通せんぼ3



  最近は晴翔の「悲鳴」が寮の部屋から聞こえてくることが多くなった。
  そうなると隣室の級友は勿論、その話を聞きつけた他の友人たちも、晴翔はどうしたのかと心配する。そして声をかけてくる。「何か晴翔、部屋で変な声出しているそうだけど、どうしたんだ、それも尋常じゃない声だって言うぞ、具合でも悪いのか?」…等々と。
「べっ、別に何でもない」
  しかしそう答える晴翔の顔色は明らかに悪かった。その上、心なしかげっそりしていて、目の下にも薄っすらとクマが見える。寮の食堂でそんな晴翔の元気ない姿を認めた寮生たちは、互いに顔を見合わせながら、「それで何でもないってことはないだろ?」と口を揃えた。
「お前その顔、自分で見てないの? 目の下のクマ! かなりスゴイぞ」
「そうそう、ちゃんと寝られてないんじゃないか?」
「そう言えば晴翔って、朝いっつも早くどこか行くよな? 何だっけ? どっか写真撮りに行っているんだっけ?」
「写真? そうなの? あれ、うちの学校に写真部なんてあったっけ?」
  それぞれが勝手気ままに次々と口を出すのを、晴翔は目の前のトマトジュースを眺めながらぼんやりと耳に入れていた。頭の中ではすでに「何でもない、本当に何でもないから気にしないでくれ」とか、「うちの学校に写真部はない、だから俺は帰宅部だ」と言った返答が出来上がっているのだが、何せ口を動かすのも億劫で、折角買った栄養剤代わりのジュースも飲めないほどなのだ。だから結局はぼーっとしたまま、無言状態となってしまう。
「お、滉将」
  その時、寮生の一人がその名を呼んで、他の人間も一斉に視線を同じくしたのが分かり、晴翔はあからさま肩をいからせて硬直した。幸い、そんな晴翔の様子に気づいた者は、その場には滉将しかいなかったのだけれど。
「何してんの、お前ら」
「いや晴翔が具合悪そうだからさ。ほら見ろよ、このクマ! 滉将は同じ部屋なんだから知っているだろ。何でこいつはあんな変な声あげてんのよ、しょっちゅう」
「変な声? ――あぁ」
  滉将が何かを思案する仕草を少しだけ見せた。晴翔がぎくっとして咄嗟に顔を上げると、滉将はそんな相手の様子には一瞥もくれずにさらっと伝える。
「ハル、今、変な動画にハマってんだよ。部屋真っ暗にして何か怖そうなもん、いつまでも観てる。俺は興味ないから知らねぇけど」
「はあぁ? 何だよそれー!」
「くだらねえ、ホラー動画かよ。あぁそれであの声か、納得だわ」
「お前なぁ、人騒がせなもん、観てんなよ。小学生か!」
  級友たちは心配する様子から一転、たちまち晴翔を責めるような口調となり、同時に、実に楽し気な様子で晴翔をこづき出した。晴翔はそれに成されるがままだ。ごまかしてもらって良かったような、限りなく腹が立つような、そんな気持ちだ。
  何せ、その「悲鳴」の原因はこの目の前の相手、藤村滉将なのだから。全ては滉将が悪いのに。
  しかし非力な晴翔には如何ともし難いところがある。眠っている時なら尚さらだ。
  晴翔はこのところ、毎朝のように滉将からキスされる。

「まっ…た、お前は! やめ、やめろってぇー!」

  何故起き抜けからこんなに声を上げなくてはならないのか。
  晴翔はガバリと上体を起こしながら腕をめちゃくちゃに振り、相手が離れたのを見計らってからようやく、無体された唇をごしごしと拭った。
「お、お前…だからこういうの…! ありえないだろ!」
「俺の中ではありえる」
  滉将はしれっとして答える。しかもベッドから這い出てきた晴翔にまた近づくと、悪びれもせず腰を引き寄せて顔を近づけて来るのだ。
「こっ、だからっ、何すんだよ、滉将ッ!」
「何って、おはようの挨拶」
  滉将はまた平然とそう返し、全力で嫌がる晴翔のこめかみや頬にキスをした。滉将の方が背も高くて体格も良い、必然的に力も上なので、晴翔は払いのけることができない。強く引き寄せられるとそれだけで妙な迫力もあり、あまり乱暴に押しのけられないというのもある。元々晴翔は力業で人と対したことが一度たりともない、平和主義者なのだ。
「ハル、好きだよ」
  それを見越しているのか、完全に舐め切っているのか。今日も滉将はそんなことを言って晴翔を抱きしめ、問答無用のキスをするのだ。中でも朝が特に酷い。晴翔が寝入っているのを良いことに、滉将はしょっちゅう許可のない口づけをしかける。晴翔自身、その感触で毎朝目覚めるというわけで、お陰で遅刻しないで済んでいる…などと思ってしまう時点でもう「負けている」のだが、ともかく、滉将の「一度フラれたくらいでは諦められない」というあの日の台詞以降、毎日のように迫られている。
  だから晴翔は寝不足なのだ。その割、朝方ついウトウトして、それによりまた「起き抜けのキス」をされるわけだから、滉将から言わせれば晴翔は「ただのバカ」ということになるのだけれど。
  それでもそのことに一応抵抗し、一応怒鳴り、一応払いのけようとしてドタバタと音を出しているため、隣の寮生にも「何事か」と知れ渡るという次第だ。これまでは全くしなかった滉将との口論も、最近ではとてつもなく増えている。
  食堂で級友らと別れ、部屋にトボトボと帰る晴翔の後をついてきた滉将は、そうやってしょぼくれる片想いの相手に何故か優勢な態度で「元気出せよ」などと宣った。
  晴翔はそんな横暴男にキッと振り返り、精一杯睨んで見せた。
「よくもそんな平気な顔でそんなこと言えるよなっ。お前には良心ってものがないのか!?」
「両親ならいる、すげーうぜえのが。だからこの寮に入ったんだし」
「そんっ、そんっな、くだんねぇギャグ要らないんだよっ! 今! ボケんなッ! この非常時に!」
「何が非常時?」
  またしてもさらりと返しながら滉将は自分の椅子に腰かけた。勉強机にはカバンが無造作に置かれているから、先ほど帰宅したのかもしれない。今日は珍しく門限を少し過ぎていた。ずっと帰って来なければ良かったのになどと、晴翔の頭の中では激しい罵倒が渦巻く。因みに、そうした発言はあくまでも脳内でだけだ。滉将を怒らせるのは怖い。
「とにかく、もう明日こそ俺に変なことして起こしてくるの、やめろよな。皆だって怪しんでただろ、この顔。本当、どうしてくれんだよ、こんな寝不足で…クマも酷くて」
「お前がそういう不細工な顔してくれていた方が俺は助かる。もう花村以上のライバルは要らないし」
「はっ?」
「お前って可愛がられキャラだからさ。ちょっと目を離すともうあんな風に男共に囲まれて、ホント疲れる。お前の方こそ俺を気遣って欲しいわ。お前をこんな狂暴な男の園ン中で守るのも大概骨が折れるんだぜ。俺は大変なの」
「わ、訳の分からんこと言うなよなっ。俺にとってこの部屋以上に危険な場所はない!」
  一生懸命怒っているのだが、どうしても顔が火照ってしまう。晴翔にもその自覚はあった。
  あの時から、滉将は自分の気持ちを隠すことをすっぱりとやめた。やめてしまったとも言える。全く憶する風もなく「ハルのことが好き」「ハル、愛してる」等と繰り返し、「他の奴と仲良くされると妬ける」だの「可愛いお前は誰にでもフェロモン撒き散らすから心配」だのと歯の浮くような台詞まで発するようになった。この寮内で滉将と同じ系統の、ましてや自分を狙うような物好きがいるとは晴翔には全く想像もできず、そんなことは滉将の妄想としか思えないのだが、とにかくそう言われること自体、いちいち恥ずかしいと思う。
  第一、問題は滉将が晴翔に触れてこようとすることなのだから、問題をすり替えないで欲しい。
  しかしそれをうまく言うことができない。滉将には力でも勝てないが、口でも勝てた試しがない。
「……もういい。俺、宿題やらないと」
  ため息をつきながら晴翔がぐったりとした様子で隣の勉強机につこうとすると、滉将は当然のようにそれを片手で制した。
「見せてやるよ、明日写せばいい。今日は早く寝れば?」
  俺がこれからここでやるから、お前は風呂入って寝ろと言う滉将に、晴翔は多少たじろぎながらじとりとねめつけた。
「何を企んでいるんだ…?」
「宿題見せてやるのは普通だろうが。確かに寝不足で人間不信に拍車がかかっているな。寝ろ。明日の朝は何もしねーよ」
「ホントか…?」
「ホントホント。俺は今日忙しい」
「……何で? そういや、今日はどこへ行っていたんだ?」
「予備校だよ。一昨日入会した。だからこの帰宅時間、学校の許可ありでやっていることで、門限破りじゃない」
  意外な返答に晴翔は半目になっていた目をぱちりと開き、何度か瞬きした。
「そうなのか? 何でまた急に…。頭のいいお前に、塾なんて必要ないじゃん」
「親の命令。仕方ねえよな、養われている以上、そういうところは逆らえない。勝手にこの高校入ったんだから、在学中はせめて全国模試上位に入っとけって」
「ふ、ふうん…」
  あっさりと言っているが、学校でのトップどころか、全国上位とは相当な難題ではないか。滉将が両親と折り合いが悪いことは晴翔も前から聞かされていたので、そんな無茶な要求を当たり前のようにしてくる親と対している滉将を気の毒に思い、心配にもなった。これまで愚痴やら嘆きやらを聞かされたことはないが、滉将にもいろいろあるのかもしれない。
  何を言って良いか分からずその場に突っ立っていると、そんな晴翔に滉将が口を切った。
「春休みになったら講習にも行かなきゃならねーし、もう大会引率はできないな。安心したか? これで心おきなく花村と会える」
「なっ…別に! 滉将がいようがいまいが、俺が先輩と会うことに変わりはないし!」
  急いでそう言ったが、実際にそう言われて「そうなのか!」と少し嬉しく思ったのも事実だ。
  何せ最近は、憧れの花村をカメラに収める恒例行事に、いつでも滉将が一緒にいて、花村と2人きりの会話は全くといって良いほどできていなかったから。花村自身、放課後の練習や大会時だけでなく、朝練にまで晴翔にくっついてくる、しかし自分は写真を撮るでもない滉将のことは不思議に思ったようで、「藤村は本当に野球が好きなんだな」という完全なる「勘違い」をしている。その誤解自体は、晴翔にとってありがたいものではあったけれど。
「花村のやつ、あれだけ投げられているのに声がかかんないのは、やっぱ監督が照準を夏に当てているからか」
「え?」
  その時、数学のノートを出しながらおもむろにそんなことを言い出した滉将に、晴翔ははたとなってから首をかしげた。
「何? 照準って?」
「もう大会始まってんのに、あいつはずっと調整だけ命じられているだろ。投げ込みもたったの30球って徹底的に制限されてる。けど最近は、その投球練習にも1軍のマネージャーがついてビデオ撮るようになっているし、この間もコーチがあいつの投球練習全部観て行っただろ」
「そ、そういえば…そうだ。この1年は殆ど、俺くらいしか花村先輩の練習観ていなかったのに」
「バカ、お前だけのわけあるかよ。ちゃんと2軍のコーチやOBは顔出ししていただろうが」
「え、そうなの!?」
  真剣に驚く晴翔に、滉将はちらりと軽蔑の眼差しを向けた。
「お前はホントに花村のことしか見てねーな。こんな短期間でも、あいつの練習無理やり見ていたら俺でも分かるわ。あいつは近々復帰する。そしたらまた注目を浴びる。そういう選手だろ」
「……何で滉将にそんなことが分かるんだよ」
「素人でも分かるだろうが、あんな凄ェ球、間近で観ていたら」
「そっ、そうなんだよ! そうだろ、やっぱり! 先輩はスゴイんだよ!」
  自分が分かっていないことを指摘されたのはちょっと悔しく癪にも障ったが、一方で滉将に憧れの先輩を誉めてもらえたことは素直に嬉しくて、晴翔はたちまち目を輝かせた。そのことに滉将がぴくりと眉を動かしたことにも気づかず、浮かれる。
「やっぱり滉将もそう思ったか! 俺もそれはずっと思っていて、でもちょっと怪我したくらいでいきなり2軍に落とされて、その後全然、誰も先輩のこと気にかけていないみたいなのが俺は不思議でしょーがなかったんだよ。怪我くらい、先輩ならきっとすぐ克服するだろうと思ったしさっ。現に、先輩は黙々と地道な努力重ねて、投げられない間も筋力トレーニングは毎日欠かさないでやって、本当あれって誰にでもできることじゃないし。キャッチボールできるようになった時は感動したよな、またそのキャッチボールのフォームだけでもスゴイ、カッコイイし! そうかぁ…でも先輩、そうなのか。俺、よく分かっていなかったけど、やっぱり良くなってたんだ。そりゃそうだよな、ここ半年はずっとキャッチャー座らせて投球練習してたんだし」
「一応キャッチャーは見えていたのか」
「当たり前だろ。お前は俺を何だと思ってんだよ」
「花村しか見えてないバカ」
「むっ!」
「俺がこんな好き好き言ってんのに、その俺の前で好きな男の話ベラベラ話す無神経男」
「だっ…! けど今のは、お前が先に話振ったんだろーが!」
「あーはいはい、そうでした。俺が悪いんでした、さっさと風呂行けバカ」
「……っ! 何だよ、何なんだよ!」
  途端に機嫌が急降下する滉将に晴翔はダンダンと地団駄を踏んで不平を零した。しかし滉将はもう知らぬフリだ。滉将にはこういう気分屋なところが往々にしてあると晴翔は思う。晴翔が指摘した通り、今、花村の話を先に切り出したのは滉将の方である。花村を誉めたのも滉将が先だ。それなのに、それが嬉しくてはしゃいだ晴翔に、あっという間に刺々しい態度を向ける。晴翔はぷんすかと頬を膨らませた。
  それでも一度無視が始まると滉将は頑なでもある。「宿題を写させてもらう」という命題もある以上、滉将には机に向かい、作業してもらう必要がある。これ以上の刺激は不要と、晴翔はわざと足音を荒げはしたものの、後は言う通り、室内のバスルームへと向かった。私立の名門高校なだけに、寮内には大浴場とは別に、こうして室内にも小さいながらユニットバスがついている。晴翔は大浴場よりもこちらを使うことが多い。以前、滉将たちと一緒に大浴場へ行った時、大切なところを小さいだ何だとからかわれて、それが若干のトラウマとなった。今にして思えば、あれは一歩間違えればいじめではないかと思うし、今さらそれを蒸し返すつもりもないが、「カメラヲタク」という名称と言い、「ホモ」と言い、滉将は人が傷つくことを結構平気で言うところがある。よくよく突っ込んでいくと、意図的にやっているというより、「そんなことで傷つくと思わなかった」という、「それは人として余計まずいパターン」と分かるのだけれど、要は、無神経なのは滉将の方なのだ。
(花村先輩なら、絶対あんな酷いことは言わない…)
  服を脱ぎ、シャワーを捻って丁度良い熱量の湯を頭から浴びながら、晴翔は無意識のうちにそんなことを思った。
  そうだ、花村ならば絶対に晴翔が傷つくことは言わないだろう。いつも優しいし、発する言葉がいちいち温かい。あんなにも大勢にちやほやされてきたスター選手だ、多少なり驕り高ぶってもおかしくはないのに、そんなところが微塵もない。選手というだけでなく、人間として尊敬できるところが沢山あるのだ。あまり絶賛すると花村はいつも照れて「そこまで誉め殺しされたら何か奢んなきゃなぁ」などとはぐらかすのだが、そんな風に笑ってかわす時の顔も素敵だと思う。
  花村はカッコイイ。滉将とは違って。
「おい、ハル。ハルって」
  その時、どんどんと扉を叩く音が聞こえて、晴翔はハッとした。どうやら大分前から呼ばれていたようだが、花村の姿を思い浮かべていたのとシャワーの出る音とで全く聞こえていなかった。
「何だよ」
  お湯を止めて耳をすませると、滉将が「やばい、漏れる。トイレ」などと言うから呆れ果てた。
「はぁ? ちょっとくらい我慢しろよ! 俺! 今! 泡まみれだから! 今すぐ出るのは無理! つか、誰かの部屋行って借りてくればいいだろ!」
「俺が潔癖なの知っているだろうが。他の部屋のトイレなんて無理。今ちょっと開けろ、すぐ済ますから」
「もう〜、何だよ!」
  お前が潔癖だなんて知らないぞと晴翔は思ったが、珍しく滉将が急いたような声を出していたせいか、あまり強く抵抗しようという気が起きなかった。
  そういうところが「ハルはバカ」と言われる所以なのだろうが。
「ホント迷惑な―…」
  腰にタオルだけを巻き、ぶつくさ言いながら鍵を開けてドアを開くと、瞬間、凄い勢いでその扉は開かれ、そのままぐいと押されて奥の壁へと押しやられた。あまりのことに晴翔は目を見開いたが、声を出す間もなくそうされて、しかもすかさず唇も塞がれてしまった為にどうしようもできない。
「んっ!」
  唇を潰されるような痛い口づけで、晴翔は混乱した。最近は滉将の口づけに慣れていて、あぁまたされてしまったとかそういう、いっそ軽い感覚があったのだけれど、何だかこれは違うと思う。怖くて目が開けられない。
「ふっ、んっ…ん!」
  そうこうしている間も滉将からのキスは続いて、角度を変えながら舐られ、舌をねじこまれて自分のものも絡め取られてしまう。唾液が混じりあう妙な感覚に晴翔はカッと頭に血を上らせた。
「滉…っ」
  それでも呼ぼうとする度に口を塞がれるのだから堪らない。肩口をぐっと掴んで抗議の意を示したがまるで効果がない。それどころか滉将が晴翔の両足の間に自らの片足をぐっと割り込ませてきて、晴翔のものをわざと刺激してきたからびくついた。
「あっ!」
  しかもその拍子、巻いていたバスタオルがはらりと床に落ちてしまったものだから一気に焦った。キスをされながらも晴翔は必死に顔を背け、今度ははっきりと滉将を怒鳴った。
「何す…滉将、やめろよッ!」
「そもそも無防備にドアを開ける方が浅はかだと思わない?」
「トイレって嘘なのか!」
「ああ嘘だね。バカ、すっかり騙されて」
「酷いだろ! 俺はお前を信じ――ッ」
  抗議が終わる前にまた口を封じられ、晴翔は目を白黒させた。
  それでも少し、心のどこかで安心もした。目を開けた時にちらりと見えた、滉将の瞳には怒りがないことが分かったから。滉将は怒っていない。それこそ、晴翔の一番の恐怖はそれだった。あの、一応「ノーカン」にされた、しかし決して晴翔の中ではノーカンなんかではない初めてのキスをされた時、滉将の瞳には間違いなく、恐ろしいほどの怒りの火が灯っていた。あんなに怖い友人の顔は初めてで、晴翔はそのことにとても絶望したのだ。憎まれているのかとすら思った。これまで曲りなりにも晴翔は滉将とうまくやれていると思っていたし、寮内ではルームメイト同士の相性がどうしても悪くて部屋替えをしたり、或いは寮を出て行った級友とて、少なからずいたから。
  自分と滉将は仲良くできて良かったなどと、呑気にも思っていたのだ。
  だから花村のこととて、時には「ノロケ」かもしれないと自覚しながら、嬉しいことがあればすぐに報告していたし、滉将が時に迷惑そうな顔をしても構わず喋り倒したりして、晴翔は我がままを通していた。それが許される仲だと安心していたから。
  それなのに、あの時の滉将は本当に怖い顔で、意地悪で、問答無用のキスまでした。
  あれが繰り返されるのが晴翔は一番怖い。だから、そんな滉将が、それが本性だと言うのなら最初から見せてもらいたかったし、そうだとしたらもう自分は耐えられないだろうから部屋を代わるか、寮を出なければと思った。だからこそ、思い切って滉将にも自分のことが好きなのだろうと鎌もかけた。できることならば、これまで通りの友人関係でいたいという希望も残しながら。
  そうしたら、幸か不幸か、「それ」は分からない微妙なラインで保たれることになった。滉将は晴翔を好きなことを隠さない代わりに、あの時初めて見せた陰鬱な様子も一切見せることがなくなった。自分を隠さず出せたことでそうなる必要がなくなったのなら、それは良かったと晴翔は思った。迫られるのは困るけれど、「あれ」が滉将の本性でないのなら、と。
  けれどこんな風に力づくで迫られると、あの時の恐怖が蘇る。
  ただ、今の滉将の瞳の色は、あの時とは違って怒りのそれではない。
  だから、これなら、まだ言い返せる。
「滉将! 離れろって!」
  ばしばしと背中を叩くがびくともしない。滉将はにやりと笑いながら、そんな意味のない反乱を見せる晴翔を笑った。
「嫌だね」
「嫌はこっちだっての! 何なんだよ、急に!」
「急に、ってことはない。毎晩、お前がシャワー浴びる音聞きながら、いつ襲ってやろうかと考えてた」
「何っ」
「そりゃそうだろ? 俺はお前を好きだと言っているんだから。まぁ大浴場行かれちゃ堪らんし、あんな所へはもう絶対に行かせねぇけど。だから、ここが恐怖の場所になっちゃ困るし、我慢していたところもあるんだけど」
「だったら今だって我慢しろよ!」
「ハルが悪い。ハルが花村のことを考えているから」
「はっ!?」
「今、考えてたろ? 花村のこと考えながらシャワー浴びていただろ。俺より断然、花村がカッコイイとか何とか比べながらよ」
「……エスパー?」
  びっくりして晴翔が大きく目を見開くと、滉将は、目は笑っていながらも、一方で口元は複雑な心境を表すかのように口の端をひくつかせた。
  そうしてもう一度、晴翔の唇に深いキスを仕掛けて、同時に全裸となっている晴翔の息子を容赦なく掴み上げた。
「ひあぁっ、やめっ、あうっ…う、うぅ…マジ…やめろって…」
「安心しろ。変な声出したところで、ロクでもねえ動画見ていると思われている。今日は前フリもばっちりだな」
「ひっ…そ、その為の…あっ、あの、嘘だったのか…?」
「いや、偶々だけど」
  いちいちそこまで考えてられねえよと呟きながら、滉将はもう何度目かも分からない口づけをした後、それを首筋から鎖骨、胸にまで落として行って、壁に張り付いたまま動けない晴翔の乳首に噛みついた。
「ひっ…や、やっ…滉、将…」
  ちゅくりと卑猥な音が聞こえて、晴翔は正視に堪えられず、目を瞑った。逃げなくてはと思うのだが、滉将の片手に息子を握られている。人質を取られているようなもので、身動きが取れない。第一、そうしたらまたおかしな声が出てしまいそうで、それも怖かった。
「うっ、んんっ。ひんぅっ!」
  それで本来ならば滉将の頭なりどこなりを叩くのに使えば良い両手を口元へもっていって、晴翔は声を出すのを必死に堪えた。滉将の手は容赦なく晴翔のモノを扱き始めて、もう晴翔にはどうにもできない。胸も片方の粒だけを執拗に舐められ齧られてひりひりするし、おかしな感じがする。
  膝に力が入らなくて崩おれそうになると、滉将がまた上体を伸ばして身体ごと晴翔を支えてきた。そうして再度壁に押し当て、晴翔の手も押しのけキスをする。何てキスの好きな男なのだろうと思う。もうファーストキスも何もあったものではない。
「やぁっ、あ、あっ、滉将っ…」
「うん…。ハル、可愛い」
「可愛…ないっ…」
「可愛いよ。好きだ、ハル。俺のものになれよ」
「やだっ…。おま、好きっ…て、言えば…、何して…許されると…ひあぁっ」
「……思ってねえよ。嫌われても訴えられても仕方ないって思いながらやってる。毎日」
「な…あ、はっ、はぁっ、あ、あんっ…」
  言葉が続かず息を吐くと、滉将がそれすら許さないという風にまた晴翔の口を塞いだ。晴翔は互いの唇が擦れ合うことに眉をひそめたが、もうどうしようもできなかった。ただ今は下半身に集中する熱に翻弄され、むしろ滉将の手の動きを助長するかのように自らも腰を振ってしまった。ただ早く絶頂を迎えたくて。
「ハル…顔赤くなってる…やっぱり最高に可愛い、お前…」
  滉将の声も熱を帯びていた。それによって晴翔の温度もまた上がった。必死に声を堪えているのに、キスの為に手を払われてから勝手におかしな喘ぎ声が口から次々漏れてしまう。抑えていられない。
「もっ、やっ…あぁ―…ッ!」
  晴翔は滉将の手淫だけでいとも容易く射精してしまった。同級生の、しかも同じ男にイかされる経験など、当たり前だが初めてだ。それでも快感が全身を駆け巡った末の行為であることも間違いがなかった。生理現象というよりは、「気持ちが良い」と感じたからこその絶頂だった。滉将の手は激しくも優しく、キスも熱烈で、だからこそ晴翔の身体もそれに乗じて興奮した。してしまったのだ。
「はぁっ…」
  ただ、滉将の精液にまみれた手を見たら、さすがに涙が滲んだ。情けない。滉将を払いきれずにこんな風になってしまった自分を晴翔は恥ずかしいと思った。
「ハルは悪くない」
  するとまた優しいキスが降ってきて、晴翔は目を開いた。やはり滉将はエスパーか。それでも驚きより情けなさが先に立ち、晴翔がうるうると滲んだ瞳を向けると、滉将がくしゃりと相貌を歪めた。
「泣くなよ」
  そう言う滉将はまた晴翔の瞼に鼻に、そして唇にキスをした。それがいけないんだろうと言いたかったが言えない。大人しく次々とキスさせてしまい、晴翔はそれを「身体が動けないせいだ」と自らに言い聞かせながら、顔を寄せたままの滉将を至近距離でじっと見つめた。
  するとそれに応えるように滉将もまた熱い視線を寄越し、おもむろに晴翔の濡れた唇を指の腹で拭った。
「嫌だったか?」
「あた…当たり前…」
「俺に触られたのが嫌だった? それとも、こんな場所でイかされたのが嫌?」
「どっちも…っ」
  言いかけて晴翔はしかし口を閉ざした。それは確かにどちらも嫌だったのだけれど、突然のこととは言え、もうちょっと抵抗できたのではないか、逃げようと思えば逃げられたのではなかったかと自らを追い詰める問いが浮かんだ。本当は滉将が全部悪いはずなのに。
「じゃあ今度はハルがしてもらえて良かったと思えるくらい、もっと気持ち良くさせる」
  そうこうしているうちに滉将がそんなことを言った。反省していないのかと軽く目を見開くと、滉将は晴翔の剥き出しの胸の粒を指先でぴんと弾いた。晴翔は「ひっ!」と悲鳴を上げた後、慌ててそこを両手で覆い隠し、初めて滉将にまともな抗議をした。やっとできた。
「何すんだよ、このエロ! エロ男! 変態!」
「だってあんまり可愛いから」
「お前のせいでっ、俺は、お前のせいで、こんなっ!」
「俺もお前のせいでこんなんなってんだけど」
「ぎゃ!? 変態っ! もうやだ、もう俺、お前本当にやだぁっ!」
  どんと押して、晴翔は全裸のままバスルームから飛び出した。カチコチになっていたはずの身体はこれだけ動けたのかと驚いた程だ。しかしこうして咄嗟に飛び出せなければ、きっとこの後はもっと恐ろしいことが起きるに違いない、それが分かった。
  何せズボン越しにも滉将の狂器が明らかな欲望を主張しているのがはっきりと見えたのだから。
  急いで飛び出て、一度は部屋の奥まで逃げた晴翔は、それでハッとすると慌てて踵を返し、バスルームのドアをバタンと閉めた。閉じ込められた形になった滉将は当然、批難の声をあげたのだが、思ったよりそれは大きくない。代わりに晴翔が大声で言った。
「おまっ、今絶対出てくるなよ!? ソレちゃんと処理してから出て来いっ。今出て来るな、絶対っ」
「大丈夫だって、もうしねーよ、今日は」
「今日は!? と、とにかく駄目だ、第一そんなの、信用できないっ」
  別に滉将がドアを押し返してくる様子もないのに、晴翔は必死になって身体ごと扉を押さえ、ぎゅうとそこに力を込めた。裸でこんなことをしている様はとても異様だ。しかし今はそれが必要だと感じた。
  すると扉の向こうの滉将も実はそう思っていたらしく。
「まぁ…あんな可愛い尻向けられて逃げ出されたら、俺だって大丈夫と言いつつ絶対の保証はできない」
「はっ!?」
  その不穏過ぎる呟きに晴翔がガバリと顔を上げると、滉将は扉一枚隔てた向こう側で僅かに笑ったようだった。自分自身を。
「だからいいや。今はそうやってドア押さえておいて」
「こ、滉…」
「むしろ絶対開けるな?」
「そ……」
  それは、勿論。
  そう言いかけたものの、晴翔は殆ど絶句して声を出すことができなかった。扉の向こう側はしんとして静かだ。滉将はドアの近くから離れたのか、気配がしない。少しの音でも聴き取ろうと晴翔はドアに耳をつけたけれど、何も聞こえてこなかった。
  晴翔はドアを押さえながら暫しその場に固まった。改めて自分の格好を見る。やっぱり情けない。そして、先刻まで慰められてしまった己の、今はすっかりしょぼくれた息子を見下ろしてカッと頭に血が上る。
「ばかっ…」
  だからそうして悪態をつくと、ドアの向こうで滉将がまた苦く笑う音が聞こえた。
「ばかばかっ、滉将のばか野郎!」
  それで今度は連続で「ばか」を連呼すると、当の罵倒した相手はまたしても平然と、「ハルのその声、可愛い」と実に甘い声で返してきた。




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