家のない子犬



  友之がその子犬を「見つけてしまった」のは、冷たい雨の降る冬の日だった。
「あ……」
  電信柱の陰、震えてうずくまっているその姿は見るからに憐れを誘った。鼻面だけが黒い、耳の垂れたこげ茶色の毛をしたその子犬は、ようやく自分に注意を向けてくれた人間を認めるとくんくんと甘えた声で鳴いた。
「……っ」
  咄嗟に周囲に目を配った。――が、降りしきる雨の中、家路へと急ぐ人の群れの中に飼い主らしき人間の姿はない。友之たちのいる道の端に視線をやる者はいても、皆、特に立ち止まるでもなく足早にその場を通り過ぎて行ってしまう。
  友之は途方に暮れた。
  その日は光一郎の帰りが遅い日で、友之は自ら買って出た夕飯の材料を揃える為にいつものスーパーへ向かっていた。何でも器用にこなす兄の光一郎とは違い、友之のこさえる食事はお世辞にも上手いとは言えなかった。それでも友之は光一郎の為に出来る事があるのなら何でもしたいと思っていたし、実際にそれが少しでも出来たと感じられると幸せな気持ちになれた。些細な事かもしれなかったけれど、そしてそれはただの自己満足だったのかもしれないけれど、友之は光一郎の為に動く自分の事ならば少しは好きになれそうな気がしていた。
  以前ならば考えもしない、感じる事のできない変化だった。
  だから、さあと台所に立った後で作ろうと思っていた食材が足りないと気づいた手際の悪さは、この際目をつむろうとさえ思えたのである。
「どう…っ」
  しかし、その材料を買いに外へ出て出会ったのがこの犬だった。
  縋るようなその瞳に友之は思い切り動揺した。明らかに助けを求めている。絶えず鼻を鳴らすそのしおらしい姿も声も、友之の感情を揺さぶらずにはいられなかった。その大きさから言っても生後まだ数ヶ月といったところだろう。ようやく乳離れをしたところにこうしてすぐ捨てられたというのなら、随分とひどい話だった。
「………」
  元々友之は犬が好きだ。裕子の家にいる犬とも仲が良かったし、近所の犬にもつい目がいってしまう。
  何の為に外へ出て来たのかすっかり忘れ去って、友之は自分の足元で震えている子犬をそっと自らの胸に掻き抱き、顔を寄せた。甘えたように顔を寄せるその仕草に再びつきんと胸が痛んだ。





  律儀に外で待っていたのは、やはり怒られるだろうと予測しての事だ。
「トモ?」
  とっぷりと日の暮れた夜の暗闇の中、自宅アパートのドアの前に座りこんでいる友之の姿に、帰ってきた光一郎はぎょっとして階段付近で足を止めた。もう当に温かい部屋の中で夕飯の支度を済ませているであろう弟が惨めな顔をして何か黒い塊のようなものを抱きかかえ震えている。寒さからだろうことは、頬だけが妙に火照っているその様子からも容易に見てとれた。
「お前、こんな所で――」
  何を、と言いかけて、しかし光一郎は思わずはっとして口をつぐんだ。
  その最初見た時「黒い塊」としか認識できなかったものが、徐々に慣れた夜目の中ではっきりと識別する事ができたから。
「コウ……」
  心細い声を出した友之に、懐のその子犬も心配そうな声でくうん、と一声鳴いた。
「………」
  光一郎は黙ったままそんな友之の傍に近づき、それから懐で小さくなっている子犬を見下ろした。
「あ…あの、この犬…道で…」
「友之」
  凛とした声で呼ばれて友之は思わず口をつぐんだ。諌める時に呼ばれる口調で、怒られると思うと咄嗟に喉の奥が詰まってしまった。
「………」
  黙りこくると、しんとした辺りの空気はより一層冷たくなったような気がした。
  唾を飲み込むのも一苦労だったが、その沈黙を何とかしたくて友之は俯いたまま精一杯声を出した。
「コ、コウ…」
「うちが犬置けない事くらい知ってるだろ」
「………」
  ぴしゃりと言われて友之はまた口篭った。
  やはり怒っている。当たり前だ。怖くて顔が上げられないでいると、光一郎が微かなため息を漏らすのが分かった。友之は痛む胸を抑え、自分に不安そうな眼を向ける子犬に鼻面を押し当てたまま、ぐっと唇を噛んだ。
  しかし、その後すぐに降りてきた光一郎の声は予想していたようなものとは大分違う、苦笑混じりのものだった。
「……そこでそういう顔するな」
「え…?」
「いつまでもこんな所にいたら寒いだろう? …隣にバレないうちに中入れるぞ」
「え、あ……」
  光一郎はそう言って友之から子犬を奪うと、さっさとドアを開けて玄関の電気を灯けた。
「コウ…?」
「……玄関だけだからな。部屋の中には入れない」
  光一郎はそう言って、仕方がないなという風に少しだけ笑った。





  家人がずっと留守をしていた部屋の中は、外ほどではないにしろ十分冷え切っていた。
  光一郎は友之に「押し入れにあるはずだから」と古本を突っ込んでいたダンボールを持って来させ、そこにタオルケットを入れて中に子犬を入れた。あとは呆然としている友之に人肌を求めて箱から出ようとしている子犬の見張りを言いつけると、1人でさっさと家のことをやり始めた。ヤカンに火をかけ、風呂の湯を張る。部屋にもヒーターを入れて、リビングと玄関に通じるドアは敢えて開けっぱなしにした。
  そうして大体の用意を終わらせてしまうと、光一郎はずっと家の外で座り込んでいた友之の頬を両手で包み、「さっさと温まって来い」と当然のような顔をして浴室の方へ目を向けた。逆らう間などなかった。
「コウ…あの…」
「犬は俺が見ているから」
  心配そうな視線を送る友之に光一郎は素っ気無い調子でそれだけ言った。そんな有無を言わせぬ光一郎の態度を前にしては、友之ももう言う事を聞くより他なかった。
  それに、それが身体を冷やしてしまった自分への光一郎の思いやりだろうという事もよく分かっていたから。





  友之が風呂から出てきた時、光一郎は約束通りまだ玄関にいて子犬を見てくれていた。
「コウ…?」
「ん……」
  着替えたトレーナーとスエットパンツ姿で濡れた髪の毛を拭きながら、友之は光一郎に近づいた。
  アパートで犬は飼えない。だからどんな緊急時であろうと、部屋の中へは決して入れない。子犬を「玄関先に入れるまでに留める」という事で妥協しているところは非常に光一郎らしいと言えた。
「ちゃんと温まったか」
「うん」
  答えながら友之が座っている光一郎の懐をひょいと見やると、そこにはあの子犬がいた。
  光一郎は空腹の子犬に温めたミルクをあげていたらしい。タオルにくるまれ、少しだけ元気を取り戻したような子犬はやや安心したように、自分を抱き手を差し出してくれている光一郎に擦り寄って甘えていた。
「……犬なんて撫でたのは久しぶりだ」
  光一郎はそう言いながらも満更でもないのだろう、わざわざ指先にミルクをつけてそれを子犬に舐めさせてやっていた。友之はそんな光一郎の子犬を慈しむような表情を意外に思うと同時に、その情景に段々と鬱々とした気持ちになるのを感じていた。
  それが何故だかはよく分からなかったが。
「トモ」
  その時、振り返って光一郎がそんな友之を見上げて言った。
「ちゃんと身体拭いたのか?」
「うん」
「髪もきちんと乾かせよ?」
「うん」
  相変わらずの過保護っぷりだ。しかし友之は曖昧に答えたままでドライヤーをあてに行こうとはせず、光一郎の座る玄関先に自分もすとんと腰をおろした。光一郎はそんな友之の態度に一瞬何事か言おうとしたが、友之が子犬を心配していると思ったのだろう、安心させるように言った。
「捨てられて間もないのかもな。別段痩せているとかどこか悪そうだとかいう風には見えない」
「うん」
「もしかしたらただの迷子かもしれないしな…」
「コウ」
「ん?」
「コウは…犬、好き?」
「ん…別に嫌いじゃないな」
「……あんまりそういうの見た事ない」
「え?」
  友之の関心が別のところにあるような気がしたのか、光一郎は途端不審な顔をしてみせた。
  それでも再度子犬に視線を落とすと、光一郎は律儀に友之の求める答えをくれた。
「飼う機会がなかっただろ? 夕実は犬なんか嫌いだとかぶうぶう言ってたし…」
「………」
  そういえばそうかもしれない。裕子のところの犬でさえ、友之があまりに構い過ぎると夕実はこっそり石を投げたりして苛めていた事があった。お陰で裕子の所の犬は友之が1人の時は歓迎していたが、夕実が一緒だと世界の危機だと言わんばかりの声で吠え立てたものだ。
  そんな友之の回想には気づかずに光一郎はふと目元を緩ませると言った。
「でもお前やお母さんは本当犬好きなんだよな。まったく、どこに行くにも犬がいれば2人して視線がそっちに向いていたりしてさ」
「え…僕…?」
「お母さんもだよ。2人して見る方向が同じなんだ。…親子だなと思った」
「………」
  そんな事があっただろうか。友之は眉をひそめた。
  母親の記憶。母と共有した2人だけの思い出。それが自分には一体どれほどあるのだろうかと考えると、正直友之は思い出すのが怖かった。だから友之はほとんど無意識のうちにではあったが、普段から母を思い返したり懐かしんだりといった事をしなかった。それを親不孝だとは思うけれど、そしてその行為自体に胸が痛むのだけれど、それでも友之はそうする事を止められなかった。
「トモ…? どうした?」
「あ…」
  友之の様子の変化に気づき、光一郎が呼んだ。慌てて顔を上げた友之は「何でもない」という風に慌てて首を横に振ったが、鋭い兄には気づかれてしまったようだ。子犬に差し出していた手がぴたりと止まるのが見えた。
「……辛いこと、思い出させたか」
「あ……」
  一瞬は口篭ったが、友之はすぐに慌てて首を振った。
「ちが、う…」
「そうか? ……でも、そういう顔をしている」
「………」
  困って再度言い淀むと、光一郎の方がそんな友之よりも一層困惑した顔になった。
「犬、飼いたいか?」
  だからなのだろうか、光一郎は何とか友之を慰めようと口調を変えて言った。
「え…?」
  友之が驚いて顔を向けると、目を細めてこちらを見ている光一郎の視線と見事に交錯した。
  光一郎は言った。
「頼んでやろうか…。大家さんに。下の敷地の隅にでも小屋置いてもらえないか、とか」
「でも…」
「こいつ、おとなしそうな奴だし。お前、ちゃんと面倒見るだろ?」
「………」
「俺がいないせいでお前もここで1人の時が多いしな。それなら寂しくもないだろ?」
「………」
「トモ?」
「………」
  光一郎の好意がとても嬉しくてすぐに返事をしたかったのに、友之は何故か「嬉しい」と口を開く事ができなかった。家のない子犬を拾ってきたのは紛れもない自分であり、震えて頼りになる人が誰もいないあの心細そうな目を見て胸が痛んだのも確かに自分だったのだ。
  それなのに、今友之は光一郎の胸に抱かれている子犬を見やったまま声を出す事ができなかった。
「どうした、トモ?」
  再び光一郎が呼んできた。さすがに無視しきれなくなり、友之は顔を上げた。
  怪訝な瞳をくゆらせた光一郎の視線が真っ直ぐに注がれてくる。またツキンと胸が痛んだ。
「……今は」
「何だ?」
「今は、コウがいるから…」
「………?」
「寂しくない…」
「あ、ああ……」
  途惑ったように光一郎は頷き、それから今ひとつ友之の意を汲みかねたようになって首をかしげた。
  友之は黙ったままそんな光一郎を見つめ、それから頭の中で膨らんだ思いを確かめるようにぐっとトレーナー越し、胸元を掴んだ。
  平気だ。誰がいなくとも、この部屋で1人でも。
  ちっとも寂しくないと友之は思う。
  あの頃は母の愛、というよりも誰かの愛が欲しくて堪らなかった。勿論、母親に好いてもらいたいという感情もあったのだろうし、それが一番強かったのかもしれないが、母親を求めることは夕実に一番禁止されていた行為だったから、その事は考える事すらやめてしまっていた。だから友之は代わりに、誰か、勿論その対象は姉の夕実でも良かったわけだが、とにかく自分ではない誰かに温かい言葉や温もりを貰える事を期待していた。
  だから夕実に酷い事をされた時、光一郎が来て手を差し伸べてくれたときは本当に嬉しかったのだ。「泣くな」と言ってぎゅっと掴んでくれたあの掌は本当に温かく、そして優しかった。それが忘れられなかった。何も持たない、持ち得ない、本当の家があるとも感じられない自分に居場所をくれた。それがこの上なく堪らなく嬉しかった。
  もしかすると友之は光一郎に兄としては勿論、自分を護り慈しんでくれる母としての愛情も求めていたのかもしれない。
  だから、今。
「あ、こら暴れるな」
「………」
  ミルクを貰って完全に元気になったような子犬に光一郎が慌てたような声を上げた。
  光一郎はもう友之の方を見ていない。口では叱っていても、光一郎が子犬に随分と気を緩めているのが容易に見て取れる。子犬に無償の愛情を向けているのが分かる。
  だから今、自分の胸はこんなに痛いのだと友之は思う。
「ん……トモ?」
「………」
  ふと顔を上げた光一郎に名前を呼ばれたが、友之は今度は俯いたまま黙りこくってしまった。
「友之? どうした?」
「………」
  答えられない。何て勝手で傲慢な事を考えているのだろうと思うと、卑屈な自分が嫌になるし、また嫌いだと思った。そんな自分を光一郎に知られるのもまた嫌だった。光一郎を取られたような気持ちになっている。ミルクを貰えている子犬に嫉妬している。そんな事を考えるなんて絶対にどうかしていると思った。
「………コウ」
  それでも、友之はもう黙っている事もできなかった。予想以上に情けない声が出てきて友之は自分で驚いたが、このまま相手に察してもらうのを待つのだけはしてはいけないと思った。
  友之は顔を上げると掠れ声になりながらも何とか口を切った。
「ご…」
「え?」
  しかし咄嗟に出てきた言葉は言おうと思っていた台詞とは違った。
「ご、ごめ…な、さい…」
「………」
「あっ…」
  自分でも訳が分からず、友之は混乱したようにあたふたと所在ない風に視線をあちこちへやった。何もかもスッとばして出てきてしまった言葉だったが、これでは光一郎には何の事やら分からないだろう。自分とて分からない。湯上りのせいでなく恥ずかしさに頬が火照ってしまうと、そんな友之の挙動不審な様子に子犬までが驚いたようになってそわそわとし始めた。そして不思議そうに一声鳴く。
「……これじゃどっちが――」
  すると今まで黙りこくっていた光一郎がひどく呆れた返ったような声でぽつりと呟いた。
「……っ」
  反射的に顔を上げてしまうと、予想に反して光一郎は優しく静かな微笑を湛えていた。
「これじゃ…一体どっちが捨てられてるのか分からないな」
「コ……」
「まったく…何でそんな顔するんだ。俺はお前の為に――」
  しかし、言いかけて光一郎は開きかけた口をつぐんでしまった。何事か考えこむようにしんとしてしまう。
「コウ…? あぅ…っ」
  しかし黙りこんだ光一郎に不審の声をあげかけると、その瞬間友之は咄嗟に身体を引き寄せられてひゅっと唾を飲みこんだ。
  子犬を抱えたまま光一郎が自分を抱きしめてくれたのが分かった。胸元に同じく驚いたようになって押し潰されている子犬がいる。ばっちりと目があった。
「コ…コウ…?」
「明日、裕子に聞いてみる。あいつ、犬の大会とかよく行ってるだろう。こいつ貰ってくれる人がいないか頼めば、誰か探してくれるかもしれないしな」
「え……?」
  途惑う友之には構わず光一郎は言った。
「俺たちで飼うのはやめよう。忘れてたけど、うちにはもう大きいのがいるしな」
「………」
「…って、こういう言い方をするとまたお前はバカな誤解をしそうだけど。でもお前が面倒見切れないなら俺は勘弁だ。俺はお前だけで十分なんだからな」
「………」
「嫌か?」
  そっと顔を上げてみると、今度は苦笑めいた笑顔は見られなかった。ただどことなく可笑しそうに揺らぐ光一郎の瞳だけは真っ直ぐにこちらを向いていて、友之は思わずその光に魅入ってしまった。だから暫し言葉を出すのを忘れた。
  それでも、もぞもぞと自分と光一郎の懐で窮屈そうに呻く子犬を思い出すと、友之は慌てたようになって頷いた。
「う、ん…」
「何だ、その返事。嫌なのか?」
「あ…ちが、嫌じゃないよ…」
「本当か?」
「うん…」
  友之は今度こそしっかりと頷き、そして言った。
「あの…誰かに、貰ってもらう」
「……ああ。そうしよう」
「………」
  上目遣いな視線を向ける友之に、光一郎はそっとあの掌を差し出してきた。それがゆっくりと友之の頭を撫でてくる。
「コウ…」
  それがいつもの心地良いもので友之はほっと息を吐いた。
  こうやって撫でてくれる掌が嬉しい。
  この安心できる温度が好きだ。
  そうして、自分を見つめてくれるその視線が友之は大好きだと思った。
「コウ兄…」
  だから。
「ん…?」
「あ……」
  言いかけて、しかし友之は考え直したようになり、かぶりを振った。
  光一郎は自分だけの光一郎でいて欲しい。けれどそれを口にまでしてしまうのは、あまりにひどい我がままだと思ったから。だから思わずその言葉は飲み込み、もう一度誤魔化すように首を激しく左右に振った。
  もう十分にその限度を超しているのは、友之自身、既に痛いほど自覚していたのだけれど。 






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