ひっつく彼



  元々翠が選んだ大学は学部数そのものが少ない上、キャンパスが2つに分かれていたから、文学部と経済学部しかないK町校舎はその敷地自体狭かった。
  けれど。

「あ、斎木君見っけー!」
「煩い! お前等うざい! まとわりつくなっ!」
「やー、そういうところも何か好きー」
「ねー」

  例え広いキャンパスで、どんなに大勢の人間がその周囲に立っていたとしても、自分は亨を見つけてしまう―…翠にはそれが分かっていた。
  そしてそれは亨も同じなのだ。
「翠!」
「………」
  どうしてこんなに小さな自分を何処にいても発見してしまうのだろう。亨は犬なみに嗅覚が鋭いか、それとも目が良いか…事実としては両方なのだけれども、今はその事を素直に「凄いな」と誉めてやる気持ちにはなれなかった。
  女の子達と一緒にいる亨を相手にするのは特に嫌なのに。
「翠、待っててってメールしたのに」
「授業中だし電源消してた」
「でも今会えたから良かった! 帰るんだろ?」
「えーっ、斎木君も帰っちゃうのー!」
  必死に翠に話しかける亨に雲行きの怪しさを感じた彼女達はあからさま残念そうな顔をし、恨み節たっぷりの眼で翠を睨み付けた。
  翠はそのいつもの視線に心底辟易する。

  俺が悪いわけじゃない。お前達が亨をしっかり捕まえておけばいいんじゃないか。

「亨は遊んできなよ。折角東京の大学に入学したばっかなんだし」
  ウンザリした想いを抱きながら、つい高校の時のような愛想笑いをしてしまう。
  そんな自分が翠は嫌で仕方がなかった。
  折角安寧とした暮らしを手に入れたのだ、たとえ亨が自分を追いかけてきたからと言っても、過度な優しさを与えるつもりはない。それでは昔と何も変わりない、成長しないままの「2人」になってしまう。

  亨、俺は「まっとうな人生」を歩むって決めてるんだ。

  心の中でそんな事を呟きながら、翠はにこりと害のない笑みを亨に向けて放ってやった。亨はそれに途端「うっ」と喉を詰まらせたようにたじろぐ。恐らくは直感で受けとめたのだろう、「これ以上しつこくしたらお前を嫌う」という翠の無言メッセージを。
「……別に遊びたくなんかないのに」
「俺、レポートあるし、市の図書館に用があるんだ。お先に」
「ばいばーい」
「翠さん、さようならあ!」
  翠自身は彼女達の名前も顔の判別もついていないというのに、亨に群がる新入生達は、もうとっくに翠の事を知っているようだった。ああして気楽に名前を呼ばれ、挨拶される事などザラだ。
  亨が翠の後を追って東京の大学に来てからまだ2ヶ月程しか経っていない。それなのに、「何をしていても目立つ斎木亨」のせいで、「今までその存在も知らなかった江田翠」までが、今やちょっとした有名人となっていた。
「はあ」
  疲れる、と思わず呟き、翠は自嘲したように笑った。
  亨はやっぱり変わらない。
  いや、身長は変わったか。元々背の高いあの身体はまだ成長を遂げているようで、見上げる位置が以前より1〜2センチ程高くなった。けれどその恵まれた体躯に、周囲を惹き付ける際立った容貌、それに自信に満ちた話し方やフットワークの良さなどは昔からのもので、それ故亨の周りには常に大勢の人間が群がった。
  翠の前ではただ甘えたがりな泣き虫の情けない奴なのに。多少強引なところは時々怖いけれど、基本的に亨は翠には絶対服従な「弱い」存在に過ぎないのに。
  外で見る亨はそれとは全く逆の、翠にとってはとても遠い「強い」位置にいる人間だった。
「何で追いかけてきちゃうかな…」
  大学合格が決まった時、亨は家族よりも誰よりも真っ先に翠に電話を掛けてきて「受かった」と一言告げた。
  翠はその時の事をそうなる前から予想していて、「絶対におめでとうは言わない」と事前に誓っていたのだけれど、翠が幾ら「そう」とか「だから?」とか返しても亨が一言も喋らず、また「絶対に切らないで」という雰囲気を漂わせるものだから、結局根負けして「おめでとう」と言ってしまった。
  その後の亨の調子に乗った態度は、今こうして事あるごとにキャンパスでもひっついてこようとするところからして一目瞭然である。
「バカ……」
  あんな風に俺にあからさま懐いた顔見せるな。
  また誤解される。
  またいらぬ中傷を受けて煩わしさが増す。
  また余計に――。

  余計に俺は、お前の事を考えて胸が苦しくなるんだ。

「バカ亨…」
  改札を通り、閑散とした駅のホームに上がったところで翠はまた何ともなしに呟いた。結局、こうなってしまった。
  結局、亨がやってきたこの2ヶ月、亨の事ばかり考えてしまっている。





「翠」
「―……」
  多少予測していたとはいえ、目の前にその大きな図体が現れ上機嫌な声を投げられた時は、翠はそのままその呑気な顔を殴ってやりたい衝動に駆られた。
「…どうしたの」
  翠は亨に予告した通り、レポートの為の資料に使える本を探しに市の大きな中央図書館に来ており、そこの自習用スペースで選んだ資料本を積み重ねて重要事項をノートにまとめている真っ最中だった。
  夕刻過ぎの閉館間際な時間帯だけに、本を借りようと慌しく動き回っている人が多く亨の声も目立たなかったが、ここへ来た以上、大学では「目立った」事になっているのは間違いなかった。
「彼女達どうしたの」
「知らない。適当に話した後、バイバイしたし」
「そんなの失礼だろ。一緒に飲みに行くぐらいしろよ、たまには」
「たまにならしてる」
  目の前に立つ事はやめ、亨は机に両手をつきながらツツと回りこんで翠が座る席の隣にどっかと腰をおろした。椅子を妙に近づけてきて座るせいで、机に向かっている翠の視線からも亨の姿が見える。というか、やたら腰や太股に触れてくるそのスキンシップはどうにかならないのかとイライラしてしまう。
  いつもの事とは言え。
「翠がちゃんと他の人間とも付き合えって言うから、言う事聞いてその通りにしてるんだよ。行きたくもない飲み会だって1ヶ月に2回も行ってる」
「大学に入ったばかりの人にしたら少ないよ。特に亨は人気者なんだからさ」
「知らないよ、そんなの」
  むうと子どものように頬を膨らませ、亨は自分を見てくれと言わんばかりの焦れた様子で更に椅子を引き、翠に接近してきた。さすがに太股からは手を離したが、代わりとでも言うようにそっと腕に触れてくるその手の動きは鬱陶しくて堪らなかった。
  亨の事は嫌いじゃないのだ。
  それでも、こういう時にそういう事はして欲しくない。
  しかし亨は亨で素っ気無い翠には業を煮やしているのか、何やら急いたように早口でまくしたてる。
「俺、翠以外どうでもいいんだもん。それに、新しい大学入ったからって、もう他の人間とはそれなりにしか付き合わない。ここへ来る前にそれは決めてる」
「………」
「本当は翠としか話していたくないもん」
「そんな無茶言わないの」
「……翠。こっち見てよ」
  周囲に誰かいたらどうしてくれる。
  そう思いながら翠が頑固にノートを睨みつけ、シャーペンを走らせていると、亨は遂にカッとしたようになって翠が持っていたペンを取り上げた。
「亨…!」
  思わず大声を出しそうになるのをハッとして止めたが、それでも翠はキッとして深刻な顔の亨を睨み据えた。
「返せ」
「何で見てくれないの」
「見て分からないのか。俺、勉強してるんだろう?」
「そんなのどうでもいいじゃん」
「……どうしてそう勝手な事が言えるんだ」
  呆れて溜息をついたものの、確かにこんな風に堂々巡りばかり続けている自分達を何とかする以上に大切な事はないような気がした。
  だから強くは言えなかった。
  案の定亨は譲る気はないとばかりにぐっと掴んだペンを握り締めて離さなかった。
「翠と一緒にいたい。学年も学部も違うから大学で一緒になれる事本当に少ないし。そしたら帰りとか夜しか一緒にいられないのに、翠はわざと一人で先に帰ったりバイトの日を増やしたりした」
「……わざとじゃない。お金が欲しかったから増やしただけ」
「お金、何でそんな困ってるの」
「別に」
「何か欲しい物があるなら買ってあげる」
「いらない」
  実際欲しい物があるわけでも金に困っているわけでもなかった。
  亨の言う通りなのだ、ただ亨と距離を取りたいから。
  亨と深く関わって、自分の中をおかしくしたくないから。
「大体バイトもしてない奴が何だよ。偉そうに、おばさん達からの仕送りで俺に何か買ってくれるって?」
「バイト始めるよ。翠と同じとこ」
「なっ……」
「昨日面接受かったし。明日から一緒のシフト」
「………」
  ボー然としてまじまじと亨の静かな顔を見やっていると、翠が何かを言う前に亨がくしゃりと表情を歪めた。
  そしてまた今にも泣き出しそうな顔で言った。
「俺のこと、ストーカーとかで訴える?」
「……一瞬そう思ったけど……って、もう嘘だよ!」
  亨にここで大泣きされては事だと思い、翠は慌てて訂正し、慰めるようにその少し長い前髪をかきあげながら額を撫でてやった。何故俺がこんな風にいつも亨の機嫌を気にして優しくしてやらなければならないのだと想っているのに、結局最後にはそうして亨の想うままに甘やかしてしまった。
  だから成長できない、一緒にいると、ずっと。
「翠に嫌われたら生きてけない」
  その差し出してやった手をおもむろに両手で掴まれ、翠は亨から縋るようにそう言われた。
  慣れきっている台詞とはいえ、何度聞かされても胸が痛かった。
「翠が嫌がる事したくないんだよ? 本当は。……でも、多少無茶しないと本当に一緒にいられないし……」
「…多少じゃないだろ。かなり無茶苦茶だよ」
「それにっ。一緒にいないと、もし万が一翠に変な虫がついた時、俺が追い払ってやれないだろ」
「亨より大きな虫はついてないよ」
  ああ、でもお前は犬だったか…という言葉は、寸前で喉の奥へ消し去る事が出来た。
「翠」
  それでもぎゅうぎゅうと手を握り、あまつさえそこに唇を当ててきた亨に翠は心底嘆息して、「やめろ」と短く拒絶の意を吐いた。
「こんなとこ誰かに見られたら、俺今度こそお前の前から消える。失踪するぞ。それでもいいのか」
「い、嫌だっ」
  慌てて唇を離した亨は「ごめん、ごめんね」と惨めなくらい平身低頭で謝った……が、あと数時間もすれば元に戻る事は翠が一番よく知っていた。


「ねえ、誰も見てなかったら、またキスしてもいい?」


  その証拠に、図書館を出てから数歩前を歩く翠に、その後ろから亨はまるで悪びれもなくそう言った。少しだけ恐る恐るというような空気も漂ってはいたけれど、一緒に帰る事を許してくれた翠がそれほど機嫌も悪くないだろう事を量った上での申し出だった。
「手もちゃんと繋ぎたい。部屋の中でならいい?」
「部屋の中で手を繋いでどうするんだよ」
「一緒に眠る」
  前みたいに、と。
  そう言って無邪気に笑う亨の顔を、翠は振り返りざま一瞬だけ視界に入れた。一瞬だけですぐにまた前を向いたのは、それをずっと見ていたらきっと自分は「いいよ」とあっさり受け入れてしまうのじゃないかと、それが怖かったから。
  亨という純粋な、それでいて残酷な男に巻き込まれるのが怖い。
  いや、もうとっくに引き込まれて抜けられなくなっているのだけれど。
「亨なんて嫌い」
  一言、そう言い捨てて翠は歩き続けた。
  亨があわあわと慌てる空気を背中にひしひしと感じながら、翠は決して振り返らなかった。
  せめてあのアパートに帰るまでは。
  誰の目にも留まらないあの空間に帰り着くまでは、せいぜい亨に冷たくしてやろうと何度も何度も心に言い聞かせた。







翠よ…アパートに着いたら手握らせて一緒に寝てやるのか…?