人魚姫



  昔むかし、ある海辺の町に、世界でも有数のお金持ちである財閥の息子が住んでいました。彼は財力だけでなく、美しい容姿、体躯も兼ね備えていた為、町中の娘たちにとって憧れの的であり、誰もが彼とお近づきになり、あわよくば結婚したいと願っていました。
  ところで、そんな完璧な美青年に興味津々だったのは、何も人間の娘たちだけではありません。海の底に住む人魚にとっても、それはまた同様だったのです。
「魔法使いのお婆さん、僕を人間の姿にして下さい。あのおとぎ話に出て来る王子様のような人と、僕はお友だちになりたいのです」
  海底の一軒屋に潜み棲む魔法使いの老婆にそうお願いしてきたのは、人魚族の末っ子であるリンでした。彼はいつも好奇心いっぱいで、地上にもしょっちゅうこっそり遊びに行くので、青年のことも何度か見たことがあり、自分も直接話してみたいと思うようになったのです。
  しかし、人魚である限り、それは叶いません。人魚は人に姿を見せてはいけない生き物なのですから。
「ふ〜、やれやれ。お前もかい」
  しかしリンの願いを聞いた魔法使いは疲れたようなため息をつき、首を振りました。
「まったく嫌になるねぇ、人間の何がいいのやら…。人魚一族は本当に奇特な奴らが多いよ、この間からお前の姉さん達もひっきりなしに来ちゃ、ほざいているよ、自分を人間にしてくれ≠チてねぇ。――だが、お生憎様だ。あたしにゃ、あんた達のそんなくだらない願い事に応えている暇はないんだ」
「えっ、皆もお願いに来ていたのですか、知らなかったです。お姉さん達もあの人とお友だちになりたいと思っていたのですね」
  リンが目を見開きそう言うと、魔法使いは心底呆れたような顔をします。
「リン、お前は相変わらずとぼけた子だね。男のお前と違って、姉さん達は女だよ? 友だち≠セなんて、そんな生温い気持ちで頼んでいるわけがないだろう?」
「えっ、ではどのような気持ちなのですか?」
  訳が分からず首をかしげるリンに、魔法使いは手元の薬壺をかき混ぜながら言いました。
「決まっているだろう、玉の輿だよ」
「タマノコシ?」
「そうさ。こんな海洋汚染の進んだ海にいつまで住んでいてもリスクが高いしねぇ。地上でのハッピーライフ、一発逆転を夢見ているんだろうさ。あ〜、ヤダヤダ。昔の人魚にはもっと人魚としてのプライドってやつがあったものを、お前の姉さん達ときたら」
「……よく分からないですけど、お姉さん達の悪口を言うのはやめて下さい。お姉さん達は、僕にはいつもとても親切で優しい人達なのですから」
「ふん、なら教えてやるがね。お前が友だちになりたいって願っているあの青年は、お前の姉さん達に何度となく殺されかけているんだよ?」
「ええっ…!? そ、そんな、まさか!」
  驚愕するリンに、魔法使いは白けた顔を向け、淡々と続けます。
「嘘だと思うなら、あたしがこっそり仕掛けた海底カメラで事実検証でも何でもさせてやるよ。あの娘らと来たら、あの青年が海へ出る度に海洋事故と見せかけて海に引きずりこもうとするんだからねぇ。全く、末恐ろしいわ」
「嘘です! お姉さん達がそんなことするわけ…! だ、大体、何故そんなことを!?」
「勿論、大事なカモを本気で殺すわきゃ〜ない。わざと溺れさせて、その後で自分達が命の恩人ですってな体で救出するシナリオさぁ。知り合うきっかけがそれだったらインパクトも大きいしね。昔、あたしがヘンリエッタって娘を人間にしてやったことがあるが、その時のエピソードをパクッているらしいわ」
「……そんな。お姉さん達が、あの人にそんなことをしているなんて信じられない……」
  リンはあまりの話に絶句してしまいました。また、魔法使いの話では、確かに人魚を人間にする薬はあるけれど、それを飲んでしまうと歩くたび足に激痛が走ること、さらには、声まで失うリスクも負うと聞かされました。
  そして最も恐ろしいことに、人間となった暁にはその理由となった青年から「愛され、求婚される」ことが必要で、もしもそうならなかった場合、つまり青年が別の誰かと結婚してしまった場合は、人間となった人魚は海の泡となり、消えてしまうらしいのです。
  気軽な気持ちで「ちょっと人間になってみたい」と思っていたリンは、あまりの事実にすっかり怖気づき、蒼褪めてしまいました。
「あの…人間になるのはそんなにも危なく怖いことなのに、どうしてお姉さん達は…そんなにも、あの人と結婚したがっているのですか? それほどあの人のことが好きということでしょうか?」
「いいや、恐らくはそうじゃあるまい。姉さん達が必要としているのは、あくまでもあの青年が持つ富だよ」
「トミ…?」
「さっきも言ったが、あの男を見事篭絡できれば玉の輿に乗れる。そうすりゃ、この危険な海に住むあんた達人魚族の安全を守ることだってできるだろう。…あたしゃ個人的に、あんたら人魚には、そんなヒトに頼るような真似はやめてもらいたいがね」
「知らなかった…。お姉さん達がそんなことまで考えていたなんて」
「だから、その危険な仕事は自分が買うと、あんたの姉さん達は連日競ってあたしの所へ押しかけてくるというわけさ。全く迷惑な話だよ」
「そんな! お願いです、やめて下さい! お姉さん達をそんな危険な人間にするなんて! そんなことは、絶対に! 頼まれても断って下さい!」
  リンが必死に頼むと、魔法使いはちらりと横目で見てから、さっと、おどろおどろしい色をした小瓶を取り出しました。
「ならお前が人間になるかい、リン。人間にできる薬は、これ、ここに1本しかない。あんたが人間になれば、姉さん達がこれ以上争うこともない。あたしもいい加減ウンザリしていてねぇ、あの娘達がもう来ないのなら、こんなに助かることはない」
「ぼ、ぼくが…!?」
「言っておくが、この薬を捨てても無駄だよ? 誰かがあの青年に言い寄る役を担わない限り、姉さん達は今後も争い続けるに違いないからね。人魚族の存命の為に。――どうだい? あんたが飲むと言うのなら、これをやろう」
「……ぼくが…人魚族の為に…」
「そうだよ。まぁ〜、あんたはあの姉さん達よりも誰よりも1番可愛い顔をしているし、あの程度の男を誘惑することなんざ造作もないさ。これは極秘情報だがね、何でも、あの青年は長いこと恋人を作っていないらしい。だからきっと、ありゃゲイだ。ケッケッケ!」
  魔法使いのお婆さんは下卑た笑いを浮かべた後、リンにぐいと嫌な色をした魔法の小瓶を差し出しました。そしてむしろ、リンが恐怖で躊躇しているのも構わずに、小瓶を持ったリンの両手を自分で動かして無理やり薬を飲ませてしまいました!
「んぐっ…!?」
  リンは咄嗟に薬を吐こうとしましたがそれも叶いません。何故って、意地悪な魔法使いは、リンの口に瓶を押し込んだまま、リンがそれを飲みこむまで手を離さなかったのです。
(……まずいよぅ……)
  あまりの味に、そして薬の効果か、リンの意識はどんどんと遠ざかりました。気を失う寸前、魔法使いの「サービスで、あの男の所までは届けてやるから安心しな」という声が聞こえましたが、リンはそれに返すことはできませんでした。

  それからどのくらいの時が経ったのでしょうか。

(……ここ…どこ……?)
  耳にいつもの心地よいさざ波の音が聞こえて、リンはそれに誘われるように目を開きました。辺りは薄暗く、目にした天井はいつも見る家のものとは違います。サンゴの飾りも真珠の電灯もありません。ぼんやりとその見慣れぬ景色を見ていると、やがて横から「大丈夫?」という静かな声が聞こえてきて、リンはびくりと身体を揺らしました。
「ああ、急に起きないで。ごめんね、びっくりしたよね?」
  諫めるようにリンの肩を軽く押さえ、そのままでいるよう示唆したのは、誰あろう、あの青年でした。リンは驚いて青年の顔をまじまじと見やり、それからハッとして声を出そうと口を開きかけ、ぎくりとします。
  声が出ません。そうです、人間になる代わりに、リンは声を失ってしまったのです。
「随分長いこと眠っていたから心配したけど、頬に赤みもさしてきたし、体温も上がってきたみたいだね。良かった。君を浜辺で見つけた時は死んだように冷たくなっていたんだよ」
「……っ」
  縋るように青年を見ますが、リンは声を出すことができません。見るのが怖いと思いましたが、それでもリンは勇気を出すとゆっくりと上体を起こし、それから恐る恐る自分にかけられているタオルケットをめくりました。
  そこには人間と同じ、両の足がついています。リンは人間になったのです。
「君の名前は? きっとご両親も心配しているだろう、近くで君を探している旅行者がいないか調べさせているけれど、警察にも届けは出ていないみたいだ」
  ショックで青年の言葉をロクに聞けないリンでしたが、彼がリンを助け、こうして看病してくれたのは間違いないようです。魔法使いが青年に見つけてもらえるように取り計らったのでしょうが、それでも見も知らぬ少年を浜辺から拾って連れてきてくれたのはこの人の意思でしょう。
  リンは恐る恐る、しかししっかりと青年に頭を下げました。お礼を言いたいけれど、声が出ないのです。
「いいんだよ」
  青年はそんなリンににっこりと微笑むと、慰めるように頭を撫でてくれました。
「安心して。君のご両親は僕が探してあげるから、それまではここでゆっくり休むといいよ。ここは僕の家で、他には手伝いの人間以外誰もいないし、気兼ねすることもないからね」
  青年は町での評判通り、とても優しい人でした。
  リンが声を出すのが無理なだけでなく、歩くこともできないと知ると、彼はとても心を痛め、たくさんの名医を呼んでくれましたし、リンが(人間界の)文字を書けないと知ると、自ら勉強を教えてくれたりしました。
  一方、身寄りも見つからない、どこから来たのかも分からない怪しいリンを、周りの人々は警戒しました。心ない人たちは、リンが青年の財産目当てに近づいたのに違いないと陰口を叩きましたし、歩けないリンに対して、青年の知らないところでこっそり意地悪したりもしました。ある意味、「財産目当てで近づいた」のは事実であるため、リンはそれらの嫌がらせにぐっと耐え、俯きました。青年から優しくされればされるほどリンは心苦しかったので、自分を虐めてくる周りの人たちにはいっそ感謝すべきだと思いました。
「リン。君の足をこっそりつねっていた使用人は昨日付けでクビにしたからね」
  しかし、青年はリンを虐める人間たちに容赦がありませんでした。
  出会った時からリンにとても親切だった青年は、リンの家族がなかなか見つからないと分かると捜索を諦め、「うちの子になるといいよ」と、より一層リンを構うようになったのです。歩けない、声を出せない小さな男の子を憐れに思ったのかもしれません。青年は車椅子を押して、時には自分で抱きかかえ、リンをいろいろな所へ連れて行ってくれました。そして親しくなればなるほど、「リンは可愛いね」、「リンはいい子だね」と誉めそやしてくれるのです。
  そんな風に愛情いっぱいに優しくされると、リンも青年のことが大好きになっていきます。もともと末っ子気質と言うかで、自分に優しくしてくれる人のことはすぐに好きになるリンです。最初こそ「財産目当てで近づいた」という後ろめたさがあり、なかなかその好意を表に出せませんでしたし、魔法使いが言ったようにあからさま「誘惑」することなどできませんでしたが、このままずっと青年と一緒にいられたら幸せだなと思いました。
  それにリンは、この完璧な青年のことを好きである以上に、「神様かもしれない」という崇拝の念で眺めているところもありました。何故って、青年は口がきけないリンの名前を一度で言い当てたのです。驚くリンに、青年は笑いながら、「鈴がリンと鳴るような笑顔を見せるから」などと言っていましたが、きっとこの人には何か特別な力があるに違いない、と。リンはただ一人の頼れる存在である青年に傾倒していくことになります。
  けれども、そんなある日。
  青年の家にたくさんの人がやって来て、リンはその間、奥の部屋で待っているよう言われました。青年は自分の家族や知り合いがリンに意地悪することをもうよく知っていたので、最近は自分以外の人間とリンを会わせないようにしていたのです。
  青年の家を訪れたのは青年の親戚縁者のようでした。青年は彼らが帰った後、何故か沈んだ顔をしていました。リンは痛む足を必死に引きずり、バルコニーに佇む青年の傍へ寄ると、その服の裾を引っ張りました。落ち込んでいるような青年を、何とか慰めたかったのです。
「リン、実はね…。僕にはずっと心に決めた人が…好きな人がいるんだ」
  すると青年が、ふっとそう呟きました。視線はただひたすら美しい海岸線を見つめています。リンも大好きな故郷の海です。
「でも、その人とは結ばれない運命なんだ。僕がいくらその人を愛しても、その人に僕の想いは伝わらない。……その人を、今はとても遠くに感じる」
「………」
  リンは青年の淋しそうな顔を見つめて胸の抉られる思いでした。青年に好きな人がいた。青年へ恋心のようなものを抱き始めていたリンにとってそれは悲しいことでしたし、そして何より、こんなにも素晴らしい人が想いを遂げられないということそれ自体が理不尽に思えてならなかったのです。
  しかしリンの悲しそうな顔に気づいて、青年は優し気な笑みを浮かべました。
「そんな顔しないで、リン。君の悲しむ顔は見たくない。でもね、僕ももうすっかり諦めがついたから、家族が勧める縁談を受けようと思うんだ。前から知っている人で、とても綺麗で優しい人だから、僕もその女性となら幸せになれると思う」
  青年はそう言ってからリンをまじまじと見やり、「リンは僕のこの結婚を祝福してくれるかい?」と訊きました。
「………」
  リンは声を出せませんでしたが、暫しの後、こくりと頷きました。本当は想い人と結ばれて欲しいですが、その人とは叶わない恋だと言うし、ならば次に幸せになれると思う相手と一緒になる決断をした青年を応援しなければと思ったのです。
  しかしリンにはリンの問題がありました。リンは青年から求婚されなければ海の泡となり、消えてしまうのです。
(それにお姉さん達がいる大好きな海を守ることもできない…。タマノコシに乗れないと、海洋汚染を食い止めるための財力を手に出来ない…)
  至極真面目な顔でリンはそう思い、途方に暮れました。
  ただ、その葛藤もほんの数分でした。
  そもそも「タマノコシ」という考えが不毛だったのです。人間界に暫くいたお陰で、リンにもお金の大事さは分かってきていましたし、元々青年のものであるそれを使わせるなど、それ自体が罪深いと理解し始めていましたから。愛する故郷を守りたい気持ちに変わりはありませんが、諦める他ありません。
(死ぬところを見せたらあの人が悲しむ…。そっと家を出て行こう…)
  その夜、リンは青年が寝静まったところを見計らい、痛む足を引きずりながら浜辺へ向かいました。死ぬなら大好きな海で死にたいと思ったのです。
「リン! ああリン! やっと会えた!」
  しかしその時です。夜の海からパシャンと水しぶきが上がり、黒い影に見えていたものがどんどんと近づいてきて、次々にリンの名を呼びます。
(お姉さん達…!)
  リンは驚いて口をぱくぱくさせました。波打ち際にまでやってきたのは、愛するお姉さん達です。とても久しぶりの再会でした。リンが感激して涙を零すと、姉達も途端にほろほろと泣き出します。
  そうして1番目のお姉さんが代表してリンに言いました。
「リン、ごめんなさい。あの悪どい魔法使いから守れずに、貴方をこんな目に遭わせてしまって! 私たち、リンのことをとても探したのよ。そうしたら魚たちが、貴方が好奇心で人間になりたがっているから、魔女の棲む場所を教えたって。それで、慌ててあの魔女の所へ行ったら、貴方はもう人間になってしまったって言うものだから!」
  お姉さん達が次々にしくしくと泣き出します。しかも姉さん達は口々に、魔女に騙されたのね、可哀想、でもリンは何も悪くないわなどと言い立てます。リンは感動の涙を引っ込めてきょとんとしました。何だか聞いていた話と違います。
「私たち、とりあえずあの嘘つき魔女をとっちめた後に、リンを人魚に戻す方法を聞いたの!」
「私たちの可愛いリンが汚らわしい人間の男の傍にいるなんて、耐えられないわ!」
「そうよ、私たち、もう人間の傍で暮らすのはやめましょうと話していたの。だからリン、あの男をこのナイフで殺しておいで!」
「!?」
  リンが驚いて後ずさると、お姉さん達は悲しそうな目をして俯きました。
「そうよね、心優しい貴方が、例え相手が人間だとしても殺すのは心が痛むわよね。でもこうするしかないの、リン! あの男を殺せば、貴方は元の人魚に戻れる。貴方を騙したあの男は、正当なる罰を受けるべきよ!」
  リンは訳が分からず首を横に振ります。何故お姉さん達はあんなにも優しい青年を嘘つきなどと罵倒するのでしょう。そして、あの人を殺せなどと言うのでしょう。リンは、例え自分が死ぬことになろうとも、青年を殺すのは絶対に嫌です。
  けれどもお姉さん達は言い含めるように説明します。
「いい、リン? よく聞いて。そもそも、あの男が船で頻繁に私たちの海へやって来るようになったのは、偶然浜辺で貴方の姿を見かけたから。あの男は貴方の可愛さに一目惚れして、貴方を攫おうと日々海に出てきていたの。私たちはそんなあいつを何度も海難事故に見せかけて殺そうとしたけど、奴はしぶとく、死ななかった! しかも、あいつはカネに卑しい魔法使いを買収して、貴方を無理やり人間になるよう仕向けさせたの。あの男は貴方と私たち家族を無理やり引き離した悪党なのよ!」
「リン、目を覚まして! あいつは悪いヤツよ。しかも、もしもまかり間違って、あいつが貴方以外の誰かに目を向けたら、その瞬間、貴方は海の泡となって消えてしまう! そうなる前にあいつをそのナイフで殺すの!」
  お姉さん達はそう言ってリンにナイフを握らせました。リンは何が何だか分からず、ただボー然とするばかりです。大好きなお姉さん達が自分に嘘を言うわけはありません。けれど、あの青年が「悪党」などと、とても信じたくありません。しかも、青年は元からリンを人間にしたくて、魔法使いを使って無理やりリンを人間にしたと言います。青年はリンが歩こうとする度に足を痛がる様を見ては「代わってあげたい」と苦しそうに顔を歪ませていましたし、話せないリンのことも「リンの声が聞けたら」と悲しそうにしていました。それもこれも、リンが人間になったせいで生まれた痛みです。それを全て仕組んだのがあの青年だなんて。
  お姉さん達に叱咤激励されながら、リンはよろよろと青年の家へ戻りました。幸せになる青年の為に死ぬ覚悟だったのに、今では気持ちが揺らいでいます。青年に真実を確かめたい。でも怖い。リンの心の中はざわざわします。
「リン?」
  その時です。背後から急に声をかけられて、リンはびくりと肩を跳ねさせ、振り返りました。そこには電灯もつけずに暗い室内に佇む青年の姿がありました。夜の闇のせいで表情はよく見えませんが、リンを呼ぶ声はいつもの優しいものでした。
「どうしたの? 急にベッドからいなくなっていたから心配したよ。……外に行っていたの?」
「……っ」
  リンが誤魔化すように頷くと、青年はやや沈黙した後、すっと近づいてリンの頬を撫でました。
「とても冷たい…。海風に当たって風邪でも引いたら大変だよ。それもこんな時間に勝手に一人で外へ出るなんて危ない。……あまり心配させないで?」
  青年は怒っているのでしょうか。リンは途端に怖くなって泣きそうに相貌を崩しました。お姉さん達から貰ったナイフは懐に隠してありますが、とてもそれを取り出す勇気はありません。元々、青年を殺すなどリンには無理なのです。
「ねえリン…」
  その時、青年がリンを撫でる手をぴたりと止めて言いました。
「昼間、僕が別の人と結婚すると話した時、君は祝福すると言ったよね。いや…声を出せないから直接口にしたわけではないけど、僕のその問いに君は頷いた。君は僕が結婚することを喜ぶの?」
「……?」
  リンは分からずに首をかしげました。青年の幸せはリンの幸せです。だから当然、あの時も頷いたのですが、青年の表情はとても暗く、儚げです。リンは困って、青年の手に自らの手を添えました。
  そんなリンの態度に、青年は深く嘆息しました。
「君が僕を家族のように想ってくれているのは分かっているよ…。命を助けた恩人だからと、僕を敬ってくれているのもね。最初の頃は、それもまぁ心地よかった。だからこそ、僕もそんな純粋な君に手を出すことはしなかった。できなかった。君が自然と僕を愛してくれるのを待とうと思った。でももう、我慢ができなくて……けれど、それで仕掛けたことにも、君は何も迷わず祝福すると言う。その時の僕の絶望が分かる?」
  青年のとつとつと語ることがリンには理解できません。青年から距離を取ろうとするのも、足が痛くてできません。顔を歪めると、それに気づいた青年が笑いました。
「あのね、今の魔法は昔とは随分と進歩しているから、本当は人間になる時に足が痛んだり、声が出なくなることもないんだって。でも、魔女には敢えて昔の薬を君に飲ませるように頼んだ。君が僕から逃げられないように。君が僕以外の誰とも言葉を交わさなくとも済むようにね」
「……!」
  青年の狂気が遂に鈍感なリンにも伝わりました。リンは反射的に逃げようとしましたが、青年に腕を取られて抱き上げられ、そのまま寝室のベッドへ連れて行かれてしまいます。
  リンを下に組み敷き、上から覗き見る青年の顔はとても美しいものでした。けれど一方で、とても怖いものでした。
「君は優しいから、僕に結婚させて、自分は海の泡になって消えようとしたでしょう。しかもそれを止めに来た姉達に渡されたナイフも使う気がない。でもね、リン…。それすら僕の怒りを買う行為でしかないよ。勝手な真似はやめてくれるかな。僕を置いて自分だけ死んでしまおうだなんて…そんなこと、許せるはずがない」
「……っ」
「僕を想っているからそうしようとしたって? ――違うね。そんなの僕が欲しい愛じゃない。僕と君との想いは違い過ぎる。せめて僕にナイフを突き立てるくらいの情熱を向けて欲しかった」
  リンには青年の言っていることが本当に分かりません。リンはリンなりに青年のことをとても好きですし、尊敬もしているのに。だからこそ、お姉さん達に言われたことも、とても実行などできないと思っていたのに。
「リン」
  混乱するリンをよそに、青年は一つ息を吐いて落ち着いたような声を取り戻しました。それからリンの唇にそっとキスを落とすと、嬉しそうに微笑みます。
「まぁ君が海の泡になって消えることなんて絶対にないよ。だって僕はこんなにも君を愛しているんだから。僕が君以外の人間を愛することなんて永遠にない。君と僕はずっと一緒だ」
  僕と結婚してくれますか?
  青年は何も言えないリンにそう言って再び口づけをし、それから震えるリンの額をゆったり撫でて言いました。
「ああ、声が出ないんだったね。それだけはそのうち、ちゃんと元に戻してあげる。僕から離れようなんて気持ちがすっかりとなくなったらね。――その時は僕のことを好きだと、きっと言ってね?」
「―――っ!」
  こうして人魚だったリンは美しい人間の青年と結ばれて海の泡となることもなく、海の環境保全にもたくさんのお金を投じてもらいながら、ずっとずっと青年と共に暮らしましたって。めでたし、めでたし…。




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しまった、原作が悲恋だから、こっちはハッピーにしようと思ったのにダークになってしまった。
誰もが完璧と憧れる男が実はヤンデレ…って設定が大好きなんです。え、そんなこと余裕で知ってる?
そのうち風の精になったヘンリエッタさんが助けに入って、青年には天罰が下るでしょう。
溺愛はいいけど、足痛いままにさせるのは罪深いよね(映画『ミザリー』の悪夢をふと思い出しました)。
次回はちょっとパロ気味(?)テイストで、「幸福な王子」に挑戦します!