願い事



  橋本真貴が笹の葉と何やら大きなボストンバッグを担いで友之の家にやって来たのは、まだまだ日差しの眩しい昼下がりの事だった。その日はちょうど期末テストの真っ最中で学校も午前中まで。友之も早々に帰宅しており、明日の最大の山場・数学に向けてその対策を始めようというところだった。
「 北川君、こんにちは!」
「 橋本さん…?」
  突然現れた元気過ぎる友人を友之は玄関口で驚きと共に出迎えた。大荷物を抱えているというのに橋本は自宅からここまで走って来たのだろうか、荒く肩で息をしながら額に浮かぶ汗も拭わず、手にしていた物を友之に向かって差し出した。
「 あのね、ごめんねテスト中なのに! でもでもどうしても北川君にこれあげたくて! 今日家帰ったらおばあちゃんがご近所さんに貰ったからって、笹の葉たっくさん居間にぶちまけててっ! それでうちの分は今弟たちが飾りつけしてるんだけど、北川君の家もやったらどうかなって!」
「 ………」
「 えへへ…。そ、それでもし良かったら笹飾り一緒に作ったりできないかな〜なんて思ったりして。あ、このカバンね、色々持ってきたんだ! 飾れそうな小物とか折り紙とか、勿論短冊用の画用紙も!」
「 ………」
  ゼエゼエと息を吐きながらまくしたてるようにそう言った橋本と、そんな彼女が手にしている笹の葉とを友之は黙ったまま交互に見やった。友之とてこれが何を意味するのかくらい知っている。けれど今日が七夕だという事は、橋本がこの笹を突き出してくるまで思い出しもしなかった。
  そうなのだ。今日は七夕。
「 あ…。き、北川君、もしかして迷惑だった…?」
  何も反応を返さない友之に橋本は瞬時「マズイ」という顔になり、声のトーンを落とした。それから急に所在なく身体を揺らし、無意味に笹をぶんぶんと振り回しながら焦ったように口を継ぐ。
「 そ、そうだよね、今テスト期間中だもんねっ。それに明日は数学があるし…! そ、それなのに七夕のお飾りなんか作ってる場合じゃないよねっ。私ってば何ておっちょこちょいなんだろ…! ホント、ごめんね北川君!!」
「 あ…! ち、違…っ」
  橋本の困ったような顔に友之はハッと我に返ると、慌てて首を左右に振った。
「 違うんだ…。あの、ありがと…」
「 え…」
「 七夕ってよく…分からなかったから。ちょっとびっくりしただけなんだ…。あの…」
「 そ、それじゃあ北川君…・。私と一緒に七夕のお祝いしてくれる…?」
「 う、うん…」
「 やったー!!」
「 !!」
「 あ、ごめ…っ。えへへ、でもやった〜!!」
  友之の許可に橋本はアパート中に聞こえるのではないかという程の大声で喜びの声をあげ、思い切り大袈裟に万歳の格好をして見せた。それから改めて重そうにボストンバッグを担ぎ直す。
  それで友之も慌てて橋本に部屋に上がるよう促した。
「 えへへ、えへへへ…。お邪魔しま〜す」
  橋本は妙に不気味な「えへへ」という笑いを繰り返しながら玄関を上がった数歩先、正面の居間へと入り込んだ。部屋は随分と綺麗に片付いている。中央のテーブルには友之がこれからテスト勉強をしようとしていたのだろう、数学の教科書とノートが上がっていた。
「 これ、片付けるね…」
  友之は橋本を追い越して急いでテーブルに戻ると、折角出した勉強道具をまとめて横に退けた。
「 あ…ホントごめんね。勉強してたのに…」
  そういえば友之は数学が苦手なのだ。
  橋本は自分の思いつきで友之のテスト勉強を邪魔してしまった事に今更ながら申し訳ない気持ちでしゅんとなった。
  けれど友之は控え目な笑みを向けると再び首を左右に振った。
「 嬉しい…。あの、俺もこういうのやりたいって思ってたから…」
「 え、七夕のお祝い?」
「 うん」
「 ほ、本当…? で、でへへ、なら良かった…!」
  橋本は友之の小さな笑み1つで物凄く幸せな気持ちになれる自分を自覚していた。友之の笑顔は本当に可愛いし、和む。これから一緒に、しかも2人きりでこんな楽しい事が出来るだなんて、何て自分は幸せ者なのだろうか。
  しかし、橋本のその幸せはあまり長く続かなかった。
  2人して向かい合わせに座ったその5秒後、玄関のチャイムが鳴った。
「 あ、お兄さん?」
  橋本が訊くと友之は立ち上がりながら小首をかしげた。
「 違うと思う…。今日は帰りが遅いって言ってたから…」
「 ふうん。じゃあ新聞の勧誘かな? もしそうなら私がびしっと断ってあげるね!」
「 う、うん。でもたぶん…」
「 ?」
  何故か言い淀んだようになりながら玄関へ向かった友之を橋本は一瞬不思議そうな顔で見送った。しかしともかくは、もし本当にこの来客がセールスか何かの類であるならば、自分もすぐに飛んでいかなければと、橋本はやや身を乗り出して友之が向かったドアの方へ視線をやった。
  しかし、はっきり言ってセールスの方が百倍良かった。
「 こんにちは〜トモ君! 遊びに来てあげたよ〜?」
  ………。
  それは橋本が1番聞きたくない、これでもかという程高慢ちきで偉そうなあの男の声だった。それで橋本の顔は一瞬にしてひきつった。
  しかし、固まっている間もなく第二陣の声。
「 数馬! お前はだから、そういう偉そうな口をきくなよっ!」
  そう、それは自分たちと同じクラスの……。
「 分かってないね、拡クン」
  今度は再び数馬の声。
「 トモ君はボクが遊びに来たら嬉しいに決まってるでしょ。大体、キミなんかとこんな狭い部屋で2人っきりじゃ間がもたないって」
「 こっの…。相変わらず面白い冗談を言ってくれるな…! 俺に言わせれば一方的に好き勝手な事まくしたてるお前なんかと2人っきりの方が―!」
「 あ、あの、2人共…」
  友之の困ったような声が間にぽつぽつと聞こえる。玄関先に現れたその2人組は、何やかやとくだらない言い合いをしているが、どうやら沢海の訪問の名目は「友之のテスト勉強の手伝い」らしい。
  そして数馬の方はそれを「邪魔してやる」というのが目的っぽい。
「 とにかくこんな所で長話も何だから。あがりますよ、お邪魔しまーす!」
「 だから数馬ッ! お前はどうしてそう図々しいんだっ!」
「 あ…あの、拡も、あがって…」
「 あっれ〜!!」
  その時、友之の沢海に掛けた声と、一足先に居間へやってきた数馬の驚きの声とが見事に被った。
「 橋本さんじゃん! 何キミ! キミもいたの!」
「 ……いて悪かったわね」
「 なんだ。ボクてっきり拡クンはトモ君と2人きりの試験勉強を楽しむつもりなのかと思ってた。キミと3人でやる約束だったんだ?」
「 は、橋本!?」
  数馬の声に促されるように急いで部屋にやって来た沢海は、橋本の姿を認めてぎょっとしたような声をあげた。そのあからさまに嫌そうなオーラはどうにかならんのかと橋本は心内で思ったが、嫌なのはお互い様かと一応思い直してみたりもした。
「 あー笹だ笹ー。何してんの、これからテスト勉強じゃないの?」
「 煩いわねえ…。香坂数馬には関係ないよ。これは私と北川君との楽しい七夕祭りなんだから!」
「 七夕祭り?」
  沢海の怪訝な声に一番最後に部屋に戻ってきた友之が頷いて言った。
「 あ、あの…。橋本さんが、貰った笹の葉持って来てくれて…。短冊作ろうって…」
「 えー本当に!? やったボクも作る作る!」
「 何であんたも入るのよ!」
「 いいじゃん、ケチケチしないでよ。あ、これ材料? うわ、画用紙色取りどりだねー。何気に重くなかった?」
「 だからこれは私と北川君が…」
「 おい橋本、お前何考えてんだ? 明日はまだテストがあるんだぞ? 友之の勉強邪魔して…」
「 だーっ! そんなの分かってるわよ! だからこれ作ったらちゃっちゃと帰るから! それならいいでしょ! 何よもう…せっかく北川君と飾りつけ楽しもうと思ったのに…」
  勝手に仲間に入ってうきうきしている数馬、説教じみた発言で自分を責める沢海。
  2人の同学年にすっかりテンションを下げられた橋本は、しかしドア近くにいた友之の表情を見てはたとその仏頂面を仕舞いこんだ。
  北川君、笑ってる……?
「 ねーねー、じゃあさ、ボクまず短冊作るから。橋本さんはその他の飾り作りなよ。トモ君は笹の葉を丁度良い具合に切って。あんまり葉っぱが多いと飾りつける時邪魔だから」
「 だからあんたが仕切るなっての!」
「 拡クンも橋本さんと飾りつけ担当ね。あ、あとボクが作った短冊に穴開けて糸通して」
「 聞いちゃいないよこいつは…」
「 ったく。しょうがないな…」
  しかし沢海もとても勉強などという雰囲気ではないと察したのだろう。肩を竦めるとすぐにテーブルに近づいて行ってその場に座り、割とボリュームのある笹の葉を見やった。その横顔は満更でもないように橋本には思えた。
「 友之?」
  そんな沢海は橋本同様、これから始まる事にわくわくしているような友之に気づいたようだ。一瞬驚いた顔をしつつも、自分もぱっと笑顔になると言った。
「 友之、早く来いよ? テスト勉強はさ、これ作ったらな」
「 うん…っ」
  沢海のその言葉が始まりだった。
  友之はたちまち明るい顔になって笑うと、だっと3人の傍に駆け寄った。


×××


「 えーっと。願い事何にしようかなー」
  折り紙で作った輪っかや星、それに持参してきた人形やビーズで作った動物の形をした飾りなどをうまく笹の葉に巻きつけた後、橋本たち4人は短冊に書く願い事を何にしようかという話で盛り上がった。
「 数馬、あんたは何にするの?」
  橋本がマジックを手にしたまま、空白の短冊をひらひらさせて訊ねた。数馬は色々と悩んでいるらしい3人とは違って一人でさらさらと油性ペンを走らせている。友之が横から覗こうとすると「えっち!」などと言って茶化して見せないのだが、それでも一番に書き上げると満足したような笑みを浮かべた。
「 ちょっと。何を書いたのよって」
「 え〜。橋本さんは?」
「 私はまだ書いてない。何にしようか迷っちゃって」
「 候補は何なのさ」
「 ん〜。とりあえず夏の関東大会ベスト8入りとダイエット5キロ成功とあとは…夏休みデートがしたいってやつ…のどれか」
「 デートって誰と」
「 そ、そんなの誰だっていいでしょっ」
「 トモ君見ながら赤くならないでよ。わざとらしいなあもう。策士だねキミは」
「 うっるさいっ!」
  ダンッとテーブルを叩きながらますます頬の真っ赤になった橋本だが、数馬の方はしれっとしている。
「 大体その願い事庶民過ぎるよ。もっとでっかい夢ないの? 十代のうちにカリスマスーパーモデルになりたいとかさ」
「 ……あんた私の事バカにしてるでしょ」
「 ぜーんぜん」
「 よしっ」
「 ?」
  不毛な会話を続けている間に今度は沢海が書き終えたらしい。一人悦に入ったような顔で短冊を見つめながらペンの蓋を閉めている。
  橋本と数馬は一斉にそんな沢海のことを見やった。
「 ちょっと沢海君。見せてよ見せて。何て書いたの?」
「 ボク当ててあげよーか。『俺の可愛い友之が数馬とか橋本とかの性質悪いのにだまされませんように』とか、そういうのでしょ」
「 バカか」
「 あっ、ひどい。じゃ分かった。どうせキミは橋本さんと思考回路が一緒だろうから、『今年の夏こそ友之と一緒に旅行に行きたい』とか何とか。そういう系でしょ」
「 ちょっとどういう意味よそれ!」
「 橋本さんに言ってないって。拡クンに言ったの」
「 でも今思考回路がどうとか!」
「 はいはいストップ。で? 拡クンのお願い事は?」
「 何でお前なんかに見せないといけないんだよ」
「 拡、何て書いたの…?」
「 えっ」
  その時、ずっと黙っていた友之が不意にそう訊いてきた。
  数馬には毒のある目を向けていた沢海も、友之にそう言われては表情を緩めないわけにいかない。照れたように笑いながら短冊を友之に向けて見せた。
「 願い事ってわけじゃないんだけどさ。とりあえず自己改革の意味も込めて」
「 あ……」
  沢海は短冊に「今よりもっと強い人間になりたい」と書いていた。
  友之がそれをじっと見ていると数馬が皮肉っぽい笑いを浮かべた。
「 織姫さんたちも大変だ。拡クンの決死の誓いを見届ける役目担っちゃった」
「 七夕なんてさ」
  数馬の茶々は無視しようとハナから決めていたのだろう、沢海は淡々として言った。
「 願い事が叶う叶わないとかはどうだっていいんだよ。少なくとも俺は昔からこういうのに期待した事ない。ただ自分はこうありたいって想いを確認できればいいんじゃないか」
  沢海の発言には、橋本もはたとなって頷いた。
「 あ、それは言えるかも。私も願いを叶えて下さいっていうよりは、自分は今こういう事が一番の望みなんだーとか、こういう事叶ったら嬉しいなーとか。そういうの考える事で幸せになるタイプだから。それに、こういうイベントそのものを楽しめればそれでいい」
「 だから似てるっていうの、2人は」
  数馬は同調した沢海たちに依然可笑しそうな目を向けた後、ぽいとマジックを投げ捨ててから壁に背中をつけて足を伸ばした。
「 ま、それはそれでいいけどね」
「 含みのある言い方するわねー。で、あんたは何を書いたのよ?」
「 いっぱい幸せ」
  数馬が言った。
「 は?」
  橋本が再度訊くと、数馬はけらけらと笑って友之に短冊を差し出した。
「 だから。いっぱい幸せ」
「 何それ。意味分かんない」
「 何? こんなに分かりやすい願い事もないじゃない」
「 ……香坂数馬と喋ってると頭の中が混乱するのは何故?」
  橋本が憮然として言ったが、数馬はもう答えなかった。だらけた姿勢のまま友之を見やり、やがてゆっくりと口を開く。
「 で。トモ君の願い事は何なのかな?」
「 あ……」
「 あ、そうそう! 北川君は何書いたのか知りたい〜!」
「 俺も。友之、何書いたんだ?」
「 あの……」
  友之は急に3人に視線を向けられ、思い切り途惑ったようになって下を向いてしまった。
  ぎゅっと握られたマジックのすぐ下、青色の短冊に小さく几帳面な字が並んでいるのが見える。
  橋本はにゅっと首を伸ばしてそれを覗き込んだ。
  と、そこには。
「 ご、ごめんっ」
  橋本がそれに反応を示す前に友之が謝った。焦った風に両手でそれを隠し、それから助けを求めるように数馬を見やる。数馬はワケが分からないというように首をかしげて口元だけで笑っていたが、やがて身体を浮かすとテーブルに近づきその短冊に視線をやった。続いて沢海も。
「「「あー……」」」
  3人は同時に声を漏らした。
  ぱっと見えた願い事。

  明日の数学のテスト、赤点取りませんように。

「 北川君、別にさ…」
「 あの、知らなかったんだ…!」
  橋本が言葉を継ごうとするのを制して友之は更に言った。かき混ぜるようにしてテーブルの上にある数枚の短冊を重ねあわせる。
  その下には、そして更にまたその下には、別の願い事が書かれた短冊が。

  今度の試合には出られますように。
  風邪を引きませんように。
  修兄が早く帰ってきますように。
 
「 欲張り」
「 だ、だって、何枚でも書いていいって思ったから…っ」
  数馬のわざと出された責めの言葉に友之は必死になって言い返した。
  そう、友之は既に何枚もの短冊に願い事を書いていたのだった。別にいけない事ではない。しかし、どうやらたったの1つしか願いを書いていないような3人に、友之はふと思ってしまったらしい。
  こういうものは1人1枚と決まっているのかと。
  意地悪を言った数馬をを軽くはたきながら沢海が苦笑した。
「 友之、別にいいんだよ。何枚だって書けよ? 願いがいっぱいあるって良い事だよ?」
「 え。でも…」
「 あーそうそう! 私もいっぱい書く! さっきはね、何を一番に書こうかなって悩んでただけだよ! 私もいっぱい書くから北川君もいっぱい書こうよ?」
「 まったく。お2人の友之へのフォローはホント笑える」
「「 煩い数馬!!」」
「 同時に怒鳴らないでよー」
  大袈裟に両耳を塞ぐ数馬と、そんな数馬にきっとした目を向ける沢海と橋本。
「 ………」
  そんな3人をぽかんと眺めていた友之は、しかしやがてやんわりと笑んだ。
  今宵はきっと澄み切った星空が見られるだろう。夜が来るのを待ち遠しく思いながら、友之は再びマジックを握ると目の前のまっさらな短冊に向き直った。そして思った。
  光一郎が帰ってきたら彼にもたくさんの願い事を書いてもらおう、と。



【おわり】