どうしても…



「相変わらずモテるなあ」
「………知らない」
  翠(ミドリ)の珍しく害のないその誉め言葉にも亨(トオル)はすっかりぶすくれてロクな返答をしなかった。ふいと車窓を流れる外の景色へ目をやり、憮然として黙りこくる。
「もう…」
  そんな幼馴染に苦笑しつつ、翠はもう一度自分たちがいる周りへとざっと視線を向けた。先ほどから刺すような「熱い視線」をそちこちから感じるのだが、その原因であるこの男はそんな周りの注目など何とも思っていないようだ。慣れているのか麻痺しているのか、こういうところは昔からちっとも変わっていないと思う。翠は自身の事を「痩せっぽちのチビな近眼」と蔑んでいるところがあるので、そんな自分と対照的な亨の事は子どもの頃から密かに疎ましく思っているところがあった。
  それなのに。
「どうしても…」
  亨はそんな翠の気持ちに気づいているのかいないのか。
「どうしてもだよ。しつこいよ、亨」
「………」
  ぎゅっと拳をきつく握り締めた亨は、翠のあっさりとした容赦のない返答にそっと眉を寄せた。目線は相変わらず車窓の景色へとやっているが、実際は何も見ていないのだろう。目の前に立っている翠を意識しているのは明らかだった。
「好きなんだよ…」
  ガタゴトと揺れる車内の中、亨は翠にぽつりとそう漏らした。翠はそんな亨の、もう一体何度聞かされたか分からない告白に目を細め、困ったようにちらりと辺りへ目を配った。幸い、今の亨の台詞を聞いた者はいないようだった。
「そういう事、言うなって言っただろ」
「……いやだ」
「嫌だじゃないよ。迷惑なの。分かる? 俺は迷惑なんだ」
「何で」
「何でって……。ふ…何で、じゃないよ」
  うわ言のようにそう発した亨に、翠はつい頬を緩めてしまった。やっぱりバカだ。見た目はこんなにカッコイイのに、中身は子どものままだ。今こいつに熱い視線を送っている人々は亨のこの外見に惑わされ全く気づいていないけれど、一体「コイツ」のこの本性を知ったらどう思うのだろう。それを考えると悪い気分はしなかった。
  今、この場所では。
  俺だけが亨の「本当」を知っているんだ。
「でも…亨とは一緒に暮らせない」
  自分に言い聞かせるように翠は言った。子どもの頃から何故か自分につきまとっていた亨。比べられていつも嫌な思いをしていた。鬱陶しく思って、随分冷たい態度を取ったりもした。それなのに亨はいつも「翠が俺の一番だ」と言って離れなかった。その一途な眼差しが嬉しくて眩しくて、そして痛くて。
  逃げ出すように独り東京の大学へ来たのは昨年の春だ。
「たとえお前がこっちの大学に受かったとしても、俺は知らないよ。お前とは友達の縁切るって言った」
「こっちで彼女作ったの」
「作ったって言ったら?」
「……別れて」
  まただ。
  駄々っ子のようにそう言った亨の顔を翠は思わずまじまじと見つめてしまった。
  こっそり受けていた東京の大学に受かった時、てっきり地元の大学へ自分と進学するのだと信じていた亨は激情し、翠の事を初めて叩いた。顔を真っ赤にさせてどうして、と。ずっと一緒にいたいって言ったのにと、自分勝手な感情を押し付けて翠の身体をぎゅうぎゅうと痛い程に抱きしめた。
  それでも翠は亨を置いて東京へ出てきてしまった。

  ただ、怖かったのだ。

「殴った事、謝るから」
「……あんな前の事、今さら根に持ったりしてないよ」
「………」
「それより本当に今の大学辞めるのか? 本当にこっちの大学受けるのかよ」
「受けるから来てる」
「……あ。次だな。俺、降りる。お前が泊まってるホテルは次の駅?」
「………」
「亨?」
「………」
  翠の声のすぐ後、次の降車駅を告げるアナウンスが車内に響き渡った。翠の敢えて平然とした態度に亨は何も答えず、ただぐっと拳を握り締めたまま外の方だけを向いていた。その横顔はやっぱりカッコイイなと翠は思った。
「……じゃあ、な。元気でな」
「翠」
「受験するのはお前の勝手だけど、そういう事だから。いきなり連絡してきてさ…俺もこっちに来るとか言われても…。もう、無理だから」
  何が無理なんだろう?
  自分で言いながら翠は心の中でぼんやりとそんな事を思った。昔から亨につきまとわれてまともな恋愛もした事がなく、自分でない他人の温もりで知っている相手と言ったら亨しかいない。亨だけが自分の一番近くにいたのに、どうしてこんな風にひたすらコイツを避けたりしてしまうのだろう?

  ≪怖い≫

  やっぱりそんな単語が翠の頭にぽうっと浮かぶ。
「どうしても…」
「………え」
  その時、また亨がそう呟いた。先刻絞り出すように発したその言葉。翠が「だから」と口を開こうとした時、電車は駅のホームに入り込んだ。
「翠」
  そして誰もがホームに入った方向を見やり、降りる者たちがそちらへ身体を向けた時。
  亨はぐっと翠の手首を掴んだ。
「どうしても翠じゃなきゃいやだ」
「亨……」
「忘れられなかった。1年離れてても」
「………」
「今日会うのに俺が、どれだけ…」
「降りるから…っ」
「翠……」
「放せ、亨」
  強い口調ではなかったけれど、翠のその一言で亨は反射的に手を放した。幼い頃からの習性だろうか、翠の命令に逆らえなかったのか。
「ごめん。……元気でな」
「……いやだ」
「ごめん」
「翠」
  背中を向けた途端、後頭部にガンとそう言う亨の声が掛かった。それでも翠は振り返らず、大勢の客と共に押し出されるようにしてホームへと降り立った。ざわざわとしたホームは本当に大勢の人たちで賑わっていて、今の自分たちのこんな雰囲気などとは全く無関係に電車は新たな人々を乗せ、そして走り去って行く。
「……亨」
  翠はホームに降り立った時、そんな人々の群れに一瞬の眩暈を感じていた。それでも、気づいた時にはもう車内に残った亨の名前を呼んでいた。
  その声は亨に聞こえたかは分からない。発車を知らせる音楽と共に扉はピシャリと閉じられて、2人の間を真っ二つに遮った。
「亨」
  それでも翠は唇にその名をはっきりと乗せ、そっとその幼馴染へと手を振った。直後、こちらをじっと縋るように見つめていた亨がじわりと涙を浮かべて同じように「翠」と呼んだのが分かった。けれどすぐに慌てて涙を拭う所作で、その口元も翠の視界からは隠されてしまった。
  翠はそんな亨に向けて小さく微笑んだ。
  本当は亨の事は好きなのだ。けれどと思う。
  好きだけれど、亨のあの真っ直ぐな想いを受け入れてしまったら、自分は今よりももっと恐ろしい気持ちを味わう事になるだろう。それが分かっていたから亨を愛したくはなかった。それが勝手な感情だと翠は自分で気づいていたが、どうしようもできなかった。
「じゃあな…」
  去って行く電車を見つめながら、翠は言いようもない寂しさを胸に掻き抱きながら暫しその場に佇んでいた。
  亨を泣かせてしまったのはこれでもう一体何回目なのだろう…翠はそんな事を考えながら、そういえば自分が殴られた時も泣いていたのはアイツの方だったと、人もまばらになったホーム上でふっとそんな事を思った。




元ネタ提供:Kakko様