小さなコト



(あーあ…。まただ)
  翠は駐輪場に停めていた自転車を前に深いため息をついた。
  こうして知らぬ間にタイヤの空気を抜かれたのは、これで一体何度目だろう?
(どうして俺ばっかり…)
  思わず負の感情が身体中を巡ってしまいそうになり、翠は慌てて首を振った。
  愚痴っても仕方がない。それに今に始まった事でもないし―…そう無理矢理に言い聞かせて、翠はぺしゃんこになって走れなくなった自転車をその場に置き去りにし、徒歩で家へ帰る事にした。
  亨は大学受験対策に通う塾も一緒にしたいと言い張ったけれど、翠はそれを頑なに拒否した。「言う事を聞かずについてきたら、今度こそ絶交する」ときつく言い捨てて。
  季節は冬―。
  翠たちは高校3年のまさに受験生であり、そろそろ受ける大学の願書も一通り揃えなければならない時期だった。だから周囲の様子も何となくバタバタし始めている。
  ただ、翠は既に受験校を絞り終えて、出願の準備も万端だった。いつも「何処か遠くへ行きたい」という欲求があったからだろうか、受験科目の中でも特に英語が1番出来たから、単純に大学では英語学科か英文科で学びたいと考えていた。後々留学を視野に入れているのなら外国語学部だけ狙えばどうかと担任は言ったが、英文科も捨てきれなかったのは、何の事はない、単純に向こうの文学にも慣れ親しんでいたせいだ。
  翠には友人という友人がいない。
  だから必然的に、昔から読書は貴重な趣味の1つだった。本を読むだけなら別段友達がいなくとも支障はないから。
「今日も亨、来てるかな…」
  のろのろと家路へ向かいながら、翠は知らぬ間に幼馴染の名を呟いていた。
  受験が近くなった時、さすがに予備校には行っておこうかなと考え出したら、亨は案の定「自分も一緒に通いたい」と言ってきかなかった。亨は「あんな性格」のくせに……というか、「あんな」だからなのか、要領も良く、物覚えも翠より段違いに良かったから、成績にも何の問題もなかった。だから「お前に塾なんて必要ないだろう、邪魔だから来るな」と何度も言ったのだけれど、亨は「俺の知らない所に翠が1人で行くなんて嫌」と言い張り、なかなか譲らなかったのだ。
  だから結局、“予備校のある日は夜に勉強しに来てもいい、泊まるのも許す”と言って、ようやく引き下がらせた。―…何だかその交換条件は、とても平等には思えないようなものだったとは後で思い至った事なのだが。
「亨は何だって…」
  口からついて出るのはいつでもあの幼馴染の事ばかりだ。翠の家へ向かう足取りはどうしたって遅くなった。亨に会いたくない。駅から家までは遠いのに、大切な自転車を「痛めつけられた」夜だったから、それは尚更だ。
  亨と1番近い距離にいた翠は、昔から何かにつけて酷い妬みを受けた。
  おまけに亨が「翠大好き」オーラを隠さないから性質が悪い。まだ地元の人間は慣れたような目で苦笑するようにもなったが、それでも、いつも不敵で自信満々、傍にいると「何となく元気を貰えてしまう」不思議な魅力を持った亨を慕う人間は後を絶たなかった。
  だから必然、そんな亨に愛されている翠が理不尽に恨まれて、謂れのない暴力を受ける事も多かったのだ。それも亨の預かり知らない所で、実に巧妙に。
  亨に文句を言う気はない。いや、本当は言いたいけれど、それでも亨の真っ直ぐな好意をあからさまに非難する事など翠には出来なかった。幼い頃から、それこそ生まれた時から一緒にいて、それが当たり前で。亨という人間をいやというほど知っているから、恨む事など出来ない。亨の純粋さや、疑う事なく自分を慕ってくれるあの眼差しを嫌いになれるはずがない。
  けれど一方で、あまりに直情過ぎるその情愛が窮屈で苦しくて。
  おまけにそれを良しとしない周囲の暴力には、全く疲れないと言えば嘘になる。正直、翠はもうくたくただった。
「はあ…」
  翠は重い溜息をついた。
  自転車のパンク自体はいい。タイヤに空気を入れればいいだけだ、全く駄目になったわけではないのだから。それにあまりに何度も修理に行くので、最近では自転車屋のおじさんも同情してとても親切にしてくれる。いつだったか、タイヤを丸ごと替えなくては駄目となった時も、タダで新しいのをつけてくれた。
  でも、そういう問題じゃない、どうしたって“治せない”、消せないものもある。それは翠の胸の奥にこびりついて離れない、他人の蔑んだ瞳や怒りの色の記憶だった。

  どこか遠くへ行きたい。この町を出たい。
  だから翠は、高校を卒業したら亨の知らない場所で、亨の知らない大学で1人でやり直す事をこっそりと決めていた。

「翠! お帰り!」
  家に帰り着くと、案の定亨がやってきていて、ドアが開いた音で翠の帰宅を知ったのだろう、主人の帰りを待ちわびていた犬のように玄関先までどっと駆け寄って来て、嬉しそうな声をあげた。
「遅かったじゃん! 何で? 誰かと寄り道したとか言わないよね?」
「言わないよ。歩いてきたから遅くなっただけ」
「え? また? 翠、そんな運動しなくても別に太ってないのに」
  とんでもなく見当違いな台詞を吐く亨に翠は思わず呆れの笑みを浮かべ、本当の事を言う気もしないと、黙って靴を脱いで洗面所へ直行した。
「今日はねー、麻婆豆腐だった! おばさんの好き! 美味いもんな!」
「お前、またうちで食ったの?」
「うん、大吾うざいしさ。こっちの方が居心地いい。いっそ俺、翠んちの子になりたいよな!」
  そんな事を話しながら、手洗いを済ませてリビングへ向かう翠の後を従順についてくる亨。亨は本当に大型犬だと思う。どこへ行くにも翠の後をついてきて、今にもじゃれつきたい、遊びたいというオーラ全開で絡み付いてくる。尻尾があればきっと激しくそれを振っているに違いない。
  だからやっぱり亨を憎めない。
「ただいま」
「お帰り。ご飯あっためるね」
「おう、お帰り」
  また、翠の両親も亨の存在にはすっかり慣れきっている。一緒に並んで居間に入ってきてもそれが当たり前のように平然としていて、母は台所で翠の夕食を温め直す準備を、父はソファに寛いだ格好のまま、お帰りの言葉を出した後はもう顔をテレビに向けてしまう。
  何だかなあと思うけれど、今さらそれに異議を申し立てる気力もない。
「今日はどうだった? 予備校」
「別に、普通」
  母からとりとめのない話題を振られながらも食卓につき、亨がまた当然のように隣の席について嬉々として翠の顔を見つめる。これから小一時間ほど、夕飯を食べながらこの2人に囲まれてどうでも良い会話をかわし、時々父がソファからテレビの話題を振ってくる。至って平和な時が流れる。ともすれば、この4人が本当の家族みたいに和気藹々と。
(それを心から受け入れられない俺は、やっぱり心が狭いんだろうか)
  そんな想いを努めて表に出さないようにしながら、翠は自分の為に飲み物を用意してくれた亨に「ありがとう」と礼を言った。





  軽く揺さぶられてハッと目を覚ますと、暗闇ながら亨の顔が間近にあるのが見えた。
「あ……」
「翠、大丈夫? うなされてたよ」
  心配そうにそんな事を訊く亨は、どこか泣き出しそうな顔すら見せて必死に翠の様子を窺っていた。
「……何でもない」
  何か昔の夢でも見ていたような気がするが、記憶はない。翠は暫しボー然としたまま、今のこの状況を把握するようにゆっくりと思考を外へと押し出してみた。
  ああ、ここは自分が住む1人暮らしのアパートだ。上京した時、1番最初に見てすぐに決めたオンボロの木造アパート。
  亨から逃げ出したくて黙って受験し、決めた東京の大学だったのに。
  気付けば傍には亨がいる。亨は翠から遅れて1年後、やっぱり我慢できないと後を追ってきて今は翠と同じ大学に通う1年生だ。学年こそ違うが、大学が同じだからやっぱり行動は一緒になってしまうし、それに亨が借りた部屋は翠が住むこの部屋の隣だ。
  だから結局、今もこうして亨の侵入を許す羽目に陥っている。
「何か冷たいものでも飲む? ちょっと熱っぽいみたいだし」
  翠の額に触れながら亨が優しい声でそう言った。いつも何だかんだと翠の部屋にやってきては、そのまま居ついて自分の部屋に帰る事をしない。最近では亨の寝巻きは翠の部屋に置きっぱなしになっていた。
  だから今も亨は自分のパジャマを着て翠の布団に潜り込んでいたわけだが―…どうやらうなされる翠に気付いて起きてしまったようだ。電気は未だつけられていないが、傍の携帯に手を伸ばして時刻を確認すると、まだ朝には程遠い3時前だった。
「ごめん…。水なら自分で飲むからいいよ。亨は寝なよ」
「いいよ。いいから翠はそこにいて。俺が持ってきてあげるから」
  のろりと上体を起こした翠に先んじて亨がさっと立ち上がり、流しへ歩いて行く。その姿をぼんやりと眺めてから、翠は未だ覚め切らない頭を奮い立たせるように何度かぶるぶるとかぶりを振った。
  みっともない、どうやら泣いていたようだ。覚えてもいない夢に苦しめられて、うなされて涙まで流してしまうなんて。それをまた亨に見られてしまったなんて、とんだ不覚だ。
「はい。冷えてるから美味しいよ」
  冷蔵庫からとってきてくれたミネラルウオーターを受け取り、翠は礼を言ってそれを飲んだ。わざわざグラスに注がれたそれは暗闇の中で妙にキラキラと輝いていてとても美しいものに見える。暫しそれに見惚れてじっとしていた翠は、もう一度残りの水を飲み干してから、再度「ありがとう」と亨に礼を言った。
「どうしたの。怖い夢でも見たの」
  グラスを受け取ってそれを傍に置いてから、亨が静かな声でそう訊いてきた。
「翠が寝言言うなんて珍しいなって思ったら、泣いてるからびっくりした」
「覚えてない。昔の夢だった気はするけど」
「昔って?」
「俺たちが高校生くらいの時かな」
「……ふうん」
  ちろりと翠の髪の毛に触れて、亨は何事か考えるような素振りを見せた。……が、それもそう長くはなく、すぐに顔を寄せてやや俯いていた翠の額にちゅっとキスを落とす。
  翠はそれでハッとして、途端眉をひそめた。
「何やってんの?」
「慰めてんの」
「いらないよ、そんなの。たかが夢だし」
  それに、額にキスされて「慰められる」わけもない。そういうのをやめろと常々言っているのに、この物覚えのいいはずの亨がそういう事に関してだけは一向に言う事を聞こうとしない。
「だから、そうやって触るなって」
  更に頬に手を当て撫でてくる亨に、翠はいよいよ鬱陶しそうに顔をしかめた。
  しかし、亨も動じない。
「でも、翠、悲しそうだったし」
「そもそも亨がこの狭い布団の中に無理やり入ってきてでぎゅうぎゅう抱きついてくるから、寝苦しくて悪夢を見たんだ。俺を可哀相と思うなら、隣の自分の部屋行って寝ろよ」
「やだよ。翠泣いてるのに、傍を離れられない」
「泣いてない」
「泣いてた。凄く悲しそうな顔してた。そういうの、凄く嫌だ」
「お前が…っ」
  そもそもお前が悪いんじゃないかと言いそうになり、翠は思わず口を噤む。
  そういう事は言わないと決めているじゃないか、咄嗟に思い出してとどまった。
  昔から亨が原因で何か理不尽なとばっちりを受けても、翠はそれを亨本人に言う事は決してなかった。自転車を何度パンクさせられても、陰口を叩かれ、亨の見えない所で時に酷い意地悪をされても。
  それは結局そういう事をする人間たちの了見の問題で、亨が悪いわけではない。
  亨はただ、「翠を好き」と言っているだけだ。それを煙たがるなんていけない。
  それに自分だって――。
「翠が俺のせいで泣いてても、俺は離れないよ」
  その時、亨が唐突に翠にそう言った。
  えっと思って顔を上げると、そんな翠に亨はどこか憮然としながらも続けた。
「俺のせいなら、尚更離れないで守らなきゃ。翠は俺が守るって決めてるから」
「……これまで守ってもらった記憶なんか1度としてないけど」
「な…なら、これから頑張るっ!」
  翠の辛辣な台詞にむっとしつつも、亨はムキになったようにそう言い張った。
  そうしてみるみる自分こそが泣き出しそうな顔になると、亨はそれを誤魔化すように翠に覆い被さり、そのまま布団の上に押し倒して、潰れてしまうのじゃないかという程強く抱きしめて強引に鼻面を押し付けてきた。
「いっ…くるし、亨!」
「ねえ、折角起きちゃったんだしさ。しよ」
「嫌だ!」
「しっ…。おっきな声出すと近所迷惑だよ?」
「どうせ隣はお前ンちだろ!」
  下でじたばたと暴れながら翠は必死にそう怒鳴った。それでも図体のでかい亨が本気になったら、翠の力では払いのけるなど不可能だ。そうこうしている間にもパジャマの裾をたくしあげられ、素肌を直接片手で撫でられる。冷えたグラスを手にしていたせいか、亨の掌はとても冷たくて、胸にその指先が当たっただけで「ひゃっ」とみっともない声が出てしまった。
「翠…っ。翠、好き…っ」
「す…!」
  すぐサカるのはやめろと言いたかったけれど、翠もそれどころではなかった。必死に口を噤みながら、もうこれ以上おかしな声が出ないようにするので精一杯だ。「挿入」こそ許していないけれど、最近ではこんな風に亨が欲情を剥き出しにして翠の身体をまさぐり、己の欲望をぶつけてくる事がとても多くなった。もう明らかに幼馴染としての関係を超えてしまっている。今さらという気もするけれど、自分たちは既に世間一般の常識からは逸れたところにいってしまったと翠は絶望する。
  絶望するけれど、でも亨を捨てる気にもなれない。
「とお……ひぅっ」
「ねえ言って。翠。俺のこと、好き?」
「嫌いっ」
「う…嘘! いつもは嫌いじゃないって言うくせに!」
  即答した翠に亨がカッとして怒ったような声を出した。それは徹底的に強気になれず、どこか弱々しいものでもあったけれど、目は明らかに怒気を含んでいた。
  翠はそんな亨は嫌だなと思いながらも、必死に負けじと睨みつけて更にきっぱりと言った。
「今は嫌い! こんな事する亨は……んんっ!」
  絹ごしに性器を握られて翠はきゅっと目を瞑る。同時に、覆い被さる亨のものも硬く張り詰めてきているのをダイレクトに感じてしまって身体中がカーッと熱くなった。ああ、何でこんな事に。何とかしよう、何とかしなくちゃと思っているところに熱烈な口づけが降ってくる。吸い付くような執拗なそれに翠は完全に頭が真っ白になった。
「んん! んぅっ…ふ…!」
  なけなしの力で腕を掴むも、やっぱり亨はびくともしない。ずるりと下着ごとズボンを下げられて剥き出しになったそれに今度こそ直接触れられてしまう。翠はぼろりと涙を零した。

  アンタってホモなんだよね? キモチワルイ!
  亨クンがカワイソウ!!

  卒業を間近に控えた頃、ちょっと可愛いなと思っていたクラスの女子生徒から面と向かってそう言われた時は本気で泣けた。これまで皆の悪口には参加せず、この子だけは普通の目で見てくれているのかなと仄かな期待を抱いていた時だっただけに、ダメージは尚の事酷かった。
  キモチワルイなんて言葉は言われ慣れている。亨は被害者で、キモチワルイホモな翠に付きまとわれて、いつだってカワイソウなのは亨だけ。アンタなんか亨君の傍にいる資格ないのにと、汚いゴミでも見るように、吐き捨てるようにそう言われた。あの子は亨が辞めたあの大学に一緒に進学出来てとても喜んでいたけれど、今頃どうしているだろう?
「―…り。みど……翠っ!」
「はっ」
  現実逃避で昔の事を思い出していたら、不意に強い声で呼ばれて翠はハッとし目を開いた。
「とおる…?」
  見ると先刻まで問答無用に翠の身体をまさぐっていたはずの亨が、やっぱり泣いてしまいそうなくしゃりと歪んだ顔でじっとした視線を落としてきていた。
  翠がそれを不思議そうな顔で見つめていると、亨は何度も「ごめん」と言って、ぐしりとした涙声を出した。
「そんなに嫌そうにしないで。そんなに嫌わなくてもいいじゃないか」
「亨…?」
「どうしてそんな顔するの。泣かないで、翠……謝るから」
  亨の必死な声が分からなくて微かに首を動かしたら、なるほど頬を伝う涙の存在に今さら気付いて翠は「ああ」と声を漏らした。
  別に亨に裸に剥かれた事が泣いた全ての理由じゃない。
  無論、亨のせいで涙が出たのは間違いないのかもしれないが。
「……反省してるなら今すぐどいて」
「うん…」
  ぐすとくぐもった声で素直に頷いた亨はそろりと身体を横へずらした。翠はほっとして身体を起こし、露になった下半身を隠す為に傍の布団を引き寄せた。
  それからすっかりしょげてしまった亨の頭をぽんと撫で付ける。
「もうこういう事するな」
「……やだ」
「やだじゃないよ。嫌だって言ってるのに……泣くくらいなら俺の嫌がる事しないで」
「じゃあ翠も俺の悲しむ事しないで」
「あのなぁ…」
  はあと深いため息をついた後、それでも翠はやっぱりこんな亨を憎みきれなくて少しだけ笑ってしまった。
  亨の興奮した雄はまだ収まりきれていない様子だ。それを確かに「カワイソウ」だとは思ったけれど、だからってもう今夜はほだされるつもりはない。翠は自分のそんな気持ちを何としても揺らがせないようにと、更にわしゃわしゃと亨の髪の毛をまさぐって、「とにかくもう今夜は駄目」と言い張った。
「じゃあ…今夜じゃなきゃいいの?」
「言うと思った」
  亨の言葉に「とにかく駄目」と繰り返して、翠はそれから仕方がないなという風に小さく笑った。
「翠」
  亨はそれで翠の機嫌が治ったのかと自分も少しだけほっとしたような顔を見せていたけれど、やがて不意に真面目な顔をすると、犬にしてはいやに凶暴な瞳を閃かせて静かに言った。
「もう何処にも行かないでよ? 俺、離さないよ? 行かせない」
「……亨」
「何度でも言うから」
  そうして亨は翠をぎゅっと強く抱きしめると、自らの匂いを擦りつけるようにぐりぐりと顔を近づけてきた。翠はそれを窮屈そうにして身じろぎながらも、やっぱり払い除ける事は出来ずに、ただ深く溜息をついた。胸が痛かった。それはずくずくととても苦しい痛みで、亨の息遣いを感じるほどにより酷いものになっていった。
  亨が好きだ。それは間違いない事のはずなのに。
  自分はきっと、ほんの小さなコトにこだわっている。「それ」が何かも分からないまま。
「痛い……」
  ぽつりと呟いて、翠はとんでもない自己嫌悪の渦に巻き込まれながら、自分を抱きしめる亨の胸の中でゆっくりと目を瞑った。







今回は努めてワンコっぽい仕草だの何だのを意識しました。
しかし翠さん、こりゃ一生自由の身にはなれないな…(汗)。