迷惑犬は笑う



  翠は皮肉をこめて言ったつもりだったのに、亨には全く効き目がなかったらしい。
  いや、最近ではそのネタを楽しんですらいる。

「翠〜。ごはん!」

  今日も亨は当然のように翠の部屋に居ついていて、これまた当然のように朝の食事をねだってきた。ずっと「自分の部屋で寝ろ」「自分の部屋で食べろ」と言い続けてきた翠が、最近ではすっかり諦めて何も言わなくなったことも大きい。亨はすっかり勝者気取りで、大学へ行く時も一緒、バイトも一緒、そして今日のような休日にも、翠の傍にいて我が侭を言うのだ。

「パンがあるから適当に焼きなよ」

  亨より一足先に起きた翠は、ヨーグルトとトーストという簡単なものではあるが、自分だけ早々に朝食を済ませ、今は洗濯機を回していた。東京の大学へやって来た時は、ただ「亨から離れられるなら」住む部屋など何でもいいと思っていたが、室内に洗濯機を設置できる部屋を借りられたことはラッキーだった。風呂とトイレも別だし、日当たりも良く、近くにはスーパーもコンビニもある。難点は建物が若干古いことと、最寄駅が少し遠いことだが、それくらいは大した痛手ではない。この部屋で何もかもを新しくやり直す。あの時の翠は胸の隅に微かな痛みを抱えつつも、確かな希望を抱いてもいた。
  生まれて初めての、亨がいない生活。

「翠が焼いて〜」

  それなのに。
  気づけば亨はこの部屋に、翠の目の前にいる。しかも相変わらずの図々しさ。ただでさえ徐々に自分の荷物をこちらの部屋に運んできて物も増えて鬱陶しいのに、そんな翠の苛立ちを知ってか知らずか、亨は洗濯も掃除も、そして食事の支度も。何かと翠におぶさってきて「やってやって」とねだってくるのだ。
  昔から甘えたなところはあったが、最近は富に酷い。

「自分で食べるパンくらい自分で焼け」

  だから当然、翠はその要求を突っぱねてふんと鼻を鳴らした。バカバカしい、亨の相手などしていられない。折角の休日だ、本当は部屋でゆっくり読書でもしていたいのだが、どうやらそれは叶いそうにないし、洗濯が終わったら図書館にでも行こう。その方が幾ばくかの心の安寧を得られるに違いない。

「翠〜」

  ちなみに亨は未だ布団の中だ。蓑虫のように掛布団にくるまって、翠にきゅんきゅん甘え続ける。ここまで来るといい加減嫌でも気づいてしまうのだが、恐らくこれらの言動は全部わざとである。いつだったか翠が亨のあまりに過度なスキンシップに耐えかねて思わず「このバカ犬!」と怒鳴りつけてから、亨は意図的に翠の犬になろうとする節が見える。
  ただし、その犬は主人に従順な、どんな命令にも応える忠犬ではなく、翠が罵倒したままの駄犬として。

「お腹空いたよ。ご飯ちょうだい」

  腹が減ればご飯(エサ)を用意してくれる飼い主。
  遊んで欲しい時に優しく構ってくれる飼い主。
  勿論、外へ散歩へ行く時も一緒である。

「……こんな役に立たないペットは要らない」

  ぼそりと毒づいた翠の声は、どうやら亨の耳に届かなかったようだ。「何で休みの日の布団ってこんなに気持ちいいんだろう?」などと呑気に呟き、布団にくるまり直している。翠は大きなため息をついた。
  そうだ、別に役になど立たなくてもいい。ただ本当に「ペット犬」なのだったら、せめて見た目の可愛さ等で主人を癒やすくらいしてほしい。ところがこの駄犬は、役に立たないどころか飼い主を煩わせてばかり、癒やすどころか多大なストレスをも課してくる。百害あって一利なしだ。

「何枚食べるの」

  そこまで思っているはずなのに。
  翠は狭いキッチンへ向かって亨に尋ねた。手にはもう棚に置いてあった食パンの袋が握られている。
  そうして亨の「2枚!」という声と共にそれらを取りだし、トースターに言われた数だけ放り込む。その上、これは頼まれてもいないのに、翠は冷蔵庫から牛乳とヨーグルト、それに卵とハムも出し、自分には作らなかったハムエッグまで作り始めた。
  分からない。
  一体何をしているのか。
  どうして手が動いてしまうのか、翠自身にも分からない。

「美味しそう!」

  フライパンから皿にハムエッグを移しているところで、顔を洗い終わった亨がやってきて目を輝かせた。そうして翠に「ありがとう!」と言いながらぎゅっと抱き着き、その頬に無断のキスを2度もして。亨は心からウキウキした様子で、皿と牛乳の入ったコップを、布団を片した後に配したローテーブルの元へ運んでいった。
  亨が運びきれなかったトーストとバターを翠が運んでやると、亨はさらにキラキラした目で「ありがとう!」と再度礼を言い、「いただきます!」と手を合わせた。
  相変わらず無駄にハイテンションである。
  そして良い食べっぷりである。

「美味しー! やっぱり翠の作るご飯は美味しいね!」
「ただ焼いただけだ」
「翠が焼くと違うよ? パンもハムも卵も何か違う味になるね!」

  俺だとこうはいかないなぁーと、亨はトーストを頬張りながらにこにことして言った。
  翠はそんな亨を黙って見つめながら、ちらりと背後の壁掛け時計を見上げた。1人で図書館へ行くのなら、亨がこうして食べている間に出てしまうのが1番だ。正直、最も読みたい本は今この部屋にあるから、わざわざ出掛ける必要もないのだが…、ここにいたら亨にずっと引っ付かれたまま貴重な休みを終えることになる。
  それは駄目だろうと思う。

「何処か行くなら待っててね。俺も行くから」
「は?」

  しかし先んじて亨がそう言った。翠がそれにむっとした顔を向けると、亨は素知らぬ顔でフォークを動かしつつ、「俺も行くから」と繰り返した。

「亨は今日、用事とかないの」
「あるよ? 今日は休みだから、翠とずっと一緒にいるって大事な用事がある」
「……ウザい。本当にウザい」
「え〜? それひどくない?」
「亨にはさ、偶には俺を一人にしてやろうとかっていう思いやりはないの?」
「ないね。全くない」

  ごくごくと牛乳を飲みほした亨はきっぱりと言い切り、コトンとグラスをテーブルに置くと、初めてまともに翠を見つめた。その眼は爛々としているものの微か余裕の色が含まれていて、またどこか楽しげでもあった。

「ワンコはいつでも傍にいたいものだよ。大好きなご主人様のさ」
「お前はワンコって言うような可愛いもんじゃない」
「翠が言ったんじゃん、俺が犬みたいだって。まぁでも確かにこのナリだから、可愛い小型犬は無理だね。だから、癒し系のデカワンコでいいよ?」
「全然癒し系じゃない。亨は、はた迷惑系! そう、迷惑犬だ!」
「えぇ? フハッ、何それ語呂いいし、面白い! 翠うまいね」
「嬉しくない。全っ然、嬉しくない」
「…俺は嬉しいけどな。こうやって翠とくだらない話ができる時間って」

  全く悪気のない笑顔で亨はそんなことを言い、翠がそれに戸惑うのも構わずに「あのさー」と子どものような口調で、それでいて隙のない瞳を閃かせて続けた。

「翠はこっち来てから前と変わったなって思うけど、どんなになっても、やっぱり根本は同じだね。つまりは、翠のこと大好き」
「な…に、言ってんだよ」
「何かさぁ、こんなのもう何万回も言ってるんだから、毎回照れなくてもいいのに。もう慣れたら?」
「慣れない!」
「そっか」

  はははと軽く笑った亨の顔が、今度は一転、ガラリと大人な男のそれに見えて、翠は秘かに狼狽した。
  変わったと言うのなら、亨もそうだ。それこそ根っこは同じだけれど、どこかが違う。
  そしてそんな亨を、翠は。

「……今日の休日」

  けれど、ここで負けては東京に出てきた意味がない。
  翠は精一杯平静を装い、宣言した。

「何するか決めた」
「うん? なになに、やっぱりどこか行くの? 買い物なら付き合うよ?」
「今日は一日、亨を無視して読書する。そんな俺に話しかけてきたら、それだけ分、無視する時間次の日まで延びるから」
「はぁ〜!? 何それっ!」
「無視」
「ちょっと、翠〜!」

  亨は慌てているけれど、どうせこんな無視攻撃、長くは続かない。また亨がこの巨体を利用して羽交い絞めしてくるのだろうし、そもそも翠自身――。

(じゃれてくる犬をずっと無視するなんて難しいよな)

  そんな風に思ってしまっている時点でやっぱりもう負けている。
  しかしそんなダメな自分を理解した上で、翠はそれでもせめてあと数分は亨を困らせてやろうと決めた。
  あとたったの数分だけだけれど。