初めての外泊 |
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―5― 数馬の父親・数成(かずなり)は基本的には良い人だ。というよりも、良い家庭人だと、数馬は自分の父親の事を疎ましいながらもそう思っている。外ではどんな汚い事や姑息な事に手を染めているか分かったものではないが、少なくとも家の中ではご近所が羨む「良き夫、良き父親」なのだ。勿論、それが父の本性を隠したうわっぺりの演技だと数馬は知っているが、それならば何故外と家とでそのように人格を使い分けているのかという事に関しては、はっきりとした事は分からなかった。別段知りたい事でもなかったので、深く考えた事もなかった。 「 そうか。感心だな、兄弟2人だけで」 しかし数成にどのような理由があるにしろ、自分たちだけでなく友之にまで良い父親を演じる必要などなかろうに。いや、むしろそんな鬱陶しい真似は極力やめて欲しいと思う。 「 食事の支度なんかは…? そうか、お兄さんがやってくれるのか。ん? そう、友之君も最近は頑張るようになったのかい。そうかい」 ( ……ああ、嫌だ嫌だ。この穏やかなほんわかムード) 父親の書斎の前で立ち尽くしたまま、数馬はこのドアの向こうで繰り広げられている父と友之との談笑を耳にし、心底げんなりした。どうやら父は友之の家の事を訊ねていたらしい。友之は友之で自慢である兄・光一郎の事を誉めてもらって有頂天になっているのか、声こそ聞こえないが随分と相手に気を許して口を開いているようだった。 「 時に友之君」 そうしてひとしきり友之の家の話が終わったところで、父・数成は口調を変えて何気なく訊いた。 「 うちの数馬は君たちの前ではどうなんだい。迷惑をかけたりはしていないかい」 「 お父さん」 自分の話だけは勘弁してくれ。 数馬は暫く止まっていた手をすかさず動かすと、声と同時にドアのノブを捻って部屋の中へ踏み込んだ。 書斎にはデスクの椅子に座る父の数成、それにその傍には、他所の部屋から運ばせたのだろう木製のインテリアーチェアーにちょこんと座っているパジャマ姿の友之がいた。 「 何だ、数馬。ノックもしないで」 父・数成は突然の息子の侵入に大して驚いた風ではなかったが、マナーのなっていない行動には厳しく戒めるような言葉と表情を向けた。数馬は悪びれもせず「すみませんね」と言ったが、怒っているのはこちらの方だと言わんばかりの眼でドアを閉め、腕を組んだ。 数成は帰宅してすぐに友之を自分の元へ呼んだのだろう。未だスーツ姿で、ネクタイも軽く緩められただけの格好。また年齢の割に黒々とした髪は、今は前髪をおろしているものの、整髪料で馴らした跡がまだ克明に残っているような状態だった。 対する友之はヨシノが出してくれたやや大きめのグリーンのパジャマに、両手には大きなマグカップが握られていた。ココアでも淹れてもらったのだろうか。白い湯気が白い天井に向かって緩くたゆたっているのが見えた。 「 お父さん。お仕事はどうされたんですか」 「 突然具合が悪くなってな。予定より少し早めに切り上げてきた」 数成は素っ気無い表情でそう言った後、長い足を優雅に組み替え「もう治ったがな」としらばっくれた。 「 体調が思わしくないのなら無理は良くないですよ。もうさっさと休んだらどうです? 僕の友達をこんな所に監禁して無駄話なんかして」 「 はっ、監禁とは口が悪いな」 「 か、数馬…?」 友之が焦ったように口を出したが、数馬は余裕で無視をした。視線はただ父親に向ける。 「 和衛さんたちからメールが来たとか」 「 来たな」 「 何て?」 「 もう聞いているんだろう?」 「 和衛さんからは聞きましたけど。一応、後の人の文面も気になるかなと」 「 大差ないさ。爺さんだけ『見ないと損するぞ』というつけ足しがあったがな」 「 ……友之は珍獣ですか」 「 友達に対して失礼な事を言うな、数馬」 父・数成はそうぴしゃりと言い放った後すぐさま視線を友之に戻し、にこりと大らかな微笑を向けた。友之もそれで恐る恐るながらの笑顔で返す。 数成はも息子である数馬の方はちらとも見ようとしなかった。 「 友之君、息子はこんな調子だからさぞや扱いにくいだろう。君に意地の悪い事をしてないといいんだが」 「 あ…」 その突然の台詞に友之は案の定驚いたようになって声を詰まらせた。 「 い、いいえっ」 けれど意外やすぐに立ち直ると、友之はぶんぶんと激しく首を左右に振り、必死な目をして数成のことを見つめやった。 「 数馬君…とても、優しいです」 「 ほお…」 「 ………」 数馬は口を挟めずそう言った友之をただ見やった。友之はそんな数馬の視線にも気づいていない風で、更にたどたどしい様子で身を乗り出しながら続けた。 「 僕、お、思ったこと、はっきりと言えない事が多くて…すぐに考え込んじゃったり、するんですけど…」 「 うん」 「 数馬君、いつも困っている時に来てくれて、僕に大切な事、言ったりしてくれます…。いつも、いつも助けてくれて…」 「 数馬が? 大切な事を? たとえば?」 「 もういいでしょう」 興味津々の父親にこれ見よがしなため息をついて見せて、数馬はようやく口を開いた。 これ以上余計な事を知られたくない。 「 友之はお父さんと話をする為にうちへ来たんじゃありませんよ。無論―」 「 きゃっ!」 「 あら」 「 ……他の皆さんも同様です。何なんですか、一体」 出し抜けに身体を避けて開いて見せたドアの向こうには、そこで聞き耳を立てていたらしい妹の和衛と母の峰子の姿があった。一緒に盗み聞きはしていなかったろうが、困惑したような執事の姿もその背後に見える。 「 と、突然ドア開けないでよ。びっくりするでしょ」 「 そう言います? 自分の行為を棚に上げて」 「 だ、だってお父さんが悪いのよ! 帰ってきて早々、家族より友之さんと一緒にいる方を選ぶなんて!」 「 私はただここを通りかかっただけよ、念のため」 和衛と峰子がそれぞれ言うのを、椅子に座ったままの数成はやや驚いた風に眺めていたが、やがてふっと苦笑すると片手を振った。 「 いや悪い。数馬が友達を連れてくるなど滅多にない事だろう。つい、な。しかし、私に焚きつけたようなメールを送ってきたのはお前たちじゃないか?」 「 でも、それなら皆でお紅茶でも飲みながらお話しません?」 「 そうよ、お父さん! こんな所で篭らないでよ!」 「 すまんすまん」 2人の女性に責められて父・数成はゆったりと笑んでいる。 数馬は心底疲弊したような顔になるとかぶりを振った。 「 家族団らんなら和樹兄さんも交えて4人でやって下さい。僕たちは部屋に戻りますから」 「 まあ、数馬さん」 「 どうしてよお兄ちゃん!」 「 行こう、トモ君」 「 え…っ」 「 ちょっとお兄ちゃん!」 家族を無視して友之を無理に促し、部屋から連れ出そうとする数馬に和衛が抗議の声を上げた。 しかし、数成がそんな和衛をやんわりと制した。 「 いや、いいさ。友之君も我々がいると気兼ねするだろう。友之君、悪かったね、長々と引き止めて」 「 あ、い、いいえっ」 「 明日の朝食は是非一緒にしよう?」 丁寧な口調でそう言い自分を伺い見てくる数成に、友之は数馬に手を引かれながらも慌てて頷いて見せた。 「 はい…っ」 「 おやすみ、友之君」 「 おやすみなさい…」 「 もういいから」 律儀に挨拶する友之を数馬はむしろ忌々しく思いながら、掴んだ手を更に強く握り直した。 大嫌いな父親に弱味を握られた気分だった。 自室に戻ると数馬はまず友之をベッドの上に座らせ、箪笥から出したタオルでまだ十分に乾ききっていない髪の毛をごしごしと拭いた。 「 ちゃんとドライヤーかけてきたの? こんなんじゃ風邪引いちゃうでしょ」 「 う、うん…。でも…」 何でも浴室から上がって髪の毛を乾かしている最中に、ヨシノから慌てたように一緒に来てくれと急かされたのだと言う。帰ってきた主人の数成が開口一番「友之君というのは何処だ?」と言ったから使用人たちも皆慌てふためいてしまったのだろう。 数馬は呆れたように言った。 「 バカバカしい。幾らあの人だって、呼んですぐ来ないからって別に怒ったりしないのに。友之もさ、ボクに何も言わないでほいほいついて行くのやめろよな」 「 何で…?」 「 何でじゃない。あの人は…いや、うちの家族はね、付き合ってあんまり得になるって代物じゃないんだよ。むしろ害になる」 「 そんな事ないよ」 「 そんな事あるの」 「 そんな事ない」 「 ……逆らうね」 数馬は、自分はベッドに乗って背後から友之の髪の毛を拭いていてやったのだが、あまりにしつこく食い下がる友之にさすがに手が止まった。 「 …数馬」 すると友之はくるりと振り返っていやに意思の強そうな眼をして言った。 「 数馬の家族、皆良い人だよ」 「 ………」 「 何でそんな言い方するの?」 「 嫌いだから」 「 どうして」 「 どうしても」 「 ……どうして」 「 煩いなあ。どうしてもだよ。理由なんかいちいち言ってらんないよ。でも、好んで一緒にいたいって思わないんだ。しょーがないじゃん、そう感じちゃってんだから」 「 ………」 イラついたように発した数馬の言葉を友之はじっと俯き何事か考えているようだった。 数馬はそんな友之をじっと見詰めた。黒く艶やかな髪が未だ濡れて綺麗に輝いている。微かに鼻先を掠める石鹸の香りも嗅覚に心地良い。 それでも数馬は今この友之を優しく抱きしめてやる事はできなかった。 「 あの…さっき」 すると友之がぽつりと口をついた。 「 数馬のお父さん、色々訊いてくれたんだ…。うちの事とか、コウ兄の事とか…。あと、将来の事も」 「 将来?」 「 うん。何になりたいって。お父さんは、考古学者になりたかったって」 「 ふうん」 そんな話は初めて聞いた。 数馬が黙り込むと友之はくるりと振り返り、自分もベッドにのそのそと上がると数馬と面と向かい、続けた。 「 お、お父さんと話をしたら…こんな感じかなって…思った…」 「 ………」 「 仕事で疲れているのに、そういうの見せないってスゴイよね。笑って聞いてくれて」 「 聞きたかったからでしょ、キミのこと」 「 数馬のことも」 「 え?」 数馬が目を見開くと友之は尚必死そうに口を継いだ。 「 数馬の事も…聞きたがってた…」 「 ……あ、そ」 「 怒ってる…?」 「 ……そうやって人の顔色伺うな」 びくびくとした風の友之に数馬はぺちぺちと軽く頬をはたき、「ばあか」と言った。 それからようやくぐいと友之を引き寄せ自分の懐に引き入れるとぎゅっとその身体を抱きしめた。 「 か…ずま?」 驚いたような、きょとんとしたような声で呼ばれたけれど、数馬はすぐに応えなかった。代わりに鼻先をその髪に埋めると、先刻微かにしたシャンプーの匂いがすっと自分の中に入ってくるのが分かった。 「 あ、いい匂い」 「 数馬…きつ…」 「 当たり前でショ、きつく抱きしめてんだから」 「 な、何で?」 「 何で? ホント、キミってバカだなあ」 キミの事が好きだからでしょ。 「 ……あーあ、キミ如きに諭されたくなんかないっていうの」 ぱっと頭に浮かんだ「その言葉」は友之に告げず、数馬はただいつもの憎まれ口を叩いた。いつも弱々しくてオドオドして、自信がなくて。ほんの少しばかり可愛気があるだけの、痩せっぽちの同年代。 それがどうして、こんな風に時々ひどく眩しく見えてしまうのだろう。 「 ねえトモ君」 けれど数馬は、そんな自分の思いを徹底的に隠し友之に気づかせまいとした。冗談ではない、好きになるのは友之の方。この香坂数馬に依存し、数馬が自分にとって必要な人間なのだと自覚し求めてくるのは、この友之の方なのだ。そうでないと困る。 俺がコイツに頼ってどうする。 「 数馬?」 きつそうながら数馬の胸元から顔を上げ、不思議そうな顔をする友之。 数馬は改めて気を取り直し、そんな相手ににっとした笑いを浮かべて見せた。 「 まあいいや。色々邪魔が入っちゃったけど、夜はこれからでしょ。ホラ、夕飯前に計画してた怪談、やろうよ? ボク、キミがお風呂入っている間に色々考えたから」 「 あ…うんっ」 数馬のその提案に友之はたちまち嬉しそうになると満面の笑みで頷いた。その笑顔を見やりながら、数馬はこんな顔が一体どんなお化け話を披露してくるのだろうかと、半ば真剣に興味を抱いた。 そして。 「 キミ、そんなにうちの家族気に入ったんだあ…」 そして数馬は、きっと今もドアの外で聞き耳を立てているだろう妹の和衛、勉強になどちっとも集中していないだろう兄の和樹を思い、まあ今くらいはあいつらも呼んでやっていいかもしれない、借りの1つも作ってやれるからと、珍しく彼らに対し寛容な気持ちになったのだった。 翌朝。 「 数馬…数馬ってば」 「 んー?」 必死に自分を揺り動かす友之の声に気づき、数馬は薄っすらと目を開いた。自分が眠るベッドの上には、昨晩ここで共に眠った友之の姿があり、数馬は未だ寝ぼけた状態のまま面白そうにその身体をぎゅっと掴んで引き寄せた。 「 わっ…」 「 何早いじゃん、トモ君〜? キミ、朝強い方?」 「 数馬、離し…っ」 数馬の上に思い切り乗ってしまった状態で抱きすくめられた友之は焦った風にじたばたともがいている。数馬はそれを気持ち良さそうに眺めながら、友之の髪の毛をよしよしと撫でた。 「 トモ君が昨晩あ〜んな怖い話するからさぁ、数馬クンとしては寝つきが悪くてしょーがなかったんだよねえ。だからちょっとくらいお寝坊してもいいでしょ。どうせ今日は日曜日なんだし」 「 で、でも、和衛さんが…っ」 「 え?」 「 ちょっとー!! 開けなさいよ、何鍵掛けてンの!? 信じられない!!」 「 あー…」 隣に友之がいた非日常のせいで、不快な音は数馬の耳には全く届いていなかった。 「 起きているんでしょ、お兄ちゃん! もうご飯よ! いい加減起きて! 友之さん、いる!?」 ドンドンとやたら激しくドアを叩き続ける妹の和衛に辟易しながら、昨晩は鍵を掛けて良かったと数馬は心底思った。こんなところを見られたらまた何を言われるか分かったものではない。 「 お兄ちゃん!? お兄ちゃん、聞いてる!? 何で何も言わないのよー!」 「 ……めんどくさいからだよ」 「 か、数馬、もう起きないと…」 友之が心底心配そうに言う。数馬としては慣れっこのこの状況も、友之にしてみれば何か物凄い大事件が起きたように感じるのかもしれない。 もっとも、和衛もいつもならこんなに激しくドアを叩いたりしないが。 「 和衛。いっそのことドアをぶち破るか?」 「 あ、それいいわね、和樹お兄ちゃん」 「 ……ちょっと待て」 どうやら部屋の外には兄の和樹もいるらしい。いや、それだけではない。 「 ぶち破るだなんて、和樹さん、その言い方はよくないわ。それにドアが傷むでしょう。私は窓から侵入するのが良いと思うの」 「 そんな事をしなくても合鍵があるだろう? 大体、部屋に鍵を掛けるなんてあまり感心しないな。数馬はいつもこうなのか」 「 今日だけじゃない」 「 和樹お兄ちゃん、そういえば昂馬さんがまた内線鳴らしてたわよ。早く様子を見に行ってよ!」 「 …何を言いたいか分かるけどな」 一体どういうんだろう。 「 嫌になるね、まったく」 数馬はそれでも友之を解放しないまま、ベッドの上で毒づいた。 香坂ファミリー、勢揃いだ。こんな賑やかな日曜日、いや、こんならしくもない日曜日は本当に初めてなんじゃないだろうか。 「 トモ君、キミのせいだよ?」 「 な、何が…? それより、早く起きないと…っ」 「 う〜ん、どうしようかな〜」 「 か、数馬っ」 友之の焦る声を心地良いものに感じながら、数馬は自然目を瞑った。穏やかな日差しがカーテンの隙間から差し込んできているのが分かる。今日も良い日和になりそうだ。 ああ、そして。 「 こんなに良い天気なら、今日はこの後デートだなあ」 数馬は友之の反応は待たずにそんな事を呟き、ぎゅっと抱きしめる腕に力を込めた。 |
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【おわり】 |