シンプル



  翠が俺を避けている事に気づいたのは、高校に入学してから割とすぐだ。
「お前、何だってあんなのとつるんでンの?」
「あーB組の江田(エダ)な。何かっつーと亨にべったりだよな。あんなオタクっぽいのに付きまとわれてお前も悲惨だよなぁ」
「えー、なになに亨君、男子にストーカーされてんの!? ウケる〜!」


「煩いっ! 翠の悪口言うなら、お前らどっか行け!」


  あの時、あいつらを怒鳴って追い払うだけじゃなく、その場で笑っていた連中全員ぶっ飛ばせば良かったんだ、きっと。
  そうすれば翠も俺から離れようなんて思わなかったはずだ。
  でも、俺は最初から反対してた。家から電車で2時間も揺られるような所の高校なんて行きたくないって。担任から絶対大丈夫と太鼓判を押されていた公立校はチャリで10分、他の仲間もみんなそこへ行くと言っていて、だから当然翠もそこへ行くんだって思ってたのに。俺は俺が漕ぐ自転車に翠を乗せて一緒に登校するのを何より楽しみにしていたんだ。中学では自転車通学が禁止だったし。
  なのに翠は俺を無視して「とにかく地元の高校へは行かない」の一点張りだった。そんなに行きたいなら亨はそっちへ行けばいいとすら言った。それで俺が思い切り泣き喚いたもんだから、同じ高校を受ける事だけは許してくれたけど。
  でも、その高校生活の中で俺たちの距離は何だかますます離れていった。俺は翠に何度も好きだと、それこそ小学校の頃から既に何度も告白していたのに、翠は「俺も亨が好きだよ」とは絶対言ってくれなかった。
  ただ黙って、困ったように俯いていた。





「翠ちゃんが気の毒」
  俺の翠への気持ちは地元の仲間ならみんな知っているけど、昔からその事を露骨にからかう奴はあまりいなかった。世間では男が男を好きになったりすると「ホモ」とか「オカマ」とか言われて凄くからかわれると聞いていたが、少なくとも俺たちの周りにそういう奴はいなかった。現に俺は誰からも「気持ち悪い」とか「おかしい」とか言われた事はなかったから。
「それはお前が強い立場にいる人間だからだよ」
  けれどある日。
  俺が翠を追いかけて東京の大学を受けると家族に宣言した日の夜、だ。弟の大吾(ダイゴ)がいきなりそう言って呆れたような顔を見せた。大吾は背の低い父親のDNAを殊の外恨んでいるというチビで、母親似で長身の俺の事もいつも「むかつくデカ犬」と言って八つ当たりしていた。
  大吾は高校3年。つまり今年再び大学入試にチャレンジする俺とは同じ受験生だった。
  その大吾が言った。
「いい加減翠ちゃんを解放してやれよ。折角兄貴と離れて新しい生活を謳歌しているのに、一年遅れでお前が追いかけてくるって、すげえ悪夢だろ。お前、かなり気色悪いよ? もっと早く誰かがその事言ってやりゃあ良かったんだな。けど、お前は無駄にでかくて周りのアイドル様だったから。だから、こんな煩わしい話。めんどくて、お前のキショイとこ誰も教えてやらなかった」
「何訳の分からない事言ってんだよ。出てけよ、俺、今勉強で忙しいんだから」
  迷惑そうに口を尖らせる俺に大吾は余計牙を剥いた。
「俺だって受験だっつの! つーか、今既に大学生のお前が受験とか言ってむかつくんだよ! 仮面浪人なんてやめちまえ!」
「イテ!」
  大吾の繰り出してきた蹴りが俺の足に容赦なく直撃する。
  チビのくせに喧嘩っ早いこの弟が俺は昔から嫌いだった。同じ小さくても翠の方が清楚で可愛くて、翠が俺の弟だったら良かったのにっていつも思ってた。
  そう、翠と家族だったら良かった。そうしたらずっと一緒にいられたのに。
「お前の思考回路全てが気色悪い」
  大吾が俺の考えを読んだのか、ウンザリしたようなため息をついた。短い髪の毛をガリガリと掻き毟り、サッカー部よろしく、再度俺の足を蹴る事も忘れない。
「痛ぇよ! 何すんだよ、とにかく出て行けよ!」
「翠ちゃんを自由にしてやれ!」
「翠のこと《ちゃん》とかつけんな! んな親しい仲かよ!」
  俺がいい加減カッとなって顔を赤くさせると、逆に大吾はいやに勝ち誇った顔をしてハンッと鼻で哂った。
「ああ、お前よりよっぽど親しいよ! 翠ちゃんが大学受験する時、東京の大学受けるって相談持ちかけられたの俺だかんな!」
「なっ…」
  絶句する俺に大吾はますますしてやったりといった顔になり、また偉そうに鼻を鳴らした。
「親も上京には反対してるし、担任に言ったらお前にバレるかもしれないからって誰にも相談できなかったんだってよ。けど翠ちゃん、あっちで英語の勉強したいって言ってた。親が仕送り無理なら奨学金とか取ってでも一人暮らししたいって」
「……英文科なら地元の大学に幾らでもあるだろ」
「だから。お前と離れたかったんだって」
「嘘だ…」
「……嘘じゃねえよ」
  俺が途端涙声になったからだろうか、大吾はほとほと嫌気が差したような顔になったが、いつも俺を泣かせて親に叱られているからか声のトーンをぐっと下げた。それから奴は断りもなく俺のベッドに腰を下ろし、手持ち無沙汰のように傍にあった馬のぬいぐるみを抱きしめた。それは昔、翠が俺の誕生日プレゼントにってくれたものだ。家の近くに競馬場がある関係で、俺たちは小さい頃から馬が好きだった。将来は騎手になりたいなんて言ってた時代もあったくらいだ。
  18を過ぎた今、お互い騎手になる事もなく、選ぶ進路も別々になってしまったけど。
  でも、だからこそ、俺は大学くらいまでは翠と一緒の所に行きたかったんだ。だから翠が受けると行った大学を片っ端から受けたのに。
  翠は東京の大学を受けていた事だけは俺に教えてくれなかった。
  そして俺から離れて行った。
「お前、知ってたのかよ。翠ちゃんがさんざんお前のせいでホモだオカマだってバカにされてたの」
  大吾が言った。
「翠ちゃんが人見知りするようになったのって、絶対お前のせい。お前のせいで翠ちゃんはさんざん周囲の悪意を浴びてたんだから。一人だけ」
「……何…言ってんだよ…そんなの…。た、確かに高校の奴らは時々悪口言ってたけど、でもっ! その度俺がちゃんと止めてたし…っ」
「バカ。そういう奴らは陰でもっと幾らでも言ってんだよ。翠ちゃんはあんまり話そうとしなかったけど、お前が認識してたのより陰湿な奴ら絶対いっぱいいたぜ。それにな、ホントはここいらの奴だってみんなさんざん言ってたんだぞ? 心底キショイのはお前の方なのに、標的にされんのはいつでも翠ちゃんだろ。マジ申し訳なかったよ俺は。バカな兄貴のせいで翠ちゃんの青春おじゃんにしちゃってさ。翠ちゃん可愛いし、いい子だろ。なのにいっつもいっつも! お前にアホみたいにつきまとわれて、お前が睨みきかしてるからか友達もロクに作れねーし、彼女も勿論作れねーし」
「翠に彼女なんか必要ない。俺がいるんだから」
  きっぱりと言う俺に大吾はまた軽蔑するような目を向けた。俺も段々イライラしてきたけど、わざとそっぽを向いて机に向き直った。……だけどさっきまで集中して覚えていた英単語が全部どこかへ飛んでしまった気分だった。
「けど、俺が彼女の友達とか紹介してもらうって言ったのに、翠ちゃんはいいって断ってばっかりだ」
「彼女を紹介!? お前が!? 翠に!?」
  机に向き直ったばかりだったのに大吾のその言葉に俺はぎょっとして振り返った。コイツは一体何を言ってるんだ!?
  けれど狼狽している俺に大吾は知らん顔でまだ馬のぬいぐるみをいじっていた。
「そうだよ。何回か言ったよ、彼女作ろうよって。女できれば兄貴も翠ちゃんのこと諦めるかもと思ってさ」
「ふざけんな! おま…お前っ、何勝手な事してんだよ!?」
「…っせえな! だから断られたって言ってんだろ。俺が兄貴と揉めるの心配したんだろうな」
「……当たり前だ。大体もしそんな女できたら、俺が絶対別れさせる」
「お前…」
  大吾はいよいよハアとため息をついた後、もう話すのも嫌だと言わんばかりの様子でぬいぐるみを置き立ち上がった。俺もいつまでもこのバカ弟と話していたくなかったので止めなかった。
「兄貴」
  だけど部屋を出て行く間際になって大吾は振り返りざま言った。
「翠ちゃんだって兄貴の事とことん嫌いなわけじゃねえよ。でなきゃずっと一緒にいたりしないしさ。けど、お前はマジでウザイ。昔からの知り合いだから言われないだけで、お前のやってる事は立派なストーカーなんだよ。気づけよそんくらい」
「………」
  わざわざ振り返って言った事がそれか。
  俺が何も応えないでいると大吾は続けた。
「何で翠ちゃんがお前から離れようとしてんのか考えろ」
「………」
「…頼むから考えてくれ」
  大吾の、最後は珍しく弱々しい声にも俺は応えなかった。
  だってそんなの分かるわけがない。
  分かりたくない。
  俺は翠が好きで、翠だって俺の事が嫌いじゃない。
  子どもの頃からずっと一緒で、何をするのも一緒だった。幼馴染って言葉があるけど俺たちはまさにそれで、一体いつからそうなっていたのか、俺は常に翠が傍にいないと駄目だった。逆に翠が傍にいると安心した。本当に大切なんだ。一緒にいて当たり前、一緒にいないと不自然。
  それなのに突然東京の大学へ行くと言った翠が許せなくて、俺はその時初めてあいつを殴った。信じられなくて何かの冗談だと思いたくて、でも翠は「ごめん」と言ってそのまま本当に行ってしまった。はじめの一ヶ月はただボー然としていて、翌月はやっぱり翠に会いに行こうとあいつの家へ行った。だけどおばさんは申し訳なさそうな顔で「翠から口止めされているから」と東京の住所を教えてはくれなかった。高校へ行って担任に進学先だけは教えてもらえたけど、それでも翠の住む所は分からなかった。
  その頃になると、弟の大吾のように「もういいじゃないか。翠のことは忘れろ」と言い出す仲間が増えた。前から思っていたけどお前の態度は異常だった、どうしてそんなに翠にばかりこだわるのか分からない、お前たちは所詮男同士だし、たとえ異性同士だとしても、ちょっとお互いに寄り過ぎだ、と。
  だからもう翠の事は忘れろと。
  時間が経てばお互いに適度な距離で一緒にいられるようになるからと。
  俺は嫌だと思う反面、その「適度な距離」という言葉に少しだけ引っかかりを感じて、その時はそう言った奴にも何も言い返さなかった。翠が離れて行ったのもこんなバカな奴(大吾)の「助言」のせいだと腹立たしい気持ちはあったけど、でもそれでも、翠もいつかは俺の元へ戻ろうと思うだろうし、それこそお互いに互いの大切さがよく分かるかもと。
  でもその我慢も夏までだった。
  俺は翠と同じ大学へ行く決心をした。
  半年のブランクはきつかったけど、同じ受験生の大吾より勉強して、成績もすぐ高3のピーク時に戻した。もともと翠より成績は若干上だった。ブランクはきつかったけど、俺のこの執念があれば受験勉強なんて容易い。
  どうしてこれほど好きかなんて考えた事はない。とにかく俺は翠が傍にいないと駄目なんだ。
  でも、翠は?
  翠はそうじゃないのだろうか? どうして行ってしまったんだ。
「ちくしょう…」
  大吾がいなくなったしんとした部屋の中で、俺は握っていたシャーペンのシンをぽきりと折った。





「亨…。そんな所に座りこんでたりしちゃ駄目だろ?」
  受験を終えたその日、俺はやめようと思いつつも翠のアパートの前に座り込んで膝を抱えていた。翠は「バイトだった」と言い、夜遅くに帰宅してきたのだが、ドアの前に座りこんでいた俺を見ると驚くよりも呆れたような苦笑したような顔をして、とにかく困った顔をしていた。
「どうして家が分かった」
「おばさんに教えてもらった」
「……携帯の時と同じか。そりゃそうか」
「………」
  一年間の粘りの結果、俺は翠の母親から東京の住所と電話番号を教えてもらう事に成功していた。
  それでも大学合格が決まるまではと我慢していたんだけど、帰る前にやっぱりもう一度会っておきたかった。
  試験前日に電車内で数分間話した、あれだけでまた当分会えないだなんて俺には辛過ぎた。折角勇気を出して連絡し会いたいと言ったのに、翠が指定した駅のホームでやっと少し言葉を交わしただけ。
  しかもあの時の翠の態度……あんな、今生の別れみたいな「さよなら」は嫌だ。
  だって俺はこれから東京に来て、翠とまたずっと一緒にいるんだから。
「亨。お前を家の中には入れないよ。どこかファミレスにでも行こうか」
  翠が言った。
  今帰ってきたばかりなのにくるりと背を向けて、また街へ向かって歩き出そうとしている。俺が長い事待っていただけあってすぐさま追い帰す気にはなれなかったようだ。
  けど部屋には入れてくれないのか。
「………」
  俺はぐっと唇を噛んだ。
「大吾が…翠のこと解放してやれって」
  だから思わずむかつく弟の言葉が口をついた。
「……大吾が?」
  翠がぴたりと足を止めて振り返った。
「うん」
  弟の名前を呼ぶ翠に無性に腹が立ったけど、翠の声は好きだったから頷いた。
  久しぶりの会話。嬉しくてこんな話題でも早口でまくしたてた。
「翠は高校の時も、昔から俺のせいで周りからホモだってバカにされてたって。俺のせいで翠の青春めちゃくちゃだったって。折角俺から逃げられたのに俺がまた東京に行くなんて翠にとっては悪夢だから、翠のこと自由にしてやれって」
「………」
「そうなの? 翠、俺のこと邪魔? 俺は翠の自由を奪ってた?」
「……そんな事ないよ」
  翠は少しだけ考えた風に黙っていたけど、やがてそう言った。
  そう言ってくれた。
「翠……」
  それでまた俺は泣きそうになったんだけれど、それを察した翠は「ああ」と嘆息してすぐに俺に歩み寄った。そして傍に屈んでくると、「バカ」と言ってそっと俺の頭を撫でてくれた。
「泣くなよ。亨はすぐそうやって泣き落としに入るんだからな」
「泣き落としじゃない」
「そうだよ。亨みたいのにそんな顔されたら、大抵の奴らは落ちるよ」
「翠は?」
「………」
「翠が落ちなきゃ意味ないよ」
「俺だって落ちてるよ」
  あっさりと翠はそう言った。それからまた困ったように笑って、俺の氷みたいに冷たくなってる頬を撫でてくれた。
  翠の手は凄く温かかった。
「なあ。大吾がどう言ったか知らないけどさ…。周りの奴らが言う事なんて、俺はどうだって良かったよ。そんなのいちいち気にしてたら亨と18年間も一緒にいられるわけないだろ? そりゃ…時々は俺ばっかりホモ扱いでお前は全然気づいてないでむかついた事もあったけどさ…。そんな事は……大した問題じゃないんだよ」
「じゃあ…どうして俺から離れた?」
「………」
「俺の事嫌い?」
「だからそうじゃないって」
  翠はどう言って良いか分からないという風に一瞬だけ視線を逸らしたものの、間もなく立ち上がると何気なく夜の空を見上げた。東京は俺たちの町と違って埃臭くて星なんて満足に見えやしない。昔はよく一緒に寝袋を持って野原で星を見た。翠の手を繋いで、どうでもいい事をずっと話したりした。
  あの時がずっと続けば良かったのに。
「怖いんだよ」
  ふと、翠が言った。
「え?」
「怖いんだ…。俺は……お前みたいな奴と一緒にいるのが、怖いんだ」
「翠…?」
  ぎくりとして翠を見上げる。翠はこちらを見ていなかった。けれどその声が震えているみたいで、俺も一緒にぶるりと震えた。
  だから。だから、どうして良いか分からなかったから。
  どうしてよいか分からなかったから、俺はほとんど無意識のうちに、立ち尽くしている翠の両足にがばりと抱きついた。
  翠がまた俺から逃げて行くんじゃないかと思った。そんなのは、もう嫌だ。
「翠。どうして怖いの。俺が怖いの」
「……うん。俺は亨のことが怖い」
「どうしてっ」
「分かんない。でも、お前の気持ちが怖いんだ」
「分からないよ! 何で? 俺は翠が好きなだけなのに。凄く凄く、絶対、一番、大好きなだけなのに!」
「………」
「やっぱり周りの奴らのせいなんだろ? あいつらが余計な事言うから翠、俺と一緒にいるのが怖くなったんだろ? そんなの、おかしいよっ」
「違う…」
「何が違う!?」
「違う…。きっと、これは、俺の問題だから……」
  俺に足を捕まえられたまま、けれどそれに逆らう事もなく翠は呟くようにそう言った。どこか冷めたような、それでいて怯えているような。
「……っ」
  翠の心が見えなくて俺は混乱した。
  単純なことなのに。
  ただ俺を好きって言ってくれれば済む問題なのに。


「誰もがお前みたいにシンプルじゃねえんだよ」


  大吾が偉そうにそう言った事があった。今さらその時の言葉が身に染みた。
  分からない。俺には翠の考えも大吾の言いたい事も分からない。
  ただ俺には翠が必要、それだけなのに。
「翠と一緒にいたい…翠が好きだよ」
「………亨」
  翠は俺の名前を呼んでくれる。
  でも俺に好きとは言ってくれない。
「好きって言ってよ」
  俺はだからストレートにまた頼む。
  翠が俺の望む言葉を言ってくれるまで、俺はいつまでだって言い続けたい。
  誰が何を言っても、翠当人が嫌だと言っても、俺は翠が好きだから。
「俺は翠が好きだから。ずっと…絶対、好きだから」






…全然進展してねえとか言わないようにお願いします。
うちサイトに慣れている方なら言わないと思いますが(いつもそうだから…汗)。
そういうカップル(?)を書くのが好きなんです。