コンビニで



  どうしても亨から離れられない。
  それを最近、翠は諦めと共に受け入れかけている。
「なぁ。ちょっとそこで待ってて」
  それでも少しで良いから、ほんの僅かな間だけでも良いから一人になりたい、亨から離れたいと思う時がある。亨のことが嫌いではない、それは間違いないけれど、翠はそういう気持ちがじわじわと沸いた時は「可哀想かな」と思いつつ、はっきり気持ちを伝えることにしている。この頃は、そう努めている。
「何で。夕飯買うんでしょ。俺だって買いたい物ある」
  けれど当然のことながら、この幼馴染は翠の言うことを全面的に受け入れてはくれない。今もそうだ。自分の仕事は2時間も前に終わったのに、翠が上がるのを律儀に待ち続けた。そしてそんなアルバイトの帰り道、亨は街灯がぽつぽつあるだけの暗い夜道をいやに明るい表情で、ともすれば翠にじゃれつき、そのまま抱き着いてくるのではないかという勢いで密着してきていた。
  だからこんな時、「ああ嫌だな」と翠は思う。
  亨を嫌いじゃない、でも、あんまり「露骨な亨」にはついていけない。
「そっちにもローソンあるだろ。お前はそっちに行けば」
「何で! 俺だってセブンがいい」
「じゃあ俺がローソン行くから、お前はセブン」
「……じゃあ俺もローソンに行く」
  もう翠の意図は十分分かっているようなのに、ぶすくれた態度で亨はそう返して口を尖らせた。
  あからさまなため息が漏れそうになって、けれど翠は、ふと自分たちの横を通り過ぎた青年と、その彼が連れている犬へと視線がいった。綺麗な毛並の、茶色いトイプードル。すました顔で跳ねるように歩いていたその犬は、しかし主人である青年と夜道を歩くのが楽しくて仕方がないのだろう、尻尾を激しく振りながらやたらと青年を見上げ、時には擦り寄るように飛び付いたりもしている。お世辞にも躾の行き届いた犬という風ではなかったが、青年が好きで仕方がないというその仕草は、恐らく犬を特別嫌いな人間でもなければ微笑を誘うような光景だった。
  そうだ、亨も本当に犬だったら良かったのに。
  バカなことを考えて思わず微苦笑が漏れると、事情を知らない亨が不審な顔をして眉をひそめた。翠はそんな亨を無視してコンビニの駐車場スペースに入って行った青年と犬をまだ目で追った。青年もコンビニに用があるようだ。彼は自分を一心に見つめ未だはしゃいでいる犬の綱を駐車場脇の鉄柵にくくりつけると、一言何事か声をかけてそのまま店へと入って行った。恐らく、そこで良い子に待っているようにとでも言い置いたのであろう。
  プードルは店へと入って行く青年の背中をじっと見つめ、それからややあってすとんとその場に座りこんだ。
(犬だってあんな風に待てるじゃないか……)
  翠はすっかり感心して、今すぐあの犬を撫でに行きたい衝動に駆られた……が、遂にガーガー文句を言い始めた亨をさすがに無視しきれなくなった。
  それで仕方がないという風に視線を戻し、翠は「何」と亨をねめつけた。
「こんな時間に騒ぐなよ、みっともない」
「だって翠が無視するからだろ! 何だよぼーっとして!」
「いつになったら亨が諦めて俺の言う通りにしてくれるのかと思って」
「何が!?」
「だから、俺は一人でコンビニに入りたいの。一人でゆっくり、帰った後に食べる夕飯を考えたいの。お前がいると、横でぎゃーぎゃー喚いて煩いし。結局、自分の好きな物選んで俺にそれ作らせようとするし」
「そっ…そんなことない」
「そんなことある」
「別に作らなくていいよ。じゃあ今日は俺がラーメン作る?」
「だから、別に一緒のものにしなくてもいいだろ。特に今日は疲れているし、早く食べたいから弁当とかでもいいし」
「じゃあ俺もそれでいい」
「じゃあ選んできな。どっち行く?」
「翠と同じ方」
「……あのさ。どうせこの後、一緒に帰るだろ? 何でコンビニくらい、別々の所じゃ駄目なんだ?」
「翠こそ、何でそうやっていちいち俺から離れようとするの!?」
「だっ…から、声が大きいって!」
  思わず焦って翠もつい荒い声が出たが、瞬間、背後で「キャン!」という声が響き、その先の言葉は詰まってしまった。
「キャン! キャン!」
  驚いて振り返ると、さきほど良い子でお座りをしていたと思っていたプードルが、今では立ち上がって店の方へ向かい激しく鳴き始めているのが見えた。どうやら、我慢できたのは数分だったらしい。主人の青年が出てこないものだから痺れを切らしたようで、小さなプードルは「早く戻ってきて」と言わんばかりの悲痛な声でか細い声を立て始めた。
「煩い犬」
  亨が呆れたようにぼそりと呟いた。
  翠は思わずぎょっとしてそんな幼馴染を凝視したが、亨には「自覚」がないらしい。お前もあの犬と同じじゃないか、いやむしろあの犬は最初こそ納得してあそこで待とうという姿勢を見せたのだから、幾ら今は煩くとも、お前よりはあの犬の方がマシだと言ってやりたかった。
  それが喉まで出かかったが、そうなる前に亨が再び翠を見下ろした。
「ねえ。それでいつまでここに立っているの」
「はぁ?」
「寒いし。お腹空いたし。早く帰ろうよ」
「だから、夕飯買って帰らないと。今日は何もないんだよ」
「だから入ろうよ」
「だから、亨はそっち。俺はこっちの店に入る」
「何でそんな頑固なの!」
「お前だろ!」
「キャンキャン!」
  まるで2人の言い合いに参加するような勢いだ。プードルがさらに激しく吼え立てて、2人は思わず沈黙した。無論、犬は翠たちのことなどどうでも良いのだ、青年さえ自分の元へ戻ってきてくれればそれで良く、その為にのみ鳴いているのだけれど。
  あまりにタイミングの良いその合いの手に、亨がキッとした眼を向けて犬に八つ当たり気味の声を返した。
「うるっせえな! どういう躾されてんだ、お前!」
「お前が言うな!」
  それで思わず翠もそう怒鳴ったのだが、亨がそれに「は!?」と不本意だという顔を見せた直後、「すみません」と言って犬の主人である青年が店を飛び出てきた。
「煩くてすみません」
  青年は2人が自分の犬のことで喧嘩をしていると思ったらしい。焦った風に何度も頭を下げながら彼は翠たちに謝り、急いで犬にも駆け寄った。
「駄目だろ、騒いじゃ」
  青年は窘めるようにそう囁きながら綱を解いていたが、犬の方はもうそんな「お叱り」などまともに聞いていない。ただただ青年が帰ってきてくれたことに喜び、ちぎれんばかりに尻尾を振りながら小さな身体を青年の足に擦りつけじゃれつく。
「どうもすみませんでした」
  ぼーっとした様子でその光景を眺めていた翠と亨に、青年は再度そう言って頭を下げてから逃げるようにその場を去って行った。翠の勝手なイメージで、躾もしていない飼い主だし、犬を放っておいても平気な大胆な性格をしているのかと思っていたのだが、あの平身低頭な様子を見るに、どうしてもコンビニで済ませたい用事があったのだろう。そんな彼の背中に何か共感めいたものを感じつつ、翠は無意識に肩を落とし、「なあ」と亨を見ずに言った。
「あのさ…。もし、亨が俺に一人で買い物させてくれたら、今日は部屋に泊まってもいいよ」
「え」
  亨が初めて意表をつかれた顔をして絶句した。今の今まで、意地でも一緒の店に入ると息巻いていたくせに、翠のこの妥協案であっという間に揺らいでいる。元々最近は許可などなくてもどんどん私物を翠の部屋へ持ち込んで、あまつさえ泊まってしまうことなどザラなのに。やはり、翠の許可を持ってそれをやるのとでは、さすがの亨にも大分違うものがあるということなのか。
「ホントに…?」
  確認するようにそう訊く亨に、翠はしっかり頷いた。
「うん。コンビニでご飯買うのなんてものの5分かそこらだろ。それを我慢して後はずっと一緒にいるのと、俺をこれ以上不機嫌にさせて無理やり一緒の店に入るのと、どっちがいい」
「……翠、意地悪だ」
「そうかな」
  そうなのかな、ともう一度心の中でその言葉を唱えてから、翠は「でもやっぱり、今、この時だけは亨に押し負かされたくない」という気持ちが勝った。
  それで翠がじっと亨の回答を待っていると、亨はその大きな体躯とは打って変わって、どこか心細そうな小さな声で「待ってる」と呟いた。
「亨もそっちで買い物してきなよ」
「……ううん。俺は翠をここで待ってる」
  亨はそう言ってふいと顔を逸らした。怒っている。けれど、どちらかというと悲しみの方が大きいのかもしれない。心なしか目元を赤くし、亨はくるりと背中を向けると、コンビニ前のガードレールの所に向かってそこに軽く腰かけるような姿勢を取った。
  それから翠をじっと見つめる。
  それで翠も、そんな亨を見つめ返してから、そのままさっと店内へ入った。
「いらっしゃいませ、こんばんは〜」
  アルバイト店員らしき若い青年が気さくな声で挨拶をしてきた。翠は何故かそれを避けるような気持ちで顔を逸らし、機械的に店の奥へと足を進めた。雑誌類が並ぶコーナーの向こう側はガラス張りで外の様子がよく見える。ガードレールの所にいる亨がこちらをじっと見ているのも分かった。今度はそれから逃げるようにして翠は飲料水のあるコーナーを曲がり、特に食べたくもない菓子類の棚が並ぶ所へ回ってわざと身体を外から隠した。
  今となっては、自分こそどうしてこうまで頑なに亨と距離を取りたがったのだろうと思いながら。
(気まずいな……)
  亨の泣きそうな顔が今でも残像として残っている。確かに、意地悪だったのかもしれない。そうだ、意地悪だった。あんなにも自分のことを好きだと言い、ずっと一緒にいたいという亨をあからさま邪険にして、どうしても一人になりたいのだと主張した。それは亨の気持ちを踏みにじることなのに、さっきまではどうしても折れたくないと、そればかりだった。
  でも、いざそれをやり通しても、もうこんなに嫌な気分。
(まだ見てる…)
  ちらと顔半分だけ外へ向けて亨の様子を伺う。亨はあの犬ように泣き喚いて「翠、翠」とは叫ばないけれど、身体全部で「早く出てこい」と言っているのは容易に分かった。恥ずかしくなる。亨の態度、言動を思い返す度に翠は赤面する想いになる。だからこそ、亨を一時でも避けたいと思うのだけれど、そんな無意味なことにばかり意固地になる自分にも居た堪れない。
「はあ……」
  思わずため息交じりの声が漏れて、翠は慌てて顔を上げた。傍には偶々商品を物色していた壮年の女性がいて、何ともなしに目が合ってしまった。きっと今のため息も聞かれたに違いない。翠は慌てて弁当コーナーへ行き、大して食べたくもない幕の内弁当を手に取って、それからやや迷った末、同じ物をもう一つ手にした。
  会計を済ませてコンビニを出ると、自動ドアのすぐ目の前に亨がいて、翠は思わず足を止めた。
「帰ろ」
  しかし亨は平然とした顔でそう言って、翠からコンビニの袋を奪い取るようにして自分が持った。相変わらずのふてぶてしい態度だ。ただ、先刻一緒に歩いていた時のようにじゃれついてきたり身体をつけてきたりはしない。それどころか、珍しく亨は翠の2、3歩前を歩き、どこか速足でさっさと家路を進んで行く。
「亨」
  速いよ、と言おうとして、けれど翠は黙りこくった。
  ごめん、と言った方がいいのかとも思いつつ、けれどそれも違うような気がして、ただただじっと亨の背中を見つめやる。いつもは並んで歩くのに、そう思いながら、自分は一体何を望んでいるのだろうと考えた。考えて、それでもやはり答えは出なくて、翠はまるで亨に引っ張られているような感覚を抱きながら、ただその後をついていた。
  そうしてふと、先刻の犬とその飼い主である青年の姿を思い浮かべて気が抜けた。
(ああ、やっぱりこれも犬と同じだ。躾のなっていない犬)
  本来ならば散歩中の犬は主人の横を寄り添って歩くものだ。こんな風に自分が主人だという風に先頭を切って歩きはしない。時々その順位付けを勘違いした犬が一生懸命飼い主を引っ張って必死に前を歩く姿を見ることがあるが、賢い犬は悠々と、そして颯爽と主人の横について離れない。
(でも待てよ…。俺は別に、亨の主人じゃないから、やっぱりそれとは事情が違うのかな)
  そんなことを思ってついぼうっとしていたら、不意に亨がちらちらこちらに視線を向けてきているのに気がついた。亨はただがむしゃらに前を行っていたわけではない。ただ自分が怒っているのだとアピールしたくて、でも翠の反応は気になって、実にさり気なく、けれど翠にしてみたらそれはあからさまに、亨はしきりに「見ているよ」サインを送ってきているのだった。
「……っ」
  思わず吹き出しそうになって翠は咄嗟に目を逸らした。
  これもやっぱり先ほどの犬とそっくりだと思ったから。あの犬はやたらと主人の顔を窺い見て、主人が自分を見ているか、主人が自分にどんな反応を返してくれるか興味津々の体だった。亨の方が遥かに大きくて強いのに。やっぱり犬に見えてしまう、そんな自分と亨の関係が何だかとても滑稽に思えた。
「ねえ! 何笑ってんの!」
  その時、遂に耐えきれなくなったのだろう、亨がぴたりと足を止めて声を荒げた。
「え」
  笑っていただろうかと翠は腑抜けた頬に触ってみたが、確かに亨の気に障る態度を取っていたかもしれないと気付いて、それでもやっぱり翠は笑ってしまった。
「俺、怒ってるんだけど!」
「知ってるけど」
「じゃあ何で笑ってんの! そんなに一人で買い物出来たのが楽しかった?」
「うん」
  翠があっさりそれを肯定すると、亨は案の定ぐっと詰まったようになり、それからまた一際泣き出しそうな顔になって目を潤ませた。
「翠」
  そうしてまた「翠は意地悪だ」と言わんばかりの顔でだっとその距離を縮めてくると、そのまま弁当の入った買い物袋を投げ打ってその大きな体躯で翠をぎゅっと抱きしめてきた。
「亨」
  またお前はこんな路上で、と言いたかったけれど、この時は何だか許したい気分で、翠は名前を呼んだきり黙りこくった。ぎゅうぎゅうと抱きしめられて身体が軋む想いをしても黙っていた。
「ねえ翠」
  けれどその後の亨の言葉はやはり頂けないもので。
「ねえ、もう結婚したい」
「はぁ? 何言ってんの」
「結婚して」
「出来ないよ、フツーに」
「どうせ俺たちって普通じゃないんでしょ! だったらいいじゃん、おかしい感じに一緒になったって!」
「あのなぁ…全然、意味が分からないよ」
「だって、翠が……」
  言いかけて、亨はようやくがばりと腕を離し、至近距離で恐る恐る言葉を出した。
「段々、俺の知らない顔を見せて、どんどん何処かへ行こうとする」
「……俺が?」
「それが凄く怖いよ」
  亨の言葉に翠はツキンと胸を痛めた。別に何処にも行きやしない、どうせ亨からは逃げられない。こっちはそう思って半ば諦めてすらいるのに、亨はそういう風に感じているのか。少し意外な気持ちがしてじっと視線を向けていると、不意打ちのような口づけがやってきた。
「ちょっと、亨」
「一緒にいて下さい」
  畏まって亨が頼んだ。翠が思わず黙りこむと、亨は意地になって「お願いします」と繰り返した。
  そして、頼んで、亨は再びきつく抱き着いてきた。
「………亨。痛い」
「嫌だ」
「嫌だじゃなくて……はあ」
  決して厭味ではないため息が自然に漏れた後、翠はぽんと亨の背中を叩いた。亨はびくんと露骨な反応を返したが、それにより抱擁はますますきつくなって翠の身体を熱くさせた。
  いつまでもこんな所でこんな風に抱き合っていたら、きっと誰かに見られてしまう。
「あーあ…」
  それでもこの時の翠は亨を引き剥がすことが出来なくて、もう一度ぽんぽんと亨の背中を叩き、そのまま密着した先の亨の胸にキスするように唇を当てた。
  それが自分の答えなのか。
  そう思いながら、けれどそれを言葉にする勇気まではまだなくて、翠は亨が離れるまで、その大きくも頼りない背中を擦り続けることにした。








可愛いから絆される、みたいな…。
因みに、うちの犬は常に前を歩いていました。
横に並ぼうとするとダッシュしてた(笑)。