの?」 そんな中、友之が真っ先に傍に寄って来て嬉しそうにそう言った。光一郎自身、自分の姿を認めるなりぱっと笑顔になった友之の顔を見ていたから、更にそんな風に声を掛けられては、先刻の「心が痛まないのか」が脳裏を過ぎり、心穏やかではいられない。何とか平静を装って頷きはしたが。 「トモ〜! コウ君ばっか構わないで、修兄ちゃんもいたのーって抱きついてよー!」 「修司! テメエ、離れろっ!」 「あーあ、荒城さんって、トモ君見る度これだからなぁ。んで、中原先輩も慣れないし」 「煩ェバ数馬! お前も止めろ!」 そうこうしているうちにすぐ隣では友之を無理矢理羽交い絞めにする修司、それをキンキン声で怒鳴り飛ばす正人、更にそれらを呆れたように眺める数馬やチームメイト、それに宗司の視線らが合わさってすっかり騒々しくなっている。 光一郎はここでの読書をすっぱりと放棄してそっと溜息をついた。 まぁ、いいか。まだ借りたばかりだから感想は後日でも……。 そうして結局、光一郎は持ち出した本の半分も読む事が出来ないまま、折角の日曜日を無駄に過ごして終わらせてしまった。修司ほどではないにしろ、光一郎とて本を読むのは速い方だ。にも関わらず、もうその日はアラキを出た夜になっても、どうしてもページを開く気持ちが起きなかった。 読みたくもない物を読むというのは大概骨が折れる。その日出来る事を逃すと、その機はどんどんと失われ、いつの間にやら読まなくてはという気持ちすらどうでも良くなってしまう。 何も言わない友之がそれ―コウが感想をくれない―について気に病んでいると光一郎当人が知ったのは、それから数日ほど後の事である。 |
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完
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本当は「どうでもいい裏事情」って題にしたかったんですけど、リズムが悪いので省略しました。
分かる方には分かりますが、今回のネタは「つぶやき掲示板」から派生しました。