「俊史が一度も嫌な想いをせずに幸せになれる方法を模索して書いてみたけど失敗した話」(後編)
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昔みたいに普通にやろう。 俊史が歩遊にそう言って笑いかけたあの夜から、明らかに二人の関係は変わった。 ……否、俊史の態度が変わった。 「相羽」 俊史は学校でも歩遊に頻繁に声を掛けるようになった。記憶を失った当初は廊下ですれ違ってもろくな会話もなく、軽い挨拶をかわす程度だったのに。 しかも。 「今日も放課後図書室にいるんだろ? なら帰り一緒に帰ろうぜ。俺も生徒会の仕事が夕方まであるらしいから」 「うん」 「じゃあ、後でな」 学校の行き帰りにしても万事がこうだ。行きは当然共にするとして、帰りに関しても俊史は歩遊の下校時間をやたらと気にし、一緒に帰ろうと積極的に誘いをかけてくるようになった。 「最近、また一緒に帰るようになったな」 このことに言葉を挟んだのは勿論、耀だ。歩遊のいる教室にまで来て約束を取り付けた俊史を、耀も最初は傍目で見ていただけだった……が、俊史が自分のクラスへ戻るや否や、すぐに我慢出来ないという風に口を開いたのだ。 「あいつ、まだ記憶って戻ってないんだよなぁ?」 「うん。全然……」 「でもその割にまた歩遊のこと構うようになったな」 「構う?」 耀のその言い方に歩遊が不思議に思って瞬きすると、耀は何か不幸なものでも見てしまったと言わんばかりにさっと眉をひそめた。 「歩遊、お前だって当事者なんだから分かるだろ? おかしいだろ、最近のあいつ! 思い出してもないくせに、またこんな歩遊にまとわりついてさ! 帰りも今みたいに露骨に一緒しようって言ってくるし、おまけに昼まで乱入してくるし! 何か図々しさは前より磨きがかかったっていうか!」 「耀君もしかして……お昼3人って、嫌だった?」 「あっ! いや!」 今度は歩遊が曇った表情を見せたからだろう、耀はそれには慌ててぶんぶんと両手を振った。 「違う! それは違う! 歩遊がそんな顔する必要はない! 俺だってさ、今のあいつは性格もまともになってるし、歩遊にきついわけでもないし! だから、すげえ嫌ってわけでもないよ!」 たださ、と。 耀はあたふたとした態度からすぐにまたしんと静かになると、別段誰にも注目されていないはずの教室をきょろりと見渡してから声を潜めた。 「ただ……あいつが、何か徐々に前みたいに戻ってるのかって心配になっただけ」 「心配…?」 「前みたいに戻ったら嫌だろ?」 「そんな……」 「だってさ、あんな風に歩遊の行動いちいち気にしてさぁ」 実際、俊史が歩遊を「構いまくるようになった」というのは紛れもない事実だった。 しかも、ことによると学校で2人が接触する回数は、俊史が記憶を失うよりも格段に増えたかもしれないのだ。 何せ以前の俊史は歩遊に自分との下校を義務付けてはいたものの、こと昼食に関しては割とその日によりけりという事が多かった。クラスでの付き合いや生徒会のことで忙しいせいもあるだろう、本音としては歩遊を昼に耀と2人きりにするような事態は阻止したかったはずだが、週の半分くらいはその「不本意な状況」は見過ごされていた。 それが記憶喪失になってからの俊史は。 否、あの夜一緒に夕食を取り、「これからは元のように普通に仲の良い関係でいよう」となってからは。 俊史はまるで臆することも遠慮する素振りも見せず、堂々と生き生きと、明るく元気に、歩遊と昼を一緒にしよう、一緒に帰ろう、帰りに寄り道していこう等々……普通の友人以上に関わりを持とうとするようになったのである。 「結局あいつが最初の方、歩遊にあまり近づかなかったのって、単にお前に嫌われているって思って遠慮していたんだな」 耀が椅子の背に身体を寄りかからせながらそう言った。 「そんな…それってどういうこと…?」 「ほら、だってあいつ最初の方、歩遊が瀬能の夕飯買って行ったりしたのとかに、『俺はお前をパシリに使ってたのか?』みたいに訊いたんだろ?」 「うん…」 「そんで、この間とかも、『何でそんな俺の前ではびくびくしてんだよ』的に言ったんだろ? で、『俺たちって本当に仲が良かったのか』なんて疑っていたんだろ?」 「そうだけど…」 「だからさ。つまりはそういう事だよ」 耀はあっさりとそう言ってから、ぐらぐら動かしていた椅子をバタンと床に着地させた。 「歩遊があいつにびくびくしているのなんてフツーの事なのにさ。まっ、フツーの人間の感覚からしたら、幼馴染でその態度って明らかにおかしいって思うじゃんか。で、今そのフツーの一般人の感覚を持つ瀬能は、『記憶を失う前の俺って、もしかしてあんなに優しくておとなしい歩遊をいじめてたのか!?』って心配したんだよ」 「そんな! でも僕、それは違うってはっきり言ったし!」 「そ。だからだよ。歩遊にしっかりきっぱり否定してもらえたから、あいつはやっと安心出来たんだ。で、安心したから、『じゃあ心おきなく接近して仲良くしよう』ってなったんだよ」 あんぐりと口を開いたまま何も言えないでいる歩遊に、耀はどこかいじけた風に唇を尖らせた。 「結局、記憶を失くしても、あいつはあいつのまんまって事なのかね」 そうして耀は再びぎしりと椅子を傾かせながら何気なく天井を仰ぎ、次いでちらりと、歩遊が気づかない程度の視線を向けた。 「まあ、歩遊は複雑かもだけど、今のあいつなら、あれでもいいのかもな。あいつ、歩遊に優しいだろ? 何か嫌なこと言ってきたりやったりしてないだろ?」 「うん、全然……。いつも凄く優しいよ」 そうだ。 今の俊史は歩遊を怒鳴って怖がらせたり、バカにして落ち込ませたりすることが一切ない。周囲に対するのと同じ態度で、歩遊にも公平に「良い人」でいてくれるのだ。 いや、それどころか、周囲の人間よりも優しく接してくれているかもしれない。 「最近はまた夕飯作りに来てくれるようになったんだ。料理するの楽しいって言って」 「はあ。料理がねえ。まぁ、そういうわけだ。つまりあいつは、遂に周りにとってだけでなく、歩遊にとっても≪模範生・瀬能俊史≫になったってことだな。ま、元が元だったから、それをよーく知っている俺としては、相変わらず調子狂ったままだけど。歩遊も勿論、調子狂っているとは思うけど。……けど、これで良かったんだよな? これって普通に良いことのはずだよな?」 「……うん」 確認するようにそう言われたが、応えた声に精彩がないのは歩遊も自分で分かっていた。 耀もそんな歩遊の心境が何となく分かるからこそ、自身も釈然としないのであろう、何度も「これで良かったはずだ」と繰り返していたが、どうにも割り切れていない様子は歩遊と同じようだった。 それでも「フツー」に考えたら、耀の言う通り、これは良いことのはずだった。 いつも眉間に皺を寄せて難しい顔をしていた俊史。 何かというと歩遊を怒鳴りつけ、イライラとしていた俊史。 それによって歩遊の方も「自分は何てダメな人間なのだろう」とどんどん自信を失った。びくびくするなと今の俊史は言うけれど、びくびくせざるを得ないような関係性が2人の間には確かに存在していたのだ。 けれど今、それが当の俊史自身の手によって修正されようとしている。 俊史は歩遊に限りなく優しい。至って普通の、仲の良い理想の幼馴染であろうとしている。 そして何より、俊史は記憶を失った事に清々しくすっきりした気持ちでいる。 だから歩遊はもう一体、何度同じことを言い聞かせているのであろう、「自分も早く切り替えて明るくしていなければ」と心の中で呟いた。 「しなければ」と義務のように捉えている時点で、それはかなり無理をしているという事だったのだけれど。 そうして、放課後。 「相羽、悪い。もう下校時刻ぎりぎりだな。待ったか?」 「ううん、平気だよ」 「いつもの」時間に現れた俊史は、しかし昔のそういった記憶がないだけに、歩遊を大分待たせてしまったとかなり焦った様子で図書室へ駆け込んできた。 記憶を失う前の俊史なら、この時間まで歩遊を待たせていたところで、謝るどころか「わざわざ迎えに来てやった」くらいの態度なのに。 「こんな遅くなるなら先帰っていいって言うべきだったな。本当にごめんな」 「ぜ…全然、平気だよ。僕、いつも最後までいるし。俊ちゃ……あ、瀬能君も」 「言い直さなくていいって」 「あ、うん…」 「で、俺が何?」 「え? あ、うん。その、ま、前からいつもこのくらいの時間まで生徒会の仕事していたから、この時間に帰るのって普通なんだ」 「……前の俺って、いつも相羽のことをこんな時間まで待たせていたのか?」 俊史はぴたりと動きを止め、申し訳なさそうな顔をみるみる翳りの帯びたものにした。 歩遊は慌てた。今の俊史に罪悪感を抱かせる為に言ったわけではなかったから。 「僕が待ちたいから待ってたんだっ」 「本当か? 前の俺が無理やり待たせていたとか、そういうんじゃないんだな?」 「な、何でそんな事? 僕、一緒に帰れて嬉しいから…っ」 「でもずっと独りで退屈だろ?」 ガランとした図書室を見回して俊史が言った。もう残っている生徒は誰もいない。いくら目標にしている大学の受験勉強があると言っても、何時間もここに一人でいるというのは、「今」の俊史には随分と酷な事に思えたらしい。 「僕、独りでいるの慣れてるから」 それに対し、歩遊はフォローのつもりでそう言った。まったくフォローになっていないし、むしろマイナスな台詞だったが。 「か、帰ろう?」 俊史が何事か考え込むように黙り込むのを歩遊はそわそわとした想いで見つめた。気まずいのは嫌だ。ましてや今の俊史はやたらと大袈裟に歩遊の事を心配する。その度に歩遊は慣れなくて居た堪れない気持ちになった。 「何でさ…。前から思ってたんだけど、何で…」 「え?」 その時、俊史がふと声を上げた。 「相羽って…………いや。何でもない」 けれど俊史は何故か突然言うのを止め、無理にふっと笑って見せた。それがどこか寂しそうでやはり物言いたげで。歩遊はすっかり狼狽してしまったのだけれど、無理に急かして何かを言わせる事には慣れていなかった。だからただ佇む事しか出来なかった。 「俺、また相羽を困らせてるな」 「え…?」 そんな所在ない歩遊の様子に俊史は素早く気が付いた。そうして今度こそ申し訳なさそうに目を伏せる。まったくらしくない、それは実に弱々しい、見た事もない俊史だった。 そしてその俊史が言った。 「ごめんな。お前とのこと、全然思い出せなくて」 「しゅ…瀬能君…?」 「お前のこと思い出したいな。俺とお前って、どういう風だったのか。たぶん、いや、絶対、こういう感じじゃなかったんだろうな」 「え」 「だってお前、凄く居心地悪そうだから」 はっと小さく笑い、俊史は軽くかぶりを振って少しだけ歩遊と距離を取った。歩遊を怯えさせないようにした無意識の配慮だったのだろうが、歩遊にはそんな仕草も辛かった。 けれどそれには気づかず俊史は続けた。 「前の記憶がなくても然程不便じゃないし。俺は別にいいって思ってた。今でもちょっと思ってる。でも幼馴染だって言うお前のことを全然思い出せなくて、それにお前が辛そうなのは……何かな、最近、駄目だな」 「だ、駄目って」 「気分悪いって事」 「ごめん!」 歩遊が悲鳴のようにそう謝ると、今度は俊史が焦った風になって大きく首を振った。 「違う。言い方間違った、悪い。気分が悪いのは、お前のこと辛くさせてる俺で……つまり、俺はお前のことだけは思い出したいんだ。他は全部忘れていてもいいから。……けど、全然思い出せない」 「……瀬能君」 思い出せないのは、俊史がその歩遊の事こそを忘れたいと思ったからではないのか。 歩遊はその考えたくもない「事実」を想ってズキズキと胸を痛め、けれどもうこれ以上今の俊史を苦しめたくなくて、無理やり頬をつり上げるようにして笑った。 「焦らない方がいいよ。先生もゆっくり思い出せばいいって言ってたんでしょ。そんな…無理に思い出そうとしなくていいから。それに今だって瀬能君、一緒にいてくれるし」 「相羽って本当に優しいな」 「えっ……違う、瀬能君が――」 「もう前みたいに呼んでくんねーの?」 歩遊の言い出した言葉を遮るようにして俊史はそう言った。 しかしその言葉にびくんと驚いたように肩を震わせた歩遊には、すかさず「ごめん」と謝って、俊史はまるで慰めるように歩遊の頭を撫でた。 歩遊は俊史のその手にどきりとしつつ、やはりどこか別人のような俊史に戸惑いを隠す事が出来なかった。 その日、俊史は「いつものように」歩遊の自宅に上がりこむと、「いつものように」夕飯を作り、食事が終わる頃「泊まっていっていいか」と訊いた。 互いの家に泊まるのにわざわざそんな了承を取るなど不自然極まりない。けれど今の俊史にとってそれはごく当たり前の事らしく、歩遊の後に風呂を使う事すら「とんでもない事を勧められた」かのように遠慮して、自分の家のを使ってきてから戻ってきた程だった。 それでも、そんなよそよそしさの中に「お前のことだけでも思い出したい」と言った通り、俊史は何とか歩遊との距離を縮めようと努力していた。歩遊にもそれはよく分かった。 「こういう時間って、例えば俺たちって何してたんだ?」 今は互いに風呂も済ませ、眠る準備もばっちりだ。それでも寝るにはまだ早い時間なので、2人はすっかり寛いだ状態でリビングのソファに並んで座った。 そうして何となくついているテレビと、何となく用意した麦茶を手に、何となくの会話をし始めた。 その時に俊史が質問してきたのが先の内容だ。 「俺、前からよく泊まりに来てたりしてたんだろ?」 「うん。あ、でも泊まるのはあんまりないかも。寝る直前までは大体一緒にいるんだけど」 「そうか。で、こういう時は何してんだ? こうやって話したり?」 「うーん……そんなに話はしてないかも」 いざ改めてそう訊かれると歩遊も何故か思い当たらず、首をかしげた。 「大体は勉強教えてらってるかな」 「は? お前……図書室であんなに勉強していて家でも? ちょっとガリ勉過ぎるんじゃないか」 「でも、瀬能君はテレビとかあんまり好きじゃないし、映画も、あんまり一緒には観ないんだ。僕はテレビも映画も動物ものとかが結構好きなんだけど、瀬能君は嫌いだって言うから」 「……俺が嫌がってもお前ん家なんだし、好きに観ればいいだろ?」 「あ……うん。そう、だね……」 「まさか俺が観るなって言ったとか?」 「そんなわけないよっ!」 何やら今日はこのようなパターンが非常に多い気がする。 歩遊が一瞬仰け反るようにしながら隣に座る俊史に「違う」と強く否定すると、俊史はそれに到底納得しかねる様子で、ふっと視線を逸らした。 「あのさ」 そして言った。 「この間からずっと思っていたんだけどな……何でお前みたいないい奴が、俺以外ではあの太刀川って奴しか、つるんでいる奴がいないんだ?」 「え…?」 突然何を言い出すのだろうか。今の会話と何の関連があるのだろうか。歩遊が翻弄されたまま視線だけを送ると、俊史は淡々と続けた。 「クラスでも。相羽は、何ていうか、浮いているように見えるって言うか」 「そ、そんなこと」 またいつの間にやら教室を覗いていたのだろうか? それとも、最近はずっと昼を一緒にしていたし、必然的に歩遊の周囲の状況を掴みでもしたか。 それでも俊史に無駄な心配を掛けたくない。歩遊が何か適当な言葉はないかとめまぐるしく思考を巡らせていると、また先に俊史の方がハッとして、すかさず「悪い」と謝ってきた。 「こんなこと言うつもりなかった。折角図書室でも訊こうとして止めたのにな。ごめん、嫌な気分になったよな?」 「う、ううん…」 「けどそういうのも、もしかして全部前の俺が原因――」 「え?」 「――……いや」 意味が分からず歩遊は聞き返したが、何故か俊史もそれ以上の言葉を噤んだ。 ただその代わりとでもいうように、「今日な」と口調を変えて先を継いだ。 「今日、生徒会の奴らが妙なこと言っていたんだ、それが引っかかって。前の俺なら分かるんだろうけど、このまま俺の記憶が戻らないなら『通常の監視はもう解いてもいいのか』とか何とか話してて」 「監視って何?」 「全く意味分かんねえ。優が分かっているっぽかったけど、『とりあえずは様子見しとけ』なんて偉そうに言っていたな。……相羽は何の事か分からないか?」 「うん、全然。僕、生徒会の人とはあんまり話さないし」 「俺としょっちゅう一緒にいて?」 「うん。僕はこんな性格だし、あんまり大勢と関わってもどうせいじめられるだけだから近づくなって」 「……前の俺がそう言った?」 「あ!」 再びループである。 歩遊は瞬間声を出し、心の中でも(またやってしまった!)と苦虫を噛み潰す想いだったのだが、繰り返し焦って訂正するのも却ってまずいだろうし、大体にして嘘を言っているわけでもないわけだから、如何ともし難かった。 「せ、瀬能君は、いつも僕のこと想って言ってくれてたよ。だから気にしないで」 仕方なくそんな風に言ってみたが、俊史は何も言わなかった。表情にはありありと「気にするだろ」という台詞が浮かんでいたが。 しん、と。気まずい沈黙が流れた。 テレビがついているから無音になる事はない。けれど、歩遊は落ち着かなかった。やはりいつもと勝手が違う。今の俊史は確かに優しくて歩遊に酷い事をやったり言ったりはしないけれど、こうして「以前」の俊史と歩遊のことをしつこく掘り下げようとする態度にはどうしても胸の痛いところがあった。 何故なら。 「ところで相羽って、今付き合っている奴とかいるのか?」 「えっ!?」 その時、不意に思いもよらない台詞が放たれて、歩遊はピキンと硬直した。 普段の歩遊の生活を見ていればそんな恋人の影がないことは俊史にも分かりそうなものだ。しかしだからこそ、ここで歩遊が「いない」と即答すれば、それでこの話は終わりだ。基本的には何の問題もない事だ。 けれど付き合っていない、とは、言えない。そう答えれば、歩遊は俊史に嘘を言う事になる。 かと言って、「じゃあ誰と付き合っているんだ」と訊かれて、「俊ちゃんだよ」とも言えない。何せ今の俊史は記憶を失っているのだから。 そして、それは俊史が望んだ事なのだから。 「えっと……その……」 「こういう話って俺たち普段しないのか?」 「う、うん」 「……そうか」 俊史は急に声のトーンを落とすと、やがて「じゃあ」と続けた。 「俺は誰かいなかったのか? 付き合っている奴」 「えっ……」 「記憶喪失になってから【自称彼女】がすげえ名乗りを上げてきたけど、冗談半分本気半分って感じで、まあ結局は全部ウソもんの連中ばっかなんだよな。優の奴が軽くさばいていたけど。本物は現れていないっぽいから、やっぱり付き合っている奴なんていないってことか」 「………名乗りを上げてくる人なんていたんだ?」 知らなかった。 歩遊の微妙な表情に俊史は気づかず自嘲して頷いた。 「まあけど、もし誰かと付き合ってたんなら酷い話だよな。俺はそいつのこと完全に忘れているわけだし。いないならいないで良かった」 「……うん」 良かった、と言われて。 先刻からもうずっとズキズキ痛んでいた胸が、今度は刺すような鋭い痛みに襲われた。 辛い。そう、はっきりと自覚した。 でも、隣には何も知らない俊史がいる。明るくしていなければ。平気だという顔をしていなければ。 「相羽…? どう、した…?」 「え……? 何…」 その時、酷く狼狽したような声に、歩遊は咄嗟に顔を上げてどきんとした。泣きそうなのを堪えていたせいで瞳が潤んでしまったと思っているところに、俊史の顔がすぐ目の前にあったから。 「相羽……泣いているのか、どうした?」 しかも俊史は歩遊の様子にすかさず気づいて、あろうことか歩遊の落ち込んだ顔をさらによく見ようと前髪に手を当て、それをそっと掻き上げた。 「相……」 その上俊史は歩遊のその顔を間近で直視した途端、ぎくりと驚いたようになって急にさっと身体を退いた。お陰で歩遊はその分冷静になれたけれど、「避けられた」ことには単純に傷ついてまた泣きたい気持ちになった。 「あ、ごめ……けど、相羽……」 しかし俊史の心内も穏やかではなかったらしい。妙に挙動不審でそわそわした後、俊史は何故か首筋を赤くして思いもよらない事を言ったのだ。 「あのな、相羽……俺、実は、さっきから思って…同じ男同士だし、こんな風に言ったらお前絶対引くだろうし、何考えてんだって思ったけど…。けど、やっぱりダメだ。思ったことは言わないと落ち着かない」 「何……?」 「相羽って凄く可愛いよな……」 それは限りなく小さな声だった。 いつもよく通る俊史の声とは思えない。別人のようだ。 「……え?」 けれどそう言ったのは間違いなく俊史で、しかしだからこそ歩遊には意味が分からなくて。 「悪いっ」 言った当人である俊史も混乱しているようだ。ひたすら照れた風に視線をさまよわせ、歩遊からは身体ごと別の方を向いたまま早口でまくしたてる。 「本当悪い。アホだな、何言ってんだろうな、俺。けど何ていうか、俺、もう大分前からそう思ってたみたいだな。お前のことが可愛いって。しかもそれをずっと無性に言いたくて堪らなかったらしい。現に今言ったら凄ェすっきりした」 「……っ」 歩遊としてはただただ絶句するしかない。 幾ら歩遊を厭っていた前の記憶がないと言っても、仮にも俊史当人にそんな事を言われたら、これは夢かと疑っても仕方がない。 その上、俊史の方は自己申告の通り、胸の内を好きに暴露できて相当晴々したらしい。離していた互いの距離を再びさっと縮めると、俊史はもう一度歩遊の顔を覗きこむようにして、しんなりと下りていた歩遊の前髪も再度掻き上げた。 そうして、至極満足そうに息を吐く。 「ああ、やっぱりな。近くで見ると、お前の目、おっきくてさ。何か……本当、可愛いよ」 「へ、変だよ…? そんなこと言うなんて…っ」 「ははっ! そうだよな? こんな風に思うなんて変だよな? けど――」 「あ」 ふと片手で頬を撫でられたと思った瞬間だ。 さっと互いの唇が触れ合って歩遊は目を見開いたまま石化した。 俊史からキスされた。 その事だけはしっかりと認識しているものの、色々な感情がごちゃごちゃになって忘れかけていた胸の痛みもぶり返す。 「うわ、相羽…!」 「あ……」 そのせいかもしれない。歩遊は遂にぽろりと一粒だけ涙を零してしまった。 「悪い!」 拒絶されたと思った俊史はそれでもう蒼白だ。 「ごめんな!? こんなのありえないよな、本当に悪い! ちょっとおかしくなってたんだ、俺! 相羽が、あんまり可愛かったから――」 「違……っ。俊ちゃんは、そんなこと思ってな……僕のことが、嫌いで……」 「……え?」 謝られるのは嫌だ。 俊史のこんなあたふたとしたところも見たくない。 キスに対して「おかしくなっていた」からなんて訂正もされたくない。 やっぱり、全部が辛い。 「相羽…?」 恐る恐る呼びかけられた事で、歩遊は今度こそぷつんと頭の中にあるどこかの回路を切った。嫌だ。また思ってしまった。だからその勢いのまま、歩遊はきっとした眼を閃かせ俊史を睨んだ。そんな真似、今までにした事などあっただろうか。 けれど歩遊は困惑する俊史を前にきっぱりと告げた。 「俊ちゃんは僕の事が嫌いだから記憶喪失になったんだ!」 「え?」 「僕を忘れたいから記憶喪失になったんだ!」 興奮のせいか、直視していたはずの俊史の表情が歩遊には今いち分からなかった。けれど構わなかった。大事なのはその「真実」で、俊史が記憶を失くしたのは歩遊のせい。歩遊のことを忘れたかったから、その一点だけが重要なのだ。 だから今のこの俊史も歩遊に優しくする必要はない。「可愛い」だなんて、間違っても思ってはいけない。それは本来の俊史の本心ではありえないし、折角忘れ去ったのに、今また「おかしくなって」キスなんてして、自分の気持ちを弄ばないで欲しいと歩遊は思う。 「俊ちゃんが……記憶を失くしてすっきりしたって言って、いつも楽しそうに学校行ってて…喜ばなきゃって思ってたけど、全然ダメだ」 我慢しなくてはならなかったのに、歩遊は気づけば吐き出していた。 「僕は、全然、嬉しくない。俊ちゃんが記憶をなくしちゃって」 どんなに優しくされても、それが偽りなんだと思うと心が冷える。 本当の俊史は歩遊から離れたいと思っているかもしれないのに。いや、きっと思っているのに。 「俊ちゃんが……キスしてくれなくなって、寂しかった…。でも、今のは嫌だ。今の俊ちゃんが何も知らないでこんな風に僕に優しくしてくれるのが辛い…。だって僕のこと嫌で全部忘れたのに、僕を嫌ってたことを忘れたから優しくしてくれるなんて……もう嫌だ」 「そ、相羽、何言ってんだ?」 ようやく俊史が声を出した。明らかに戸惑っている。 「俺が……お前を嫌いで、記憶を失くした? 何言ってんだよ、そんなわけ」 「そうなんだよ!」 無意識に差しのべられた手を歩遊は怯えたように勢いで叩き落とし、さっと今度は自分から距離を取った。俊史がそれで傷ついた顔を見せても、歩遊も必死だったから分からなかった。 ただこの俊史からは離れたい、そう思った。 そう、歩遊はこの優しい俊史を俊史と思えないのだ。 「もう僕に優しくしないで……。僕と一緒にいるのやめて欲しい。僕は今の俊ちゃんと一緒にいるのが辛い」 「そ……俺は……きっと、俺がこうなったのは、きっとお前の為にはいい事なんだろうって…思っていたくらいなのに」 「嫌だ…」 「だって前の俺は横暴だっただろう…? 聞いているだけでも酷過ぎる奴じゃないか…!」 「嫌だ!」 歩遊はぶんぶんと激しく首を振ると、再び俊史と目を合せて言い切った。 「僕は………どんなに嫌われてても、怖くても、僕のことを分かってくれてた……前の俊ちゃんが、大好きだった…!」 翌朝。 「うわっ!?」 頭の上の方で突拍子もない声が聞こえ、歩遊は眠りの淵からゆっくりと意識を外へ浮かび上がらせた。 いつの間にこんな体勢で眠っていたのだろうか。自室のベッドの中、俊史にすっぽりと抱きかかえられるようにして眠っていた歩遊は未だ寝ぼけ眼のまま小さく叫んだらしい俊史をゆっくりと見上げた。 「おはよう瀬能君……」 こうなったのには理由がある。 一緒にいるのが辛いと告げたのに、それがまるで逆効果だった。 はじめこそ驚愕とショックで言葉を失くしていた俊史だが、歩遊のその発言に対し、全く譲らなかったのだ。 すなわち、自分が歩遊を忘れたくて忘れたなんて、そんな事があるわけないと。 「今何時……?」 「な……」 だから、歩遊が幾ら一緒にいるのが辛いと言っても、俊史は頑として歩遊から離れず、何だかんだと昨夜もこうして何故か一緒に眠る事にまでなってしまった。寝入った当初はこんな風に抱きしめられてはいなかったはずだが、狭いシングルベッドだ、知らぬ間にこうなったのだろう。 それにしても長く眠った気がする。 歩遊はもう一度、俊史に「今何時?」と繰り返した。 「何で、お前がここにいる?」 けれど俊史は要領を得ない。しかもそんなとんちんかんな事を言って半ばボー然としている。 不審に思ったが、歩遊はもぞもぞと動きながらくぐもった声で律儀に答えた。 「何でって、ここ、僕の部屋だよ……」 「そ……じゃあ、何で俺がお前と寝てるんだよ?」 「何でって…昨日泊まるって瀬能君が言ったからだよ…」 無理だと何度も言った。それなのに。 前の俺のことなんて知らない、今の俺はお前と一緒にいたいのだからとまるで熱い告白めいた事まで言われてしまって。 勿論歩遊はそれを「優しい俊史」が「親しい幼馴染として」言ってくれているだけだとまともに取り合いはしなかったのだけれど。 それでも絆されてこうなってしまったのは、やはり好きだからだろうか。未練がましいなと歩遊ははっと心内で嘆息する。 「俺、泊まるなんて言ったか」 その俊史はまだそんな事を言った。 ただその割に歩遊をがっちりと抱え込んだ体勢は維持したままで、視線だけをきょろきょろと動かしている。本当にここが歩遊の部屋かと確認しているようだ。 そうしてどれくらい経ったのか。俊史はぽつりと独りごちた。 「頭痛ェ……何かもやもやする」 「え……具合悪いの?」 「いや。何か意識がはっきりしないだけだ」 「大丈夫? 熱は?」 「それはない」 途端心配になって上体を起こそうとする歩遊を、しかし俊史はやはりしっかと拘束したままその動きを制した。 それからふと、心配そうに見上げた歩遊を自身も見つめ返し、俊史はおもむろに顔を寄せると、ちゅっと唇へのキスをした。具合が悪いと言った割にいきなりそんな事をした俊史の顔には、どこか悪戯を仕掛けて成功したような、意地の悪い笑みがちらついていた。 しかもその後は歩遊の髪の毛にも何度も押し付けるようなキスを繰り返す。 歩遊には訳が分からない。 何か違和感も抱いて、歩遊はぱちぱちと瞬きながら俊史を見つめた。 そして訊いた。 「瀬能君…? 何?」 「は? な……何って、何だよ。つかお前、さっきからその呼び方――」 「何でこんな事するの」 「は……はあ!? し、したら悪いのかっ!」 いつものことだろうと言わんばかりのその態度に、歩遊はいよいよ訝しくなり、眉をひそめた。 昨夜の俊史は触れるキスを仕掛けただけで一大事が起きたとでもいうように焦っていたのに、いくらあの後「相羽と一緒にいたい」と言ったからと言って、もうこんな風に慣れたようなキスをしてくるのはあまりに不自然だ。 しかも一緒にベッドに眠ることとて、俊史の方から言い出したとは言え、最後まで「本当にいいのか」とでもいうような初心な態度を見せていたのに。 「あの……」 「それにしても何かはっきりしねえな。ホント、今何時だ?」 その俊史は未だ歩遊を抱き寄せた格好のままそう呟くと、何気ない所作で傍の携帯を引き寄せそれを眺めてから――直後、「はぁ?」と素っ頓狂な声を上げた。今朝だけでもう2度目だ。 けれど「今」の俊史にしてみれば、そんな反応になるのも道理だった。 「訳分かんねえ……携帯の日付狂いまくりだ。三週間くらい」 「……え?」 それに今度は歩遊がぎくっとして目を見開く。俊史はそんな歩遊に気づいていなかったが。 そして言った。 「昨夜のことも今いちおぼろげだな……歩遊、お前何か――」 「ええっ!!?」 「な…何だ、急に!?」 歩遊の叫びに俊史もつられて大声になった。 それでもこの時の歩遊はそれに全く動じなかった。それどころではなかった。 「い、今、何て言った!?」 「は!? 何……って。昨夜のこともはっきりしな――」 「違う! 僕のこと、何て呼んだ!?」 「何なんだよ……どうした? ≪歩遊≫って呼んだだけだろうが。それが何――」 けれど俊史はその先の言葉を継ぐことが出来なかった。 強かったはずの拘束すら解き、改めて自分からガバリと抱き着いてきた歩遊に完全に意表を突かれたからだ。 「ちょっ……」 この時の俊史の顔を戸部あたりが見たのなら、恐らく一生何かにつけて持ち出して笑いのネタにしたに違いない。 俊史はらしくもなく暫しぱくぱくと魚のように口を動かすだけだった。ようやくそれに音声が伴ったのもずっと後になってからで、とにかく少なくとも数分間は、歩遊に抱き着かれたままのされるがままになっていたのだ。余程歩遊の「積極性」に度肝を抜かれたらしい。 もっとも、その時の歩遊にはいずれもどうでも良い事だったが。 「何なんだよ? おい、歩遊! な、何で泣……歩遊!?」 何度も呼び続けてくれるその声が心地よくて堪らなかった。 だから歩遊はただただ俊史にしがみついて離れなかった。もっと諌めるように呼んでもらいたかった。 それに困惑しきった俊史が、けれどぎゅっと自分の首筋に縋りついたままの歩遊をその後も随分とそのままにしておいたのは、戸惑いのせいだけだったのか、それとも。 ちなみに、俊史が記憶を取り戻した事にとても喜んだのは歩遊と戸部――……、それに、終始調子を狂わされていた耀だけだったとか何とか。 |
終わり
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「僕が嫌いだから記憶喪失になった」という歩遊の多大なる誤解は、
その後俊史自身がちゃんと解いてます。念のため。