ハッピーハッピーデイ



  今日は光一郎が早く帰ってくると言っていたから、友之は何の疑問もなく玄関のドアを開けた。兄がわざわざインターホンを押してから家に入ってくることなどこれまでなかったのだから、誰かしら来客が来たと考えるのが普通だったのに。今日のことを思い、少し浮かれていたのかもしれない。
「いつもお世話になってます〜、読経新聞です。…おうちの人、いる?」
  見知らぬ中年の男が言った。友之は意表をつかれて、その薄い色眼鏡をかけた男を見上げたまま声を出せなかった。最近では隣室の住人が声をかけてくれば挨拶もできるし、電話に出ることとてできる。……男子高校生ならそんなことはできて当たり前なのかもしれないが、人と話すことが苦手な友之にとってそれは目を見張る偉業だ。しかしこれまでのトラウマとでも言おうか、威圧的な雰囲気を纏う男性や、強気にまくしたてる若い女性は苦手で、扉の向こうに現れた相手がまさにその前者だったから、友之は一気に固まったのだった。
「おうちの人、いないの?」
  友之を見て何となく見下す風になった新聞屋を名乗る男はさらにぶっきらぼうな態度で繰り返した。友之が黙って首を振ると、ちらと奥の部屋を伺い見た男は、「ボクのうち、新聞って取ってる?」と尚訊ねた。恐らく友之を高校生とは見ていない。中学生か、最悪小学生扱いしているかもしれない。この頃はぐんと身長も伸び、これまでの遅れを取り戻している最中だが、所詮平均的なそれとは程遠い友之の体躯は、まだ幼く頼りな気に見えるのかもしれない。
  それでも友之は何とか新聞を取っている旨は伝えられた。単なる勧誘なら何も恐れる必要はない。……のはずだが、友之は目前の男が怖かった。だから声がかすれてしまった。そのせいか男はどこか苛立った様子で、「半年でいいから取ってくれないかなぁ、ボクの勉強にもなると思うし。今、契約してくれたら遊園地の割引券とかもつけられるよ?」などとべらべら喋った。向こうが自分を子どもと思っているなら、尚さら子ども相手に新聞の勧誘などしても無意味なはず…友之はぼんやりとそう思ったのだが、どうにも断りの言葉が出てこない。ただ新聞屋を名乗る男の勢いに押されてしまう。オロオロしていると、男が「ハンコある? ここに押してくれるだけでいいから」などと言い出したから仰天した。
「おい」
  その時、横からつっけんどんな声が飛んできて、これには男がぎょっとして仰け反った。友之がすかさずドアから顔を出してそちらを見ると、コンビニの袋を提げ、モッズコートのポケットに両手を突っ込んだ正人が剣呑な眼で男性のことを睨み据えていた。そのあまりの眼光に、友之は自分が睨まれているわけでもないのに忽ち驚いてサッと身体を引っ込めた。
  それでも正人の声はよく聞こえる。
「うちに何の用?」
「あ…えっと、こちらの…お兄様ですか?」
「そうだけど。何、お前。今、ハンコ出せとか言ってなかったか?」
  男は友之も目を見張るほど狼狽して、あたふたと口ごもりながら自分が新聞の勧誘に来たこと、友之が興味を示してくれたので、家の人がいる時に契約しようと話していたところだなどと大ウソをまくしたてながら、挨拶もそこそこに階段を駆け下りて行ってしまった。正人はその背に特に声をかけることはなかったが、男が去るまで一時も目を逸らさなかったため、男がバイクで去る時その視線に気づいて、また見るからに怯えて身体を跳ねさせていた。
「くっそくだらねぇ」
  正人が毒づいたので今度は友之がびくつき、背筋を伸ばした。慣れたと思っても、やはりこういう時の正人は迫力がある。野球チームのメンバーに喝を入れる時もやたらと声が大きかったり言葉尻が乱暴だったりして、それを聞くだけで友之は自分が言われたわけでもないのに委縮してしまう。別段、正人は悪態をついているわけでもなく、それどころか、どちらかと言うといい加減なあの大人たちの中では正論を発しているだけなのだが―…、「箱入り」の友之にしてみたら、やはり正人のような男は畏怖の存在なのだった。無論、今の男性に感じたような「怖さ」とは違うが。
「何見てんだよ」
  しかしよせばいいのに、正人は脅すようなドスの利いた声でそう言った。友之が自分を見て明らかビビっているのを見て面白くないと思ったようだ。友之はそんなぶすくれた正人にハッと我に返り、一歩退いて中へ戻ると、正人が入りやすいように空間を作った。
「ああいうの、いちいち相手にすんな」
  靴を脱ぎながら正人が言う。友之は傍に突っ立ったまま「うん」と頷きかけたが、すぐさま正人の方がまた声を出した。
「つっても、お前には無理か。チャイム鳴った時に中から誰か確認できればいいのにな……って、このボロアパートじゃそれも無理だな」
  独り言のように呟いて、正人は友之の横を通り過ぎた。夕方のこの部屋は今くらいの時間だと西陽が当たって少し明るい。オレンジ色の光がテーブルに反射するのが眩しいくらいなので、こんな時、友之はいつもの―窓際の部屋の隅―に座るが、今日はそこに正人が座った。仕方がないので友之はその真向かいに行った。自分がいた所にはノートや教科書が置いてあったので、それらも傍に引き寄せて。
「勉強してたのか」
  コンビニの袋からビールを取り出した正人が訊いた。まだ早い時間だが、飲む気らしい。今日は仕事が休みなのか、それとも早上がりか。何となく訊きそびれながらも、友之はさっと立ち上がって台所へ行き、コップを取って帰ってくると「うん」と遅過ぎる返事をした。
「でももう終わったから復習していたところ」
「復習? はぁ、真面目だねぇ。血筋だな」
「血筋?」
「兄貴もクソ真面目だろ。真面目が服着て歩いているようなもんだ。その兄貴は、今日はどんな予定だ? 仕事上がってそのまま来ちまったから、確認してねーんだよな」
「今日、早く帰ってくるよ。バイトも勉強会もないって言ってた」
「おっ、そうか。ならちょうど良かったな」
  あいつの分の酒も買ってきたから、と、正人はそれらがたくさん入っているのだろう、大きく膨らんでいる袋を友之に差し出した。友之は正人が1つだけ出したビールをグラスに移してから、袋の中身は台所へ持って行って冷蔵庫に入れた。
  それからどうしようと思いつつ、しかし戻ってきた時には恐る恐る「今日、浮かれていた理由」を告げた。
「今日…修兄も来るって」
「は!? マジか!?」
  予想通りのリアクションだったので、今度はその大声にもびくつかずに済んだが、それはお世辞にも嬉しい類の声色ではなかった為、友之はやはり委縮して首を竦めた。
「僕が訊きたいこと、あったから…。来て欲しいって前からお願いしていて、そしたら、今日なら大丈夫って」
「訊きたいこと? お前が?」
  胡散臭そうに眉をひそめる正人だったが、友之が上目遣いに見つめてくる視線はいい加減窮屈だったのだろう、別に責めるつもりはないと言いたげにふいと顔を逸らし、グラスに口をつけながら「何だよ」と訊いた。
「あいつに訊きたいことって言うくらいだから、勉強じゃねーだろ? そんなの、お前の兄貴に訊けば済むことだろうしな」
「もうすぐ修兄の誕生日だから」
「…あん?」
「本当はこういうの、な、内緒にしてプレゼントした方が嬉しいのかな…? 友達はそう言っていたから。でもどうせなら、修兄が欲しいって…喜んでくれるもの、あげたいと思って」
「……お前がくれるもんなら、そこらのゴミでも何でも喜ぶだろ、あいつは」
「ご、ごみ?」
「はぁ、誕生日? そんなん、知りもしなかったわ。あぁけど確かにこの時期か…。確かに、前とか裕子の奴が…ちっ、腹立つこと思い出した…!」
「ま、正兄…?」
  ぶつくさ呟く正人がどんどん不穏になる為、友之は焦ってソワソワしてしまった。ただでさえ修司とは仲の良くない正人である。普段なら率先して修司の話題を出すことはない。しかし今日来ることを隠していたら余計まずいことになりそうだし、この流れは致し方のないものとも言える。
  しかし折角仕事終わりにここへ寛ぎに、或いは兄に会いに来た正人が、不愉快な想いをし、尚且つ帰るなどと言い出したらどうしようと気掛かりだ。
「ただいま。――正人、来ているのか?」
  その時、何とも良いタイミングで兄の光一郎が帰ってきた。やはりインターホンは鳴らさない。しかしドアが開いた瞬間、玄関にある靴を見てそう静かに問う兄の声は友之にとってはとてもよく響き、それを耳にしただけであっという間に幸せな気持ちになれた。
  駆け寄るように玄関へ足を向けると、光一郎はすでに部屋に到達していて、自分とぶつかりそうになった友之を真正面で受け止めながら「何だトモ?」と驚いた。それから「正人」と目前の友人を呼ぶ。
「珍しいな、連絡なしで来るの」
「悪い」
「別にいいよ。早いな、飲むの。何か食うか?」
「あぁ、何かあるなら。今日すげー疲れてさ。残業パスして出てきちまった」
「お疲れ」
  軽く交わされるその小気味良い会話を横で聴きながら、友之はじゃれつく仔犬のように光一郎にまとわりつき、交互に2人の兄を見やった。光一郎が来てくれたのなら、修司の話はもう任せても大丈夫だという安堵。光一郎がいるのなら、帰ろうとする正人を引き留めてくれるだろうという安堵。いろいろな安心が全身を駆け巡り、あっという間に浮かれた気持ちになった。だから無意識に光一郎の周りをうろついてしまった。
「お前、そこにいるならこれ運べよ」
  また光一郎もそんな友之をうまく使い、冷蔵庫にあった昨晩の余り物だのを正人の元へ運ばせる。それから自分はさっさと手洗い・うがいを済ませ、自らも買ってきた物―恐らく夕飯の材料だろう―を冷蔵庫に入れ始めた。
「今日、これから修司の奴が来るのか」
  部屋で両足を伸ばし、すっかり寛いだ風の正人が言った。それから「寒ぃ、暖房つけるぞ」とテーブルの上にあったリモコンに手をかける。まだ11月下旬だが、確かに冷えるし、実際天気予報でも今日は例年よりかなり低い気温だと言っていた。しかし、この北川兄弟は良く言えば非常に「四季」というものを重んじており、夏は暑く、冬は寒い、そういうものだと受け入れていた。そして例えそれが「過ぎるほど」であっても、基本、耐える。それは友之がそうしたことに不満を唱えず、光一郎も典型的な貧乏学生で「極力質素に」という考えを持っていたからだが、そんな中、このエアコンが最近設置に至ったのは、この正人のお陰だった。この家にはこたつすらなく、正人が思い余って「いい加減おかしいことに気づけ」と言い、「何なら俺が出してもいい」と財布を出した。だから光一郎も観念してエアコンだけは買ったのだ、夏の時も正人がくれた扇風機で乗りきったし、このままではまた正人が問答無用で業者を呼んでしまうと考えて。
  その光一郎はすぐさま簡単なつまみを用意して部屋に戻ると、自らもビール缶を手にしながら、「来るとは言ってたけど、あいつ適当だからな」と嘯いた。
「あの馬鹿、今は何してんだ」
「さあ…ただこの間まではどこかの離島にある狼伝説を追って、山奥に籠っていたとか言っていた」
「…は?」
「その島には絶滅したはずのニホンオオカミが生き残っているらしいぞ。…如何にもこいつが好きそうな話だろ?」
  隣でお茶を飲んでいる友之を見ながら光一郎が言い、正人は「ああ…」と得心したように頷いた。要は、友之の「不思議な話好き」にあわせて、修司が自らの旅物語に適当な脚色をつけたと2人は解釈しているのだが、それを横で聞く友之としては複雑な気分だった。確かに修司の話はいつもいろいろ突拍子がないのだが、友之自身は毎度それを宝物のように感じ、心臓をドキドキと高揚させながら聴く。そしてその夢物語を半分以上は信じている。否、ほとんど真実と思っている。しかし、この2人の兄は残念ながらそうではない。しかも2人が揃うと、いつもどうしても修司の悪口に終始してしまうので困ってしまう。
「おいトモ」
  俯いていると正人が呼んだ。友之が慌てて顔を上げると、いつも厳しいもう1人の兄は、「修司のことより…」といったん口ごもった後、すいと俯きつつ言った。
「お前は何か欲しいもん、ないのかよ」
「え?」
「クリスマスだろ、もうすぐ」
「クリスマス?」
  きょとんとして首をかしげると、正人は嫌なものを見たという風に眉をひそめてから、光一郎を見た。
「お前、訊いてねえの」
「まだ12月にもなってないだろ」
「どうせコイツは考えるのにすげー時間かかるんだから、今から訊いて丁度良いんだよ。なぁトモ?」
「えっ」
「だから。何か欲しいもんねェのかっつってんだよ。ガキがねだれるのはこういう時くらいなんだぞ」
「…僕、欲しい物、別にないよ」
  「ガキ」と言われたことに多少なり抵抗したい気持ちがあった。確かに子どもなのかもしれないが、それはなるべく早く卒業しなければと思っている友之には痛い言葉だ。無論、正人に悪気はないし、いつもの口の悪さが出ただけだ。それに、正人の方は友之に子どもでいて欲しいと思っている。それは修司もそうだし、裕子も絶対そうだろうし、そして恐らくは光一郎も。友之には知る由もないが。
「なくても何か無理やり捻り出して言えよ。お前だってさっき言っただろ、自分で勝手に考えるより、本人が欲しい物をあげたいってよ」
「何? 修司へのプレゼント?」
  光一郎が言葉を挟むと、正人は大げさに苦虫を噛み潰した顔で頷いた。
「わざわざあいつが喜ぶことして、さらにあいつの欲しがるプレゼントやるとかな、腹立つわな。何でコイツはあの馬鹿をそこまで慕ってんだ?」
「俺とお前にないもん、持ってるからだろ」
「あん?」
  光一郎がぼそりと、しかし即答したことに正人は再び眉をひそめた。光一郎はしれっとしてビールを口に運び、それ以上は言おうとしない。友之は少しだけオロオロとして再度2人を交互に見た後、必死に声を出した。何故か少し小さくなってしまったが。
「ふ、2人の誕生日の時にも、プレゼント、あげたいから。だから、欲しいもの、教えて」
「あん?」
「……友之。別にそんな気ぃ遣う必要ないから」
  光一郎が苦笑して頭をぽんと叩く。そうは言われても友之はすっかり困ってしまい、今度はもう一段声を上げて反論した。
「気なんか遣ってない、同じだから。修兄もコウ兄もまッ、正兄も…! みんな同じに大切だし、好きだから…っ」
  なるべく一気に言い切った。そのせいでほんの短い言葉なのに苦しくなってしまい、友之は大きく息を吐いたのだが―…その後、しんと静まり返った部屋の雰囲気に気づいた時はどきっとして、今度は空気を飲んでしまった。
「こいつ、本当に危なっかしくねーか…」
  一番最初に声を出したのは正人だ。
「お前がそういう風に話を持っていったからこうなったんだ」
  それに答えたのは光一郎。
「僕、何かいけないこと…」
  さらにそれに呼応したのが友之だが、これには両者から「別に悪くないから気にするな」と言われた。そうは言われても気になる。こういう時、友之は「きっと自分は空気が読めていない」と感じる。けれどどうしようもできない。
「友之」
  落ちこみかけていると、光一郎がまた頭に掌をのせてきた。友之がそれに驚いて顔を上げると、光一郎は苦く笑いながらゆっくり頭を撫でてきた。やっぱり子ども扱いだとは思ったが、やっぱり嬉しいと友之は思った。
  その後、光一郎が言ってくれた言葉も。
「俺もお前にプレゼントしたいから、何も欲しくなくても無理やり考えろ」
  正人は、自分と同じことを言っているのに友之の反応が違うと文句を言ったが、そのやりとりによって明らか少し前までの微妙な空気は消えた。だから友之もほっとして笑みが浮かび、「考える」と約束した。
  結局、修司はいつまで経っても現れず、光一郎が電話をしても出ないし折り返しもないと言うことで、友之は睡魔に負けて寝てしまった。まだ光一郎と正人は飲み会を続けていたから、友之も飲めないまでも一緒に夜更かししたいと思ったが、どうしても遅くまで起きているということができない。光一郎にも促され隣室のベッドへ行くと、もうウトウトしてしまった。ただ横たわる前、わざと少し隙間を開けて、隣の部屋の明かりが漏れるようにしておいたのは良かった。薄目でそちらを見ると、その光がとても暖かく感じられて、それだけで安心だった。それに光一郎と正人の話し声も耳を澄ませれば聞こえるところもある、それがまた嬉しい。隣に頼りがいのある兄が2人もいるのだ。修司に会えなかったのは残念だけれど、今日は皆で欲しい物を考えておこうという約束もした。クリスマスを特に意識してはいなかったが、誕生日よりは近いし折角だからということで、その日にそれぞれのプレゼントを持ち合い、渡すことになったのだ。それはとても素晴らしい計画だった。ありえないくらい奇跡のような約束だ。
  2人の会話は途中まで聞いて、そこからは完全に深い眠りに入って分からなくなる。正人が強引な新聞屋が勧誘に来ていた話をしていて、自分が撃退したから良いようなものの、やっぱりあいつのああいうところは心配だと言っていた。それに光一郎がどう返すのか聞きたかったが、何故か急に森の中に佇む黒色の狼の映像が出てきて、あれ、夢を見ているのかなと戸惑った。けれど一方で美しいその景色に見入ってふわふわした心地よい感覚にも囚われる。もっと近くに行って狼を見たい、けれど襲われたらどうしよう、噛みつかれるだろうか?それとも逃げられる?そう思いながら躊躇する。それでも孤高の生き物が持つ金色の瞳を友之はもっと見たいと目を凝らす。
  と、突然背中にぎゅっと何かが覆いかぶさるような重さを感じて、友之は眉をひそめた。
「ん…?」
「トモ。ただいま」
  その聞き覚えのある声は優しくそう語りかけ、と同時に友之の身体はさらに締め付けられるように抱かれた。痛くはない。けれど明らかに何者かの体重がかかる。不自由になった身体が、しかし腕は動くと悟ってその重しの方へ向けると、不意にその腕ごとまた包まれて身動きが取れない。
  しかし耳元ではまたあの大好きな声が聞こえた。
「遅くなってごめんな。折角呼んでくれたのに」
「修兄…?」
「うん」
  寝ぼけながらも訊ねると、その声はすぐに肯定で返してきた。ハッとして目を開く。と、いつの間にやら友之がいるベッドに潜り込んできていた修司が後ろから抱きかかえるようにくっついてきているのが分かった。
「修兄」
「ごめん、起こしちゃったね。って、起こす気満々だったけど」
「お帰りなさい」
「うん、ただいまー。眠い? 今話せる?」
「うん、話せるよ。修兄、今来たの? 何時?」
  身体を捻って修司の方を見ようとするが、その修司がぎゅっと抱き着いている為、うまく後ろを向けない。じたじたともがいていると、すらりと扉が開いて、隣の部屋から正人が現れた。そうしてずんずんと無言で歩みを進め、そのまま修司と友之を引き離す。
「いって!」
  修司はその勢いでベッドから転げ落ちたらしい。大きな音はしなかったが、その分、修司の抗議の声は響いた。友之が慌てて起き上がると、正人は「お前は寝てろ」と無茶なことを言い、足元に転がった修司の身体に片足を載せた。
「マジでやめろって、正人…いってぇ!」
「テメエがバカな真似すっからだろうが。マジで殺すぞ、テメエ」
「うわ、酔っ払いが凄むとやっべえな。コウ君! ちょっとコウ君って! 助けてよ!」
  修司が正人の足元で光一郎を呼んだ。友之がベッドの上でオロオロしていると、それに反しいやにゆったりとした動作で部屋の入口まで来た光一郎は、酷く冷めた目でその親友を見下ろし、同じく氷のような声で言った。
「トモ、起こさないって言ったよな」
「いやホント、起こす気なんてなかったって。ただトモの可愛い寝顔見てたら、トモの方が俺のこと好き過ぎるが故に俺の気配に気づいちゃ…って、いてえっての! 蹴るな馬鹿!」
「馬鹿はおめーだろが! ロクでもねえことしやがって、見たかんな俺は!」
「正人煩い。近所迷惑」
「は!? 悪いのは俺か、コウ!?」
「いや。その足元にいる方」
「酷いコウ君! トモ助けて!」
「うるっせ、トモに振ってんじゃねえっての!」
「だから痛ェって! テメエ、いい加減にしろよ!?」
「………」
  あまりにもぽんぽんと飛ぶ会話についていけない。
  ただ、げしげしと足蹴にしてはいても、正人が手加減しているのは友之にも分かる。修司が怒るぞと言っても、多分本気で怒ることはないだろうことも分かる。光一郎が呆れたように2人を見やっていても、本当は呆れていないことも分かるし、だから友之はさっきまで「どうしよう」と思っていた気持ちが段々と薄れていき、それどころか綺麗さっぱりなくなってしまい、その変化に内心で驚いた。
  そしてどんどんと冴えていく意識の中、薄闇の部屋の中で、けれど3人の喧嘩じみた、けれど本気の喧嘩ではないやり取りを見て、明らか可笑しい気持ちが沸いてきていた。
「ふふ…」
  だから思わず笑みが零れてしまったのだが、それにぴたりと動きを止めて黙りこくったのは、誰あろう3人の兄たちだった。友之は暫しそれに気づかずまだくすくすと笑っていたのだが、やがて動きのなくなった3人に気づいてハッとして姿勢を正す。仮にも争っているようなのに、それを見て笑うなど不謹慎だっただろうか。そう思って慌てたのだ。
「トモ、久しぶりに見たけど、相変わらず可愛いなぁー」
  しかし修司がしみじみと言って自らもにこりと微笑んできた。正人に足蹴にされていて一見すると惨めなのだが、友之視点では全くそんな風には見えない。「やっぱり修兄はカッコイイ」などと思っていっそ見惚れてしまう。
「ならさっさと来いっての。こいつは、お前が帰ってくるの楽しみにしてたんだ。偶の約束ぐらい守れ」
  そしてこの正人はいつもしっかりしていて、言うことに筋が通っていて、「正兄は頼りになる」と思える。だからか、この言には修司も素直に「ああ」と頷いた。そして本当に申し訳なさそうに友之を見る。
「遅くなってごめんな、トモ。けど要件コウ君から聞いたけど、俺、トモがくれるもんなら何でも嬉しいよ? その気持ちだけでも最高に嬉しいもん。だからさ、もう道端の雑草でも何でも嬉しいから」
「え」
「だから言ったろ、トモ。こいつはそういう奴なんだって」
  正人がハアと嘆息して足をどけた。修司がやれやれという風に上体を起こし、それから部屋の壁に寄り掛かって改めて友之を優し気に見やる。ああ、こういう時の修司の顔が好きだなと友之は思う。
「それで、何で今笑ったの。何かスゴイレアな感じした、トモのそういう笑い。いつもだったら俺らが言い争うとアワアワしちゃうのに」
「あっ…ごめんなさい、笑っちゃって」
「いやいや責めてない。何で笑ったのかなって」
「なん…えっと…修兄たち、仲良しに見えたから」
「げ」
「はぁ!? トモ、お前な!」
  これには修司と正人双方が果てしなく嫌な顔をした。光一郎はハッと小さく嘲っていたが、友之はその光一郎の態度に「今度は間違っていない」と逆に確信して安心できた。
  だから勢いに乗って言えた。
「それで…その、ここにいられて、嬉しかったから。一緒にいられて…コウ兄たちの中に入れてもらえたみたいで…」
  友之にとって光一郎たち3人の絆は憧れである。本当はずっと昔から自分もそこに、3人のいる場所に行きたかった。3人の中に入りたかった。年齢も違うし、いつだって子ども扱いだから、例え入れてもらえたとしても同等の関係にはなれないと分かっているけれど。
  それでも今、何となくでもその場に居させてもらえることが幸せだ。
「トモ」
  その時、光一郎が呼んだ。入口の所から動こうとはしない。友之の所には来ない。けれど代わりに、光一郎は言った。
「どうせもう目、冴えただろ。こっち来て飲むか、お前も。酒はダメだけど」
「え」
「えー、いいじゃん、飲まそうよ、この際。トモ、仲間外れにしちゃ可哀想でしょ?」
「おい馬鹿修司。それを俺が許すと思うのか?」
「あー、この人うるさいー。何で今日いんのー!」
「うるせえっ。神の啓示だ、神の! お前らには俺っつー監視屋がいるっつーな!」
  少しの隙間でこの2人はすぐ言い合う。けれど今夜の友之はもうそれを心配だと思わなかったし、むしろ楽しいもののように感じて、また笑った。そしてすぐに勢いよくベッドから飛び降り、修司よりも正人よりも早くに部屋を出て光一郎の後を追った。振り返った光一郎はそんな友之に呆れたような笑みを見せたが、また頭を撫でてくれた。子ども扱いのそれ。それでも光一郎にされるとひどく胸が高鳴る。
  だから友之はその高揚した気持ちのまま、ばっと光一郎の腕に抱き着き、その幸福感をめいっぱい伝えようと顔を上げて微笑んだ。光一郎といると、兄たちといると、いつでも笑える。安心できる。友之はこの幸せを手放したくないと思った。ずっとこのままでいたいと。それはとても贅沢な望みだと分かっていたが、友之にとってそれ以外に欲しいものなど一つもないのだった。






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3部を書き終えた時の友之は高2の夏で、これは一気に冬ですね。
4部も高2の冬あたりから始めたいので、やるならこの後くらいからかなー。
……4部なんていつやるんだいって感じではありますが…。