昨夜のバイト疲れで「きっと今日は昼まで寝てしまうな」と思った翠が、否応なく目覚めてしまった理由。 「……暑い」 季節は夏休みの直前である7月だったから、確かに朝から気温は高めだった。 「暑いんだよ、もう…」 けれど翠の意識を現実に戻してしまったのは部屋の蒸し暑さでも、寝巻き用にと着ていたトレーナーのせいでもない。 翠の身体を抱き枕のようにして「ひっし」と抱きついている大きな身体。 「……亨」 誕生日が1日違いという、同じ年。確か小学校低学年の頃までは同じくらいの背丈だった幼馴染。 それがいつの間にやら一人だけむくむくと巨大化し、外面だけは「凛々しく素敵な好青年」なんてもてはやされているけれど―…、実際は信じ難いほどに甘えん坊でうざったい。 「……流されてる」 己の身体に絡みつく頑強な腕をブンと乱暴に取り除けながら、翠は朝から盛大な溜息をついて呟いた。 「何で一緒に寝てんだよ、もう」 |
不健全な朝
|
だって翠がいないと眠れないんだ、というのが、その幼馴染の言い分だ。 「翠が俺に冷たくすると、その翌日は絶対寝不足になってる。どうしたら翠と仲直り出来るかずっと考えるからだよ。だから喧嘩はしたくないの、俺」 「別に喧嘩なんてしてないだろ」 亨の分のコーヒーまで淹れてやる自分に辟易しながら翠は素っ気無く言った。 ここ最近、亨はずっと翠の部屋で寝泊まりしている。気づくと徐々に亨の服や大学の講義本などが増えているから、これではもう一緒に住んでいるようなものだ。 亨の部屋だって隣にきちんとあるのだ。家賃だってその部屋分払っているのだから、隣の部屋で眠ればいいのにといつも思う。 思って、翠も何度となくそう言うのだが、すると決まって亨はぶすくれつつ、偉そうに答える。 だって翠がいないと眠れないんだ、と。 「でも昨日も怒ってたじゃないか」 ダイエットシュガーなんて物足りないよと、それを何本もガバガバとカップに注ぎこみながら亨は言った。 「ちょっと待っててって言っただけなのに。どうせ帰る方向は一緒なんだから、先に帰る事ないじゃん。それに時間だって遅いし、翠一人で帰らせるの、俺は心配なのに」 「俺を何だと思ってるんだよ」 「翠だよ。俺の大好きな翠」 「煩い。そんな事訊いてんじゃない。バイト先とうちと、たったあれだけの距離、一人で帰れないわけないだろ。心配も何もない。それを言うなら、昨日の子を送ってやれ」 「……ほら、やっぱり怒ってる」 相当に甘ったるいだろうコーヒーをぐびりと一口やった亨は、何故か酷く苦そうな顔をすると乱暴な手つきでカップをテーブルに置いた。恐らくその表情を作らせた「最たる原因」を思い出し、コーヒーの味とは関係なく、自然渋い顔になったのだろう。 「あんなの。俺、興味ない」 「それも俺は訊いてない」 「訊いてなくても言う。うざいんだよ、俺に近づいてくるオンナって、みんな。俺は翠の事しか好きじゃない。翠しかいらないんだから」 「……朝からそんな話聞きたくない」 「だって翠が!」 冷たいのがいけない、と亨は再び子どものようにぶうたれながら、一旦は置いたコーヒーの残りを一気に、自棄酒のように飲み干した。 そうしてどこか酔っ払ったような、据わったような剣呑な目つきになると、やはり腹を立てたようになって声を荒げた。 「何でなのかな。翠。俺って、何でオンナからすぐ告白?とかってやつ? それ、されんの?」 「……お前、本当に嫌な奴だよ」 翠がそっぽを向いたままそう返すと、亨はもっともだという風に頷いた。 「そうだよ。俺、自覚あるもん。俺、あんまりイイ奴じゃないよ。悪い奴とも思ってないけど。あ、翠と比べたら性格悪いけど」 「で?」 「なのに、すぐオンナが近づいてくるじゃん。馴れ馴れしい、昨日の奴なんて、バイトのシフトでも2回くらいしか一緒になった事ないのに」 「そんな事ない。清水さんとお前はほぼ同じシフトだし、同じフロアだし、お前もしょっちゅう喋ってた」 「そんなの覚えてない。シミズサンなんて名前も認識してない。逆に何で翠がそんな事知ってんのって感じ」 「……一緒に働いていれば覚えるだろ」 「俺は覚えられない」 頭悪いからかなと呟いて、亨はむすりとして暫し黙りこくった。 日曜日の朝から亨とこんな風に向き合ってこんな風に話す事など望んでいない。 望んでいないのに、気づくと翠はいつでも亨を傍に感じ、亨の事ばかり考えさせられている。 いつも亨が翠の近くにいるからだ。関わってくるからだ。 それを最後のところで結局許容しているのは翠自身なのだけれど。 「翠、誤解してない?」 「……何が」 ふと亨が再び口を開いた事に翠ははっとして顔を上げた。それでもすぐさま下を向いたのは、何となく亨の真摯な顔を見ていたくなかったし、一口も啜っていないコーヒーが既に酷く冷たくなっていた事に驚いたからだ。 「翠」 そんな翠に不服があるという風な棘のある声で亨は呼んだ。 「いつもみたいに告白されたけど、俺はすぐに断ったんだよ。俺、好きな子いるから付き合えないって。翠の名前は出してないし、ちゃんとその後、『ごめんね、でもありがとう』も言っておいた。翠が言えって言うからだ」 「……よく出来たよ。それは絶対に言え」 「もっとちゃんと誉めて欲しいんだけど!」 「………」 本当に子どもだ、いやそれ以下だと呆れながら、翠は半ば信じ難いものでも見るような想いで、改めて目の前の幼馴染へと視線をやった。 亨が「やっぱり一緒にいないと駄目だ」と、単身東京の大学へ進学した翠の後を追ってきたのは今年の春先だ。受験の前に一度顔を合わせていたから既にそれなりの覚悟を踏んだ上での「再会」だったが、翠は亨が、ともすれば昔よりも更に積極的に自分に関わってこようとする事が恐ろしくてならなかった。 亨は昔から折に触れて「翠が好き」、「翠しかいらない」というような台詞を恥ずかしげもなく口にしていた。だから双方の家族はもう「その事」を当然のように受け留めていて、「亨はそんなに翠が好きなのか、そうかそうか」で済ませているところがあるのだが……、当の翠としては堪ったものではなかった。 そんな風にあからさまに近づいてこられても、困る。 亨の事は好きだ。確かに好きだけれど、でも「そんな風に」来られても、怖い。 怖い、のだ。 「この間も大学の知らないオンナが後つけてきてて、翠が俺といつも一緒にいるのは何でだってしつこく訊いてきて……殴りたくなるの、必死で堪えてた」 つい考えこんで意識を遠くへやっていた翠に亨がぼそりとそう呟いた。ギクリとして咄嗟に視線を戻すと、亨はとうにそんな翠を見やっていて、「本気でうざい。翠が嫌がらなかったら殺してる」などと「わざと」物騒な事を口にした。 最近、どんどんエスカレートしている。 やばいな、と思う。 「亨は極端なんだよ。言う事も、やる事も」 「そう?」 「そうだよ。普段は普通だけど……もう、そういうところを見たり感じたりする度に、俺、凄く嫌になる。もう出てって」 「……っ。ごめん、もう言わない」 翠の気だるげな言い方に亨もはっとしたのか、慌てて表情を変えると焦りながら立ち上がった。 ぐんと途端に大きくなる亨の姿に、それで翠はまた目が眩みそうになった。 「翠、ごめんっ。今のは嘘だからっ」 「嘘じゃないだろ、割と本気だろ」 さっとテーブルを周りこんで自分の所へやってきた亨を、翠は「近づくな」と言わんばかりの体で片手を出した……が、そんな細腕はあっさり退けられ、翠は亨の大きな身体に包み込まれた。 「暑いな…っ。もう、くっつくなよ!」 「嫌だっ! ごめん、翠! もう変な事言わないからっ。だから嫌わないでよ!」 「嫌ってない! けど、離さないと嫌いになる!!」 「翠っ」 びくりと身体を震わせて、亨は咄嗟に翠の身体から飛び退ると、ほんの数十センチの距離を取って固まった。強引なくせに、こんな時はどんな人間からの情も誘うような憐れな目をして、迷子の仔犬ように頼りなげな雰囲気を漂わせる。 だからずるい、と翠は思う。 「……まったく」 それでもいつも翻弄される自分の方こそが絶対的に可哀想なのだと、翠は何度も言い聞かせ、敢えてそんな亨から目を逸らした。直視してしまえばまた許してしまいそうで、「昨夜のように」また絆されてしまいそうで、それが堪らなく悔しかったから。 だから、いつものように流そうとした。 「もういいから。早く部屋戻れ」 「翠……」 「そんな声出しても駄目だ。いいから、戻れ」 「……嫌だ」 予想していた言葉とは言えむかっ腹が立って、翠は下を向いて目を瞑ったまま搾り出すようなヒステリックな声を上げた。 「嫌なのはこっちだ! 折角の休みなのに! お前の煩い話なんか聞きたくないんだよ、面倒臭いんだよ! もう早く出てけってば!」 「嫌いにならないって言ったのに! 離れても、そんな風に言われるなら、もう絶対離れない!」 「亨っ!!」 結局いつも自分たちはこうなるのだ。 心の中でそれを分かっていながらも、翠は亨の言い分にもなっていない言い分にまたカッとして、再び襲い掛かってきた幼馴染に拳をぶつけようとした。 「離せよ! 離せってば!」 けれどその拳も何なく交わされ、逆に両の手首を掴まれる。 「亨っ!」 「嫌だ、今日は言う事きかない! だって、離れても出てけって言う翠が悪い!」 「亨! 本当に嫌いになるぞ!?」 「本当に嫌ったら…!」 「痛っ…」 ガンと乱暴に畳に身体を押し付けられて、翠は後頭部の痛みに顔を歪めた。おまけに身体全部に圧し掛かるように大きな亨が両手を掴んで雁字搦めにしてくるものだから堪らない。こうされるともう抵抗が出来ないのだから自分は圧倒的に不利だ。せめて目だけはとぎっとして上向かせると、しかし亨の方は更に怒った目で翠の事を睨みつけてきた。 「何でそんな冷たいの。最近、怒る回数増えたよ」 「お前が怒らせるからじゃないかッ」 「違う。翠が怒りっぽくなったんだ。東京なんかに来たからいけないんだ」 「何の関係があるんだよ! そんなの関係ない!」 「関係あるよ。翠はこっちに来てからカッカくる回数増えたもん。俺がオンナから告白された後って大概不機嫌になるけど……最近酷いよ」 「はあぁ…!? べ…つに、お前の事は関係――」 なくはないので思わず口ごもった翠だが、「亨が告白されたら不機嫌になる」下りには思い切り引っかかって、翠は口をぱくぱくと動かした。呆れの感情が先に立っていたからというのもある。 「……亨。いいから、とりあえず、どけ」 「翠が怒るのやめたら。あと、誓って。大学終わったら一緒に家帰るって」 「はぁ…っ? はは…何言って…何だよそれ…?」 「帰るの。俺、こんな所嫌だ。俺たちの事ちゃんと分かってくれる人たちの傍で暮らしてた方が翠も落ち着くよ。俺だって翠と幸せになりたいもん」 「何を…勝手な事ばっかり…」 「翠だって勝手したじゃないか。俺に内緒でこっち来て。勝手にさよならなんてして。そんな事できないの、分かっているくせに」 「………っ」 当たり前のように、どこか嘲笑するような気配すら感じさせて亨が言った。 先刻のちらりと見せた、どこか危げな、そして暴力的な部分の亨だった。いつでも従順な犬ではない。いつでも笑って無条件にすり突いてくるだけでもない。 時に凶暴な野生の部分を垣間見せて、徐々に翠を追い詰めていく。 「……何言って」 こんな部分を知っているのは、恐らく自分だけだと翠は思う。 「亨から離れたかったからだろ…」 「何」 「亨から離れたかったから東京に来たんだろ…。勝手にさよならって、別に勝手にくっついてたのはお前だろ……」 「そん…そんな風に言ったって、俺はもう絶対翠から離れない」 最後の抵抗とばかりにもがく翠に、亨も多少動揺したような素振りを見せたものの、両手に掛けた拘束は一向に緩まる事がなかった。 それどころか。 「翠がそうやって俺を避けると…俺、おかしくなるよ」 亨はぐしゃりと相貌を歪ませてまたしても泣き出しそうになると、そのまま己の口で翠の唇を吸い、それを何度も繰り返してからその端や顎先、首筋まで舐めるようにキスし始めた。 「亨…っ」 「翠、好き…」 「もう、亨…」 これじゃ昨夜と同じじゃないかと思いながら、翠は必死に嫌なのだと思いながら身体を捩らせた。 それでも亨の暴走は止まらず、自分を避ける翠が悪いのだと言わんばかりにキスを繰り返し、身体をまさぐり、翠の朝着替えたばかりの服を脱がそうと手を掛けた。 股間にも自身の身体を擦り付け、既に硬くなっているものを翠に意識させる。 「亨…っ」 「翠としたいよ。凄くしたい。どうしてさせてくれない?」 「男同士で…出来るわけないだろ…っ」 高校最後の年、自分に対し執拗にセックスを迫る亨の事が、翠は本当に心から恐ろしかった。「好きだ」、「愛してる」の告白から過度なスキンシップが増え、年を重ねる毎にそのじゃれ合いが口づけや身体へのキスや、さり気ない愛撫からどんどん激しいものになっていった時、翠は本当の意味で亨への感情を自覚させられた。 亨の事を好きだけれど、それは身体を繋げたいとまで欲する愛情なのか。 このまま流されたら自分は一体どうなるのだろう。 「亨! 本当に、離さないと怒るぞ…!」 「じゃあ気持ち良くして。いつもみたいに。それだけでいいから」 「今…何時だと…!」 亨に触られているという理由だけでなくカッと身体に血が上って、翠は顔中を赤くさせた。 挿れさせてくれないなら翠がしてと言った亨に、まるで妥協してもらったように錯覚して「言う通り」にしてやったのは高校3年の夏前。 丁度今と同じような季節だった。 「翠のもよくしてあげるから」 「俺は…亨…っ」 そうして今と同じように。 あの時も恐る恐る手でイかせてやった翠とは違って、亨はまるで誰かとの経験があるかのように、実に手際良く、実に巧く己の口で翠の精を出させてやった。 それは従順な召使いのように。 それでも支配されているのは自分だと翠は感じていたのだけれど。 「んっ…」 「翠、気持ちいい…?」 素早く脱がされ晒された下半身を思い切り意識しながら、翠は薄っすらと目を開いた状態で亨の言葉を聞いていた。亨の優しい手が、大きな指先が自分の性器を愛撫しては激しく扱いて刺激してくる。堪らなくなり、「くう」と喉の奥で悲鳴を上げると、亨は焦燥しながらも自分の事のように嬉しそうに笑んで、やがて自らの口でも奉仕を始めた。 「翠、もう怒るの止めて」と言って、その行為を始めた昨夜のように。 「あ…、あ、あ、も…っ。亨、亨…っ」 「翠、可愛い。凄く、凄く好き…」 亨の息遣いも粗くなり、慰められたその口で思わず口づけをされてしまう。深く唇同士が重なりあって何が何だか分からなくなった頃、同じように下を晒していた亨が翠の高くそそり勃ったものに自分のそれを擦り付け、激しく動き出した。 「翠、翠…っ。はあ…好き…好きだ…っ」 「とお…んんっ…!」 唇を貪られながらされるその行為に今度こそ翠は気が遠くなった。 ああ、日曜日の朝から、俺たちは一体何をしているのだろう? 「亨……んっ…」 「翠…ずっと一緒だよ……?」 キスの合間にそう囁かれて、翠は今度こそゆっくりと目を閉じた。もう逃げられない。どうあっても逃げさせてはくれない。 「―…ッ」 そう思いながらも、翠は悔しくてならなくて―……八つ当たりのように、己の身体にしがみついてくる亨の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。 「バカ……バカ!」 そうして2回だけ罵ると、翠は今度こそ亨の行為に目を瞑った。 瞑って、けれどいつの間にか下と同じように晒されていた胸を亨に噛まれた事で感じて……翠は不覚にも高い嬌声を上げてしまった。 |
了
|
飼い犬に手を噛まれる…どころじゃない??
まあ、いざとなったら人間より犬の方が余裕で強いですし…。
でも、今回はワンコって感じじゃなかったですね。