坂家の子ちゃん!

  友之は朝が早い。学校がない土曜日もそれは変わらず、それどころかいつもより早くに目が覚めてしまう。家族と一緒に朝食を共にする休みの朝は、友之にとってとても嬉しい時間なのだ。
  ただ、祖父のことだけは気がかりなのだけれど。
「やっぱり今日も来てくれないのかな…」
「友之、おはよう」
「あ!」
  早々に着替えてテラスから離れを覗きこんでいた友之に長兄の和樹が声をかけてきた。
  和樹も朝は早い。愛犬のシリューを散歩させる為だが、今もその為のリードを持って庭へ出るところだったらしい。友之を認めると、いつもの柔和な笑みを向けた。
「早いな。昨夜はよく眠れた?」
「うん。和兄は?」
「うーん、まあまあかな」
  曖昧に応えた和樹は、すでに主人の登場を心待ちにして庭できちっと待機している愛犬を見つめながら、友之に「じゃあ行こうか」と言った。
「いいの?」
「ええ? だって、そのつもりで待っていたんだろ? むしろ何で友之はいつもそうやって遠慮するの?」
「だって…僕は足が遅いから」
  大型犬であるシリューの散歩はなかなかに大変だ。都会の住宅地では満足な運動をさせてやれないので、いつも和樹が運転する車でドッグランが可能な場所へ移動するのだけれど、ハードなのはそこからだ。シリューと一緒に走ったり遊んだりすること自体はとても楽しいのだが、体力のない友之はいつもすぐにへばってしまって、あっという間に倒れこむ。それで和樹だけでなく、その場の主役であるシリューにまで気を遣わせて、動きを止めさせてしまうのだ。足手まといなのは明らかだった。
「わんっ!」
「わっ…シリュッ…!」
  けれどいったん庭へ出るともう駄目だ。シリューは喜び勇んで飛んで来て、本来の主である和樹そっちのけで、友之に「遊んで、遊んで」と催促する。そうやって激しく尻尾を振りながらじゃれてくるシリューを前にすると、友之も散歩に行きたい気持ちでいっぱいになるのだ。
「…やっぱり、僕も一緒に行きたい」
「良かった。何せ友之だけだからな、うちでシリューとこんなに遊んでくれるのは」
  肩を竦めながら和樹は苦笑した。
  ふた月ほど前のこと、「前の飼い主が飼えなくなって処分するというから」と、シェパードのシリューを連れて来た和樹に、友之を除く家族は皆あまり良い顔をしなかった。祖父と次男の数馬は、「こちらに迷惑が掛からないなら好きにすれば」というスタンスで、反対はしない代わりに積極的に受け入れもしない。父親は、「大型犬は世話が大変だろう」と難色を示し、母親は「犬が苦手」という理由で反対した。
  そして末っ子で妹の和衛は、「家が獣臭くなるから嫌」と大反対だった。和衛が犬だけでなく、動物全般に興味津々であることは家族全員の知るところだったが、彼女には「兄弟の提案にはとりあえず反対する」という妙なポリシーがあった。
  そんなわけで、和樹は「僕が1人で面倒見ますから」と無理やり皆を説き伏せて、以降その言葉通り、シリューの躾も運動も食事も、一切合財をたった1人で引き受けた。友之はそれを手伝いたいと思っているが、今のところまともな役には立っていない。
  それでも和樹やシリューに温かく迎え入れてもらえると、こんな自分でもここにいていいのかなと思えて嬉しくなる。
  何せ優秀な兄妹の中で、自分だけが落ちこぼれだ。
「ところで、さっき離れを見ていたけど、やっぱり心配? 昴馬さんのこと」
「あ…うん」
  車庫へ向かう道すがら和樹に訊かれて、友之は「和兄は、いつもよく見ているなぁ」と感心し、驚きながら頷いた。
「昨日、お医者さんが来ていたでしょう? 具合が悪い時くらい、うちの方で休めばいいのにって…」
「ああ、あれは、あの人が定期健診に行かないから、俺が往診を頼んだだけだよ」
「そうなの?」
「うん、だからあの人は大丈夫。まぁ、だからってわけじゃないけど、あの人を家に戻すのは難しいだろうね。昴馬さんにとっては、もうあの離れが自分の家だから」
「うん…。でも、ご飯は、皆で食べた方が美味しいのに」
「…そうかな」
「え?」
「あはは、いや、何でもない」
  不思議そうな友之に、和樹はしまったという風に苦笑してから緩くかぶりを振った。
「そうだよな。昴馬さんも、うちには寄り付きたくなくても、友之とは一緒に食事したいと思うよ。4人も孫がいる割に、素直で可愛いのは友之だけだし」
「……そんなことない」
「そんなことあるでしょ」
  からかうように微笑む和樹に、友之はムキになって返した。
「そんなことない。昴馬さん、何か用がある時はいつも和兄を呼ぶし。和兄がいない時はヨシノさん。昴馬さんは和兄のことが1番好きだし、それに――」
「それに?」
  和樹は、友之の言い淀んだその後の台詞を正確に把握していた。それでも敢えて急かすように問い返すと、友之はやや躊躇した後、ぼそりと言った。
「1番気にしているのは、数馬……」
「そうだな」
「でも、1番好きなのは和兄だと思うよ?」
  慌ててそ先ほどの言葉を繰り返す友之に、和樹は笑った。
「友之。そういうフォローは要らないよ。それに、昴馬さんも、友之がそんな風に言っていると知ったら慌てると思うな。確かにあの人は数馬を買っているし、観察対象として面白がっているけど、目に入れても痛くない孫といったら、それはやっぱり友之なんだから」
「……でも、あんまり話してくれないよ?」
「照れ屋なんだよ」
  さらりと友之の頭を撫でてから、和樹は車の後部座席を開けた。勝手知ったる動作でシリューがパッとその中へと飛び乗る。友之は和樹が続いて開けてくれた助手席に乗り込んだ。シリューの運動に付き合うことが楽しいのは勿論だが、友之はこうして和樹の運転する車に乗って遠くに出かけられること自体、好きだった。7人家族と言っても、祖父は偏屈で離れからなかなか出てこないし、父は仕事が忙しくて、家にはほとんどいない。母は、悪い人ではないが、世間ずれしていて、病的なくらい時間を気にするなど気難しい面を持ち、友之も他の兄妹もまともに甘えたことがない。およそ子育てには向かない性格なのだ。
  だから、家族の中では兄の和樹が、友之にとって一番身近で、甘えられる存在と言える。
  ――本当は、「1番身近」というのなら、同じ日に生まれた双子の数馬のはずなのだけれど。
「あのね。この間、数馬が入ったチーム…」
「ああ、何か言っていたね。社会人の人たちがやっている…野球だっけ? びっくりだよ、数馬がそういうのに興味があるなんて」
「うん。それで…」
  流れる車窓の景色へ目をやる一方、ちらちらと運転中の和樹も見ながら、友之は小さく言った。
「僕も入りたいって言ったら、数馬、『駄目』って」
「…ふうん?」
「だから、この間、こっそり見るだけならいいかなと思って、練習試合観に行ったんだけど……怒られた」
「まったく」
  意地悪な奴だね、と口元だけで呟いて、和樹は苦笑した。友之は和樹に同情されたことで余計に悲しくなったのだが、この会話をやめたくなくて、今度は縋るように口を開いた。
「数馬、最近、どんどん僕のこと嫌いになってる」
「ええ…? そんなことないよ」
「そんなことある。一緒に宿題やろうって言ってもやだって言うし、買い物誘っても煩いって言う。前はあんなじゃなかった。僕、数馬の気に障ることしたのかと思って訊いたけど、『めんどくさいから喋らないで』だって」
「友之にだけだなぁ。あいつがそうやって素の自分を晒すの」
「え?」
  意味が分からず友之が聞き返すと、普段からとても優しく穏やかな兄は、どこか皮肉っぽい口調で呟いてから、涼やかに続けた。
「数馬は友之のことが好きなんだよ」
「…好き?」
「そう。だからわざと意地悪するんだ」
「好きな人に意地悪なんかしない」
  友之の言い分に和樹は破顔した。
「友之はそうだよな。俺も好きな子には意地悪しない、優しくするよ。けど、うちの家族の中だけで言えば、俺たちみたいなのは少数派だろ? 何しろ、皆、天邪鬼のひねくれ者だからね」
「皆って…お父さんやお母さん、和衛ちゃんや昴馬さんも?」
「そうだよ。友之はそう思わない?」
  和樹は聞き返されることこそ驚きだという風にオーバーな表情で声を上げた。
  友之は何とも答えようがなく、ふっと黙り込んだ。そうだろうか。うちの家族は皆がひねくれ者? そんな風に考えたことは、友之にはなかった。和衛は負けん気こそ強いが、本当は甘えたがりの可愛い妹だし、母は変わり者だが偏屈ではない、ただ真っ直ぐなだけだ。祖父の昴馬と父の数成は、親子なだけあって言動が何となく似ていると思うところがあるが、その性格を天邪鬼と感じたことはなく、ただ「人が想いもしないことを考えるなあ」と尊敬するのみだ。
  そして双子の数馬は…何でも出来て、それを当然という風に常に自信に満ちているところが凄いと思う。
  何より、数馬といると楽しい。もしも数馬をひねくれているなどと思っていたら、そんな風には思わないだろう。
「友之は人が良過ぎるよ」
  友之のコメントに和樹は「参った」と呟いてから、そんな感想を漏らした。友之はますます訳が分からなくなった。本当は今朝の家族全員が揃う朝食前に、数馬と仲直りする方法を和樹から聞きたかったのだが、結局兄から収穫を得ることはできなかった。





  楽しい散歩から帰宅すると、庭園にいた母、その傍で妙にそわそわしていた和衛が見えて、向こうも友之たちの姿を見ると「あ」という顔をした。
  その後、猛然としたスピードで迫ってきたのは和衛である。
「一体どこまで行っていたのよ! もうすぐ朝食の時間だって言うのに、休みの度に遠出するんだから!」
「ごめん、ごめん。でも、ちゃんと間に会っただろう?」
  和樹は和衛がぷりぷりしている理由を正確に把握している。本当は自分も一緒にシリューの散歩に付き合いたいのに、友之とは違って素直になれないが為にそれを言い出せない。ちらちらと、シリューのリードを持つ友之を見ては、いかにも「私もそれ持ちたい」という風な顔をしているのだが、飛び出す言葉は毒ばかり。
「友之もね、そうやってそのバカ犬と遊んでばっかりいるから、成績が伸びないんでしょ! 早く起きたんなら、私みたいに数学の一問でも解けばいいのに!」
  和衛は妹だが、友之のことを兄扱いしない。長兄の和樹のことは「和樹兄さん」、次男の数馬のことは「数馬お兄ちゃん」と呼ぶのに、数馬と同じ次男の友之を決して「友之お兄ちゃん」とは言わないのだ。
  それは和衛に言わせれば、「だってまるで兄らしくないから」とのことだったが。
  友之はそのことを少しさびしく思っているし、和樹や数馬のようにとはいかないまでも、何とか兄としての威厳を持ちたいと思うのだが、いつも失敗してしまう。
  この時もそうだった。和樹が和衛を想って敢えて口にしなかったことをぽーんと口にして。
「和衛ちゃん、シリューに触りたいんでしょ? 今からシリューのご飯だから、一緒に行こう?」
「なっ…!?」
「本当は散歩も一緒に行こうって誘いたかったんだけど、もし寝ていたら悪いかと思ってノックしなかったんだ。声掛けなくてごめんね」
「は!? は!? はあぁ!? なな、何言ってんの!? 意味、意味わかんないッ!」
「え?」
  顔を真っ赤にして余計に怒り出す和衛に友之は戸惑って後ずさった。友之に悪気はない、心から謝っただけなのだが、和衛にしてみれば、必死にひた隠そうとしていることをバシバシ指摘されるし、何やら同情されるし、鋭敏なプライドは刺激されまくりだ。
「そこまでにしておきましょうか」
  けれどいよいよ和衛が友之に飛びかかって激昂するのが分かったのだろう。庭で優雅にお茶と花観賞を楽しんでいた母・峰子は、ぴしゃりと言ってから淡々とした調子で、しかし有無を言わせぬ口調で言った。
「もうすぐ朝食の時間ですから、友之さんたちは犬を繋いで、手を洗ってきてちょうだい。和衛さんは私と食卓へ。いいですね。お父さんももうお待ちかねですよ」
「あの…昴馬さんは?」
  友之が恐る恐る訊くと、母は依然として無表情のまま、「昴馬さんはいらっしゃいません」と無碍もなかった。
「来るわけないじゃない、いつものことでしょ」
  和衛も冷淡に続ける。友之がしゅんとすると、シリューが心配そうにくんと鼻を鳴らした。
  和樹が空気を変えるように母に訊いた。
「数馬は?」
「勿論、まだ寝ているわよ! ホントに駄目よね、うちの男どもは! お父さんを除いて!」
  母の代わりにすかさず和衛がそう言ってフンと息巻いた。和樹は「お父さんはセーフなんだ?」と苦笑していたが、和衛が自分に対して一応の敬意を払いつつも、「弟の数馬に勝てない2番手」と見て秘かに軽視していることは分かっていたから、それ以上の追い込みはかけない。
  そんな微妙なきょうだい関係を横目に見ながら、二番手どころか歯牙にもかけられていない友之は、せめて数馬を呼んでくる係だけは自分がやると請負い、シリューを和樹に預けると、慌てて家の中へ入った。
「友之。おはよう」
「あ、おはよう、ございます…」
  二階へ上がる際、友之は父・数成とばったり鉢合わせした。一週間ぶりだ。さすがにスーツではないが、襟を正した、いつ外へ出ても恥ずかしくないきちんとした服装をしている。父はこの朝の時間だけは「家族サービスをする」と言ってはばからないが、友之はこの父が心底から気を抜いているところを見たことがなかった。気を張っているというわけではないし、どちらかと言えばいつもゆったりした、余裕然とした雰囲気があるのだが、数馬から「それは全部演技だから」と聞かされてからは、友之も、なるほど、そうかもしれないと感じるようになった。父には、例えゆっくりできる日でも、髪を乱したり、いつまでも寝間着姿でいたりといった、およそ他所の父親のイメージがない。そもそも、友之は父が何か失敗したり困っているという風を見たことがない。数馬は何でもできる完璧な人間だが、要はこの父の血を一番濃く受け継いでいるのが数馬なのではないかと思うのだ。
  だからというわけではないけれど、友之はそんな父を尊敬しつつも、「自分とは違う、遠い世界の人」という印象が強く、ついつい緊張してしまう。…父の数成は友之のそうした態度に、心秘か肩を落としているのだけれど。
「何処かへ行っていたのかい」
「あ、シリューの、散歩に…。和に…和樹兄さん、と」
  常々数馬から「和兄なんて甘えた言い方はやめろ」と言われていたのを思い出し、友之は急いで言い直した。背の高い父を見上げるのは骨が折れる。それに、友之にはもう一つ後ろめたいことがあった。まだこの父に、先日塾から返された模試の結果を報告していない。今日の朝食の後でもいいかと考えていたが、昨夜和衛から「見せてないのは友之さんだけ」と言われて「しまった」と焦っていたところだ。
  そもそも、率先して言いたいような内容でもなかった。ふと、先ほど和衛から「散歩に行く暇があるなら勉強しろ」と言われたことを思い出す。
「友之は和樹が連れて来たあの犬をとても可愛がっているね」
  しかし父は友之の心配をよそに、穏やかな様子でそう言った。友之がハッとして、慌てて「はい」と頷くと、父はさらに微笑んで頷いた。
「あんなに犬が好きだったとは知らなかった。将来は獣医にでもなるかい?」
「あ…僕……」
「ん?」
  友之が言い淀んだのを父はすかさず問い返した。わざわざ身体を屈めて耳をそばだててくるものだから、友之は一層慌てた。言っても良いものだろうか、そう思わないでもなかったが、こうなると黙っているわけにもいかない。
  あんなテスト結果しか取れないのに。呆れられるかなと思いながらも、友之は消え入るような声でそっと言った。
「僕…和樹兄さんや数馬や、和衛ちゃんと……お父さんの会社の……お、お手伝いが、したいです…」
「え?」
「僕じゃっ…。駄目かもしれないけど……」
  父を見ていられなくて友之は俯いた。けれどそれこそが、友之の以前からの望み。将来の夢だった。何も和衛のように、「私が香坂グループのトップに立つ!」などと言うつもりはない。そんなことはめっそうもない。家には長兄の和樹だけでなく、祖父や父から一番期待されている数馬もいる。自分などほとんど役に立たないだろうと、そう分を弁えている。
  それでも、皆と一緒に仕事ができて、それで家族が喜んでくれるのなら、それはとても素晴らしいことのように思えた。
  むしろ、数馬が何故このことに腹を立てるのか、友之には分からない。
「友之……」
「あっ!?」
  不意にぎゅうっと抱きしめられて友之は目を見開いた。頭上から感嘆するような声が聞こえたと思うや否や、もうその瞬間には父の胸の中だ。友之は驚いて両腕をだらんと下に垂らしたまま、一体父はどうしたのかと戸惑った。
「何て素晴らしい。人生最良の日だ」
  しかし父はそう呟くと、勢い友之をぱっと離してから、再度両手を広げて実にオーバーに自らの喜びを表現した。友之がそれにあ然とすると、父は普段見せないほどのはしゃぎようで再度友之のことを大きく抱きしめてから「ありがとう」と礼を言った。
「今日はお祝いだ」
「僕……迷惑じゃない、ですか? そういう風に思うの」
「とんでもない! 録音しておきたかったくらいだ! そうだ、後でそうさせてくれ! いいだろう?」
「録音?」
「そうとも。さあ食事に行こうか、皆にも知らせなくては。友之がこんなに嬉しいことを言ってくれたってね!」
「あ…僕、数馬を起こしてこようと思って…」
「おお、そうかそうか。うん、起こしてきなさい。数馬にも是非聞かせよう。どんな顔をするか楽しみだ!」
  にこにこして父は友之を解放し、何度も頭を撫でてから颯爽とその場を去って行った。
  友之は暫しぽかんとしてその大きな背中を見送ったが、どうやら父が自分の夢を反対するどころか、あそこまで喜んでくれたらしいことがじわじわと沁み渡り、自然と唇に笑みが浮かんだ。
「数馬」
  その嬉しさのまま友之が数馬の部屋に飛び込むと、部屋にはすでに着替えを済ませた数馬が、ベッドの上で足を組んで座っていた。不貞腐れているのは見た瞬間分かった。頬を片手に預けてだらりと姿勢を崩している。しかし友之が訪れるのはもう分かっていたのだろう、ぎろりと睨みつけてくるその視線は、ドアを開けた瞬間突き刺さった。
「朝…だよ?」
「起きてる」
「食事だから、行こう…?」
「嫌だね」
  素っ気ない。そしてその言葉の一つ一つには毒があった。友之は途端に困ってしまい、駄々をこねる双子が何を考えているのかさっぱり分からず、その場で逡巡した。
  それでも数馬を食卓へ連れて行くのは友之の仕事だ。普段から家族の中では何の能力もない(と友之は思っている)から、これくらいのことはやり遂げたい。
「数馬…行こうよ」
「嫌だって言ったでしょ。キミがボクの分まで仕事してきて」
「仕事?」
「そう。あの人たちのご機嫌取り。得意でしょ。現に、今だってとんでもなく喜ばせていたじゃない。あの調子で頑張ればいい」
「……何で怒ってるの」
  悲しくなって友之は眉をひそめた。朝、和樹に相談したことはこの通り、本当に深刻だった。最近の数馬はとても冷たい。高校に上がった、そう、ここ数か月のことだと思う。元々何でもできる数馬とは違い、友之は勉強も中の下だし、運動神経も良くない。社交的な数馬とはこれまた正反対に、人見知りが激しくて友だちも少ない。
  それでも、少し前まではよく一緒に遊んだし、いろいろなことを話した。数馬は家族のことが「あまり好きではない」と言ったけれど、双子の友之のことは「トモ君のことならボクは何でも分かるよ」と笑って、折に触れ様々な所で助けたり励ましたりしてくれた。友之は全てにおいて優秀な家族の中で劣等感を抱かない時はなかったが、双子の兄弟が数馬で本当に良かったと思っている。数馬といると自分ももっと頑張りたいと思えるし、誇らしいし、何より一緒にいてとても楽しいから。
  それなのに。
「さっきの…聞いてたの」
「階段での会話? たまたまね。聞こえたけど」
「だから怒ってるんだ。僕がお父さんの会社手伝いたいって言ったから」
「別に」
  はっとバカにするように笑ってから、数馬はそっぽを向いた。それからおもむろにベッドの傍にあった野球のボールを手にして遊び始める。今日は休日だから、あの野球チームに参加するのかもしれない。いいな、と友之は羨ましく思った。友之は学力の関係で数馬とは別々の高校に通っているが、甲子園常連校である数馬の学校とは違い、友之の通う高校には野球部がない。本来、野球が好きでよく観るのは友之の方だ。それなのに、数馬が外で野球チームに入って自分は入れてもらえないなんて、とても皮肉だと思う。
  てっきり数馬は、自分の為に野球チームを探してきてくれたと思ったくらいなのに。
「もう一緒にいられないの…」
  冷たくされたことで友之はいよいよしゅんとして俯いた。今拒絶されたことだけでなく、野球チームのことや最近の態度、諸々がどっと押し寄せてきて、友之は心底落ち込んだ。先刻まで和樹とシリューの散歩に出かけて楽しかった。父に頭を撫でられて浮かれた。
  けれど数馬にこうして素っ気なくされただけで全部がなかったことになる。結局友之の1番は数馬だから。
「嫌いなら、直して欲しいとこ言って欲しい。そしたら直すから」
「トモ君はさ」
  すると数馬はハアーと、わざとなのかいやに大きなため息をついた後、くるんと視線を戻して手招きした。友之がそれに急いで呼応すると、数馬はそのまま友之の首根っこを掴むようにして、無理やり自分のすぐ横へ座らせた。勢いが強くて、友之はベッドの上で2度ほど身体を浮かせたが、数馬の腕に抱きかかえられて身体に寄り添えたお陰で、体勢が崩れても安心だった。
  だから友之もその逞しい腕に手をやると、数馬はそれをじっと見つめながら続けた。
「ボクの双子のくせに、ボクのことが全然分かってないよね」
「分かる?」
「そうだよ。ボクはキミが何考えているかとか、次にどうしようとしているかとか、笑っちゃうほどよく分かるのに。キミは全然。双子なんだからテレパシーが使えるはずでしょ。それなのに、使えるのはボクだけじゃない」
「……それで怒ってるの?」
「まあね」
「そんなの無理だよ」
  さすがに無茶苦茶だと呆れて、友之は真っ当な抗議を入れた。
「数馬が僕のことを分かるのは、数馬が凄いからでしょ。テレパシーじゃない」
「は? 何言ってんの。凄いとか、そういうの全然関係ない。こんなの、出来て当たり前のこと!」
「当たり前じゃない!」
「当たり前だよ! ずっと見てれば分かるの! 普通は!」
  数馬は頭ごなしにそう言ってから、ぐいぐいと友之の首に腕を絡めてプロレス技をかけるフリをした。フリだから然程の力は入っていない。けれど大きな体躯の数馬にそうやって拘束されるとどうしたって友之の息は詰まる。必死に抗いながら、友之はバンバンとひ弱な力で数馬の腕を叩いた。
「苦しい…っ」
「ちょっとは苦しめばいいんだ。キミはキミだから、こんな家でものうのうと、ぬくぬくと出来ちゃって、全然分からないと思うけどさ。この家で普通にしてるって結構大変なんだよ? 和樹兄さんとか和衛さんとか見てみなよ。あ、いいやごめん、間違えた。見なくていいや、とりあえずボクを見てみなよ」
「数馬?」
「そう」
「全然苦しそうじゃないよ」
「このやろう…」
  数馬はどこか引きつったような笑いを浮かべながら、実に忌々しいという態度を見せつつ、友之の頬に熱烈なキスをした。
「数馬っ」
  それはともすれば音が聞こえるほどちゅうっと吸い付くほどの粘着質なキスだった。嫌がらせでやっているようなそれに、友之は口を尖らせて、数馬の頬に手をやりながら自分から引き剥がそうとした。
「それやだ」
「じゃあいつものキスならいいの」
「最近…してなかったよ…。だから、いつもじゃない」
「友之がして欲しいって言わないからだよ」
「だって、数馬が――」
  何だか凄く不機嫌で怒っていたんじゃないか。
「んっ…」
  そう言おうと思ったのに開いた先の口を見事に封じられて、友之は言葉を失った。数馬は先刻と同じように、けれど今度は確実に真剣味を加えて、友之の唇にゆっくりと自らのをそれを重ねあわせた。
「か…っ」
  離れては何度も重ねてを繰り返す数馬に、友之は懸命についていこうとしつつ、けれども息を詰まらせて呼ぼうとした。ただ、それすらも遮られて口づけが続く。
  互いにじゃれ合うようなキスは子どもの頃からしていたが、中学生の時に初めて「これまでとは違うキス」を数馬がしてきた。
  以降、数馬は折に触れ、突然友之にこういうことをするようになった。何故するのかと問いかけると、「何でそんなこと訊くの」とふてくされるので、友之もいつしか尋ねるのをやめてしまった。
「友之はさぁ…」
  ようやっと唇を離した数馬が至近距離で囁いた。おでこ同士をくっつけると互いの息吹もよく感じる。それでも数馬が真っ直ぐ見つめてくるので、友之も倣って数馬を見つめた。
「何かいっつも俺のこと、何でも出来るとかスゴイとか色々持ち上げるけどさ。俺ら、同じ年でしょう。そんで、一応キミの方がお兄さんなわけじゃん。違う?」
「違わないよ。それが?」
「それが、じゃねーよッ! はあ…だからさ。ちょっとは思わない? ああ数馬はヤキモチ妬いてるんだ、とか。僕のこと独り占めしたいんだなぁ、とかさ」
「誰を独り占めしたいの?」
「キミだよ、キミ。トモ君のこと」
「数馬が?」
「そうだよ」
「僕のことを?」
「そうだよ。勿論。だから、シリューが来てから、キミが毎朝和樹兄さんと何処かへ出掛けるの面白くないし。偏屈昴馬さんの心配して、毎日テラスから物憂げに離れを見るのもイラッとする。和衛さんのヒステリーにいちいち付き合ったり、峰子さんの言うこと忠実に守ったり、極め付けはあの人の会社に入りたいって? お前、殴るよ、いい加減」
「だって……でも、数馬も、入るでしょう? お父さんの会社」
「嫌だって言ってんだろ。前から言ってんのに、冗談だと思ってたの、キミは?」
「そういうわけじゃないけど…」
  けれど、何だかんだで数馬は家族の為になることをするような気がして。
  友之は数馬が今話したことをまるで知らないわけではなかったけれど、何となく全部を本気で取っていないところがあった。何だかんだで数馬の方が両親とも祖父とも、そして兄や妹ともうまくやっているように見えたし、期待もされている。だから、最後には数馬も家を継ぐと決めて、自分はそれについていけばいいと――。
「そうやって何でも俺の後についてこようとするのもむかつく。本当のところでいつも追いかけているのはこっちなのにさ。何故かトモ君ばっかり、俺にいじめられて可哀想みたいに映るのも何?って感じ。分かってる? 本当に酷いのはトモ君なんだからね」
「僕…分かんないよ…」
  数馬がやきもきする理由も、だから責めるのだと当然のように言われることも。
  それでも、数馬がぎゅうぎゅう抱きしめながら言うそんな文句は、訳が分からないながら、ここ最近冷たく無視されることが多かった身としては、むしろ嬉しい部類に入った。
  だから友之は自分からもぎゅっと数馬に抱き着きに行って、「分かんないけど」と繰り返してから、誠実に伝えた。
「数馬がもっとよく見ろって言うなら、数馬のこと、もっとよく見る。そうしたら、数馬のことが分かるようになるんだよね?」
「……まあ」
「テレパシーは無理だけど、やってみる。だから、怒ってもいいけど、今日みたいにいっぱい話して。そしたら僕、安心する」
「……あのさあ…それで、ボクのこの胸のモヤモヤは全然解消されていないわけだけど」
「え、跡継ぎのこと?」
「それだけじゃなくて……もういいや」
  何かいじけているのがバカバカしくなってきた、と数馬は吐き捨て、ぐしゃぐしゃと友之の頭を掻き混ぜた。友之がそれに抗議すると、「和樹兄さんとお父さんからやられた分を消毒しないと」と、数馬は平然と返して、にやりと笑った。
「数馬。ご飯、行こう」
  よく分からないが、機嫌は直ったらしい。というより、何も通じない友之に数馬が諦めたというべきか。それでも友之はそのことにほっとして、数馬の腕を引っ張った。丁度階下からは痺れを切らせた和衛が何事か叫びながらこちらへ向かって来る音もする。数馬のため息を見つめながら、友之は可笑しそうに笑った。
  今日の休日も家族で楽しい朝食をとれそうだ。



【おわり】



もしトモが香坂家の子どもだったら、あの家族も随分と良い感じになれた事でしょう。