しょうが



  亨は普段から翠をよくよく観察しているので、日々の些細な変化にもすぐ気づく。
「……翠」
「んー…」
  それに亨はその気づきに対して黙っているという事をしない。

  何か怒ってる? 
  学校で何かあった? 
  それとも俺が何かした―? 

  それはもう傍から見れば「しつこい・鬱陶しい・イライラする」…と。しっかり三拍子揃ってしまう勢いで、亨は翠の内面を探ろうとするのだ。しかも1年遅れで上京し、翠の後をバカみたいにつけ回すようになってから、その回数は驚くほど露骨に増えた。
  だからこの時も亨は翠に「どうしたの」と訊くつもりだった。
  いつものように日曜の朝っぱらから、翠が迷惑そうな顔をするのも厭わず部屋に押しかけ、昼近くまでこうしてずっと居座っている。その中で翠のことは先ほどからずっと観察しているけれど、どうにも「おかしい」。
  何だかとても機嫌が良いように見える。
「翠」
「だから何だよって訊いてるだろ?」
  呼ぶだけでその後を続けようとしない亨に、ようやく翠が視線を向けた。
  翠は台所に立って少し早い昼の支度をしているところだった。ジャッジャと勢いよく揺らされるフライパンには野菜と肉が豪勢に盛られている。焼きそばかなと亨は何となく思っていたが、あの量からいって自分の分もあるのは間違いない。いつも亨の押しかけ来訪を困ると言いながら、それでも翠はこうして何も言わずとも2人分の昼食を作ってしまう。
  そういう奴なのだ、翠は。
「亨? だから何?」
  その翠がただじっとした視線だけを送る亨にいよいよ困惑したように再度問いかけた。ただ、その表情にも常にある眉間の皺は見えないし、至って平静な様子だ。やはり今日はご機嫌なのだ。それは何故。思い当たるところがさっぱりなくて、亨は自分こそが途惑った。
  翠の事はいつでも何でも知っていたいと思うのに、現実はそうもいかない。
「言う事ないなら手伝えよ。ほら、そこから皿、2枚出して」
「……うん」
  仕方なく亨は頷いてのろりと立ち上がった。
  ただ一言、「何かあったの」と言えばいいのに、どうしてか口が動かなかった。最近では翠に詰めよる内容といったら、全て「今日はどうしてそんなに怒っているの」、「何で口きいてくれないの」等々……そんなものばかりだったから。
  翠が嬉しそうにしているのは勿論亨も嬉しいのだ、けれど。
「あ、紅しょうが切らしてた」
  翠がしまったという風に呟いたが、亨は大して気に留めなかった。ただそろりちらりと翠の顔色を覗きこむ事に一生懸命で、棚から出した皿も小さな取り皿を出そうとしてすかさず叱られてしまう。
「もう、何やってるんだよ。それじゃないだろ、もっと大きいやつ。普通に考えて分かるだろ」
「え……ああ、そっか」
「そっかじゃないよ。もう……結局俺が全部やるんだからな」
  翠はぶつぶつ言いながら自分でさっさと大皿を2枚取り出し、それに手際よく出来たばかりの焼きそばを盛り付けた。
  それから青海苔をパッパとぞんざいに振り掛け箸を取り、1つを亨に渡す。
「はい、こっちがお前の」
「え……いいよ。だってこっちの方が多いよ」
「お前の方がでかいもん」
  翠は当然のようにそう答えた後、明らかに不公平に少なく盛った方を自分が取って部屋に戻り、テーブル上で散らかしっ放しの物を肘でザッと除けた。
「亨、人んち来てやりたい放題やめろよ。いらない物はちゃんと捨てろっていつも言ってるだろ?」
「うん…」
  上の空でいつもの小言を耳に入れながら、亨も皿と箸を持って席に着いた。やっぱりだ。やっぱり、翠はこうしていつものように自分を叱ってくるけれど、どこか声色が優しい。表情もとても柔らかい。本気で怒ったり、ウンザリしている感じではない。
  いよいよもって、きっと何かあったのだ。
  翠を浮かれさせる何か良いことが。
  それを自分が把握していないなんて、とても嫌だ。
「翠……」
「紅しょうがはないからな。俺は使わないんだから、どうしても付けたかったらちゃんと自分で確保しておけよ」
「え?」
「だから。紅しょうが。ないって文句言いたいんだろ?」
  翠は少しだけふてくされたような顔をした後、ちょいちょいと箸で皿を指し示した。
  言われて覗いてみると、なるほど確かにいつもは必ず添えてもらっている紅しょうががない。翠は「大して美味しくないじゃん」と言っていつも自分で作る時はのせないし、学食で食べる時も絶対につけないから、家にそれがないのは当たり前だ。…けれど亨がこうして翠の部屋に毎日押しかけるようになってからというもの、いつの間にやら「翠は食べないけれど、亨は食べる」、「翠は使用しないけれど、亨は使う」ものが、翠のアパートには用意されている事が多くなった。
  それは亨が自ら持ち込んだ物もあれば、知らぬ間に翠が買っておいてくれた物もある。
  そういうちょっとした変化を亨は嬉しく思っている。
  けれど、紅しょうがの事は気づいていなかったのに。
「別にいいよ。なくて」
「そうなの? いつもないとギャーギャー文句言うくせに」
「いつも文句なんて言わないよ」
「言うじゃん。あれがない、これが欲しい、こっちがないと絶対イヤだ!ってさ。亨は我がまま大王だもん」
「そ、そんな事ない!」
「そんな事あるの」
  亨のむっとしたような顔に翠は慣れたような顔をしながらふいと流し、それから勢いよく焼きそばを口にかっこみ始めた。
  亨はそんな翠を見て釈然としないものを感じたものの、今はこの事について議論する気もしないしと改めて自分の手元にある焼きそばを見つめた。
  野菜も肉もたくさん入っている。翠は決して料理上手とは言えないが、こうして1人暮らしをする上で必要最低限の食事をこしらえる事は出来る。亨は目玉焼きすら無駄に焦がしてしまうくらいに料理は駄目だから、こんな風に何でもなく日常をこなせる翠を尊敬している。
  世間は亨ばかりを器用と誉め、翠になど見向きもしないけれど。
「おいし…」
  ぼそぼそと食事を始め、それから亨はぽつりとそう呟いて翠を見た。翠が作ってくれたものを食してすぐに「美味しい」というのは亨の条件反射というか、癖みたいなものだ。勿論本当に美味しいと思うからこそそう言っているわけで、間違っても無理に世辞を述べているわけではないのだが、この時は焼きそばに集中していたわけでもないから、まさに普段の習慣でその言葉を呟いたに等しい。
  だからそれは目の前の翠にも容易に分かるような、実感の伴わない声だった。
「…何だよ。まずい?」
「え? 何で…?」
「だって……何か、仕方なさそうに言うからさ」
  いつもは大袈裟に過ぎるくらいに「翠の作ったご飯は美味しい!」、「最高!」と見えない大きな尻尾をバタバタ振るわせる勢いで大絶賛の亨なのに、今日は心ここにあらずと言った風だから、翠も憮然としたのだろう。動かしていた箸をぱたりと置いて、翠は訝し気な視線を亨に向けた。
「やっぱり紅しょうががないからいじけてるとか?」
「そんなわけないよ」
「じゃあ何だよ。何か元気ないだろ?」
「……別に」
  別にという事はないのだが、しかし突き詰めて考えてみると、「別に」という回答でも良いような事だ。
  朝ここへ来た時は、いつものように翠の顔を見られてご機嫌で、休日ののんびりとした時間を翠と過ごせて幸せで、亨は終始にこにこだった。
  それがふと、「そういえば翠も機嫌が良さそうだ」と感じたら、それは一体何故だろうと疑問を抱き、その理由が分からないものだから途端不安となり、面白くないと思った。翠が嬉しそうならばそれで良いはずなのに、もし翠の嬉しい理由が自分と全く関係のないところにあるのだとしたら、それはとてつもなくイヤな事に思えたのだ。

  翠の喜びも楽しみも何もかも。
  幸せな事柄は全て自分が関わっていたいのだから。

「別にって事はないだろ。あからさま機嫌悪いじゃないかよ」
  翠が亨に責めるような口調で言った。
「何だよ、気持ち悪いな。さっきまではやたらはしゃいでテレビ見てたくせに。ここ数十分の間で変わっただろ、空気? 俺が焼きそば作り始めてからだよな。何なの? あ、もしかして焼きそばじゃなくてラーメンが食べたかったとか?」
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ何だよ。亨がむっとしてると、俺が何かしたのかって気になるだろ」
「…………え?」
「は?」
  少しの沈黙の後、亨が間の抜けた反応を返したので、翠の方も呆気に取られて眉を寄せた。
  それから暫く2人は無言で、ダダ流しにしているテレビの騒々しい音だけが漏れ聞こえていた。こんな微妙な空気は久しぶりだった。
  やがてそれを破るようにして、翠が大きな溜息をついた。
「何考えてんのか知らないけど。折角ご飯食べてるんだから、もうちょっと楽しそうにしろよ。何だよ、紅しょうががないくらいで…」
「だ、だから、紅しょうがの事なんかどうでもいいんだってばっ!」
「じゃあ何で不貞腐れてる!」
「不貞腐れてない!」
「だって変だろ!」
「だって翠が変なんだもん!」
  翠の声が荒々しくなるのに合わせて亨もついムキになって声を大きくした。ああ、これ以上はまずい。また自分の勝手さが露見するような内容を翠に吐露せねばならなくなる。翠が何だかご機嫌で、その理由が分からないから面白くないと思っていたんだ、などと。
  そんな無茶苦茶な事を切り出したら、またどんな呆れた表情をされるか分かったものではない。今度こそ本気で嫌われてしまうかもしれない。
「………何言ってんだ?」
  案の定、翠は投げつけられた言葉に思い切り訳が分からないという顔をしてから、いよいよ箸を皿の上に置き、真っ直ぐに亨を見据えやった。
  亨はそれで自分もびくんとなり、慌てて箸を置いて正座する。いつも倣岸不遜、我がままばかり言ってそれを押し通す強引な亨も、こういう時は翠にめっぽう弱い。翠の強い眼差しには何だかオドオドしてしまって、恐る恐るという風に上目遣いで見返してしまう。
「そんな甘えた目ぇ、したって駄目なんだからな」
  翠はふうと小さく嘆息した後、「亨」と一度呼んでから改めて言った。
「俺の何が変なんだよ? 俺はいつもと変わらないつもりだけど」
「変だよ…。何かさ…今日さ…どっか…違うもん」
「どっか? どこが? 同じだよ、別に。今日は亨に怒る事だってしてないし」
「そこ! それ!」
「え?」
  びしりと亨に指をさされて、翠はますます惑ったように少しだけ身体を引いた。
  すると亨の方はもうヤケクソだと身を乗り出して、問題が解けた子どものようにはいはいと手を挙げた。
「今日の翠、俺のこと全然怒らないじゃん! 朝から機嫌いいんだもん! 穏やかでさ、何か落ち着いててさ。俺が隣にいるのに、べったりくっついたりもしたのに、いつもみたいに文句言わないし、平然と本読んだりパソコンしたりさ。何か! 違うじゃん!」
「……だから?」
「えっ? だから…だからさ、何でそんな、機嫌がいいのかなぁって……」
「俺の機嫌が良いとお前の機嫌は悪くなるのか」
  翠のどこかしんとした陰のある声が恐ろしい。これは確実に雷を落とされるかと思って亨は再び正座をし直し、膝に両手を置いてしょぼくれた。
「そ、そうじゃないけど…っ。でも、何かイイコトあったんなら、俺だってそれ何か知りたいし…。話してくれてもいいのにって思ったから」
「別に話す事がない場合はどうしたらいいんだよ」
「何もないの?」
「何もないよ」
  疑わしそうな亨の視線を鬱陶しそうに片手で払って、翠はやがて「バカバカしい」と呟いてから食事を再開した。
「………ほんとにぃ?」
  亨はそれに未だ納得しかねるような顔をしつつも、しかしそれ以上は問い詰められなくて、仕方なく自分も箸を取った。
「………」
  けれど未だ翠をちらちらと見る事は止められない。そうしてソワソワし続けていると、翠が再びバンと箸を置いて、「亨」と厳しい声を出してきた。
「お前ってホントにうざいな」
「な、何だよ…酷い…」
「酷くない。俺が機嫌悪い時は悪い時でぶうぶう言って、ちょっと気持ちが浮上している時ですら文句つけるんだから。俺は一体どういう態度でいたらいいんだよ?」
「ご機嫌な翠は好きだよ。でも、その理由が俺と関係ないところにあったら怖いもん」
「関係あったら?」
「え?」
  翠の言葉に亨はぴたりと動きを止めた。翠は視線をくれないけれど、その分亨は穴が開くほどにそう言った翠の顔を見つめやった。
「翠…?」
「関係あったらいいんだろ」
「関係あるの?」
「別に」
「ないんじゃん!」
「機嫌がいいっていうか!」
  またガーガー言うそうな亨を黙らせて、翠は自分がキッとした視線を向けたまま声を出した。
「今日は良い天気だろ」
「え…? うん、まあ…」
「それに休みだ。俺の大好きな」
「そうだけど」
  訳も分からず頷く亨にどこかバツの悪そうな顔をちらりと見せて、翠はふんと鼻を鳴らした。
「それだけ……それだけ、だよ。……まぁそれに…亨は朝から押しかけてきてまた煩かったけど、別段その亨と喧嘩するような内容もなかったし。それで……それで、何かいいなって思っていただけ。こういう時間、いいなって」
「………」
「それだけだよ」
  翠は照れくさそうに、またヤケクソのようにそう言い捨ててから、「ああでも、これはきっと言わない方が良かったんだろうな」というような後悔の色を微か滲ませた。
「……翠」
  そしてそれはやっぱり、言わない方がきっと良い事だったはずで。
「翠」
  亨は翠の顔から目が離せず、いつの間にやらカラカラになってしまった喉をごくりと鳴らしてから淡々と告げた。
「あのさ、」
「何だよ」
「キスしていい?」
「だめ」
  にべもないとはこの事だ。翠は予想通りだという風に目を吊り上げてから、「絶対に駄目」と繰り返した。
  それでも亨は挫けなかった。だってとても嬉しかったから。
「じゃあ、キスは諦める。その代わり、セックスしたい」
「はぁ? レベル上がってるし! 絶対絶対駄目っ!」
「何で! じゃあやっぱりキスさせて!」
「こ、こら、亨…っ! 来るなって!」
「キスしたい!」
「うわあっ」

  亨は翠の何気ない一言でもとても幸せな気持ちになれる。
  亨を幸せに出来るのは翠だけなのだ。他の誰も、それを与える事が出来ない。

  焦る翠が嫌がって精一杯抵抗しようとするのをよそに、亨は恵まれた体躯を生かして速攻で互いの距離を縮めた。そうしてその熱い気持ちと勢いのまま、翠をきつく抱きしめて自分の懐にすっぽりと覆い隠してしまうと、そのままもう後は自分が喰らい尽くすだけだとばかりにキスの雨を降らせ始めた。翠はそれに終始抵抗の意を唱えてめちゃくちゃに暴れていたけれど、触れ合った肌や、何より重ね合わせた唇はそれを完全に拒絶してはいなかった。
  少なくとも、この時の亨にはそう感じられて。
「翠…好きだ。好きだよ」
「んっ…だ、め…だって…っ」
「もう遅いよ」
  亨は翠の唇に吸い付くようなキスを何度となく続けてから、その唇だけでなく、頬や瞼、鼻先にも同じようなキスを続けて、決して翠から離れなかった。
  そのせいで後に翠からは大層な雷を落とされる事になるのだけれど。
  今やすっかり冷め切った焼きそばを顧みる事なく、亨はただ翠へ施すキスに夢中だった。







ワンコがひたすらご主人にわしゃわしゃとじゃれつく図。
相変わらずちょっとウザ過ぎるでかワンコですけど……。