日々、あらためて
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未だ残暑の厳しい夏の終わり。 バイトのない光一郎がいつもの――大学、バイト、近所のスーパーで買い物――といった定番コースを終えて帰宅すると、友之が部屋の定位置でうたた寝しているのがすぐさま目に入った。ローテーブルにはノートや筆記用具、薄い問題冊子が開いたままだ。恐らく勉強中に眠くなって、そのままごろ寝してしまったのだろう。 ただ、それにしても。 「よく寝られるな…」 外と大して変わらない、或いは外より蒸し暑いかもしれない室内に思わず眉をひそめた光一郎は、そんな所ですうすう穏やかな寝息を立てている友之に半ば感心した。 窓は辛うじて開いているが、風などほとんど吹いていない。扇風機もついていない。この部屋へやってくる人間は大抵口を揃えて「いい加減クーラーを買え」とせっつくが、北川家に今のところそういった気配はない。それはひとえに友之が「クーラーの風が苦手」と言う体質があるからだが、それにしても限度がある。この部屋にある最新式の扇風機を無償で提供してくれた正人でさえ、友之、お前は何だってこんなクソ暑い部屋に耐えられるんだ、ちょっとおかしいんじゃないか?と。自ら持参した団扇をバタバタ仰ぎながらしきりに不平を述べたものだ。 また、もう一人の兄である修司も、正人ほどには暑がる様子は見せなかったが、「ここへ来るのが嫌になるから、クーラー買って」と苦笑し、珍しくも「何なら俺が買ってあげるよ」まで言い出した。……それに対して光一郎が、お前はそんなことが出来るのなら、まず俺に返すべきものがあるだろうと言ったら、めっきり姿を見せなくなったが。 光一郎は買ってきた物を冷蔵庫にしまいつつ、ちらりと振り返って、友之をいつ起こすべきかと逡巡した。もう少し寝かせておいてもいいが、大分汗もかいたようだし、着替えさせた方がいいだろう。少し早いが、風呂も沸かすか。夕飯前にそれらが済んでいれば寝るのもスムーズになるだろう。 そんなことをすぐさま考えあぐねるなんて「全く親めいていて嫌になる」とも思うが、それが光一郎の日常だ。 「友之」 だから光一郎は一拍後、友之をすぐに起こしにかかった。台所から軽く一度呼んだだけだが、多分それだけで事は足りる。こんなところは兄弟だなと皮肉に思うのだが、友之も普段からどことなく眠りが浅い方だと感じていた。ここ1年ほどで随分とその傾向も緩和されたが、恐らく根っこにある神経症的なところは依然として燻っているから。 「…おかえり」 案の定、友之はすぐに目を覚まして、むっくりと上体を起こした。ややまどろんだような顔をしてはいたが、状況はすぐに把握したようだ。目標のところまで終わっていないらしいノートに明らか「しまった」という顔を閃かせた後、友之は自らの寝ぼけ眼をごしごしと手で擦った。 「いつ帰ったの」 「今。もう少し寝かせておこうかとも思ったんだけど、お前、汗かいているだろ。シャワー浴びるか、風呂入るかしてこいよ。風呂はまだわかしてないけど」 「うん」 素直に頷いてみせてから、友之はもう一度目の前のノートをさらりと触り、いつの間にかテーブル下に落ちていたテキストを拾った。 一つ一つの動作が実に遅い。 もともとの性格がおっとりしているし、普段から動きの早い方ではないが、光一郎はこういう友之を改めてじっくり見る機会があると、真面目に少し心配になった。何故って、友之は、どうひいき目に見ても、世間一般の高校生男子よりも「どこかが違う」と感じるから。たぶん、いじめの標的にはうってつけの人間であろうし、実際そうやってターゲットになった時、友之はきっと逃げられない。 事実、昔からそういったことはちょくちょくあった。 家庭内に「最大のいじめっ子」がいたから、そんじょそこらの嫌がらせには動じない免疫力も備えてはいたが。 (けど、そんなんで鍛えられたと言ってもな…) 心の中だけでそんな弟の憐れさを嘆いてから、光一郎は風呂の掃除に向かった。背後から友之が「あ」と口元で呟いたのが聞こえたが、敢えて気づかぬフリをした。自分がやると言いたいのだろうが、何かひとつ任せるとこれまたとんでもなく時間がかかる。光一郎は別段自分がせっかちな性格だとも思わないが、それでも友之のペースに併せるのは何かとしんどいことが多かった。今日のように暑い日は尚更だ。 手際よく浴槽を磨いていき、最後にシャワーの水で洗剤を流す。光一郎には慣れた作業だ。元々一人暮らしをするようになってから当たり前のようにやることになった仕事のひとつである。掃除も洗濯も食事の支度も。あの家を出られることを考えたら、どれもこれも何ほどのこともない。あの親とも思えぬ父親は、光一郎の自立に思い切り眉をひそめたし、普段はおとなしく自己主張の全くない母親ですら、「ご飯、時々作りに行くぐらいはしてもいい?」などと世話を焼いた。妹の夕実も「自分だけズルイ」と怒っていたし、友之は――。 「………」 どうだっただろうか。友之のことだけは、何度思い返しても記憶にない。 そうだ、あの時はただ自分が逃げ出すことで精いっぱいだったから。 「コウ」 「!」 突然背後から声をかけられ、光一郎はらしくもなく驚いて身体を跳ねさせた。別に後ろ暗いことがあるわけではない、いや、あるにはあったが、今では遠い過去の話だ。 だからこんな風に友之に対して強張った顔を見せる必要などないはずなのに。 いまだに罪悪感を拭えない。 「……どうした?」 それでも何とか声を返して、シャワーの水を止めた。浴槽に栓をして蓋を閉める。自分に声をかけたきり何も言わない友之を押しやるようにして洗面所へ向かい、手を洗ってから湯沸しボタンを押した。機械的な音声が「お風呂をわかします」と告げる。ボロアパートではあるけれど、ここだけは最新式だ。保温機能もあるし、夕方に湯をわかしても夜まで温かい風呂に入れるのはありがたかった。 「沸いたら入れな。その前に宿題終わらせるか」 「宿題はもう終わってる。今やっていた勉強は、模試の…」 「模試?」 「うん。拡が、一緒に受けようって言ってくれたやつ」 「ああ…拡君が入っている予備校のか。数馬も同じ所だっけ」 「うん。けど数馬は今、アメリカだから」 「そうだったな」 いつも週末の野球チームの練習が終わった後は頻繁に「アラキ」や、時にはこの部屋にまでやってきて、友之と一緒にいることの多かった数馬。友之も数馬には一方ならぬ想いがあるのか、また同年代ということもあるせいか、一際「懐いて」いるように光一郎には見えた。 けれどもその数馬はこの夏のはじめ、一学期の終わりに、家族と共にアメリカへ行くと言って姿を消していた。数馬は大きな会社を幾つも経営する一族の次男坊だ。学生とはいえ、親からも周囲からも何かと課されるものが多くて忙しいのだろう、いつも飄々としていたから感じなかったが、あれはあれでいろいろと大変に違いない。友之が寂しそうなのを見るにつけ、光一郎は何となく数馬にも同情に近い気持ちを抱いた。 幼馴染の正人や裕子あたりは、「煩いのがいなくなった」と露骨に喜んでいたけれど。 「あいつって、トモに何か連絡とかしてくるのか」 居間へ移動しながら何気なく訊くと、友之はその後を自らもとことことついてきながらかぶりを振った。 「ううん。特にない。行く前に、別に連絡とかしないからって言っていたし」 「へえ…意外に冷たいんだな」 「数馬はそういうの、好きじゃないから」 「……何でそう思うんだ?」 「え? ……分からないけど。何となく」 「そうか」 一瞬モヤモヤとしたものを感じたが、光一郎はそれを努めて心の奥底へしまいこんだ。友之にとって数馬が「特別」だなどと言うことは分かりきっている。それをいちいち気にしていたら、もたない。 それでも、たった今さっき「あいつも大変だ」などと慮ったことをちらりと後悔して、光一郎は改めて自分の傍に立ち尽くしている友之を見やった。そういえば先ほど風呂場で声をかけてきたが、その理由を訊いていない。どうせ「僕が掃除できなくてごめん」とか何とか、その手の台詞だろうと思って流したが、もしかすると他にも何かあるのかもしれない。そう、友之にはそうした「話すタイミング」も、こちらがそれなりに振ってやらねばならぬのだ。 それを思い出して、光一郎はゆっくりと身体ごと友之に向き直った。 「どうした。何か言いたいことあったか」 「うん…」 「何だ?」 「うん…。あの、ありがとう」 「何が?」 「お、お風呂掃除…してくれて…」 「……ああ」 何だ、やっぱり予想通りか。 光一郎は反射的に笑って頷いたものの、ほんの少し呆れた。 遅い。何もかもが、この弟は。確かに風呂場へ向かう途中に「あ」と言いかけてはいたが、こんな礼を発するだけで一体どれだけの「溜め」が必要なのだろうか。これでは実際に、何か本当に言いたいことがあった時も、満足に言えないまま周囲からは素通りされて終わる気がする。 現に家族の自分でさえ、そうだったのだから。 「なぁ、友之――」 けれど光一郎がそれについてどう言おうか、ロクに考えもまとまらないまま口を開いた時に、その電話は鳴った。 「…ったく、誰だよ!」 突然鳴り響いたそれに八つ当たりする想いで、光一郎は思わず悪態をついた。友之も驚いたようにその場で硬直している。元々電話の苦手な友之だ、光一郎でさえ意表を突かれたのだから、この反応は仕方ない。 それにしても、折角意を決めて大切な話をしようとしていたのに。 ただ仕方なく煩いそれを取ると、受話器向こうからは、そんなことは知らないとばかり、実に能天気な声が光一郎の耳にキーンと突きぬけるようにしてやってきた。 『あー、オレオレ!』 「……知らん」 そのまま切ろうとすると、電話向こうのその人物は途端にむっとして、より一段階、声のテンションを下げた。 『何だよ、その態度! 人が折角、忙しい時間をぬって電話しているのにさ! 元気?』 「来るなよ」 『ちょっ、まだ何も言ってないじゃん、ひどいよ! 困ったことがあったらいつでも連絡していいって言ったの、そっちでしょ!?』 「別に困ってないだろ」 ちらりと友之を見ると、案の定不思議そうな顔をしている。光一郎がこうやってあからさま邪険な態度をとる人間は限られている。 ただ、光一郎とて「この人物」に対し、はじめから邪険にしていたわけではない。出会った当初は、本心から「困った時は〜」とそれなりに「兄」の役割を担って優しい態度を取ったりもした。 まさか友之よりも年下のこの相手が、こんなにも鬱陶しい存在になるとは思っていなかったから。 『いや実は、今ホントに困ってるんだよね〜』 その電話の主は全く困っているように感じない声色で言った。 『それで、ここはひとつ、頼りになる兄貴に相談したいなと思って』 “兄貴”という単語に、光一郎はぴくりと反応した。 確かに自分は長いこと一人の妹と一人の弟の「兄」をやってきた自覚があるが、こんな、その存在を知ってから1年にも満たない相手から「兄」呼ばわりされても、まるでぴんとこない。というか、反発すら感じる。我ながら大人気ないとは思うが、光一郎としては、もう「兄貴」などという役柄にはウンザリなのだ。 ただでさえ、そう思いながらも、友之の前ではいまだに兄貴の面を被ったりしてしまうのに。 だから光一郎は、ひどいかなと思いつつも、血縁上、「本当の弟」であるこの人物――光次に対して、実に冷たい反応を返した。 「お前、相談できる奴なんて周りにいくらでもいるだろう。あの生徒会長の先輩とか。仲良さそうじゃないか」 しかしこの良案に光次は露骨にむっとして、受話器越しでも分かる、唇を尖らせたかのような言いようで反論した。 『あんないい加減な人に真面目な相談なんてできるわけがないでしょ? あの人はただ同じ学校で、たまたま年が上だから先輩って呼んでいるだけの、実質タメ同然の存在だから。大体、あの人の人生上のポリシーは“適当”だかんね。前に本人がはっきりそう言っていたし。あー、とにかく! そんな話はいいから、とりあえず行っていいでしょ!? てゆーか、もう着いちゃっているわけだから、ここに! 家の前に! もぉ光一郎さんは俺を迎え入れるしかないわけ!』 「は?」 意味が分からず聞き返した声と、ピンポンと来客を告げる玄関チャイムの音とは見事にかぶさった。光一郎は受話器を口元から離して「嘘だろ」と呟いたが、実際にそれは嘘でも何でもなく、ただの事実なのだった。 しかしそれでも、無遠慮に開けられたドアの向こうからの軽い声は、どこまでも現実味がない。 「どうもー、こんにちは! あ、トモ兄もやっぱりいたぁ! 夏休みだからね、この時間でも家にいると思ったぁ!」 「光次君」 光一郎よりも玄関口に近い位置にいた友之が先にその名を呼んだ。光一郎は友之を見て満面の笑みを浮かべる光次に心底ゲンナリしたが、それ以上に憂鬱を覚えたのは、そんな実弟よりよほど嬉しそうな顔をしている友之の顔を見てしまったことだった。 「本当にさぁ、参るよなぁ」 だから「今すぐ帰れ、やれ帰れ」とは言えなくなったわけだが。 「子どもは親を選べないってね。何であの人ってあんな勝手なことをペラペラ好き勝手に言えるんだろ? 本気で不思議だよ。いや結構前から、この人ちょっとおかしいよな〜とは思ってたんだけどね? これまで割と好きなことさせてくれていたし、うちの家族って個人主義甚だしいから、俺自身もこれまではあんまり親のこととか興味持って観ていなかったっていうか、そんなに接してこなかったから。だから、気づくの遅かったわけだけど」 食卓に並べられた夕飯をパクパクと豪快に食す傍ら、光次は無口な兄と義弟の間に座って、実にペラペラとお喋りにも興じた。元から口数の多い方だとは思っていたが、よくもこんなに絶えまなく言葉が出るなと感心する。普段、あまりに言葉を出すのが遅い友之といるからか、光一郎はそれを尚のこと強く感じた。 それにしても、本人は「困ったこと」と言っているが、話の内容を聞くに、そして本人の態度を見るに、然程大した問題ではないように思えてならない。 「いきなり今の学校辞めてこっち来いとか、ありえないでしょ? どう思う?」 けれど光次はその突如として持ち上がった「大問題」について、光一郎らを前に腕を組んで渋面を作った。 「ねえ、トモ兄はどう思う?」 「えっ…」 「友之に振るな」 「何でよ!? じゃー、光一郎さんはどう思うのさ。あの人も一応、光一郎さんの生みの親であるわけだけど」 「一応親だから何だっていうんだ」 あまり友之の前で「母親」の話などしたくない。光一郎は露骨に不機嫌な体を表に出しつつ、光次に素っ気ない態度をとり続けた。 光次の方はまるで堪えていないわけだが。 「一応親だから、あの人が何を考えていると思うかって訊いてんの。いつもの気紛れ、思いつきで言っているんだと放置してOKか、それともそれなりに相手してあげて、ちゃんと断るべきか」 「お前の中ではどっちにしろ答えは出てるんだろ? どう返事しようが、こっちに残る気満々じゃないか」 よく考えれば、光次が母親のいる海外へ行けば、煩いのが一人減るな…。 思わずそんな「不埒」な考えが頭を過って、光一郎ははっとした。 これでは、数馬がいなくなって喜んでいる正人や裕子と同じではないか! 「こっちに残る気は満々なんだけど。答え方によっては、あの人本気で強硬手段に出る可能性もあるかなって」 「ん?」 最早違う方向へ思考を飛ばそうとしていた光一郎に、光次は光次で、自分の問題を真剣に考え始めて、いやに神妙な様子で言った。 「これ、この間不意に思い出したことなんだけどさ。俺、小学生の時に、あの人が気紛れで申し込んだ『地獄のサバイバルキャンプ』で死にそうになったことあるんだよね」 「何だそれ…」 口の端を上げて笑う光一郎に、光次は至って真面目だった。 「よくある夏休みの子ども向けイベントだったんだけどさ。持って行っていいのは、リュックに入る分の着替えとナイフだけで、あとは全部現地調達。あ、一応、初日に乾パンと水だけは支給されるんだけど、あとは自分たちでメシ用意したり雨風凌ぐ家作ったりするの」 「それってよくあるイベントなのか…?」 「じゃないの? 近隣のママさんとかにも好評で、あの人もそのブームに乗っかって嬉々として申し込んだみたいだから。けどそれ、俺は行きたくなかったんだよ。いや別に予定がなきゃどうでも良かったんだけど、その時はサッカークラブの合宿と日程がかぶっていたからさ。俺はサッカー優先したいから、そっちキャンセルしてって言ったのに、キャンセルされたのはサッカーの方」 「……何でだ?」 光一郎の実母は、母としての資質こそ低い方だが、基本的には「子どものやりたいことは自由にやらせるべき」という考えの持ち主である。光一郎もさして詳しくはないが、しかしその点に関して言えば、確かにそんな人間であったと思う。実際、光一郎達の父親と離婚したのも、その辺りでの価値観の相違も大きかったと、後に母自らの口から聞いたことがある。母は、何でも自分の良いように家族である自分や光一郎達を動かそうとしたがる夫に反発する気持ちが強かったと。 それなのに、光次の希望を無視して、その地獄のキャンプとやらに参加させたというのは腑に落ちない。 しかしその答えを、光次は実にあっさりと教えた。 「あの時さあ、俺、言っちゃったの。『あんたって本当に自分勝手だよね』って。何でも自分の思う通りにやらないと気が済まない性格でしょって」 「は?」 「それでぷっつんきちゃったみたいで、余計意固地になってさ。とにかくお前はキャンプ行け!って。まぁ俺の言いようも悪かったけど、あっちもさぁ、大人げないよな。で、無理やり行かされた地獄のキャンプなんてやる気ゼロじゃん? お陰で俺、腹減りまくってもメシ調達する気皆無だったし、周りとも仲良くしようとしないで孤立したし、独りでロッククライムして崖から落ちて死にかけるしで。ホント、散々だったよ」 「……おい最後のやつ」 「あっ、大丈夫。崖っつっても、3メートルくらいしか登ってなかったから」 「………」 それじゃ別に死にかけてはいないだろうとツッコミたかったが、光一郎はぐっと堪えて黙りこくった。いちいちその小エピソードを拾っていては話がどんどん逸れていくような気がしたから。 光次は続けた。 「つまりはさ。あの人って思い込んだら一直線なところあるし、一回ぷつっときちゃうと、冷静さを失うんだよね。だから、基本的には放任で俺の好きにさせてくれるけど、急にこっち来いって言い出したってことは、何があったか知らないけど、今は俺に意識が向いちゃってるってことでしょ? そこでもし変な返し方して下手にキレさせたら、それこそ強引に転校手続きとかして、退寮手続きまで一気にしてきそうでさ」 「まさか」 「いや、マジでそういうとこあるって。地獄のキャンプエピソードはほんの一例に過ぎないから。何か一回思い込むとホント性質悪いくらい粘着質だし、あの人」 一体誰に似たのかねえ?などと能天気に言う光次は、しかし確かに困っているのだろうということがありありと分かった。 ……それとは別に、「誰に似た」うんぬんは、光一郎としては「夕実の性質は、もしや…」などと思ってしまったわけだが。 「でさ。何て言って断ったらいいと思う? 何か穏便に向こうを引き下がらせるうまいセリフを考えてよ」 光次の声に光一郎はハッと我に返り、それから再び迷惑そうな顔に戻って冷淡に返した。 「それくらい自分で考えろよ」 「何で! 冷たい!」 「お前の方があの人のことを知っているはずだろ。こっちはそんなに接したこともないし、どんな人間かもほとんど知らない」 「えーっ。…まぁ、そうかもしれないけどさ。でも、じゃあ一般論でいいから。何かいいアイディア出してよ」 「知るかよ…」 ぼそりと呟いたはずのその本音は、しかし見事に隣の実弟の耳に届いてしまった。 「はぁ? 何て言ったの、今? 『知るかよ』? 知るかよって言ったの!? ひっでー、とんでもねえ、冷たいなんてもんじゃないじゃん、何ソレ!? わー、こんな人だったんだあ、薄々そうかなと感じてきてはいたけど!」 「うるさい、騒ぐな! 隣に迷惑だろ!」 「だって光一郎さんがひどいからだろ! ねえトモ兄、ひどいと思うよね!?」 「だから友之に振るなって…」 「光次君は」 光一郎が言いかけたところに、ちょうど友之も口を開いて声が被った。光一郎が驚いて黙りこむと、友之も慌てて遠慮したように口を閉ざした。そういうところで黙るんじゃないと思い、すぐに「何だ」と先を促したが、友之は一度口を閉じると、なかなか次の言葉を発しようとしなかった。 「……友之。何か言いたかったんだろ、言えよ」 光一郎はそれでまた胸の奥がちりりと燻った。友之のこうした控えめなところは、ある意味では美徳だが、やはり問題だとも感じた。間も悪いし、それを補うまでにまた時間がかかる。ましてや今は、自分と光次しかいないのだから、それこそ遠慮など無用なのに。 まさかとは思うが、今の今まで黙っていたのも、「実の兄弟」同士の会話を邪魔しては悪いなどと考えてはいなかったろうか。 「友之」 「光一郎さんがそんな怖い顔してるから、言いたくても言えないんじゃないの。ねー、トモ兄?」 「はあ?」 余計な横やりを入れる光次に大人げなくむっとして光一郎は睨みを利かせたが、この友之とは正反対の神経を持つ弟は、肩を竦めただけでしれっと答えた。 「ほら、その顔。光一郎さんって二枚目だけど、整い過ぎているせいか、素になると怖いんだよね。また性格も何か堅物だしさー、トモ兄がそれで息詰まらせてないか心配」 「……おい」 「あっ、俺ってこういう余計な一言で相手の逆鱗に触れるのがまずいのか? 何かちょっと分かっているところもあるんだけど、思ったことって言わずにはおれないって言うか。根が正直なんだよね、要は」 「お前の場合は、正直っていうより無神経なんだ」 「えー! 何それ!」 「あ、あの…」 友之がようやく復活して口を開いた。また言い合いになりそうになっていた光一郎達はそれでぐるんと一斉に友之を見たのだが、今度は友之もそれで怖気づいたりはしなかった。 この時はもう、話すと決めている顔だった。 (……あ) ああ、そうか。 それで光一郎は、またしても気づかされた。 友之は確かに遅い。けれど、一度意を決すれば、それがどんなに拙くても誠意を持って相手にそれを伝えようとする、そういう強さはある。 だからこんな風に、どれだけゆっくりでも待って「聴きたい」と思ってしまう。 「光次君って」 その友之が言った。 「コウ、も、だけど…。どうしてお母さんのこと、『あの人』って言うの?」 「……は?」 「ええ?」 思いもよらぬことを突然紡がれて、光一郎はもちろん、光次の方もきょとんとして間の抜けた声を出した。 「そこ?」 そして光次は思い切り苦笑して、困ったように顎先を指で掻いた。 「えぇ〜、何かトモ兄のツボがよく分かんないんだけどさ。これまでの会話を聞いていて、第一声がそれなの? それって何か重要ポイントだった?」 確かに光一郎や光次は母親のことを「あの人」と言っていた。しかしそこに大した他意などない。……おそらく。 「別にいつもそういう風に言っているわけじゃないよ?」 案の定光次はそう言って笑った。 「あの人の前では『お母さん』って呼んだりするし。そりゃ時々ふざけて下の名前で呼んだりすることもあるけど、まぁノリって言うか。現代の若者なんてみんなそんなもんじゃないの?」 「そうなの?」 「そうだよー。それにさ、何か親って感じしないんだよね、あの人。あ、またあの人って言っちゃった。まぁでも、つまりはさ、尊敬できるような人だったら、そんな風には言わないよ。だって実際ロクな人じゃないんだもん、トモ兄だって聞いていて思わない? だって子どもの意思無視して、突然『お前もこっち来い』だよ? ひどくない?」 「うん…。でも、どうしても、い、一緒に住みたいって、思ったのかも…」 友之の言いようはぼそぼそとして限りなくか細いものだった。ただそれは、光次の気持ちを汲んでのものだろうというのは光一郎にも容易に分かった。 いつだってそうだ。相手の気持ちを考えて、なかなか自分の想いは口にできない。それこそ、ここまで到達したのだってようやく、だ。こんな風に声に出して言えるようになったのは、あの頃のことを思えば奇跡と言ってもいい。 無論、光次は昔の友之を知らない。そんな変化を知りようはずもないのだが。 「だからさ、それが勝手だって思うの、俺は。そもそも自分らの都合で海外行ったし、その時には俺の気持ち聞いて、俺がこっち残りたいって言うのはちゃんと確認しているはずだし。今さら、やっぱり一緒に暮らしたいからこっち来いって、そりゃないでしょ?」 「うん…。でも、気持ちって変わるから」 光一郎は思わず友之を凝視した。ああ、やっぱり。友之には確かにこんなところがある。どうしたって目を離せないと思ってしまう瞬間。 こんな時の友之は、ただ力のない、無力な存在などではない。 「昨日はこうだって思ったことも、今日になったらやっぱり違うってなる時…あるし。それに、お、おばさん達の中で、光次君と一緒に暮らしたいって気持ちは、本当は、ずっと前からあったのかも。でも、光次君の為って我慢して、でもやっぱり一緒に暮らしたいって……そう思って……、だから、やっぱり言っちゃおうって…。光次君も、気持ち変わっているかもしれないし」 「……俺は変わらないよ?」 友之の長口上が珍しかったのだろうか、光次がやや引いたような様子でそう返答した。 友之はそれにゆったりと頷き、少しだけ笑って見せた。 「うん。ずっと変わらない気持ちでいられる光次君は凄い。ずっとサッカー選手になりたいって思ってるんだもんね? だ、だからおばさんも、それは分かっていると思う。だから……光次君は、その気持ち、ま、まだ、変わってないからって……ちゃんと、それだけ言えばいいんじゃ、ないのかな…」 「…まだって何〜? だから俺は、ずっと変わらないよっ」 「あっ、そ、そうだよね。うん、ごめん」 焦った風に謝る友之は、とても恥ずかしそうな様子で顔を真っ赤にして俯いた。自分でも喋りすぎたと思ったのかもしれない。確かに珍しかった。しかし一方で、光一郎はこんな友之の姿も至極自然なもののように感じた。友之は光次から「トモ兄」と呼ばれることを本当に喜んでいた。だから今日も「弟」から頼られて、きっととても嬉しかった。だからこそ稚拙ながら、けれども必死に自分の想いを語ったに違いない。 それが光次に伝わらないわけがない。 「コウ兄、分かったぁ? 要は、こういうアドバイスが欲しかったわけ、俺は」 偉そうに、しかも「コウ兄」とまで言ってフンと鼻を鳴らす光次を、ともすれば光一郎はすかさず叩きたい衝動に駆られたが、寸でのところでそれを止めた。 何せ友之が見ている前である。 「あ〜トモ兄に相談して良かったあ。なるほどね、分かった。うん、俺、その方向で言ってみるね? 俺の気持ちは変わっていないからってことを、真剣に、でもトモ兄みたいに、『お母さんの、ボクを心配してくれる気持ちも分かるよ?』ってな理解も示しつつ伝えるんだね? それがミソだね?」 「…そ、そこまで言ってないよ? 光次君が自分で考えたんだよ、それ」 「違うよ、トモ兄が言ってくれたことをヒントに構成しただけだもん。やっぱりトモ兄のお陰。ありがと!」 おもむろに友之の手を取り、それをぶんぶんと上下に揺らした光次は、実に人懐こい、屈託のない笑顔で礼を述べた。こんな時、こういうキャラクターは「本当に得だな」と、傍で観ていた光一郎はしみじみと、そして苦々しく思った。 その光次は、友之との握手をひとしきり終えると、未だ笑顔を称えたまま言った。 「でもさ、さっきの話だけど。俺や光一郎さんが母親のことを『あの人』みたいに言うのって、やっぱり気になる? トモ兄ってそういう風に親のことないがしろにする人って嫌い?」 「えっ」 光次の問いかけに、友之は思い切り面食らったようになって口元をもごもごさせた。光一郎はここでまた光次の首根っこをつかまえるか否か逡巡したが、敢えて黙認した。 実際、自分も知りたかったから、友之の答えを。 しかしその答えは至極明快に返ってきた。 「嫌いなわけないよ? ただ…えっと、家族、だから…。何で、そんな風に呼ぶのかなって思っただけ。それだけ」 「……ふーん」 光次は分かったような分からないような顔をして首をかしげた後、ちらと光一郎を振り返りみた。光一郎はそんな実弟を故意に無視して視線も逸らした。光次と目を合わせたくない、そう思ったし、この時は友之と目を合わせるのも罪悪感が先に立って仕方がなかった。 相変わらず友之の「家族」に対する愛情は深い。そのことが堪らなく「痛い」と思ったのだ。そんなこと、もうとっくに知っているはずなのに。 泊まると言い張る光次を半ば無理やり追い返した後、光一郎は片づけを手伝うべく、一緒に台所に立って布巾で皿を拭く友之を盗み見た。 光次の悩みを一緒に考え、その結果、帰り際は実に満足そうな笑顔で手を振って帰った「義弟」に、友之は確かに満足そうだった。今もその喜びの余韻に浸っているのか、表情は柔らかい。 けれど作業を進める手は、相変わらず遅い。絶対に自分ひとりで洗って拭いてしまった方が早い。光一郎はそう思いながらも、しかしわざと友之のペースに併せるべく、皿を洗う速度を遅くした。それはたぶん、というか間違いなく、今こうして友之とゆったりとした時間に身を置くことを、光一郎自身、幸せだと感じていたからに他ならない。 もう一度、友之をちらりと見つめる。不器用な仕草。けれど、光一郎が見ていると分かると、一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐにふわりと、友之は笑った。 反則だと思う。 (こいつは……凄い) 顔に出してはいけない。今の友之は、「兄」として「家族」として自分を見ている。そして一緒のこの時間を楽しんでいる。 けれど、自分は。 (俺は……やっぱり違う。この何もかも遅くてバカな…けど凄過ぎるこいつが、好きなんだ…) 改めて自覚する。そしてそのことにため息が漏れる。 「コウ兄?」 するとすかさず、友之が不思議そうに顔を上げて問いたげな顔を向けてきた。 「ん…悪い、何でもない」 けれど光一郎はそれに曖昧に笑っただけで、何も答えなかった。…とても言えないから。今日のことで改めてお前のことが好きになったんだ、などと。そんな勝手な、調子の良いことを。なるほど確かに人の気持ちは変わる。恐らく友之の方は、あの愚かな妹のことを想ってあんな話をしたのだろうが、俺とてそうなんだよ友之、と。光一郎は心の中で呟いた。 俺こそが愚かで、そして大きな罪に目を瞑ったまま、お前に甘えている。一度は捨てて、もう振り返りたくもないと思ったくせに。「家族」という呼び名を最も忌み嫌いながら、けれど「それ」を最大限利用して、俺はお前を手に入れた。そのことを、お前は全く分かっていない。 ……それはともすれば、光一郎の「いつもの」自虐的思考に過ぎなかった。誰に話しても恐らくは一笑に付されるだろうし、或いは同情されるかもしれない。本人以外にとっては遥かに見当違いの責め苦なのだ。 それでも光一郎はそうした想いから離れられず、もう一度小さく嘆息した。 「コウ……どうしたの?」 すると当然、友之はそう訊いてくるわけで。 「ん…」 けれど当然、光一郎も答えられない。ただ、だからと言ってそのままその瞳を無視しきることもできないから、光一郎は思い余ったように友之を引き寄せると、皿を胸に抱えたまま驚くその「弟」の口に、深く性急に吸い付いた。 小さい。そして無力。けれど、何と恐ろしい存在なことか。 「コウ…兄っ…?」 友之がやっぱりどうかしたのかと言わんばかりの瞳で見つめてきた。 「………」 光一郎にはその視線がやっぱり痛くて、だからごまかすようにもう一度、二度とキスした。そうすれば友之が目を瞑るのが分かっていた。 ああ、何ということだろう。 昨日より今日、今日より明日と、友之への気持ちは日々揺れて、けれど確実に色濃く大きく変わっていく。 それはいつか本当に「弟」というものから脱却する類のものかもしれないし、或いは逆かもしれないけれど…いずれにしろ、この愛しい存在を愛しいと、今はとても口にする気にはなれないと思った。 少なくとも、今日のところは、とりあえず。 だから「ずるいな」と思いつつも、光一郎は、後はもう友之の唇に自らのそれを重ねることだけに専心した。 |
了 |